松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

槇原敬之を弁護する。

2014-09-19 03:40:58 | 日記・エッセイ・コラム

gooブログに引っ越して2週間。読者の数は変わらず30人前後のようです。

私があえて、カウント数を入れている理由は、この貴重な数字を覚えて欲しいからです。

分母が200万のうちの5~6万だったら、自分ではまあまあの数字だと思ってます。

それより地球上で、いえ、宇宙からのぞき見しているかも知れない人も含めて、

その中の30人と言えば、エリート中のエリートです。こんな訳の分からないブログに

付き合って下さる方は、自信を持って結構です。私も無駄に数字を増やそうとも

思っておりません。

さて、今を去ること15年前のことで、ごぜえますだ。世の中は、総力を挙げてマキハラを

葬り去ろうと、したのでございます。文中「アコーディオン」とあるのは、「バンドネオン」の

ことでございます。

              槙 原 敬 之 を 弁 護 す る

 槙原敬之の「Hungry・Spider」は名曲です。哀愁を帯びた、いつかどこかで聞いたような懐かしいメロディの、アコーディオンをバックに歌う名曲です。ベスト10に入ってきた頃、とても気に入っていて、息子が買わなくても自分でレンタルに行こうと思っていました。そこへ突然のあの事件です。その日レコード屋へ(CD屋というのかな)行ったらまだ回収されずにありました。次に行った時、もうありませんでした。でもレンタル版はありました。
 詩は暗いと言えば暗い、陰鬱な毒のある歌詞です。そこがいかにも、覚せい剤にむしばまれた様で人はこの曲を抹殺しようとするのでしょう。でも状況はどうでも出来た物は名曲であることに変わりありません。ベン・ジョンソンの記録が間違いなく人類が自分の足で走った最速の記録であったように。
 槙原は自分で作詞もし、曲も作るアーティストです。芸術家が必ずしも一般人の規範にならなければならないとは私は思いません。むしろ、芸術家は「ぶっとんでいる」のが普通です。ということはわれわれが期待しているのは、芸術家の日常生活における常識ではなく、普通でないこと、なにかをしでかす能力であると言ってもいいのではないでしょうか。
 私は芸術家なら覚せい剤をやってもいいと言っているのではありません。後戻りの効かないもの、法律で禁止されているものはやはりいけません。私の青春時代を支えたバンドにピンク・フロイドと言うのがあります。彼らの曲はすべて名曲ですが、どの曲も普通の正常な精神状態で作られたようにはどうしても思えません。「原子心母」の弦楽器の奏でる主題、音符に出来るのかなあと思うくらい滑らかな音階。「ECHOS」の、精神病患者のリハビリにでも出て来そうな、瞑想状態を誘発しそうな長いイントロ。「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」だってそうです。事実、初期のメンバーは薬(ヤク)にラリってあちらの世界へ旅だってしまいました。
 彼らは薬の力を借りて、自分の無意識の世界と通信していたのかも知れません。もっと力のある人間なら薬の力を借りずとも、覚醒しながら自分の無意識と会話できるのかも知れません。喜びを得るのに薬を使うことは最も簡単なことです。薬がなくとも、相手がいれば同じ喜びを得る事が出来るかも知れません。相手がなくとも一人でも喜びを得る事はできるはずです。
 私は日本にいながらにして、マリファナならいいだろうとか、覚せい剤ならだめだとか主張することは出来ません。ただ出来たものはすばらしい名曲だし、作った人間やその過程を葬り去ることは出来ても、曲そのものを葬り去ることは出来ない。できたものによって、われわれは感動を受けているのだし、感動する権利を妨害することは誰にもできない、そのことを言いたかったのです。

この時、ひとりの、中学生の受験生を持つ母親から、反応がありました。

私の娘もこの曲と槇原が好きで、世の中の動きに違和感を感じておりました。

あなたの文章で、娘も勇気づけられました。みたいな内容でした。

その時、私は、「ペンは、剣よりも強し」という言葉を思い出しました。

まさにペンの力を感じた瞬間でもありました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エイズの起源 | トップ | 食欲の秋は、舌の使い方が大事。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事