暘州通信

日本の山車

●145 新宮の道しるべ騒動

2006年01月05日 | Weblog
新宮の道しるべ騒動

 郡上から清見村の三日町を経由して新宮に至る道は、古くから交通の要衝で分岐点であった。
 ここにはいまでも「右、高山。左、古川」の道標が立っている。
 いまは関心を持つ人も少ないが、この道しるべには、ちょっとした歴史と事件話がある。
 明治の中頃のことである、なにかものたらない異変に気づいたが、はじめはそれがなんだかわからなかった。
 そのうち数人が何かおかしいときづき、それが毎日見慣れた道しるべが無くなったからだとわかったことから大騒ぎになった。
 いつ無くなったのか、近所で気づいた者は居なかったか、と聞き合わせている内に、昨夜夜半、数人の男たちが道しるべを大八車に積み込んで居るのを見かけたという人が現れて、どうやらこれは盗まれたらしい。と判断した。急拠、寄り合いを開いて対策を協議したとき、取られたものは仕方がない、という諦め派
と、そんなわけにはいかん、許すわけにはいかんという二派に分裂した。 そんなわけにはいかんという意見も「お上に訴えよう」という意見と、何がなんでも取り返さずにはおかん。という強硬派に分かれた。
 ときはあたかも田植え前の代かきで農作業の忙しい時だったが、いちばん少数の、「取り戻し」を主張したひとは三十人くらいに減っていた。
 気持ちは焦ったがとりあえず、道しるべを積んで街道を運べば人目にもつくはずだから、後を追いかけ、あとは出会う人に聞きながら追いかけようということになった。 では持ち去った方角はどちらか? ということでまた議論になったが、急な坂道が多い荘川や、清見方面ではあるまい。高山か古川のどちらかだろうということになり、人手を二手にわけ、古川方面に一〇名ほど、高山方面に二〇名ほどと人員を振り分け後を追いかけて、実力で取り戻すことになった。きっとひともめあるだろうというので、荷縄、斧、鉈から山芋掘りの長棒、一反風呂敷(何につかうのか?)、祭の太鼓、猪突き槍、闘鶏楽の鉦子、むしろ、ばんどり(雨よけの合羽)、火消しの鳶口、換えの車、炊き出しのにぎりめし、紋付きの羽織? やかん、わらじ、だいもち引の金采配などをあたふたと荷車に積み込んでいたところ、高山から法事を済ませて帰ったきた人があって、重そうな荷物を車に積んだ男たちが数人、小糸坂を下って高山の方へ下ってくるのと出会ったときいたから
俄然志気があがった。
 話を聞いた人の中から、あらためて参加を申し出たひと、近在の若者たちに中にも話を聞いて駆けつけた人も加わって、人数も、五〇人くらいに増えていた。
 本隊と、情報を集める足の速い先行隊にわかれて出発した。
 やがて、大名田村(現在、高山市の南部)の千島あいあった馬車駅で、荷車から馬車に荷物を積み替えた事実が伝えられた。新宮の追尾隊の意気はますますあがったが、宮の松橋で、馬と牛を取り替えた話をききこんだ。
 荷物が重いと、急坂を下るとき、馬は足を折ってしまい暴走してしまうから、下りに強い牛に変えるのである。荷役を牛馬に依存した時代は、この駅次の区間は牛方(どしま)の便があって、牛の輸送に頼った。
後を追いかける人たちは宮峠を越え久々野、渚についた頃はすでに真っ暗であった。
 あとを追いかける人たちはあかし(赤松の根を乾燥させて作った灯明)に火をとも、小坂に着いたとき向かいからきた通行人から、重そうな荷物を曳いた牛車が萩原方面にむかっているのと行き違ったときいたから、若者たちの間から歓声が上がり、そのまま休憩もとらず、真っ暗闇の中をひたすら追跡し、やがて禅昌寺をすぎると、とうとう東上田でそれらしき車に追いついた。
 あたりは、まだ暗かったが、夜明けも近い時刻であった。
新宮の人たちは、血相を変え、みんなで牛車を取り囲んで詰め寄ったが、一人が荷車のうえに飛び上がり、やおらむしろをはねのけると、そこには見慣れた「道しるべ」が横になって積まれていた。
 これを見た人たちからは安堵の声や、怒声、笑い声などが続いて起こった。荷物の運搬に携わっていた男たちは意外とおとなしく、神妙な態度であった。
 牛方の御者と、荷役の責任者は、詰め寄った新宮の人たちにおとなしく積み荷の道しるべを引き渡しに応じた。
 しかし、そのあとがまた大変だった。道しるべを盗んだのは、高山市内の下岡本で運送を業とする男だったが、帰りの運送を法外な値段でふっかけ、折り合いが付かないとみるや、荷物をおろすとさっさと帰ってしまった。
 安堵の思いと、寝不足
過労から、道ばたにむしろを敷いてごろ寝をしたが、それもまもなく降りだした雨に起こされた。
 一同、来たときとちがってなんだか元気がなくなり意気消沈したまま、言葉少なに帰りの途に就いた。
 宮峠を下り、一宮の前まで来るとむこうから大きな歓声が上がった。
 新宮の町内の人たちが
松橋まで出迎えていた。
 ここで酒肴の用意して待っていた出迎えの人たちと酒を酌み交わして喜び合い、ここからは、六尺ふんどしと嫁の腰巻きを縒りあわせた、にわかづくりの紅白の曳き綱に二列になった乙女たちが加わって急ににぎやかになり、ふたたび元気を取り戻した若者を中心に、鉦子を敲き、太鼓を打ちならし、大声で木遣り音頭で囃したてて車を引き、次第に増える出迎えの曳き子らにより石浦を経るころは毀棄伝えた野次馬や見物人が群がった。
 意気の上がった新宮の引き子は小糸坂も楽々と登りきり、新宮の明かりが見えたときは皆赤い眼に涙を浮かべていた。
 こうしてこの日の夜半遅くはなったが無事道しるべはもとあった位置に無事戻ったのだった。
 翌日は元の位置に立て直し、その後は、街道にむしろを曳いて大宴会になり、祝い歌を歌い振舞酒で一日酔いしれた。
 気が付いたら、農作業はすっかり遅れ、近郷は田植えが済んでしまっていた。あわてた新宮の人たちは、恥ずかしそうにこそこそと田植えの準備に取りかかったところ、
近在から応援に駆けつけたおおぜいの篤志家らにより作業は見るみるはかどり、心配された遅れを一気に取り戻すことが出来た。
 ひと夏すぎれば実りの秋で、この年は心配された風も吹かず豊作であった。
新宮では例年奉納される村芝居の前評判が高く、農作業を手伝って貰った近郷の人たちも招待して華々しく開演された。
この年の演目は「義民桜宗五郎」だったが、徹夜で興行され、ひときは人気を博し、見落とした人たちのため前後三日も演じられた。中には、遠路、八賀(丹生川村)や、古川あたりからも見物にきた」という。
 帰り道の荷車を貸してくれた上呂の人たちも招かれた。
 この道しるべを盗んだのは、ある京都の富豪で、
山と流れを取り入れた茶庭を作った際、腰掛け待合いの庵の前で二つに分かれた飛び石の前に、右高山。左、古川の道しるべに用いるため、はるばる特別注文して京都まで運ばせる手はずになっていたという。
 それにしても、とんだ騒動ではあった。
この騒動をきっかけに新宮の人たちの地域連帯意識は高まり、郷土愛と団結では他にひけをとらない気風が育った。

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