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アジアと小松

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小松基地問題研究会

『革共同50年私史』(尾形史人著2016年) を読む(1)

2016年11月13日 | 落とし文
『革共同50年私史』(尾形史人著2016年) を読む(1)   2016年11月
はじめに
 尾形さんは2016年夏に亡くなった。1968年に反戦高協に結集し、全人生を賭けて燃焼し、1999年に離党し、15年間をかけて自分の歩んだ活動家人生(30年)を総括し、革共同(革命的共産主義者同盟・中核派)の功罪を『革共同50年私史』に書き切って、その評価を聞くことなく亡くなった。

 尾形さんは「階級闘争の構成要素は理論闘争、政治闘争、経済闘争の3っつからなる」というエンゲルスの言葉を引用して、革共同は理論闘争にたいして不誠実であり、前衛党無謬論に陥っていると指摘し、理論闘争に厳格な態度を求めている(218P)。

 尾形さんの総括から吸収できるものを吸収し、批判すべきものを批判し、私たちの進むべき道、次世代に引き継ぐべき感性と理論について考察したい。

 『革共同50年私史』から、(1)共産主義について、(2)ネグリとハート、(3)プロレタリア独裁、(4)暴力革命、(5)沖縄闘争論、(6)諸戦線について、(7)情勢認識、(8)労働運動・大衆運動、(9)組織論、(10)革マル派批判、(11)対権力戦争、(12)スターリン主義、(13)何を遺すのか、をテーマにして、順次感想を述べる。引用は要約・省略しているので、直接著書にあたってほしい。【 】は著書のページ数である。

(1)共産主義について
【039】マルクスの『共産党宣言』を読んだが、雷鳴の如き衝撃を受けた。「今までのあらゆる歴史は階級闘争の歴史である」という冒頭の文章は、…私に思想上の大いなる飛躍を「どうだ!」と、突きつけたのである(高校3年)。【114】「疎外された労働」という概念はヘーゲルが編み出し、マルクスが発展させた。労働過程での疎外ということがある。本来労働は、自己実現として自分を高めるものでありながら、資本主義のもとでは資本家による搾取の過程として、自分をますます惨めにする。機械工業は労働者が労働力を資本家に販売するやいなや、労働が自分の手から離れて、強制労働となる運命にある。…労働力の販売は、絶えず安く買いたたこうとする資本家のもとで、労働者間の競争関係のプロセスのなかに置かれる。労働の姿は本来協同労働であり、他者との有機的関係を構築して人間的にも高めあうものでありながら、逆に競争することで蹴落としあう惨めな環境に置かれてしまう。さらに、疎外された労働は、自己が生産した生産物からも疎外される。…こうしてマルクスは、資本主義社会における疎外された労働の本質を明らかにし、…労働疎外という本質的な指摘は、当時も実感をもって受けとめられたが、なによりも、今日の社会の実態に適合しているのではないだろうか。


<感想>
 ここが尾形さんの出発点であり、私の出発点でもある。なぜ革命に人生を賭けようと思ったのかの原点であり、常にここに戻りながら思考し、判断し、生きていた。めざすものは「人間の人間としての解放」であり、賃金奴隷を強制する資本主義の打倒であり、労働者階級としての自己の解放であり、人間としての自分自身を取り戻す生き方であり、それは人生を賭けるだけの値打ちのある生き方である。

 尾形さんにとっても、私にとっても、優遇された奴隷の道、奴隷主(資本)に屈服し、妥協する道に進むことは絶対にしないという範疇の生き方の選択だった。あらかじめ妥協点を設定する生き方ではなく、共産主義革命の歴史的営為としての人生の選択であった。生きている間に決着がつかない問題であれ、その過程自身が共産主義者の生き方であると確信した。

 尾崎さんには「第3章中核派と出会う」のなかでこそ、選択した共産主義思想を明確に語り、しかる後に、ツァーリを打倒したロシア革命の意義とその挫折、スターリン主義的変質、革共同生成の必然性と変質を対象化して欲しかった。

 死後に発刊された『革共同50年私史』は共産主義の復権を求めているし、残された私(たち)にとっても、さまざまに変質している共産主義思想を、今は亡き尾形さんとともに復権させることではないかと思っている。

(2)ネグリとハート
【251】グローバリズムはさまざまな抵抗主体を世に送り出した。ネグリやハートは「マルチチュード」理論を打ち立てた。―そうだとしても、労働者階級の組織勢力が、あらゆる事態に対応出来る中心。【302】労働者階級の団結力の低減などから、労働者はもはやかつてのような心棒の役割を果たせないのではないか、との見解が見られる。ネグリとハートの思想もそうしたひとつの潮流である。だが、今日の社会が資本主義という独特の制度にある以上、資本家階級の搾取の対象にある労働者階級の存在が決定的な位置を占めている。

<感想>

尾形さんは今日の社会が資本主義的生産諸関係(制度)下にあり、資本家階級と労働者階級などに分裂した社会であり、労働者階級こそが資本主義の墓堀人であり、「労働者階級の存在が決定的な位置を占めている(302)」と主張している。労働者階級は生産の主体であり、だからこそ社会の主人公になりうる存在なのである。

 しかしネグリやハートの「マルチチュード」論は生産関係と離れて、「大衆(マルチチュード)」を社会の一方の主人公とすることによって、労働者階級をこの世から追放する立論だと批判している(302)。

 資本主義の墓堀人として歴史的に形成されてきた「労働者階級」概念を「大衆」に置き換えることによって、資本主義社会(賃労働と資本)の一方の主体を追放する観念論への転落であり、資本に屈服し、資本主義の改良でこと足れりとする程度の論でしかない。尾形さんも私(たち)もその程度のことに人生を賭けてきたわけではない。


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