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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

小松・尾小屋鉱山への朝鮮人強制連行

2010年04月30日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
小松・尾小屋鉱山への朝鮮人強制連行

(一)概観
 石川県内で、在日朝鮮人が統計上最初に確認されたのは1910年3人、1920年529人、1930年2477人、1945年11047人である。(1910年は韓国強制併合の年)
 1930年から敗戦までの15年間に11000人が石川県入りしている。特に、戦争末期の労働力不足を補うために、1944~5年にかけては2500人に上っている。尾小屋鉱山や、不二越が重要軍需工場の指定を受け、「徴用(強制連行)」が強化された年である。
 石川県の「募集(割り当て)認可数」によれば、1939年30人、40年210人、41年210人、42年660人、43年860人、44年960人となっている。

 居住地域は、1945年の統計によれば、江沼郡(2141人)、金沢市(1930人)、小松市(1561人)、能美郡(1420人)、石川郡(1197人)、その他の順になっている。

 就業先は、1942年の統計によれば、在日朝鮮人の居住数は6225人であり、その内労働者人口は2482人となっている。精神労働(教師、事務員など)18人、商業461人(内、屑買い・雑業が434人)、農漁業104人、肉体労働1867人(興業47人、繊維以外の工業293人、繊維365人、土木・建築862人、その他)、その他32人である。

 1945年の「特高月報」によれば、「管下に於ける労計移入朝鮮人労務者は株式会社小松製作所、日本鉱業尾小屋鉱山及び舞鶴海軍施設部(注:小松基地のこと)の3カ所に於て就労し居るものなるが」と書かれており、加えて45年10月15日付「北国新聞」には「戦時中徴用で石川県へ移入された朝鮮労務者は尾小屋鉱山に約300名、電気冶金に20数名であった」と書かれていることから、小松製作所、尾小屋鉱山、電気冶金、小松基地などが朝鮮人の強制連行先であったと推測できる。(中国人強制連行は七尾港へ400人弱がある)

 「戦時朝鮮人強制労働調査資料集-連行先一覧・全国地図・死亡者名簿」(竹内康人著)によれば、七尾海陸運送土木、海軍山中病院地下施設、第3火薬燃料廠畑山地下施設、白鳥地下工場、山中航空機地下工場、鈴鹿海軍工廠大聖寺地下工場、陸軍航空工廠坂尻地下工場(熊谷組)、下福田溜池、日本電気冶金、三菱重工額谷地下工場、朝鮮農業報国隊(金沢・奥富)、第3火薬燃料廠滝ヶ原地下施設、小松製作所粟津工場、尾小屋鉱山選鉱場(日産土木)、日本鉱業尾小屋鉱山、尾小屋鉱山「慰安婦」、海軍小松基地建設、海軍小松基地兵士、海軍田鶴浜相馬飛行場、中島飛行機遊泉寺地下工場などが挙げられている。

(二)尾小屋鉱山
 尾小屋鉱山は軍需物資銅の主要生産地で、3K(きつい、汚い、危険)労働であり、労働力不足を確保するために1939年から「徴用」が始まった。1943年末には224人の朝鮮人が尾小屋鉱山(坑内、坑外)で働いている。(日本鉱業KK1942年度事業概況「民族別職種別鉱員数」より)

 労働時間は「8時間労働の要望」が出ており、8時間以上であった。休日は1か月に2日しかなかった。宿舎は6畳間に、5人以上が詰め込まれている(「6畳間に4人の要望」が出ている)。<『北国新聞』43年6月19日>
 日本鉱業株式会社・労務課長=松原寛は、「実際無差別には、却って種々の障害があった」「強度に組織化し、強度に管理せねばならぬ」「移入半島人(ママ…当時は朝鮮人を「半島人」と差別していた)の出稼ぎ根性乃至唯物的観念を是正し、今後は勤労奉公という形式で統率し、産報精神の基に組織統合する」と報告している。

 この強労働と居住条件の劣悪さに多数の朝鮮人が逃亡した。1940年以降43年までに、「徴用(強制連行)」で働かされていた朝鮮人642人中263人(42%)が逃亡した。また、「減耗数」の中には、逃亡者263人のほかに期間満了し、朝鮮に帰った者39人、不良送還5人、其他57人となっているが、其他の57人(9%)のうちのほとんどが死亡者ではないかと思われる。(「特高月報」より)

 坑内労働者の賃金は、日本人は日給4円11銭、朝鮮人はその82%の3円40銭であった。日本人より過酷な仕事をさせた上に、低賃金だった。しかし、逃亡を防止するために、給料のほとんどを会社が管理し、「報国貯金」という名称で巻き上げていたのである。さらに、あくどいことには2年間の満期を終えて、朝鮮に帰ろうとしても、帰してもらえなかったり、なけなしの「報国貯金」を「国防献金」という形で、残らず取り上げられてしまったのである。(『北国新聞』に「71円の国防献金」という記事がある)

(三)小松基地
 小松基地広報課発行の「はくさん」(1976.12.10 山木さん)には、「(基地建設に)囚人部隊、軍属部隊、内地徴用工員、朝鮮徴用工員…整地、採石、土砂運搬やコンクリート打ち」と書かれている。草野町史には「整地は、トロッコによって行われ、人夫には朝鮮人労務者や…その後、徴用労務者も来るようになった」と記載されている。
 金運培さん(2006年10月聞き取り 1924年9月生まれ 86歳 ヨス市在住)は下記のように証言している。
「1944年9月、釜山や周辺で働いていた朝鮮人は軍属として徴集された。私はヨスへ逃げたが、捕まって労務員として強制動員された。5人が船で石川県小松へ連行された。京都で1か月間訓練を受けた。
 工事はほぼ終っていた。作業は雪かき、軍需品の輸送で、朝の6時から夕方の6時まで働かされた。日本人もいたが、日本人は簡単な仕事だった。
 宿舎は15棟あった。月給は少なかった。食料は少なく、腹がぺこぺこだった。町に出て食料を求めた。逃げた人がたくさんいた。1人が逃げると15人が罰を受けた。私は行くところもなく、逃げられなかった。8月15日の後に帰った。死ぬ前に補償してほしい。」

(「資料集 石川県における朝鮮人戦時労働力動員」を参考にさせていただきました)
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