さてさて、昨日春日武彦先生の話をしたが、この春日先生という人は精神医学の入り口に非常にありがたい存在として輝いている。
何しろ実務経験バリバリの精神科医である。実務に即した著述には定評があり、関係者の教科書としては非常に評価が高い。かつ、精神医学書にとどまらず多くの小説がその著述に引用され、別に精神医学の関係者じゃなくても、読んでいるだけでおもしろい。
本のタイトルもなかなかにセンスが良く、昨日の「屋根裏に誰かいるんですよ」の他にも「ロマンティックな狂気は存在するか」「私はなぜ狂わずにいるのか」「不幸になりたがる人たち」「17歳という病」等々、何かこう、興味を引かれるタイトルの著作が並ぶ。
で、某掲示板とかでサイコパスだなんだかんだと喜ぶ人たちにとっては、多分「ロマンティックな狂気は存在するか」というのはグッとくる問いかけだと思う。多くの人が、狂気って妄想って何なのさと言われても、実際に触れたことはないわけだからね。
ぬたりは過去に幸か不幸かそういうものに触れたことはある。もちろんぬたりは精神科医でもなきゃ心理士でもない。そんなぬたりが出来ることは彼らのすることを見てるだけが関の山。まあ、専門的な仕事に見合う給料ももらってなかったからやる義理もなかったが。
とは言え門前の小僧が経を読んでも不思議ではないように、ぬたりもそういう人たちの妄想に触れることはあったし、彼らの会話の相手を務めなきゃなんないこともあった。そして悟ったのは、彼らの妄想は実につまらないと言うこと。最初のうちはそれなりに興味をそそられたりもするけれども、2、3件も聞いてると底の浅さにあっという間に気づく。まあ学会の症例発表がつきないくらいには珍しい症例はあるんだろうし、春日先生の本にもいくつか珍しい症例が載っている。けれどもこれは珍しいからこそ症例たり得るんであって、そこまで多くを語れるほど現場に居合わせたわけじゃないぬたりはそんな経験はない。まあ、居合わせたとしても守秘義務ってもんがあるからこんなところで語れはしないが。
そもそも妄想ってのは、精神疾患で引き起こされる不安を説明するために生み出されるものである。人間の脳の性能というのは実際相当に高いから、ある程度の物語は作れるのだが、いかんせん彼らには余裕がない。病気から来る不安感は、今にも地面が割れてその地割れに飲み込まれてしまうかのような不安感、とも言われるわけで、そんな状態で考え出す物語に、深みなんか求める方が間違っている。
彼らにとって妄想とは不安感から少しでも逃れるためにすがるもの。だから物語はある程度は陳腐な方が逆にすがりやすいわけよ。自分が特別な存在(だから狙われる不安がある)、他人が悪事を自分に向けて行う(だから狙われる不安がある)、突き詰めれば、概ねどちらかに収斂されるのよね。それを説明する言語が、各自違ってくるってだけ。それを研究するなら症例は多いに越したことはないが、ぬたりは研究者じゃねえしな。少なくともぬたりはほぼ興味をそそられるような妄想に会ったことはない。
そもそも、妄想自体は別に精神疾患に限ったことじゃない。口には出さないけど誰でもみんなするもんだ。精神疾患の無理解は別に日本に限ったことじゃないけれども、妄想、幻覚といったあたりを特別視すること自体が本来おかしい。前述のように生まれてこの方妄想したことない人なんていないだろうし、幻覚にしたって、4日も寝ないで過ごしていれば、健康な人だって多かれ少なかれ経験するもんである。特別なもんじゃなくて疲れればほとんどの人に起こる症状なのよ。その症状をもって特別視するのはおかしいでしょ。
何しろ実務経験バリバリの精神科医である。実務に即した著述には定評があり、関係者の教科書としては非常に評価が高い。かつ、精神医学書にとどまらず多くの小説がその著述に引用され、別に精神医学の関係者じゃなくても、読んでいるだけでおもしろい。
本のタイトルもなかなかにセンスが良く、昨日の「屋根裏に誰かいるんですよ」の他にも「ロマンティックな狂気は存在するか」「私はなぜ狂わずにいるのか」「不幸になりたがる人たち」「17歳という病」等々、何かこう、興味を引かれるタイトルの著作が並ぶ。
で、某掲示板とかでサイコパスだなんだかんだと喜ぶ人たちにとっては、多分「ロマンティックな狂気は存在するか」というのはグッとくる問いかけだと思う。多くの人が、狂気って妄想って何なのさと言われても、実際に触れたことはないわけだからね。
ぬたりは過去に幸か不幸かそういうものに触れたことはある。もちろんぬたりは精神科医でもなきゃ心理士でもない。そんなぬたりが出来ることは彼らのすることを見てるだけが関の山。まあ、専門的な仕事に見合う給料ももらってなかったからやる義理もなかったが。
とは言え門前の小僧が経を読んでも不思議ではないように、ぬたりもそういう人たちの妄想に触れることはあったし、彼らの会話の相手を務めなきゃなんないこともあった。そして悟ったのは、彼らの妄想は実につまらないと言うこと。最初のうちはそれなりに興味をそそられたりもするけれども、2、3件も聞いてると底の浅さにあっという間に気づく。まあ学会の症例発表がつきないくらいには珍しい症例はあるんだろうし、春日先生の本にもいくつか珍しい症例が載っている。けれどもこれは珍しいからこそ症例たり得るんであって、そこまで多くを語れるほど現場に居合わせたわけじゃないぬたりはそんな経験はない。まあ、居合わせたとしても守秘義務ってもんがあるからこんなところで語れはしないが。
そもそも妄想ってのは、精神疾患で引き起こされる不安を説明するために生み出されるものである。人間の脳の性能というのは実際相当に高いから、ある程度の物語は作れるのだが、いかんせん彼らには余裕がない。病気から来る不安感は、今にも地面が割れてその地割れに飲み込まれてしまうかのような不安感、とも言われるわけで、そんな状態で考え出す物語に、深みなんか求める方が間違っている。
彼らにとって妄想とは不安感から少しでも逃れるためにすがるもの。だから物語はある程度は陳腐な方が逆にすがりやすいわけよ。自分が特別な存在(だから狙われる不安がある)、他人が悪事を自分に向けて行う(だから狙われる不安がある)、突き詰めれば、概ねどちらかに収斂されるのよね。それを説明する言語が、各自違ってくるってだけ。それを研究するなら症例は多いに越したことはないが、ぬたりは研究者じゃねえしな。少なくともぬたりはほぼ興味をそそられるような妄想に会ったことはない。
そもそも、妄想自体は別に精神疾患に限ったことじゃない。口には出さないけど誰でもみんなするもんだ。精神疾患の無理解は別に日本に限ったことじゃないけれども、妄想、幻覚といったあたりを特別視すること自体が本来おかしい。前述のように生まれてこの方妄想したことない人なんていないだろうし、幻覚にしたって、4日も寝ないで過ごしていれば、健康な人だって多かれ少なかれ経験するもんである。特別なもんじゃなくて疲れればほとんどの人に起こる症状なのよ。その症状をもって特別視するのはおかしいでしょ。
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