10月3日(月)
涸沢から上高地~沢渡まで帰り、山小屋旅館ともしびへ。横尾のテントを撤収しキャリーに多量に残った食料などを積む。天気さえ続けば蝶ヶ岳へも登りたかったがどうもしばらく天気は下降気味。サッサと下山。
上高地の小梨平キャンプ場で一休み。正月にテントを張ったあたりには、やはりテントが張ってあった。
昨夜の大雨は嘘のよう 流木
近くに、毎年半年あまりテントを張り絵を描いておられ方がおられるのでのぞいて見た。45年近くもここで絵を描いておられて、有名人となっている。映画俳優の「竹下景子」さんも訪れておられる。サイン帳に写真入りの記録があった。俳優は、ヨーロッパ旅行の旅先からもこの絵描きさんに手紙を出したりしていた。
ともしびで温泉に浸かり、その後ソバを打つ。正月来の約束なので1㎏ほど打った。このソバは、泊まり客などにも振る舞われた。ここの宿は、色々な人とお話ができて何かと楽しい。
翌4日(火)
早朝に出発して野麦峠に向かう。松江への帰りルートとしては、松本経由にするか、高山経由にするか二通りあるが、野麦の資料館を見たいので高山経由にした。
野麦越え
製糸工場での生糸生産は、当時日本の輸出において大きなウエイトを占めていた。「外貨を獲得して軍事力の増強を図る」、具体的には戦艦を購入することが当時日本の喫緊の課題だったようです。工女達の汗と涙は、結果としてそんな目的のために流されていたわけで・・・。 諏訪地方に製糸工場が多かった理由は、水力というエネルギーが手に入れやすかったとい理由もあります。飛騨側(富山県側)から、北アルプスの裾野を越えて出稼ぎに行く少女達は、当初は農家の「口減らし」対策として、そして製糸産業が外貨獲得の重要な一端をになうようになるに従い貴重な労働力として見られるようになって行きます。「100円工女」とは、最も優秀な工女で、当時米一俵が4円の時代にこれだけの稼ぎを持ち帰る娘を持った農家の親たちはどんな気分だったか。
春に出掛け、冬に帰る。行きも帰りも雪の峠が待っている。
資料館の中の一部。もんぺでも穿けばよさそうなものを・・・。このスタイルでは、吹雪の日は大変です。
右のサインに1979とあります。この頃の大竹しのぶは本当に可愛かった
道祖神 横の穴蔵のようなものは避難所
優秀な工女に与えられた賞状。こんな人はまれでしょうか?
笹の実
野麦とは笹の実のこと。当時の貴重な食料源だったようです。会津磐梯山の歌に、「山に黄金がなり下がる」という一節があるが、この黄金が笹の実のことだとは知らなかった。
野麦峠にあるお助け小屋。当時の復元。高山方面から諏訪まで約140キロ。それを3日で歩いたようです。
ちなみに、伯耆大山一周は、約70キロ。その二倍の距離に相当する。ある日、ここを一周したことがあるが、1日では無理で途中で野宿をした。大山寺を早暁に発ち、香取から三本杉、地蔵峠を越えて鏡ヶ成についたのが夕刻時だった。ここで泊まれば良かったのだが、無理をして歩いていたら日も暮れていよいよ真っ暗闇となってしまった。ようやく奥大山に着いたのが8時か9時頃だったと思う。
テントも何も無かったので、軒下で一夜を過ごしたことがある。1日歩けるものと軽く考えていたのがいけなかった。大体に、1日に歩ける距離は40~50㎞ぐらいが良いところか?
野麦峠を越えて高山側に下るとすぐに「野麦」という集落がある。そこに、日本一のコブシの巨木がある。春にはどんな花が咲くのだろう。
この日は、このまま松江まで帰った。夜12時近かった。