21145 豊国祭礼と祭礼図
豊国祭礼図は豊国神社、妙法院、豊国祭礼図徳川黎明会などにそれぞれ保存されている。「豊国祭礼図」は、慶長9年(1604)8月12日から18日まで豊臣秀吉の七回忌に当たり催された祭礼の様子について、14、15の両日にとり行われた祭を描くが、仔細にみると差異があり、すでに焼失してなかったはずの芳広寺が描かれたいうものなど謎も多い。
豊国神社の画師は狩野内膳といわれ、右隻には豊国神社の境内や、幣榊奉納、騎馬行列、田楽、猿楽。左隻には豊国踊が大仏殿前で奉納された様子が描かれる。
方広寺前で出番を待つ人々。左隻第六扇下には笠鉾を中心とした一団の乱舞があり、鳳凰の笠鉾もみられる。
豊国祭臨時祭礼
秀吉の死と豊国社の創建
豊臣秀吉の体調は、朝鮮戦役ごろから次第に悪化し、慶長3年には、秀頼、北政所、淀殿らとともに醍醐で花見を行った。
しかし、それから間もない5月初旬に病の床に就き、7月18日に死去した。
秀吉は、死後は神として祀ることがすでにきまっており、廟所も方広寺の東方にある阿弥陀ヶ峰とその西麓に営まれることになつていた。
神号宣命使より「豊国大明神」の神号が届き、後陽成天皇の宸筆が勅賜された。
18日に正遷宮が行われたが大変な人出であった。
19日には、秀吉は神位として正式に正一位が贈られ、徳川家康、毛利輝元以下の諸大名が社参したが、金森長近の名もある。
豊国社が創立され、殿舎の建築がすすめられ、秀頼よりとして一万石が寄進され、北野社の社殿を参考にした八棟造の社殿の建設が続いた。建設は関ヶ原の合戦中も続いている。慶長7年には二層の楼門が完成し、『洛中洛外図(舟木本)』に方広寺とともに描かれる。
5月2日の『梵舜日記』に、梵舜と家康は伏見城で会見し、家康が梵舜に「豊国臨時祭礼」について質問したのに、梵舜は「作法にづいて申し入れをした」旨が記載され
さらに、
5月19日には、「豊国臨時之祭次第」を言上したことに触れ、
一番騎馬三十匹狩衣、
二番田楽、
三番上京下京也、町人ニ作花笠鉾ニテ罷出候事、
四番申楽ニ、新能一番ツゝ
これに対する家康の反応は「御気色尤御意」であったという。
6月4日にも伏見城で家康に祭礼について「御尋」を受け、同月12日には「次第」は、吉田兼見、片桐市正、梵舜が同道し、家康と接見して一部の訂正後決定した。
一番騎馬二百騎風折狩衣、
二番田楽、
三番上下京衆千人ニ作花笠鉾ニテ作法、
四番申楽新作能
とある。
8月4日
「当月13日を豊国臨時祭とする」家康からの下命があった。
その後さらに「一番御幣、御榊」が加わったが、はじめ三番とされた千人の作花笠鉾の踊衆は五百人に減じ、五番に下がり、別の日に開催することに変更された。
慶長9年8月12日、豊国臨時祭は湯立神事からはじまった。
二日めの13日。
第一番御幣、御榊、
第二番騎馬二百騎、
第三番田楽、
第四番猿楽の順
に華々しい行粧が進むはずであった。しかし、当日は、一時晴天であったがのち雨となった。『梵舜日記』には「天晴、後雨降、豊国臨時雨儀延引」とあり、『義演准后日記』には「既欲ニ出門処ニ、頻降雨、侑儀延引了、終日大雨也」とあって予定された13日の行事は翌14日に順延となった。
14日、一日延びた豊国臨時祭の行列が始まった。
設らえられた桟敷には、三条から豊国社まで翠簾がさげられ、金屏風がたてられた。
第一番は御幣、御榊
左側は金の御幣で長さ七尺五寸、御榊は右で金箔で七尺五寸、葉は六百枚に達したという。
御幣と榊は一人持で、これに供奉する供の衆は百人。
第二番は、騎馬行列。豊国神官六十二人、吉田の神人三十八人、
上賀茂社神官八十五人、楽人十五人(『梵舜日記』)
の社家衆が従っている。
騎馬は二百騎。馬は「国持郡持大名衆」より、献納された。
大名衆は、
