20230304 大東亜聖戦大碑再考
2000年8月、金沢市出羽町公園(護国神社)に大東亜聖戦大碑という大きな記念碑が建てられた。碑には、「大東亜/おほみいくさは/万世の/歴史を照らす/かがみなりけり(草地貞吾)」、「八紘為宇/津々浦々の赤誠集ひ/聖なるたたかひの碑/国護る宮に達ちたり(中田清康)」、「ああ大東亜/聖戦は/誇りは高し/わが心/誉れを世々に/伝ふべし/栄光とはに/消ゆるなし」などの碑文が刻まれている。
先の戦争を賛美するとんでもない碑であるが、その碑に刻まれている多数の賛同者の名前のなかに、8人の朝鮮人の名前が刻まれている。
朴仁祚さんに調べてもらったところ、1997年8月15日に放送されたSBSのビデオに詳細が記録されており、また知覧特攻平和会館にも、7人の名前が記録されていて、朝鮮人特攻隊員として出撃し、沖縄方面で戦死していることがわかった。彼らは17歳から25歳の青年だった。
写見出し:聖戦大碑、下左:朝鮮人特攻兵刻名、下右:刻銘を注視する金景錫さん(2001年5月)
聖戦大碑に刻まれた8人の朝鮮人特攻兵
崔貞根 4月2日 徳之島飛行場から出撃 25歳で戦死
卓庚鉉 5月11日 知覧から出撃 24歳で戦死
金尚弼 4月3日 新田原から出撃 25歳で戦死
朴東薫 3月29日 嘉手納から出撃 17歳で戦死
李允範 4月22日 知覧から出撃 23歳で戦死
李賢載 5月27日 出撃 18歳で戦死
韓鼎実 6月6日 出撃 20歳で戦死
都鳳龍 情報なし
その調査結果をもとに、『知覧特別攻撃隊』、『特別攻撃隊』、『特攻に散った朝鮮人』(桐原久著)、『朝鮮人学徒出陣』(姜徳相著)などを参考にして、2002年2月発行の『大東亜聖戦大碑問題資料集』2に、下記の論考を投稿した。すでに20年以上たっているが、聖戦大碑を考えるうえで、参考になると思われるので、再掲する。
資料「朝鮮出身特攻兵の刻銘を削除せよ」
大東亜聖戦大碑に刻まれた7人の朝鮮出身特攻隊員について考えるとき、当時の朝鮮人青年、学生がどのような状況のもとで、日本軍に志願したのかについて見なければならない。
1944年4月に、朝鮮に徴兵制が施行されたが、その以前の1938年4月に、朝鮮人を対象にした「朝鮮(陸軍)特別志願兵制」が成立した。徴兵制導入の前年10月に、朝鮮人学生を対象にした「学徒志願兵制」が成立した。
「朝鮮(陸軍)特別志願兵制」から「学徒志願兵制」までに、18000人が志願し、1944年徴兵制を含めて20万人の朝鮮人青年が戦争に動員された。「学徒志願兵制」導入時の状況について、姜徳相氏が「朝鮮人学徒出陣」を著しており、当時の朝鮮人青年、学生の志願状況について報告する。
①笛吹けど踊らず
朝鮮総督府は朝鮮人学徒の兵役志願の日程を、「10月25日受付→11月20日締め切り→12月12~20日銓衡検査→1944年1月20日入営」と発表した。
受付を開始したが、最初の1週間はだれひとりとして志願してこなかった。受付開始後、10日目の11月5日時点で、朝鮮の適格者976人中、志願者は153人(15%)。とくに民族系学校は普成専門学校では適格者257人中3人(1%)、延禧専門学校では、適格者282人中4人(1%)しか志願してこなかった。多くの学生は傍観的、局外的態度を取り、行方をくらます学生が続出し、笛吹けど学生は踊らずの状況だった。
朝鮮総督府は親日家、医師、地主、教師、議員など植民地権力と密着した家族を使って圧力をかけた。婦人会、翼賛会、公務員、先輩、文化人、宗教者、教師、恩師、同窓会、マスコミなどを総動員し、戸別訪問などで志願を強制した。
