山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

3週間もお休みして失礼しました

2013年04月04日 17時31分30秒 | Weblog
 ブログを見ていただいているみなさん。3月15日から3週間も休止状態をつづけて申し訳ありませんでした。
 きっと何かあったにちがいないと思われたでしょう。じつはそうなのです。
 私の身の回りに2つの大変なできごとが起きてしまいました。その事情をご説明します。
 
≪そのひとつ≫
 3月15日(金)午前3時10分、わたしはまだ起きていて2階のリビングのテーブルで文章を書いていた。ゴーという音がした。変な音だと思いながらも、エアコンが変に作動して音を出したのかと自分を納得させた。ところが、1分もたたないうちに、隣の部屋で寝ている妻が「大変、隣の家が燃えてる!」と飛び込んできた。裏側のガラス戸から見るともう火の手が上がっていた。3階で寝ていた娘もびっくりして降りてきた。
 手分けして、すぐに119番に通報。わたしはホースで3階の窓から消火活動をしようと思った。家の外の水まき用の蛇口からホースを引っこ抜いて、2階台所の蛇口に差し込もうとしたが、昔風の蛇口ではなかった。極太蛇口だ。ならば、バケツで水をかけようと下からバケツをもってきて水をためながら、3階の窓から様子を見ようと上がった。すると、ボーンという爆発音とともに太い火柱が吹きあがった。ああ、もうバケツで消火というレベルではないと悟った。
 3階には大事な資料、とくに北野定時制の戦時中の資料コピーが大量に積み上げてあった。また大阪の学校史関係資料も保管していた。これを避難させなければとまず窓際の、関係の本とコピーをひとかかえ室外にもちだした。どんどん持ち出そうと中に入ると、なんと、強い火柱にあおられて窓ガラスがドーンと内側に砕け散った。熱風地獄だ。ああ、もうダメだ。もうおしまいだ。もうあきらめるしかないと思った。ドアを閉めて退去を決めた。
 筆入れにUSB3本を入れ、今作業をしている新聞切抜き資料、雑誌論文などをリュック・紙袋に詰めて、避難体制に入った。持ち出すべきはなにか。持ち出したいものは山のようにあるが、まったく不可能。どうしよう、どうしようと思ったが、結局、いまやっているものと、2009年以降の分を入れているUSBと銀行カード類、車のキーだけを持って出た。ジャンパーも持って出た。外に避難したのは3時20分少し前だった。
 私の家は30年前新築の時、隣の家の側に窓をつけないでくれといわれ、3階の部屋の窓以外は明り取り用の窓で、ほとんど壁面に覆われている。隣の家は相当古い、木造2階建ての大きい家だったが、いまは空き家状態に近かった。どういうわけか都市ガスではなくプロパンガスを使っていて、私の家のすぐ近くに3本ほど大型ボンベがあった。ほとんど残っていなかったようだが、それでも爆発をくりかえす原因になった。ボンベのある後ろの方がひどかった。
 消防車はすぐにきて、20台以上が連結して建物の前から、後ろから放水した。消防隊は私の家にもどんどん入り込んで、2階、3階のベランダから消火活動をした。その結果、3階の燻煙状態の部屋は焦げるとともに水浸し、2階の2部屋は畳がダメに、去年入れた床暖房がダメ、布団・衣類は水浸し、天井から、電気系統から水がしたたる、壁紙はくろずむ、テレビ・電話ファクスはダメ、エアコンはダメ、階段のカーペットはダメ、床板は一部反り返る、テレビのパラボラアンテナは溶けるという具合だ。建物は軽量鉄骨耐火壁なので、激しい炎にもかかわらず、持ちこたえた。それでも、隣の家側の外壁は黒焦げ、反り返えり、一部は落下した。わたしの家の中で水を撒いたわけではないだろうが、外の消火ホースをみると劣化した部分から水が噴き出ていたから、家の中でもさぞかし消防ホースから水が噴き出ていたのだろう。小さい窓も炎で割れ、水が吹き込んだ。
 消防の消火活動はありがたいが、消火の足場にされた家の被害はかえりみられることはない。私の家は激しい炎にさらされ、3階の奥の部屋は高温燻煙状態で事実上焼けたが、一部延焼にとどまった。この部屋の再建、外壁の再建、天井・床・畳・壁紙・電気系統の修理等でかかる費用は500万円におよぶだろう。さらに3階の本棚は溶けたようになり、その他家具・布団・衣類も水浸しだ。もちろん火災保険に入っている。だがどこまで出るか微妙なところだ。
 隣の家は古い大きな木造2階建て家屋で、3年ほど前にも火災を起こしていた。その時も我が家のベランダを伝って消火活動がおこなわれた。今度、3階で激しい炎を見たとき、うわあ、またやったかと、怒りを覚えた。

