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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20241228 再考・尹奉吉はどこに埋葬されたのか

2024年12月28日 | 尹奉吉義士
20241228 再考・尹奉吉はどこに埋葬されたのか

はじめに
 1932年当時、尹奉吉処刑地も、埋葬地も正式な発表がなかった。処刑地は『北国新聞』(1932/12/20)に掲載された「処刑場写真」を根拠に、三小牛山東南高台説が定着していたが、2008年春、韓国SBS放送が「軍報告文書」をもとに処刑場調査をおこない、2009年、「処刑場調査チーム」(金秉権代表)を結成し、同文書、地図を手がかりにして現地調査をおこない、西北谷間の中尾山川上流地点を確定した。
 しかし、暗葬地については陸軍墓地から階段を降りた空地として認識されてきたものの、厳密な位置確定に至っていなかった。2014年11月に現地調査をおこない、決着がついていたはずなのに、またぞろ埋葬位置に疑義を挟む人が現れ、今次「尹奉吉墓地使用許可取消訴訟」を機に、2014年当時の調査結果を推敲した上で再掲することにした。


  (管理棟から見た暗葬地)

 検証の対象とした資料は下記の9点である。
(1)1946年3月6日金昌律撮影の写真15枚。
(2)1990年7月18日石川県撮影の写真9枚。
(3)山本了道さんの証言(『ユン・ボンギルと天長節事件始末』)
(4)李健雨さん(発掘者)の証言(『ユン・ボンギルと天長節事件始末』)
(5)朱鼎均さん(発掘者)の証言(『キョレイトンシン』第9号)
(6)朴起東さん(発掘者)の証言(『キョレイトンシン』第1号)
(7)朴聖祚さん(発掘者)の証言(『キョレイトンシン』第1号)
(8)2014年11月暗葬地周辺調査地図。
(9)2024年11月陸軍墓地への階段調査。

(1)金昌律さん撮影の写真(A)
 写真家・金昌律さんは1946年3月の尹奉吉遺体発掘現場に立ち会い、戦後の物資不足で、写真機材もままならないなかで、15枚の写真を遺した。
 『ユン・ボンギルと天長節事件始末』にすべての写真(1~15)が掲載されており、特に、遺体(柩)発見時に撮影したと思われる写真(A)には、管理事務所、階段、法面Bが写っており、発掘場所特定の一級資料である。
 発掘調査に当たった人々は、遺体を中心にして、階段の末端から、法面Bに平行して、南北の楕円形で、穴に現れた柩を覗き込んでおり、最も内側の①は北向き、⑧は南向き、②~⑦は東向きで8人が並んでいる。現在の暗葬之碑とほぼ同じ位置に当たる。


  (写真A=金昌律さん撮影)

(2)石川県撮影の写真(B)
 市民団体から、ごみ焼却炉が尹奉吉の暗葬地上に設置されていると指摘され、石川県は1990年7月に焼却炉を移動させ、その前後に暗葬地周辺の写真を写した(9枚)。
 特に管理事務所を背景に、階段と焼却炉跡を写した写真(B)は44年前の金昌律撮影の写真(A)と同じ構図である。


  (写真B=石川県撮影)

(3)山本了道さんの証言
 山本了道さんの証言「ここに北枕にして埋められている」(『ユン・ボンギルと天長節事件始末』33頁)に従えば、遺体は法面Bに平行して南北に埋葬されていたことになり、写真(A)と一致する。(5)朱鼎均さん、(6)朴起東さん、(7)朴聖祚さんの証言は、山本了道さんが現場にいて埋葬場所を教示し、その後発見されたことを示唆している。

(4)李健雨さん(発掘者)の証言
 李健雨さんの手記には、「埋められていた場所は、墓地でも何でもないところで、人が歩く山の路のようなところだった」(1992年『ユン・ボンギルと天長節事件始末』36頁)、「埋められていた場所が、こともあろうに、ゴミ捨て場前の道の下で…」(『キョレイトンシン』1号27頁)とあり、尹奉吉が埋葬されていたところは「道の真ん中」と言っても、過言でも誇張でもない。

(5)朱鼎均さん(発掘者)の証言
 朱鼎均さん:「山本尼僧の証言によって発掘したところ、処刑に使った十字架が掘り出されました」(『キョレイトンシン』第9号、1992/12/19の尹奉吉暗葬碑の除幕式での発言)。

(6)朴起東さん(発掘者)の証言
 朴起東さん:「3日目か4日目かに、尼僧が暗葬時に読経したと言って、その場所を案内してくれたのです」(『キョレイトンシン』第1号24頁)。

(7)朴聖祚さん(発掘者)の証言
 朴聖祚さん:「3日目、刑務官から『暗葬時尼僧が読経された』『尼寺を探せ』との命令が本部から届きました。…野田町にある覚尊寺山本了道住職を伴ってきました。暗葬地を指で指し、…(不明)…柩発見の朗報」(『キョレイトンシン』第1号26頁)。

(8)2014年11月暗葬地周辺調査地図
 以上、(1)~(7)までの写真と証言をもとに、2014年11月に現地調査をおこなった。
 1946年3月に尹奉吉の遺体を発掘した場所の全景は、焼却炉を撤去した後の写真(B)(1990/7/18石川県撮影)で見ることができる。法面A(南)、法面B(西)、市民墓地(北)、加州藩士の墓(東)に囲まれており、南には陸軍墓地に上がる階段、東には加州藩士之墓や旧ロシア兵墓地へ行く通路、北には市民墓地(新墓地丙)へ降りていく階段、西には陸軍墓地正門にむかう通路が見える。



(9)2024年11月陸軍墓地~階段
 2024年11月には、陸軍墓地から市民墓地に繋がる階段と遺体埋葬場所との位置関係を調査した。1990年の写真(C)では、陸軍墓地から降りる階段の末端は14段目にあり、そこから下方は多少の傾斜がある平地となっている。
 写真(A)(B)から推測するに、14段目の階段から1メートルほど北方に遺体の足元があったのではないだろうか。

 
                 (写真C:1990年、写真D:2024年)

(10)結論―今も暗葬地に眠る尹奉吉
 朴仁祚さんは「あの時の話」(『ユン・ボンギルと天長節始末』25頁)のなかで、「春と秋の陸軍墓地の例大祭の前に、墓地内の清掃の為、落ち葉や枯れ草を集めて、管理事務所の横の小道(注:階段)を降り、あの場所に集めさせられました」と書いており、金秉権さん(尹奉吉処刑地調査チーム長)も同様に話していた。
 写真(B)(C)の路面を見ると、雑草はわずかしか生えておらず、至るところに地肌が見えている。尹奉吉の遺体盗掘を阻止するために、管理棟の窓から見下ろすことができる位置、墓域外の通路に遺体を埋め、墓標も立てず、人々の踏みつけるままにしており、許しがたい差別的対応である。
 このように、尹奉吉の暗葬地は現在の暗葬之碑が建っているところとほぼ一致する。したがって、暗葬之碑の地下には、1946年3月に回収し残した尹奉吉の遺骨が幾つか、今も埋められたままになっている。
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