
20230226 金沢市庁舎前広場を取り戻そう
2月21日、最高裁は金沢市役所前広場での「護憲集会」を不許可にした。まさに憲法の精神=表現の自由を踏みにじる暴挙である。表現の自由のなかで、最も重視されねばならないのは、体制批判の自由である。他のどんな表現行為が尊重されても、体制批判の自由が侵されれば、それは自由なき社会である。
識者は少数意見に期待をかけているようだが、「法の番人」としての最高裁が、行政管理と表現の自由を天秤にかけて、行政管理の方を選択したのである。最高裁は、最後の一線を越えて、行政に表現の自由を侵す自由を与えたのである。
明治憲法下の制限付き「表現の自由」は、戦争反対の声を押しつぶし、幾千万のアジア人民の死と数百万の自らの死をもたらし、ふたたび戦争へと赴かないようにと、日本人民に与えられた、血の約束である。私たちは、体制順応型の自由に安住することなく、民主主義の木は血を吸って成長するが如く、あらゆる表現行為を通して、広場の自由を取り戻さねばならない。それはあらかじめ憲法によって守られているのではなく、自らの力でもぎ取っていくものである。
2021年春以降、毎週水曜日に市役所前広場に集まり、ガス・発電事業の売却に反対してきたのも、広場を返せという意味を持っていた。
2017年5月の投稿と、2013年の投稿を添付する。
2017年5月「金沢市庁舎前広場」に死刑宣告
金沢市は市庁舎前広場での「5・3護憲集会」(石川県憲法を守る会)を不許可にした。報道によれば、その根拠は改定された庁舎管理規則「特定の政策、主義、意見に賛成、または反対する目的で威力、気勢を他に示すなどの示威行為」にあるという。
広場(公園)とは、デモクラシーを実践する場である。庁舎前広場はこれまで、憲法集会をはじめとしてさまざまな主張の場として市民に開かれてきた。今回の管理規則の改定で、「広場」を特定の者たちには開くが、特定の者たちには開かないという。すなわち、体制批判派には閉ざし、体制順応派には開くということである。まさに「庁舎前広場」は広場としての死を宣告されたのである。
公共財としての広場(公園)や集会場、各種施設は常に体制順応派のために用意されてきた。たとえば、金沢ふるさと偉人館という展示施設がある。そこで展示されている人物とは、八田與一をはじめとして、体制順応型の人物であり、他方そこから排除されているのは反体制的な人物、鶴彬であり、島田清次郎である。まさに金沢市は「特定の政策、主義、意見に賛成、または反対する」人物を称揚するために、施設と管理人と金をふんだんに費やしているのである。まさに二重基準をもてあそんでいるのである。
しかし、法律は一応「公平」を担保しているために、体制批判派にも開かれてきたが、常に条件付・限定的であった。主催者を呼びつけ、集会・企画の内容にまで立ち入って査問し、体制批判的内容は改変され、首肯しなければ「禁止」措置で応えてきたのである。
だが、広場(集会施設)の権利は人民のたたかいによってこそ、こじ開けられてきたのである。民主主義という木は人民の血を吸って成長してきたのであり、今回の「不許可」には、まさに人民のたたかいをもって応えねばならない。
このままでは、金沢市庁舎前広場では、「笑点」でさえも演じられないのである。
2013年7月「公園とデモクラシー」
8月2日に金沢市景観審議会みちすじ部会が開かれ、金沢中央公園の再整備について再審議がおこなわれた。行政の付属機関なのでしょう、過去の「不当な審議(石川県公園緑地課は提出資料を改ざんして提出し、審議された)」を再審議することなくスルーしたようです。
問題が起きたときに、立ち止まることも、引き返すこともしないという政治の貧困(原発政策に特徴的な現状維持型)が末端にまで及んでいることを実感しました。まさに民主主義(デモクラシー)が欠落しているようです。
『近代日本公園の研究』(丸山宏著1994年発行)を読みました。「第3章 大正デモクラシー期の公園と社会」で、「近代日本において、公園とは国家あるいは民衆の意思表示の場である」「大正デモクラシー期の公園は政治性を帯び、公園なくして民衆のエネルギーのはけ口はなかった。大正デモクラシーは公園とともに成長した」と展開している。
