101年目の関東大震災の記念日を迎えた。警察、自警団などによって、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだという流言飛語を利用して、6000人にもおよぶ朝鮮人が虐殺された。日本人の社会主義者も虐殺対象とされた。
1974年から追悼碑が建てられ追悼式典が始まった。当時の美濃部知事から歴代知事が追悼文を送ってきた。あの右翼の代表の石原知事も送った。ところが小池百合子知事は8年連続で追悼文を送らない。小池氏は震災で「犠牲になったすべての方々に哀悼の意を表す」から送らないのだという。自然災害での犠牲者と権力が起こした朝鮮人虐殺を同列にあつかうというやり口で朝鮮人虐殺を歴史の闇に葬ってしまおうとの意図がありありだ。
自国が犯した民族的偏見による殺害であっても、これを清算し、二度と繰り返さないという態度を確立することで国際社会、未来社会に堂々と向き合うことができる。ところが、小池百合子氏らの歴史修正主義者は事実を認めて反省するということから逃げ回っている。歴史に向き合わない小心者だ。自らの過去の過ちを認めることは、己の価値を低めるどころか、信頼を増すことにつながる。
まちがいをおかした少年たちが成長していく過程では、何が間違いだったのかを自らふり返り、あるいは教えられて大きくなっていく。それは決して恥ではない。おおくの人がたどっていく道筋だ。国家とて変わりはない。いまでこそ民主主義国家といっているが、かつては人権を無視した権力行使、植民地支配をしてきた。日本だけでなく欧米諸国の多くがそうだ。その過程での間違いを正す勇気を持つことが、尊敬を集めることにつながる。
その勇気をもたず、事実をなかったかのように隠し、問われても答えず、「なにが事実かは歴史家がひもとく」とごまかしてきた。だが歴史家はもう十分にひもといてきた。この1年だけでも事実の発掘と研究は大きくすすんだ。問題は、権力者の小池氏がひもとかれた事実から目を背けているだけなのだ。
知事選の時でも公務が忙しいと屁理屈をこねて討論会から逃げた小池氏だ。イメージ捜査はうまいが、討論ができない。記者会見でさえ自由な応答をさせない。8年間も非常識をつづけている朝鮮人大虐殺問題でも本格的な討論や意見表明を彼女はしたことがない。逃げたまま、歴史修正主義を振りまいている。
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