『豊国大明神祭礼記』によると
三十疋羽柴肥前守
二十疋羽柴待従
十五疋加藤肥後守
十二疋羽柴越中守
十疋浅野紀伊守
六疋若狭宰相
六疋丹後待従一疋福島掃部
二疋伊賀侍従六疋蜂須賀阿波守
三疋中村伯奢守三疋山内土佐守
五疋生駒讃岐守
十一疋鍋島信濃守
九疋田中筑後守
六疋加藤左馬助
六疋藤堂佐渡守
二疋有馬玄蕃頭
一疋脇坂淡路守
二疋寺沢志摩守
一疋加藤左衛門尉
二疋金森出雲守
二疋一柳監物
二疋徳永法印
二疋富田信濃守
二疋九鬼長門守
二疋古田兵部少
二疋稲葉蔵人
一疋関長門守
二疋本田因幡守
二疋前田主膳正
一疋亀井武蔵
二疋高橋左近
二疋伊藤修理
一疋秋月長門守
一疋羽柴左門
一疋羽柴因幡守
一疋大野修理
一疋前田権助
一疋長谷川右兵衛
一疋杉原伯暑守
一疋速水甲斐守
一疋伊藤丹後守
一疋堀田図書
一疋青木民部少
一疋竹中伊豆守
一疋毛利伊勢守
一疋山崎左馬丞
一疋柘植大炊介
一疋片桐主膳正
一疋野々村次兵衛
一疋真野蔵人
一疋中島左兵衛
一疋西尾豊後守
とあって、飛騨高山城主だった金森出雲守は二疋を献じている
この馬の寄進は、単に馬をだしたという頭数だけでなく、馬の意匠飾が絢爛豪華であった。
一例をあげると、三十疋を拠出した羽柴肥前守の場合は「金覆輪之鞍ニ、狸」障、紅総房、押懸鰍、三尺縄、沓等二至迄同前也。馬取之出立者、白帷銀之打鮫髭斗付ヲサシテ、馬柄杓、金二濃、腰ニサシタル也」
第三番は田楽衆三十人で、
騎馬行列と同様に二列に並んで弓手・馬ゞだ。手に持った弓矢・鉾はそれぞれ悪疫・悪霊退散を願った祈祷を意味し
第四番目は猿楽四座衆で、先頭は金春、ついで観世、宝生、金剛の四座が続いた。
『祭礼記』は、
「一度に四人面を当、面箱も四ツ、三ばさも四人舞也。太鼓四丁、小鼓十五張にて、樵出しを打囃、天地も響渡も動く計にて、殊勝さ感涙浸袖。定而明神も可給成感応乎」
と記す。
楽衆の能は豊国祭のために「翁」と新作能が演じられ注目された。大西洞院時慶は、
四番四座、一番ツツ新作二テ仕、翁ハ四人一同也。ス舞八一人ツツ次第ゝ之。蟻ト云物、ス舞ノ先二出也。小鼓十五張、大鼓二張也。能ノ時ハ笛鼓二ツ、鼓八一ツツアリ
と記し、かってない「四人による翁」が納められたことを伝えている。
新作能の奉納は日記によれば、
金春が「橘」、
観世が「武王」、
宝生は「太子、金剛心」
だったという。
8月15日の風流
15日は五番目に相当する上京と下京衆五百人による風流踊で、踊衆は上京衆が三組と下京衆二組に分かれ、それぞれ百人の踊衆がつけられていた。
『時慶卿記』によると上京衆は「小川組、西陣組、上立売組」を一組、中筋組を中心とした一組、六丁町組を一組とした三組。
『祭礼記』は「上立売組」、「下立売組」、「新在家組」としている。
下京衆は丑寅組と川西組、中組の二組であった。
この踊衆の行粧は
豊国社への奉納ばかりでなく禁裏御所にも踊衆の参入があった
昼間、まず上京衆が御所に入って天皇をはじめ女院に風流踊を披露したあと豊国社にきた下京衆は、豊国社大仏前で踊の奉納を行い晩に入って御所に参入した。
風流踊の狂喜乱舞のさまは、『祭礼記』によると、
躍衆・かみ下京五百人。上京三組、下京二組。おとりの仕立、何れも紅梅摺薄花笠、手に手に作花を手にも持なり。金銀にたみて、細工の上手工夫を廻らし、手柄を尽し、我おとろしと、諸有結構を拵出立て、衣香あたりをはらひ、四方に薫し、花麗なる有様、おひたたしきよそほひ、古今ためしすくなき御事也。
まさに古今に例が少ないほどの華麗さだった。
『義演准后日記』
「笠ハ金銀二皆タミ結花二テカサリ扇金銀帯草鞄二至マテ紅金銀也」
と記し、
『祭礼記』はこの行粧・装束に触れ、かみたちうりくみ(上立売組)百人、笠の花ハ、玉椿、荻着、手に持花は芙蓉也。