具体的に見ると、1905年、日露戦争直後に、東京日比谷公園で「日露戦争講和反対国民大会」が開かれたのが皮切りだ。中之島公園(大阪)でも、氷川公園(大宮市)でも同様の大会が開かれた。1906年3月には日比谷公園で電車運賃値上げ反対集会が開かれ、1908年普通選挙要求大会を日比谷公園で開催しようとしたが、当局によって公園使用が禁止された。1913年には憲政擁護大会が日比谷公園、中之島公園、円山公園(京都)で開かれ、1914年山本内閣弾劾国民大会が開催された。
そして、1918年富山県魚津から始まった米騒動は、各地の公園を拠点にして急展開していった。それは寺内内閣を打倒し、政党内閣(原敬)を生み出した。翌1919年には普選運動に発展し、ここでも日比谷公園は民衆のたたかいの拠点になった。1922年普選を求めて数万の民衆が国会に押し寄せたとき、警察は日比谷公園を閉鎖した。民衆のたたかいはうねりを増し、ついに1925年普選法を可決した。
公園と大正デモクラシーは一体であり、1920年の第1回メーデーは上野公園で開かれた。石川県最初のメーデーは、1929年の金沢兼六公園長谷川邸跡でおこなわれた(300人)。1946年戦後最初のメーデーも長谷川邸跡であり、2万人が参加した。私がはじめて参加したメーデーも、長谷川邸跡だった。長谷川邸跡が梅園になり、金沢中央公園が開園し、民衆運動の場が移った。
このように、公園は日本の社会運動と深く結びついており、諸外国でも、1919年韓国のパゴダ公園(タプコル公園)は「3・1独立万歳運動」の拠点になった。最近では、エジプト・カイロのタハリール広場、トルコ・イスタンブールのゲジ公園、ニューヨーク・ダウンタウンのズコティ・パークに民衆が結集し、公園には社会変革のエネルギーが渦巻いた。
日々の労働での疲れを癒やす(労働力の再生産)ための緑豊かな広場・公園はもうひとつの顔を持っている。社会を変えるためにも公園の自由な使用が必要なのだ。金沢中央公園の管理を県知事が一元的に握ろうとする意志の背後には、公園利用の主体を民衆から奪い去ろうという邪な考えが潜んでいる。広場・公園の利用主体は人民だ。一木一草たりとも民衆を無視して除去・伐採してはならない。
2月21日、最高裁は金沢市役所前広場での「護憲集会」を不許可にした。まさに憲法の精神=表現の自由を踏みにじる暴挙である。表現の自由のなかで、最も重視されねばならないのは、体制批判の自由である。他のどんな表現行為が尊重されても、体制批判の自由が侵されれば、それは自由なき社会である。
識者は少数意見に期待をかけているようだが、「法の番人」としての最高裁が、行政管理と表現の自由を天秤にかけて、行政管理の方を選択したのである。最高裁は、最後の一線を越えて、行政に表現の自由を侵す自由を与えたのである。
明治憲法下の制限付き「表現の自由」は、戦争反対の声を押しつぶし、幾千万のアジア人民の死と数百万の自らの死をもたらし、ふたたび戦争へと赴かないようにと、日本人民に与えられた、血の約束である。私たちは、体制順応型の自由に安住することなく、民主主義の木は血を吸って成長するが如く、あらゆる表現行為を通して、広場の自由を取り戻さねばならない。それはあらかじめ憲法によって守られているのではなく、自らの力でもぎ取っていくものである。
2021年春以降、毎週水曜日に市役所前広場に集まり、ガス・発電事業の売却に反対してきたのも、広場を返せという意味を持っていた。
2017年5月の投稿と、2013年の投稿を添付する。
2017年5月「金沢市庁舎前広場」に死刑宣告
金沢市は市庁舎前広場での「5・3護憲集会」(石川県憲法を守る会)を不許可にした。報道によれば、その根拠は改定された庁舎管理規則「特定の政策、主義、意見に賛成、または反対する目的で威力、気勢を他に示すなどの示威行為」にあるという。
広場(公園)とは、デモクラシーを実践する場である。庁舎前広場はこれまで、憲法集会をはじめとしてさまざまな主張の場として市民に開かれてきた。今回の管理規則の改定で、「広場」を特定の者たちには開くが、特定の者たちには開かないという。すなわち、体制批判派には閉ざし、体制順応派には開くということである。まさに「庁舎前広場」は広場としての死を宣告されたのである。
