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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

『革共同50年私史』(尾形史人著2016年) を読む(2)

2016年11月14日 | 落とし文
『革共同50年私史』(尾形史人著2016年) を読む(2)   2016年11月

 引用は要約・省略しているので、直接著書にあたってほしい。【 】は著書のページ数。

(3)プロ独について
【242】ブルジョアジーにたいする独裁―大衆は受け入れない←ブルジョアジーも住民の一部だから。独裁はどこまで行っても悪魔の統治形態である。革命は圧倒的な住民の参加による→多数性→武力不要。【252】プロレタリアート独裁の失敗→一党独裁。

<感想>

 ブルジョア独裁とは生産手段と政治権力を独占するブルジョアジー(資本家)が圧倒的多数のプロレタリアート人民を支配して、ブルジョアジーの利益(資本)をはかる政治形態のことだ。ブルジョア独裁の政体は議会制民主主義やナチスや天皇制など多様な現出形態を持つが、「独裁」という言葉によって、ナチスや天皇制を想起するが、議会制民主主義もれっきとしたブルジョア独裁であることは言うまでもない。

 プロレタリアート独裁とはプロレタリアート人民によるブルジョアジーにたいする独裁であり、私有財産制(経済的差別)を否定し、ブルジョアジーから生産手段を奪い、後戻りしないようにプロレタリアート人民自身が武装して、生活と権利を守る政治制度(国家)のことである。それは最後の国家(階級社会)として、国家(階級社会)を廃絶するための国家である。プロ独は国家(政治権力)であり、過去の国家と同様に暴力を本質としている。

 初期的には、抵抗するブルジョアジーにたいして暴力が発動されるが、プロレタリア民主主義の成熟と発展と訓練によって、人民主権の政治制度を形成することが使命である。しかし、現実にはソ連=東欧ではプロ独が一党独裁に変質し、人民への支配機構に変質した。

 杉原泰雄さん(憲法学)はソ連=東欧型社会主義憲法の特徴を、【①生産手段の私有廃絶・社会的所有、②「人民の敵」規定があり、濫用の余地が大きい、③「戦争=違法」原則の欠落、④「統治権=人民」原則の具体的保障規定の欠落、⑤「民主集中制」のゆえに地方自治・地方分権の保障が弱い、⑥「共産党=国家組織を指導する地位」規定によって専制的で反民主主義政治】の6点を挙げている(『憲法と資本主義の現在』32P)。

 資本主義社会の根本矛盾は私有財産制にあり、その憲法は経済的差別を公認している。プロレタリア革命はブルジョア社会の「生産手段の私有」を廃絶し、社会的所有に変換し、まずは経済的差別を解消する。ブルジョア憲法でも「戦争放棄」が謳われているが、それは外形的戦争放棄であり、戦争をもたらす原因(主として資本の運動)を取り除かない。戦争は世界的規模での私的所有の廃止(世界革命)によってしか本質的に停止できない。また、民主主義、人権=差別禁止を規定しているが、経済的差別を公認し、差別をもたらす根本を取り除かないので、それは外形的民主主義・外形的人権でしかない。

 プロレタリア革命はクーデターでもなく、少数者による「革命」でもなく、多数者による革命であるが、プロレタリア民主主義のもとでも、経済的差別が解消されなければ、基本的人権=人権宣言も形骸化するだろう。経済的差別を解消したうえで、真の平和主義、民主主義、生存権、基本的人権の確立をめざして不断のたたかいを必要としている(永続革命)。

 現代資本主義の憲法(ワイマール憲法、イタリア憲法、日本国憲法など)は近代資本主義の憲法を超える人権規定(外形的だが)をもつに至っており、人民の政治参加が普遍化され、保障され、政治的経験も豊富化されている。現代資本主義(帝国主義)打倒による革命=プロ独はスターリン主義を乗りこえうる内容をもつ革命として実現されるだろう。そのためにこそ、スターリン主義批判とプロ独論の理論的深化が求められている。

(4)暴力革命について
【013】武装闘争、暴力は否定しない。暴力の厳しい、残酷な実態を伴う。【082】武装闘争を革命の軍事戦略までに高めたのはプロレタリア革命の本質からいって間違っていた。【240】議会主義的統治―軍隊は人民の意志に逆らって独自行動しない。武装した人民の暴力がなくても資本の積極的止揚は可能。←政治的行動に参加する市民を大量に生み出しているから。【241】暴力革命なしに革命が出来る。

<感想>

 尾形さんのプロ独否定論の根底には、「議会主義的統治下の軍隊は人民の意志に逆らって独自行動しない」(240P)という議会主義的統治の絶対化がある。プロレタリアートによる資本家からの生産手段の奪取・支配と資本主義国の議会主義的統治(警察、軍隊を持つ)との対立・衝突は絶対にあり得ないものとして問題を立てている。そこには「国家の本質としての暴力」という認識の曖昧化がある。

 国家は暴力を本質としている。幾つかの階級に分裂している社会で、一方の階級が他の階級を支配し、有機体化するには、強制力・国家暴力の媒介による以外にない。したがってこれまでの被支配階級(プロレタリアート)がこれまでの支配階級(ブルジョアジー)に取って代わり、新たな支配階級として登場するには、旧来の支配階級がもつ国家暴力を粉砕しうる新たな国家暴力を不可避とする。これは本質論である。

 戦術論から見ても、「敵の出方論」は敗北の準備でしかない。多数が決起したからといって、これまで支配者の地位を恣にしてきた連中が、黙って城を明け渡すという保障・約束はどこにもない。革命を武装した革命として準備しなければ、不意を食らって、その時はすでに革命は血に沈められ、後の祭りだろう。

 もちろんブルジョアジーが弱気に陥って、武装反革命として登場しない場合もあるが、「理論闘争に厳格な態度」を主張する尾形さんに倣えば、武装反革命を前提にして論を立てる必要がある。
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