≪その2≫
 3時20分頃、着の身着のままで3人で逃げ出した。少しして家の前の車も避難させた。これはよかった。放置したら車も被害をうけていた。
やじうまの人だかりがすごい。警察が立ち入り禁止のテープをはってわれわれを遠ざける。離れて見守るしかない。町会長さんも心配してずっと付き添ってくれた。
 火災は、通りに面した方よりも、裏側のガスボンベのある方がつよい。裏の様子を見ようと、30分ほどしてから、ぐるりと大回りをして裏側に回った。裏は会社の倉庫とその駐車場、公園がある。消防隊が机に図面を広げて指揮をしていた。すでに火の手は収まったが、ときおり燃えあがっていた。白い煙が数十メートルも立ち上がっていた。ひとしきり見ていたが、寒くなったので戻った。途中、コンビニで水を買った。
 着の身着のままで1時間半も寒空に立っていたので体が冷えた。この日はとくに寒い日だった。5時ごろから胸が苦しくなった。真ん中の骨のあたりが痛くなった。手でさすった。立っておれないほどではなかったが苦しかった。寒いためだろうと思い、車の中で休もうと思った。進入禁止のテープが張ってあったが、車の方へ行こうとしたら、警官に止められた。事情を話し、車で休みたいといったが、警官は腕を広げて通そうとしない。もう、やじうまは誰もいない。震えながら立っているのはわが家族だけだ。胸が苦しいから車で休ませてくれといっても、警官はガンとして聞かない。むりやり通って、車に入った。エンジンをかけ暖房を入れた。妻に温かいお茶を買ってもらって、胸の骨に当てたりした。そして飲んだ。少しほっとした。妻が救急車呼ぼうというが、いや大丈夫、いけるなどといって胸をさすった。よくなるかと思ったが、変わらず、吐き気も覚えたので、決心して救急車を呼んでといった。周りは消防隊員がいっぱいなのですぐ伝わる。救急車は初めから向こうの方に待機していた。5時20分頃頼んだ。救急隊員の方から体の状況をきかれた。やがて救急ベッドが運ばれてきて乗せられた。150mあまり先の救急車に収容され、しばらく待機した。ますます痛く苦しくなってきた。行き先が決まった。西区の掖済会(えきさいかい)病院だ。近い。この病院は、大学生のころ西区阿波座で新聞配達をしていたのでそのころから知っている。救急車が動き出した。信号や右折左折でスピードを緩めるとき頭が割れそうになった。頭に血がのぼって我慢できない痛さだ。初めての救急車体験。道はわかっているので今あそこを曲がった、あとは一直線だと計算しながら我慢した。病院について3階のカテーテル検査室に運び込まれた。看護師さん4人くらいで、1,2,3の合図で手術用のベッドに乗せられた。壁の時計を見ると6時5分頃だった。胸の痛みはどうですか、最初に比べてどうですかと問われたので、最初が10だとしたら7くらいですと答えた。酸素吸入器がつけられた。苦しいので激しく呼吸をすると、ゆっくり深くしなさいと言われた。それでも激しくなる。
 いくつか検査をして、カテーテル手術を行うと告げられた。苦しいので思わず、早くしてください、溶かす薬を入れてくださいと訴えた。服をぬがされ、裸にされた。手術の準備がすすめられる。寒いと訴えると、ちょっと待ってくださいねといわれ、やがてシートをかぶせてもらう。看護師さんが、剃毛しますといって、前を剃りはじめた。恥ずかしいといっている余地はまったくない。さらに、自動的に尿を排出するために、尿道にチューブが差し込まれた。すこしずつ差し込んだが、これが痛かった。
 早朝なのでまだ手術スタッフがそろっていない。呼び出しで7時にもう一人の先生が到着したようだった。7時10分からカテーテル手術がはじまった。足の付け根の血管にカテーテルを差し込むところ、その周りだけ麻酔がされた。あとは麻酔なし。だからすべて見えるし、聞こえる。しかし苦しい。到着した時から検査・治療にあたってくれたのが女性のT先生。おとこの先生が到着し2人で手術だ。
 脚の付け根の血管から心臓までカテーテルが挿入され、詰まった血管の血栓をとりのぞく。この手術では心臓の下部まで覆っている血管の入口あたりとそのすぐ先の2か所にステントをいれた。長さ1・5センチ、2センチくらいの金網のようなものだと思うが、これを入れ、中にバルーンをいれて膨らまして定着させる。バルーンを膨らます時がとても苦しかった。ヘリウム(だったと思う)、15気圧、30秒という声がきこえた。膨らますと胸が死ぬほど苦しくなった。痛い、痛いと訴えた。何しろ心臓の血管がバルーンで100%閉じられたのだから。苦しいのを1,2,3、と数をかぞえたら、100をこえてしまった。目を開けていたが、黄緑色の雲と桃色の雲が目の前に交互に現れた。脇腹の脂肪をつまんで耐えた。手術中、足を動かさないようにといわれていた。右足はカテーテルが入り、足は押さえられている。左足が緊張からぶるぶるっとなんども震えた。カテーテルが先に進んで血栓を吸収していく。先生が楽になったでしょうといってくれるが、すこし楽かなという程度でやはり苦しい。結局8時半に、カテーテル手術は終わった。疲れた。先生も緊張で大変だっただろう。
