『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修 2011年発行 本体価格18000円)
第5 アンダマン諸島
<資料22> Docp5116
アブダル・カリークの寡婦ザイトウーン・ビビの取り調べ概略
住所 ポート・ブレア、アバディーン村
正式に宣誓して陳述す。
私は年齢24歳、印度国籍そしてポート・ブレアで生まれた。本籍は私が現在住して居るアバーディーン村である。
1943年1月中に私の夫は逮捕され、投獄された。翌日私も亦投獄された。是は3日間続いたが、私には生後2ヶ月の息子が居たので、毎晩帰宅することを許された。
私が監獄で過ごした期間中、私は認知出来る海員アヅマ・スエオから私の夫(アブダル・カリーク)、私の義父ナラヤン・ラオ、スカール・カン、チホッタ・シング、アッタル・シング及びスレーン博士等が何らかの方法で英国人と通信し得るか否か問はれたが、私は是に対して何も知らぬと答へた。この回答を受けるや、私が今認知するヨシワラ・ミカミ及び私は認知出来るアヅマとスギハラ・ヒクル中尉とが腰掛けに縛られた私の義父を棒で殴りはじめた。彼等は私をも平手で打ち、足で蹴り、約1時間後私は釈放されて、帰宅を許された。
同夜9時頃、彼等は再び私を呼び出して、私を投獄した。其処で私は1室に連れて行かれ、其部屋で私は私の夫に会った。私の面前で3人の日本人アヅマ、ミカミ及びスギハラは私の夫を失神する迄棒で殴った。彼の身体の傷口から血が流れ出ていた。彼等はそれから私の夫を蘇生させる為に湯と水とを掛けた。それから彼等は英国人に通信したことを自白せよと、彼に求めた。彼は其れを拒絶した。彼が彼等の要求に応ずることを拒絶するや、彼等は若し彼が自白を拒絶し続けるならば、彼等は同じ形式の拷問を私に施すと言った。彼が再び拒否すると、彼等は私の夫の面前で私を棒で殴った。
此の後彼等は私を別室へ連れて行き、其処で私は私の着物を脱がせられ、手を私の頭の上高く揚げさせて縛り、私の脚を開かせた。ミカミは其れから点火した蝋燭を私の脚の間の腰掛けの上に置いて、私の陰部を焼いた。彼等は其れから私に対して私の夫に就ての訊問を始めたが、私は其事に就て夫達は何もしなかったし、又私は何も知らないと答へた。彼等は其れから無線電信機と覚しき物を示して、彼等が其を私の家で見つけたと言ひ、更に私に「私の夫、義父、ナラヤン・ラオ、スカール・カン、チホータ・シング、アタール・シング及びスレーン博士等が此の器械で英国人と通信して居た」と言はなければならないと言った。是に対して私は其器械は私の家に在ったものではなく、又私は其れに就て何も知らないと答へた。彼等は私を釈放して、私の着物を呉れて、私を別室に行かせた。
約25分後、彼等は私を呼んで、被告人の全部7名(私の夫と義父を含む)が英国人に通信を送って居たと自白し、又証人も同様に述べたと言った。而して彼等は私に何故私が犯罪事実を認めないかと訊ねたが、是に対して私は彼等は拷問を受けた為に是等の事を述べたかも知れないが、私は其事に就て何も知らないと答へた。彼等は尚も私に若し私が彼等(7名の被告人)が英国人に通信を送ったと言ふ自白書に署名すれば、彼等は私の夫も私も双方とも釈放してやると言った。私は再び拒絶したが後になって彼等は私を釈放し、私が家に帰る事を許した。
私の夫は後になって銃殺された。

第5 アンダマン諸島
<資料22> Docp5116
アブダル・カリークの寡婦ザイトウーン・ビビの取り調べ概略
住所 ポート・ブレア、アバディーン村
正式に宣誓して陳述す。
私は年齢24歳、印度国籍そしてポート・ブレアで生まれた。本籍は私が現在住して居るアバーディーン村である。
1943年1月中に私の夫は逮捕され、投獄された。翌日私も亦投獄された。是は3日間続いたが、私には生後2ヶ月の息子が居たので、毎晩帰宅することを許された。
私が監獄で過ごした期間中、私は認知出来る海員アヅマ・スエオから私の夫(アブダル・カリーク)、私の義父ナラヤン・ラオ、スカール・カン、チホッタ・シング、アッタル・シング及びスレーン博士等が何らかの方法で英国人と通信し得るか否か問はれたが、私は是に対して何も知らぬと答へた。この回答を受けるや、私が今認知するヨシワラ・ミカミ及び私は認知出来るアヅマとスギハラ・ヒクル中尉とが腰掛けに縛られた私の義父を棒で殴りはじめた。彼等は私をも平手で打ち、足で蹴り、約1時間後私は釈放されて、帰宅を許された。
同夜9時頃、彼等は再び私を呼び出して、私を投獄した。其処で私は1室に連れて行かれ、其部屋で私は私の夫に会った。私の面前で3人の日本人アヅマ、ミカミ及びスギハラは私の夫を失神する迄棒で殴った。彼の身体の傷口から血が流れ出ていた。彼等はそれから私の夫を蘇生させる為に湯と水とを掛けた。それから彼等は英国人に通信したことを自白せよと、彼に求めた。彼は其れを拒絶した。彼が彼等の要求に応ずることを拒絶するや、彼等は若し彼が自白を拒絶し続けるならば、彼等は同じ形式の拷問を私に施すと言った。彼が再び拒否すると、彼等は私の夫の面前で私を棒で殴った。
此の後彼等は私を別室へ連れて行き、其処で私は私の着物を脱がせられ、手を私の頭の上高く揚げさせて縛り、私の脚を開かせた。ミカミは其れから点火した蝋燭を私の脚の間の腰掛けの上に置いて、私の陰部を焼いた。彼等は其れから私に対して私の夫に就ての訊問を始めたが、私は其事に就て夫達は何もしなかったし、又私は何も知らないと答へた。彼等は其れから無線電信機と覚しき物を示して、彼等が其を私の家で見つけたと言ひ、更に私に「私の夫、義父、ナラヤン・ラオ、スカール・カン、チホータ・シング、アタール・シング及びスレーン博士等が此の器械で英国人と通信して居た」と言はなければならないと言った。是に対して私は其器械は私の家に在ったものではなく、又私は其れに就て何も知らないと答へた。彼等は私を釈放して、私の着物を呉れて、私を別室に行かせた。
約25分後、彼等は私を呼んで、被告人の全部7名(私の夫と義父を含む)が英国人に通信を送って居たと自白し、又証人も同様に述べたと言った。而して彼等は私に何故私が犯罪事実を認めないかと訊ねたが、是に対して私は彼等は拷問を受けた為に是等の事を述べたかも知れないが、私は其事に就て何も知らないと答へた。彼等は尚も私に若し私が彼等(7名の被告人)が英国人に通信を送ったと言ふ自白書に署名すれば、彼等は私の夫も私も双方とも釈放してやると言った。私は再び拒絶したが後になって彼等は私を釈放し、私が家に帰る事を許した。
私の夫は後になって銃殺された。
