アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

富岡製糸工場の「美しい歴史」だけを伝えるのか?

2014年04月29日 | 歴史観
富岡製糸工場の「美しい歴史」だけを伝えるのか?

 富岡製糸工場が世界文化遺産に登録されるとの記事が踊っている。あたかも富岡工場が「女工哀史」とは無縁だったかのような話ばかりである。

 初期官営時代は8時間労働で、週1休だったようだが、売却・民営後には14時間労働は普通だったといわれている。待遇改善を求めてストライキもたたかわれている。ここにこそ日本の労働者階級のたたかう出発点を見なければならない。

 昨年12月20日に『ああ野麦峠』の女工たちと不二越強制連行との近似性を報告したが、整理して再掲する。

 明治期の生糸は最大の輸出商品で、外貨獲得の主要産業であった。明治政府は製糸産業で獲得した外貨で、外国から軍艦を購入し、富国強兵政策を推し進めた。その裏には、過酷な労働を強いられた少女たちがいた。募集年齢の低さ、欺罔による募集、長時間の過酷労働(高温多湿)、低賃金・後勘定(逃亡防止策)、手紙の検閲、父母の死の無告知、貧しい食事、寒い寄宿舎と挙げたらきりがない。

 特に、賃金体系が過酷で残酷であった。良質の糸を引いた工女から順に50等級のランクをつけて、上位ランクの工女には割り増しを付けるが、逆に下位ランクの工女からは罰金を徴収して、生産(量・質)を競わせていた。常に他の工女以上に働いていないと賃金が下がるという仕組みで、「共食い制度」とも呼ばれていた。

 また、生糸生産に適した環境は高温多湿であり、工女たちは冬でも下着1枚でびしょびしょに濡れながら長時間の労働を強いられていた。冬は工場外との温度差が激しく、結核発症の温床となっていた。肺結核、腸結核、喉頭結核、心臓麻痺、水銀中毒、腎臓炎、醋酸中毒、慢性腸カタルなどの罹患率が高く、とくに結核性の病気が多かった。

 当時の繊維工場に働く工女は毎年1000人のうち13人の割合で死んでいる。病みだしてから解雇または退職後に死んだ者がさらに10人もおり、これを加えると工女1000人について23人という高率の死亡になる。

 『ああ野麦峠』は単なる女工哀史ではなく、たたかう工女たちの賛歌である。大製糸会社・山一林組の岡谷工場の1300人の工女が1927年8月27日に決起した。要求は①労働組合加入の自由、②組合員を理由に差別・解雇するな、③食料・衛生上の改善、④体育・娯楽設備を設置せよ、⑤低賃金の解消など7項目だった。

 今から考えると当たり前の要求だが、山一林組はゼロ回答だった。世論の同情はあったが、行政も警察も工場側に立ち、20日後の9月17日、争議団を解散し、最後まで闘いぬいた47人の工女たちは岡谷を去って行った。

 富国強兵策のもとで工女を食い物にした製糸産業も、福島県民を棄民にして生き残ろうとしている東電も、資本の姿であり、1300人の製糸工女のように、生きることが求められている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金沢市中での治安出動訓練を... | トップ | 石川県は5/24自衛隊三軍武装... »
最新の画像もっと見る

歴史観」カテゴリの最新記事