湘南発、六畳一間の自転車生活

自転車とともにある小さな日常

それが何かはわからないけれど

2007年10月06日 | 日常生活
 音楽なり、本なり、映画なり、そういったものの感想を言うのが僕はあまり得意ではない。その一番の理由は表現力が足りないからなのだけど、本当に強く心を揺さぶられるようなときは、自分でもなぜそんなことになったかがすぐにはわからない場合が多いからではないかと思う。

 理屈抜きに激しく心を揺さぶられることってそんなに多くあるわけではないけれども、それでもこれまでに何度かそういうことはあった。たとえばあるライブでのこと。僕はそれまでそのアーティストのことはほとんど知らなかったし、曲なんかもまったくと言っていいほど知らなかったのだけれども、とにかくそのライブで何かに打たれた。曲が良かったとか、演奏が良かったとかそういうことではなく、そういった感情とは別にこの人はすごいと思った。それが何かはわからないけれども、そこには自分にとって大切な何かがあるように思えた。

 それが何かはかわからないけれども、そこには自分にとって大切な何かがあるといったことを感じると、それがどんなものかやはり知りたくなる。だからそういった体験をしたあとは、熱心にそのアーティストのアルバムを聴いたり、その著者の本を読んだりするようになる。でも結局はやはり彼らの発するどんな部分に心が揺れたのかはわからないことも多い。それはものすごく確かなものではあるけれども、ことばにしようとすればすっと形を変えてしまうような繊細なものなのかもしれない。

 自転車なんかにしても、それが何かはわからないけれども、そこには自分にとって大切な何かがあるように感じるから、ついつい走ってしまうというところもあったりするような気が僕はする。ロングライドなんかはとくにそういう傾向があるのではないか。ロングの魅力のいくつかは簡単にことばで伝えられるものかもしれないけれども、そこにはことばではなかなかうまく伝えにくい何かがあると思うんですよね。たとえば達成感ということばでひとくくりにしようとしても漏れてしまう何かが。そしてそういった結局うまく表現できずに心と体のなかに残る何かが次への走りに駆り立てるような気が僕はついしてしまったりもするのだけど。って、僕はそんなに何度もロングを走っているわけではないけれど(汗)

 ※ところで嬉々としてものすごい距離をあっさり走る(ように見える)人がたまにいらっしゃいますが、そういう人の姿を見ると僕のこういった考えはぐらぐらと揺れたりします。まぁ人それぞれだと思うんですが(^^;

 あくまで僕の場合ですけど、何か嫌なことがあったときって、そういう自分にとって大切な何かについてあらためて考えたりすると気持ちが落ち着いたりします。自分が嫌悪する方向にずるずると気持ちが引っ張られるよりも全然いいですものね。で、そういうときって何かはわからないものの輪郭が少しはっきりとしたりもするんですよね。

 とか何とか言いながら、もちろんそんな穏やかなことを言ってられずに一気に逆上してしまってあとからものすごく反省したり、あるいはあのときしっかりと制裁を加えておいて良かったと思い返すたびに溜飲を・・・ってな話はちょっとまずいな。

 しかしこういったことってやっぱりリアルなお付き合いが増えてくるとなかなか書きづらかったりしますね。あくまで、仮想空間の果ての果て、辺境でのほんのひとり言ですからお気になさらずに。それに自分でも何を書きたいのか、書こうと思ったのかがいまいちわからなくなっていたりもするので。なんか恥ずかしくなってきたな。