長い浴衣のようなバスローブのようなのを着せられ、6階の集中治療室に異動した。1、2,3の掛け声でシーツをもってベッドに移された。ナースステーションの前だ。ステントが入ったのでそこで血小板が固まらないように血液をサラサラにする薬の点滴、酸素吸入、心電図とホース、コードでいっぱいだ。
 足を動かさないように、右足首がベッドにしばりつけられた。これから絶対安静状態だ。困ったのは、暑いことだった。聞くと室温は26度。暑いと訴えると、27度の冷房にしてもらったのがいちばん良かった。ベッドはテレビで宣伝するパラマウントベッドで2日目からは持ち上げてもよくなった。自分で起き上がるのはダメだが、ベッドで起こすのは許された。心臓に負担を与えないように。ただ、このベッドは体温がこもって暑い。夏の布団で暑くてたまらないのと全く同じ。このベッドは柔らかく、おしりは落ち込む、体は落ち込む、落ち込んだ部分が夏の布団のように暑い。暑いので体の右側を、左側をと順に起こして冷やそうとしたがほとんど効果なし。たまらず暑いと訴えた。
 もう一つ困ったのはうんこだ。私は毎日決まってうんこをする。繋がれたままだからうんこができない。聞くとおしめの中でするか、ベッドの上でおまるにするとのこと。どうにもその気になれない。3日くらいなら我慢しようと思った。集中治療室には4日間いたが、4日目の夜たまらずお願いした。おまるにトイレットペーパーを敷いてうんこをした。大量に出た。看護師さんには申し訳ない。とんでもなくくさいものの世話をさせて。赤ちゃんのうんこはにおいが少ないけど、じじいのうんこはたまらなくくさい。
 CCUでは看護師さんに暑いタオルで体を拭いてもらった。あたたかくて気持ちよかった。大学時代の友人が見舞いに来てくれたとき、ICUにという話が出たが、いやCCUて書いてあったよと訂正した。しかし後で看護師さんに聞くと、心臓の集中治療室をICUのなかで特別にCCUというのだと教えてもらった。
 翌日午前、点滴、酸素吸入がおわって一般病室にうつった。心電図は24時間電波で飛ばす方法にかわった。移動のとき車いすに乗せられた。歩いていきますといったのだが、車いすに乗せることになっているとのことだった。初めての車いす体験だった。6階の集中治療室から同じ階の病室へのちょっとした移動だった。
 病室に移ってからは、熱いタオルをもらって自分でふくようになった。病室4日目から入浴が許可された。うれしかった。頭がかゆくて仕方なかったから。
 病室に移ってからは、点滴ではなく錠剤による投薬に変わった。主なものはステントの所が血小板で固まらないように血液をサラサラにする薬だ。心筋梗塞で血流が止まった結果、心臓がダメージをうけた。どれだけ壊死しているかはわからないそうだが、たしかに影響はのこる。その結果、不整脈がたびたび出るようになった。不整脈でびろびろになった血液が脳に飛んで脳血栓を起こす危険性が出てきたので、それを防止する薬ものむようになった。そんなこんなで朝夕たくさんの薬だ。飲み忘れはいけない。
 大阪掖済会病院の豊島先生のおかげで命がよみがえった。掖済会の掖済(えきさい)の意味は、わきに手を添えて助けるという意味だそうだ。先生に心筋梗塞はじわじわとおきるのですかと聞いたら、ストレスなどで急におきることがあるとのことだった。コレステロールがたまって動脈硬化がすすんでいたことは確かだが、火災から逃げる時にもっとたくさん着込んで逃げればよかったと悔やまれる。
                                                        (3月23日)

 2回目のカテーテル治療をしたのち、4月4日、退院した。病院の入り口に全医師の名前があった。心臓内科の常勤医師だけで6名も書かれていた。おかげで、娑婆に復帰できた。
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2 コメント

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Unknown (中国迷爺爺)
2013-04-04 18:47:44
 長らく更新されないので、どうしたのかと心配しておりました。大変なことでしたね。
 その後いかがでしょうか。お見舞い申し上げます。それにしても警官の態度には呆れました。何を考えているのでしょうか。
 当分ゆっくりお休みください。
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よくぞ戻られました。 (白ワイン)
2013-04-06 16:04:42
何が何時起こるか、本当に解らないものですね。
まさか、いつも世のため人のため、生徒達のために奮闘しておられる、山上先生の身の上にこんな災難が降りかかるとは…
本当に、良くぞお戻りくださいました。
お帰りなさい。
きっと今後は、教育の現場だけでなく、今まであまり関わらなかった、消防や警察組織、医療、老人介護などにも思いを馳せられるのではないでしょうか?
楽しみにしております。
無理をなさらず、ぼちぼちとブログをお続けください。
山上先生ファイトォ!


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