暘州通信

日本の山車

01011 石清尾八幡秋祭

2009年03月26日 | 日本の山車
01011 石清尾八幡秋祭

香川県高松市宮脇町一丁目三〇-三
石清尾八幡宮(いわせをはちまんぐう)
□祭神
タラシナカツヒコノミコト 足仲彦名(仲哀天皇)
ホムダワケノミコト 誉田別命(応神天皇)
オキナガタラシヒメノミコト 息長帯姫命(神功皇后)
□汎論
高松市の西部にある峰山の麓に鎮座する。この地は古くは秦氏の居住した地とされ、一族と推定される古墳が点在する。
創祀には不詳な部分も多いが、延喜十八年(九一八)八幡神様が赤塔山(現、石清尾山)に現れて託宣があったと伝えられる。また別説として京都の石清水八幡宮より分霊をうけて祀ったとも言われる。高松市の鎮守として祀られて来た長い歴史がある。
南北朝時代、四国は細川右馬頭頼之の統治下にあり、社殿の拡築がおこなわれた。貞治三年(一三六四)の戦勝祈願成就を祝して「右馬頭市」がはじめられ、現在も「市立祭」が五月上旬に斎行されている。
天正十五年(一五八七)、讃岐一七万千八百石は生駒親正の支配下にあり、高松城の造営が行なわれた。親正は美濃国可児郡土田(現岐阜県可児市土田)の生まれで、信長の美濃攻めのとき臣下となり、羽柴秀吉にしたがい、長篠の合戦、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参戦。信長の死後は秀吉の家臣となって賤ヶ岳の戦、山崎の戦、小田原征伐、文禄の役など歴戦を重ね、安土桃山時代には大名となり中老職を務めている。
寛永十九年(一六四二)、松平頼重が藩主となり赴任したが、篤く敬い、さらに社殿を造営し社領や宝物の寄進を行った。
頼重は、水戸徳川家初代である徳川頼房の長男として出生、徳川家康の孫にあたる。
常陸下館(現茨城県)の藩主を経て讃岐高松に封じられた。
宝永二年(一七〇五)、三代藩主となった松平頼豊により社殿の改修が行われ、以後は歴代藩主が毎年参詣するようになった。頼豊は、水戸藩初代藩主である徳川頼房の曾孫にあたり、元禄十七年(一七〇四)に第二代藩主の松平頼常が隠居し、その養子としてあとを継いで第三代藩主となっている。
慶長年間に、生駒一正の家臣であった佐藤掃部が建立した阿弥陀院があった。仁和寺御門跡末寺だったと伝わる。多宝塔があり幕末まであったが、明治の廃仏毀釈により損なわれた。

□問い合わせ
高松市宮脇町1丁目30-3
TEL 087-862-5846
FAX 087-862-0333
hachiman@iwaseo.com

□外部関連リンク
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2009/2/17(火) 午後 4:34
... 明治15年(1882)尼崎藩主松平氏の祖桜井内膳信定を祭神として、尼崎城西二ノ丸後に創建された。 国道43号線敷設のため昭和36年三の丸跡 ... 尼崎城主青山幸成の家臣下川元全の三男として生まれたという。 ... 桜井神社社殿             博愛社
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 http://blogs.yahoo.co.jp/asan19431007/37228055.html

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 http://blogs.yahoo.co.jp/kazuki133/44402178.html

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 http://blogs.yahoo.co.jp/kokoronotabihaitumademo/11868888.html

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 http://blogs.yahoo.co.jp/fuuraibou1948/13249977.html

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