山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

三國連太郎さんの生き方と社会科教材

2010年05月24日 19時23分15秒 | Weblog
 三國連太郎さんは大好きな俳優さんのひとりだ。『朝日新聞』2010・3・29から夕刊に連載で三國さんがとりあげられた。
 私は、三國さんの徴兵忌避に関心を抱いてきた。高校「現代社会」の教材にも取り上げた。
 『朝日』では、中学校を中退したあとの中国への密航、釜山での弁当売りの仕事、大阪での工場勤めが紹介される。その後、故郷の下田で兵隊検査を受ける。

「合格。とっさに『戦争で死ぬのはいやだ』と思った。『大陸に行けば生きながらえる』と考え、佐賀の呼子へ行き、海峡を渡ろうとしたのです。不孝をわびる手紙をお袋に出しました。数日後、刑事に捕まり、家に連れ戻され、入隊させられました。町の人は『万歳』と見送ってくれましたが、おやじは僕のところに来て『必ず生きて帰って来い』と。お袋は面会にきて『一家が生き残っていくためには、お国のためにご奉公をしてくれ』と切ない声で訴えかけました」
 大陸では「敵に襲われ、安全装置を外すことを忘れて撃てなかった。戦地で実弾を一発も撃たなかった。3歳上の班長が『生き残るには仮病を使え』と言い残して、南方へ移動していきました。体温計をこすって微熱があるようにして陸軍病院に送られた。『おかあちゃん』と言い残して亡くなる兵隊もいました。『何のための戦争か』と疑問は増幅しました」

 実弾を一発も撃たなかったことをはじめて知った。
 徴兵を忌避して逃げていたのを母親が警察に通報したために、三國さんは捕まった。三國さんは、有名俳優として多忙を極めているいる時、父親の危篤に際して、仕事をキャンセルしたかけつけた。その後、母親が亡くなるときにはかけつけなかった。若い日の母親との関係が影を落としていた。
 今から25年以上前、私は、戦争を考える教材として使った。岡山大学の入学試験に三國さんの徴兵忌避と母親との関係が問題文として出題された。それを使わせてもらったのだ。  『サライ』という雑誌がある。創刊当初定期的に読んでいた。そこに戦争にとられそうになった息子を戦地に行かせないために、母親が息子の目に針を突き刺して徴兵逃れをさせようとした話が紹介されていた。三國さんの母と対比させて教材にしようと考えたこともあったが、さかのぼってその『サライ』を見つけるに至らず、教材化は断念した。
 先日、大阪歴史教育者協議会から『大阪の歴史教育』第43号(2010・5)が送られてきた。そのなかに、仲森明正さんの「日本近現代史の授業実践 ―『島国ナショナリズム』の克服をめざして―」があった。仲森さんは歴史教育のすぐれた実践家だ。実践報告では、2学期末考査の「別掲の『息子を売った母』を読み、この時代に君が生きていたとしたら、息子と母のどちらの行動に、より共感できるか。『1息子、2母、3どちらにも共感できない』の3つの内から選び、その理由を時代の状況にふれながら120字から150字の範囲で論述しなさい。」という論述問題と、おもな意見が紹介されていた。
 三國連太郎さんの生きた道は、のちの人間が日本の戦争を主体的に考えるすぐれた教材となっている。また俳優としての生き方も学ぶところが多い。
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