暘州通信

日本の山車

◆倭の成立 二

2018年01月10日 | 日本山車論
◆倭の成立 二

 これは仮説である。

 大和朝廷により「条里制」が制定され、「養老律令」では、「班田を給し訖らば、具に町段および四至を録せ」とあって、
田は面積と境界が記録されたと考えられる。この制度の採用に当たって活躍したのが、日氏系の古代支族である日置氏だったと推察される。
 制定された遺構は現在においてもその痕跡を残しているところがある。
 条里制の制定以後、里、郡、州(國)の区画が次第に定まり
都邑が明確となり、神社を中心とした祭政一致の執行者、神職が定まり、神職がおかれないような小聚落では、當屋がきまって、氏子と祖神である産土神・氏神が祀られ、年行事としての歳時・神事が齋行され、徴税が制度化していったと推察される。

 では、このような制度が次第に定まったのは、はたして、大和朝廷の支配期にはいってからのことであろうか?

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