大東亜聖戦大碑に刻まれている金尚弼(結城尚弼)は民族系・延禧専門学校の親日派辛島驍校長の圧力で志願させられた。
②警察権力を発動して、志願を強制
警察が「朝鮮ニアリテハ、警察署長ハ…徴兵事務ヲ統轄ス」を根拠にして介入し、家族を恫喝し、家族に代理志願させ、東京では下宿を訪問するなど、勧奨から威嚇へと転換していった。
11月12日時点で、朝鮮では、適格者985人中、志願者は372人(37%)ほどしかなかった。朝鮮での学徒の志願最終状況は、11月20日、適格者数6203人のうち志願者は4385人(70%)で、100%には遠く及ばなかった。
③当時の朝鮮人学生の意思
3・1独立宣言の起草者である崔南善が志願を進めるために来日し、在日留学生との間で交わした会話内容は次のとおりである。
学生A「先生、25年前の挙族的3・1闘争の時、独立宣言文の草案は誰が作成したのですか。先生(崔南善)ではありませんか。どうして忘れてしまったのですか。魂の抜けた人と対話する価値はありません」
学生B「先生たちに民族魂があるのか、ないのかを知りたいだけです。A君の話と同じく、日本に同調することはできないということです。我々の故郷はどうですか。供出、徴用、甚だしくは未婚の女性を挺身隊の美名のもと、前線慰安婦として連行しているではないですか」
学生C「結論的には、我々はやられてばかりいるわけにはいきません。独立をさせると責任ある当局者(首相)の声明を聞いて志願します」
学生D「崔先生一行も3・1闘魂を反芻して、血の代価はただちに求めねばならぬと約束してください。そして故郷の父母兄弟を拷問しないよう、有形無形の圧迫をしないよう警告してください」
学生E「志願、逃亡、監獄、この中のひとつを私たちが選ぶことですが、我々の行動指針になりそうな話をしてください。巷間に聞こえる噂は故郷にいる老父母を苛めているようで、これは本当に我慢がなりません。先生方も、小磯総督からそそのかされてきたのではないですか」
女学生F「少しの血でも無意味に流すことはないではありませんか。日本文化の根源はわが民族から伝わって、今日に至っているのではないですか。それなのに属国視してもたりなくて、自己の弾よけにするのはいくら考えても釈然としません」
女学生G「強要だけに順応するわけにはいきません。志願という建前で強制動員を恣行する彼らに一沫の良心もありません。自国の運命を決するのに、我々被圧迫民族の血を強要するのは、いくら考えても理解できません」
④入営後、脱走が続出
志願後、12月12~20日の「銓衡検査」まで、逃亡を防ぐために、志願者の監視と拘束をおこなった。未志願者にたいしては、全国一斉に所在調査をおこない、11月28日「徴用令書(白紙応召状)」を発行し、数百人を強制労働に従事させた。1944年1月時点で、「非志願の罪」で283人の逮捕を強行している。まさに志願は、自由意志ではなく、強制志願であった。
1944年1月20日の入営後、中国戦線に配属された朝鮮人学徒は次々と脱走し、中国解放軍に合流した。金俊燁、文聖模、金永禄、洪錫勲、尹慶彬、張俊河、申相楚、金丙煥の各氏が手記を残している。戦闘のたびに脱出があり、開部隊所属の203人のうち、15人が脱出している。長沙作戦で朝鮮人脱走兵は170人にのぼった。
⑤平壌義挙事件
特筆すべきは200人が連鎖した平壌義挙事件である。1944年11月1日を期して反乱運動を起こそうとしたが、10月中旬ころに発覚し、70余人の朝鮮人学徒兵が思想問題、治安攪乱の嫌疑で、平壌秋乙憲兵隊に拘禁された。半数が起訴され、最高12年の懲役刑の判決を受けた。
・平壌義挙行動綱領
