無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

新潟地震1964

2017-07-14 13:13:53 | 防災

東京オリンピックで全国が湧き上がっていた1964年の6月16日13時1分、新潟県粟島南方沖の海底、震源の深さは40Km 、マグニチュード7.7の地震が起こった。酒田での震度は5と発表されたが、現在のような細かい区分けの基準とは少し違う。酒田でも、南部を中心に被害を受けた。

「新潟地震酒田市災害記録(抜粋)」と呼ばれる簡単な冊子が手元にあった。写真を眺めているだけで、大変だっただろう当時が偲ばれる。その頃私は中学生で、酒田の中心部や第一中学校には被害は及ばなかった。電気も水道も止まり、送電は2-3日で復旧したが、上水道は2週間かかり、夏場に向かって給水車や井戸まで水を汲みに行った事が思い出される。

この記録の写真だけでも、ブログに残しておきたいと思っていたが、実行に移そうとすると、各所の地震に見舞われる。昔の記録よりも現在の地震情報の方が大切で、迫力にも負ける。そんなこんなで延ばしに延ばしていたら、どんどん紙が変色してくる。まちづくりデザインスタジオでも地震と津波の話は出たし、思い切って載せることにした。昭和41年(1966年)3月1日発行、編集は酒田市で非売品になっている。市民の多くは持っている冊子だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと写真が小さかったかなと思う。文字がうまく読み取れない。

被害は抜粋となっている為に、実際の被害はもっと色々な事があったのだと思う。最上川の堤防が決壊して、大宮の辺りが洪水になったのは、この冊子には載っていなくて、人づてに聞いた。地震の時には、津波に注意する他、堤防の決壊も頭に入れておかないといけない。

最後に、庄内地方の大きな地震の歴史の一覧が載っていたのでそれも添付しよう。酒田の大地震は明治の時の話しか聞いてはいない。私の祖父が体験していて、調理中の火が原因で、あちらこちらから火の手が上がり、地震と火災の被害で大打撃を受けたそうだ。地震の被害では瓦屋根の家が潰れた件数が多かった為に、補修や改築などで鉄板にする家が増えたが、やはり海側の地域であった為に、数年後には瓦葺きに戻ったとも聞いている。あの頃の鉄板は、亜鉛メッキやフッ素メッキのない頃で、腐食するのにペンキで応戦するしかなかったのだろう。

1894年以降、庄内は大きな地震に見舞われていない。空白地域と呼ばれる由縁だ。この1894年の地震の5年前に、熊本で大地震が起きたのだと言う。日本列島に住む事は、地震や災害とは縁は切れないことを肝に銘ずるべきだ。

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