無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 人物編 阿部千満太 

2024-03-29 17:59:35 | 歴史

阿部千万太は、文政4年(1821)鵜渡河原(現酒田市亀ケ崎)に、庄内藩足軽阿部多助の子として生まれた。
青雲の志止み難く、江戸に上り東條一堂に入門し、経史や国学を学ぶ。



同門の高弟鳥山新三郎と深く交わり、時事を学び、吉田松陰とも交わったと言う。
嘉永・安政の頃、北辺の外国からの危機を憂いて松前に渡り、幕府に建白書を送った。
上の書物は、阿部千万太が井伊大老と幕府に送った上書草稿3通を収めたもの。
井伊大老へは単なる文章だけでなく、国学的文章(和文)も入っていると言う。


阿部千万太の研究では、この水越主基氏の研究著書が面白い。


阿部千万太の生まれた亀ヶ崎に纏わる諸処が載っている。


江戸や蝦夷地へ行ったりと活躍していた千万太だったが、庄内藩が朝敵の汚名を着せられるのが許せないと、庄内藩に戻ってくる。


そして戊辰戦争に参加する。


戊辰戦争では、新庄にて酒井玄蕃と桂太郎は、刃を交える。
このとき、桂太郎は天下国家を語る阿部千万太を面白い人間と詠んだ。


しかし、阿部千万太は秋田県大曲で、非業な死を遂げる。
桂太郎にもう少しゆとりがあったなら、この間違いのような死は迎えなかっただろう。


阿部千万太の生家だそうだ。道路に立っているのは電柱のようだが、時代背景が分からない。ずっと時を下ってからの絵画なのか。


戊辰戦争の庄内藩のルート、酒井玄蕃率いる一軍と、松森胤保の率いる松山藩の二軍とのルートの違いが見て取れる。


庄内ではそこここに戊辰戦争の跡がある。


交流のあったとされる松下村塾の吉田松蔭。
建物は本当に小さいと言う。


戊辰戦争では、庄内藩とは真逆に徹底的に痛めつけられた会津藩


酒井玄蕃と桂太郎。可愛い顔貌の桂太郎は右上の顔へと変貌する。


大曲に阿部千万太の墓がある。


酒田にある阿部千万太の菩提寺は、小さい寺で墓も小さいと言う。



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