12月8日、飽海地域史研究会の人物講座で「シルバーラッシュに挑む酒田人」~院内銀山奉行日記から~が行われた。
院内銀山奉行は、秋田藩佐竹義宜の家老「梅津政景」で、生まれは宇都宮。
佐竹家が秋田(久保田城)に移動と同時にやってきた。
佐竹家が秋田(久保田城)に移動と同時にやってきた。
彼の日誌は実に詳しい。
江戸時代、日本は黄金の国ジパングと呼ばれ、世界中の国から憧れを持たれていた。
院内銀山は秋田県の南部で、山形県金山町との県境近くにある。
銀山が発見されたのは、1607年で採掘された銀の一部を、1614年に上納銀として988kg納めている。
丁度志村伊豆守が酒田を治めていた時代である。
地震国である日本は災害も多いが、金や銀も多く産出される国だ。
黄金は奥州平泉の黄金堂に代表されるように、東北でも採れている。
1817年、秋田藩直営となり、天保期(1830年~)には日本一の銀産出量となった。
石見銀山は世界遺産ともなり、世界的には有名で、一時は世界の銀の1/3を産出していた。
室町から江戸期に多く産出していたが、現在では取れなくなっている。
室町から江戸期に多く産出していたが、現在では取れなくなっている。
院内銀山には、全国から15000人も人がやってきた。
彼の日誌には、銀山の採掘に集まった全国各地からの人々、それに混じって何名かの酒田人の名前も、事細かに載っている。
彼らは炭窯(銀脈が見つかり掘ることが出来る権利)を持ち、数名の堀子を働かせ、銀を掘った。
院内銀山には、銀を掘る男達の為に町が築かれ、町人商人が集まった。
鍛冶屋、桶屋、番匠、檜物師、湯屋、酒屋、石叩き、板取、傾城屋(遊女)、神官、僧侶、切蕎麦屋、商人がいた。
さながら心霊スポットかと思われる程の雰囲気があり、一人では行けない土地のようだ。
右の門屋の銘のある墓は、ここに留まって怪我人達の治療に応った医者のものである。
見事銀を掘り当て故郷に錦を飾ろうと、頑張った男達や女達、しかしそれも叶わずに院内銀山で生涯を閉じた人々は、
墓地に葬られたが、その数がまた半端ない広さと数である。。
墓地に葬られたが、その数がまた半端ない広さと数である。。
飽海地域史研究会では、初夏の頃にもツアーを組んで院内銀山に行きたいねと話し合っている。
銀は採掘する際に不純物が含まれている。
それを順々に精錬し、純度を高める。
古銭
日本の貨幣で小判と言えば金貨だが、実は銀も多く使われた。
特に酒田は銀使い(大阪などの上方も同様である。)
また、中国も銀使いで、室町幕府は銀を輸出した。
秋田藩には家蔵文書が残っており、秋田藩以外の事も詳しく知ることが出来る。
戦国時代を知るには、必要な古文書がきっちりと保存されている。
梅津政景日記も、秋田県立図書館の脇に公文書館があり、そこに保存されている。
羨ましい限りだ。
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