公共財としての広場(公園)や集会場、各種施設は常に体制順応派のために用意されてきた。たとえば、金沢ふるさと偉人館という展示施設がある。そこで展示されている人物とは、八田與一をはじめとして、体制順応型の人物であり、他方そこから排除されているのは反体制的な人物、鶴彬であり、島田清次郎である。まさに金沢市は「特定の政策、主義、意見に賛成、または反対する」人物を称揚するために、施設と管理人と金をふんだんに費やしているのである。まさに二重基準をもてあそんでいるのである。
しかし、法律は一応「公平」を担保しているために、体制批判派にも開かれてきたが、常に条件付・限定的であった。主催者を呼びつけ、集会・企画の内容にまで立ち入って査問し、体制批判的内容は改変され、首肯しなければ「禁止」措置で応えてきたのである。
だが、広場(集会施設)の権利は人民のたたかいによってこそ、こじ開けられてきたのである。民主主義という木は人民の血を吸って成長してきたのであり、今回の「不許可」には、まさに人民のたたかいをもって応えねばならない。
このままでは、金沢市庁舎前広場では、「笑点」でさえも演じられないのである。
2013年7月「公園とデモクラシー」
8月2日に金沢市景観審議会みちすじ部会が開かれ、金沢中央公園の再整備について再審議がおこなわれた。行政の付属機関なのでしょう、過去の「不当な審議(石川県公園緑地課は提出資料を改ざんして提出し、審議された)」を再審議することなくスルーしたようです。
問題が起きたときに、立ち止まることも、引き返すこともしないという政治の貧困(原発政策に特徴的な現状維持型)が末端にまで及んでいることを実感しました。まさに民主主義(デモクラシー)が欠落しているようです。
『近代日本公園の研究』(丸山宏著1994年発行)を読みました。「第3章 大正デモクラシー期の公園と社会」で、「近代日本において、公園とは国家あるいは民衆の意思表示の場である」「大正デモクラシー期の公園は政治性を帯び、公園なくして民衆のエネルギーのはけ口はなかった。大正デモクラシーは公園とともに成長した」と展開している。
具体的に見ると、1905年、日露戦争直後に、東京日比谷公園で「日露戦争講和反対国民大会」が開かれたのが皮切りだ。中之島公園(大阪)でも、氷川公園(大宮市)でも同様の大会が開かれた。1906年3月には日比谷公園で電車運賃値上げ反対集会が開かれ、1908年普通選挙要求大会を日比谷公園で開催しようとしたが、当局によって公園使用が禁止された。1913年には憲政擁護大会が日比谷公園、中之島公園、円山公園(京都)で開かれ、1914年山本内閣弾劾国民大会が開催された。
そして、1918年富山県魚津から始まった米騒動は、各地の公園を拠点にして急展開していった。それは寺内内閣を打倒し、政党内閣(原敬)を生み出した。翌1919年には普選運動に発展し、ここでも日比谷公園は民衆のたたかいの拠点になった。1922年普選を求めて数万の民衆が国会に押し寄せたとき、警察は日比谷公園を閉鎖した。民衆のたたかいはうねりを増し、ついに1925年普選法を可決した。
公園と大正デモクラシーは一体であり、1920年の第1回メーデーは上野公園で開かれた。石川県最初のメーデーは、1929年の金沢兼六公園長谷川邸跡でおこなわれた(300人)。1946年戦後最初のメーデーも長谷川邸跡であり、2万人が参加した。私がはじめて参加したメーデーも、長谷川邸跡だった。長谷川邸跡が梅園になり、金沢中央公園が開園し、民衆運動の場が移った。
このように、公園は日本の社会運動と深く結びついており、諸外国でも、1919年韓国のパゴダ公園(タプコル公園)は「3・1独立万歳運動」の拠点になった。最近では、エジプト・カイロのタハリール広場、トルコ・イスタンブールのゲジ公園、ニューヨーク・ダウンタウンのズコティ・パークに民衆が結集し、公園には社会変革のエネルギーが渦巻いた。
日々の労働での疲れを癒やす(労働力の再生産)ための緑豊かな広場・公園はもうひとつの顔を持っている。社会を変えるためにも公園の自由な使用が必要なのだ。金沢中央公園の管理を県知事が一元的に握ろうとする意志の背後には、公園利用の主体を民衆から奪い去ろうという邪な考えが潜んでいる。広場・公園の利用主体は人民だ。一木一草たりとも民衆を無視して除去・伐採してはならない。