1、我々は生命を賭して祖国の独立を争取する
2、我々は一切のイデオロギーを超越して団結する
3、我々は組織の命令の服従する
4、我々は知性と寛容をもって同志愛を堅固にする
・平壌義挙作戦大綱
1、挙事時期は戦況が極度に不利になり、南方の米軍が猛反撃し、ソ連が宣戦布告するその時期を選ぶ
2、面会に来た家族や親知を通じ、平壌市内及び付近の部隊に入隊する学兵たちに相互連絡する
3、すべての学生は弾薬庫及び武器庫を占領し、完全武装し、残る爆薬は爆破してしまう
4、愛国市民及び学生を同参させ、民族解放を扇動する
5、日本軍の出動を阻止するため、満州に渡り朝鮮独立軍と合流し、抗戦に加担する
⑥朝鮮出身特攻兵の刻銘を削除せよ
植民地朝鮮から志願兵が出たのは、第1に、朝鮮併合以来の植民地教育によって、少年たちが徹底的に天皇制に侵されていたことが挙げられるが、第2に、朝鮮内親日派を使って志願を強制し、第3に、直接日帝警察権力が前面にたって強制したことが挙げられる。
日本の植民地支配、天皇制教育のなかで、一定数の率先的徴兵志願者がいたが、他方では志願適格朝鮮人学生のうち、30%が志願を拒否し、未志願者として逮捕されたり、徴用による強制労働に駆り立てられても、日本に協力しなかったのである。
また、中国解放軍に合流する目的で志願した学生、志願後脱走を決意し、敢行した学生など、日本人学徒とは明確に様相を異にしている。
大東亜聖戦大碑に刻まれた7人の特攻兵も、日本による朝鮮植民地化の犠牲者以外の何ものでもない。大東亜聖戦大碑に奥野誠亮、小室直樹、小堀桂一郎など数百人の戦争賛美者と一緒に、7人の朝鮮出身特攻隊員の名前を刻んだことを絶対に許してはならない。かつての朝鮮、中国、アジア、太平洋を侵略した日本の戦争責任を追及する日本人の責任で、碑面から削除させねばならない。
2000年8月、金沢市出羽町公園(護国神社)に大東亜聖戦大碑という大きな記念碑が建てられた。碑には、「大東亜/おほみいくさは/万世の/歴史を照らす/かがみなりけり(草地貞吾)」、「八紘為宇/津々浦々の赤誠集ひ/聖なるたたかひの碑/国護る宮に達ちたり(中田清康)」、「ああ大東亜/聖戦は/誇りは高し/わが心/誉れを世々に/伝ふべし/栄光とはに/消ゆるなし」などの碑文が刻まれている。
先の戦争を賛美するとんでもない碑であるが、その碑に刻まれている多数の賛同者の名前のなかに、8人の朝鮮人の名前が刻まれている。
朴仁祚さんに調べてもらったところ、1997年8月15日に放送されたSBSのビデオに詳細が記録されており、また知覧特攻平和会館にも、7人の名前が記録されていて、朝鮮人特攻隊員として出撃し、沖縄方面で戦死していることがわかった。彼らは17歳から25歳の青年だった。
写見出し:聖戦大碑、下左:朝鮮人特攻兵刻名、下右:刻銘を注視する金景錫さん(2001年5月)
聖戦大碑に刻まれた8人の朝鮮人特攻兵
崔貞根 4月2日 徳之島飛行場から出撃 25歳で戦死
卓庚鉉 5月11日 知覧から出撃 24歳で戦死
金尚弼 4月3日 新田原から出撃 25歳で戦死
朴東薫 3月29日 嘉手納から出撃 17歳で戦死
李允範 4月22日 知覧から出撃 23歳で戦死
李賢載 5月27日 出撃 18歳で戦死
韓鼎実 6月6日 出撃 20歳で戦死
都鳳龍 情報なし
その調査結果をもとに、『知覧特別攻撃隊』、『特別攻撃隊』、『特攻に散った朝鮮人』(桐原久著)、『朝鮮人学徒出陣』(姜徳相著)などを参考にして、2002年2月発行の『大東亜聖戦大碑問題資料集』2に、下記の論考を投稿した。すでに20年以上たっているが、聖戦大碑を考えるうえで、参考になると思われるので、再掲する。
資料「朝鮮出身特攻兵の刻銘を削除せよ」
大東亜聖戦大碑に刻まれた7人の朝鮮出身特攻隊員について考えるとき、当時の朝鮮人青年、学生がどのような状況のもとで、日本軍に志願したのかについて見なければならない。
1944年4月に、朝鮮に徴兵制が施行されたが、その以前の1938年4月に、朝鮮人を対象にした「朝鮮(陸軍)特別志願兵制」が成立した。徴兵制導入の前年10月に、朝鮮人学生を対象にした「学徒志願兵制」が成立した。
「朝鮮(陸軍)特別志願兵制」から「学徒志願兵制」までに、18000人が志願し、1944年徴兵制を含めて20万人の朝鮮人青年が戦争に動員された。「学徒志願兵制」導入時の状況について、姜徳相氏が「朝鮮人学徒出陣」を著しており、当時の朝鮮人青年、学生の志願状況について報告する。
①笛吹けど踊らず
朝鮮総督府は朝鮮人学徒の兵役志願の日程を、「10月25日受付→11月20日締め切り→12月12~20日銓衡検査→1944年1月20日入営」と発表した。
受付を開始したが、最初の1週間はだれひとりとして志願してこなかった。受付開始後、10日目の11月5日時点で、朝鮮の適格者976人中、志願者は153人(15%)。とくに民族系学校は普成専門学校では適格者257人中3人(1%)、延禧専門学校では、適格者282人中4人(1%)しか志願してこなかった。多くの学生は傍観的、局外的態度を取り、行方をくらます学生が続出し、笛吹けど学生は踊らずの状況だった。
朝鮮総督府は親日家、医師、地主、教師、議員など植民地権力と密着した家族を使って圧力をかけた。婦人会、翼賛会、公務員、先輩、文化人、宗教者、教師、恩師、同窓会、マスコミなどを総動員し、戸別訪問などで志願を強制した。
大東亜聖戦大碑に刻まれている金尚弼(結城尚弼)は民族系・延禧専門学校の親日派辛島驍校長の圧力で志願させられた。
②警察権力を発動して、志願を強制
警察が「朝鮮ニアリテハ、警察署長ハ…徴兵事務ヲ統轄ス」を根拠にして介入し、家族を恫喝し、家族に代理志願させ、東京では下宿を訪問するなど、勧奨から威嚇へと転換していった。
11月12日時点で、朝鮮では、適格者985人中、志願者は372人(37%)ほどしかなかった。朝鮮での学徒の志願最終状況は、11月20日、適格者数6203人のうち志願者は4385人(70%)で、100%には遠く及ばなかった。
③当時の朝鮮人学生の意思
3・1独立宣言の起草者である崔南善が志願を進めるために来日し、在日留学生との間で交わした会話内容は次のとおりである。
学生A「先生、25年前の挙族的3・1闘争の時、独立宣言文の草案は誰が作成したのですか。先生(崔南善)ではありませんか。どうして忘れてしまったのですか。魂の抜けた人と対話する価値はありません」
学生B「先生たちに民族魂があるのか、ないのかを知りたいだけです。A君の話と同じく、日本に同調することはできないということです。我々の故郷はどうですか。供出、徴用、甚だしくは未婚の女性を挺身隊の美名のもと、前線慰安婦として連行しているではないですか」
学生C「結論的には、我々はやられてばかりいるわけにはいきません。独立をさせると責任ある当局者(首相)の声明を聞いて志願します」
学生D「崔先生一行も3・1闘魂を反芻して、血の代価はただちに求めねばならぬと約束してください。そして故郷の父母兄弟を拷問しないよう、有形無形の圧迫をしないよう警告してください」
学生E「志願、逃亡、監獄、この中のひとつを私たちが選ぶことですが、我々の行動指針になりそうな話をしてください。巷間に聞こえる噂は故郷にいる老父母を苛めているようで、これは本当に我慢がなりません。先生方も、小磯総督からそそのかされてきたのではないですか」
女学生F「少しの血でも無意味に流すことはないではありませんか。日本文化の根源はわが民族から伝わって、今日に至っているのではないですか。それなのに属国視してもたりなくて、自己の弾よけにするのはいくら考えても釈然としません」
女学生G「強要だけに順応するわけにはいきません。志願という建前で強制動員を恣行する彼らに一沫の良心もありません。自国の運命を決するのに、我々被圧迫民族の血を強要するのは、いくら考えても理解できません」
④入営後、脱走が続出
志願後、12月12~20日の「銓衡検査」まで、逃亡を防ぐために、志願者の監視と拘束をおこなった。未志願者にたいしては、全国一斉に所在調査をおこない、11月28日「徴用令書(白紙応召状)」を発行し、数百人を強制労働に従事させた。1944年1月時点で、「非志願の罪」で283人の逮捕を強行している。まさに志願は、自由意志ではなく、強制志願であった。
1944年1月20日の入営後、中国戦線に配属された朝鮮人学徒は次々と脱走し、中国解放軍に合流した。金俊燁、文聖模、金永禄、洪錫勲、尹慶彬、張俊河、申相楚、金丙煥の各氏が手記を残している。戦闘のたびに脱出があり、開部隊所属の203人のうち、15人が脱出している。長沙作戦で朝鮮人脱走兵は170人にのぼった。
⑤平壌義挙事件
特筆すべきは200人が連鎖した平壌義挙事件である。1944年11月1日を期して反乱運動を起こそうとしたが、10月中旬ころに発覚し、70余人の朝鮮人学徒兵が思想問題、治安攪乱の嫌疑で、平壌秋乙憲兵隊に拘禁された。半数が起訴され、最高12年の懲役刑の判決を受けた。
・平壌義挙行動綱領
1、我々は生命を賭して祖国の独立を争取する
2、我々は一切のイデオロギーを超越して団結する
3、我々は組織の命令の服従する
4、我々は知性と寛容をもって同志愛を堅固にする
・平壌義挙作戦大綱
1、挙事時期は戦況が極度に不利になり、南方の米軍が猛反撃し、ソ連が宣戦布告するその時期を選ぶ
2、面会に来た家族や親知を通じ、平壌市内及び付近の部隊に入隊する学兵たちに相互連絡する
3、すべての学生は弾薬庫及び武器庫を占領し、完全武装し、残る爆薬は爆破してしまう
4、愛国市民及び学生を同参させ、民族解放を扇動する
5、日本軍の出動を阻止するため、満州に渡り朝鮮独立軍と合流し、抗戦に加担する
⑥朝鮮出身特攻兵の刻銘を削除せよ
植民地朝鮮から志願兵が出たのは、第1に、朝鮮併合以来の植民地教育によって、少年たちが徹底的に天皇制に侵されていたことが挙げられるが、第2に、朝鮮内親日派を使って志願を強制し、第3に、直接日帝警察権力が前面にたって強制したことが挙げられる。
日本の植民地支配、天皇制教育のなかで、一定数の率先的徴兵志願者がいたが、他方では志願適格朝鮮人学生のうち、30%が志願を拒否し、未志願者として逮捕されたり、徴用による強制労働に駆り立てられても、日本に協力しなかったのである。
また、中国解放軍に合流する目的で志願した学生、志願後脱走を決意し、敢行した学生など、日本人学徒とは明確に様相を異にしている。
大東亜聖戦大碑に刻まれた7人の特攻兵も、日本による朝鮮植民地化の犠牲者以外の何ものでもない。大東亜聖戦大碑に奥野誠亮、小室直樹、小堀桂一郎など数百人の戦争賛美者と一緒に、7人の朝鮮出身特攻隊員の名前を刻んだことを絶対に許してはならない。かつての朝鮮、中国、アジア、太平洋を侵略した日本の戦争責任を追及する日本人の責任で、碑面から削除させねばならない。