下裁売くみ(下立売組)百人、物首の笠鉾の花ハ鳳凰也。新在家組百人、物かしらの笠鉾の花ハ桜也。手に持花ハ色々草花也。
花と紅金銀の強烈な色彩が、あたりを興奮にかりたて、
「飛ヅ駅つ、踊上り、飛上り」
ある時は拍子よく、時に乱拍子に変わり、桟敷の見物衆は「生死の眠も覚へぬ」状況だった。
見物衆や踊衆だけではなく、警固役、上下京の年寄衆五百人や床几持五百人までが「きんの棒を手に手に持て、躍り廻る」乱舞するありさまとなった。
乱舞の一団が通過したあと、一瞬の静寂のなかで
「津島笛」
の演奏が続き、
「一つ物」と呼ばれる仮装行列も人目を一段と引いた。踊衆一組に対して、「一つ物」一組ずつが催された。
大黒、
布袋、
毘沙門、
鍾馗、
大臣、
南蛮人、
唐人
の仮装に、山路牛に乗て笛を吹たる所。
比丘胎みたるを先に立て坊主の跡より団扇を持て仰きさすりつめりたる風情。
頼朝ハケ国の射手を集め、色々様々異風体を出て、富士のすそ野の鹿をからせて御覧する所。
判官義経一谷鉄皆が峯攻落したる所。
など語り物にちなんだ演しものもあった。
伏見稲荷祭、祇園祭の風流がもちこまれたといってもよい。
この
豊国祭臨時祭礼で用いられた、風流、練り物、笠鉾などの一部はのちに金森長近より国表である、飛騨高山に下賜されることになった。
高山祭の嚆矢は豊国祭臨時祭礼にあったといえよう。
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豊国祭礼図は豊国神社、妙法院、豊国祭礼図徳川黎明会などにそれぞれ保存されている。「豊国祭礼図」は、慶長9年(1604)8月12日から18日まで豊臣秀吉の七回忌に当たり催された祭礼の様子について、14、15の両日にとり行われた祭を描くが、仔細にみると差異があり、すでに焼失してなかったはずの芳広寺が描かれたいうものなど謎も多い。
豊国神社の画師は狩野内膳といわれ、右隻には豊国神社の境内や、幣榊奉納、騎馬行列、田楽、猿楽。左隻には豊国踊が大仏殿前で奉納された様子が描かれる。
方広寺前で出番を待つ人々。左隻第六扇下には笠鉾を中心とした一団の乱舞があり、鳳凰の笠鉾もみられる。
豊国祭臨時祭礼
秀吉の死と豊国社の創建
豊臣秀吉の体調は、朝鮮戦役ごろから次第に悪化し、慶長3年には、秀頼、北政所、淀殿らとともに醍醐で花見を行った。
しかし、それから間もない5月初旬に病の床に就き、7月18日に死去した。
秀吉は、死後は神として祀ることがすでにきまっており、廟所も方広寺の東方にある阿弥陀ヶ峰とその西麓に営まれることになつていた。
神号宣命使より「豊国大明神」の神号が届き、後陽成天皇の宸筆が勅賜された。
18日に正遷宮が行われたが大変な人出であった。
19日には、秀吉は神位として正式に正一位が贈られ、徳川家康、毛利輝元以下の諸大名が社参したが、金森長近の名もある。
豊国社が創立され、殿舎の建築がすすめられ、秀頼よりとして一万石が寄進され、北野社の社殿を参考にした八棟造の社殿の建設が続いた。建設は関ヶ原の合戦中も続いている。慶長7年には二層の楼門が完成し、『洛中洛外図(舟木本)』に方広寺とともに描かれる。
5月2日の『梵舜日記』に、梵舜と家康は伏見城で会見し、家康が梵舜に「豊国臨時祭礼」について質問したのに、梵舜は「作法にづいて申し入れをした」旨が記載され
さらに、
5月19日には、「豊国臨時之祭次第」を言上したことに触れ、
一番騎馬三十匹狩衣、
二番田楽、
三番上京下京也、町人ニ作花笠鉾ニテ罷出候事、
四番申楽ニ、新能一番ツゝ
これに対する家康の反応は「御気色尤御意」であったという。
6月4日にも伏見城で家康に祭礼について「御尋」を受け、同月12日には「次第」は、吉田兼見、片桐市正、梵舜が同道し、家康と接見して一部の訂正後決定した。
一番騎馬二百騎風折狩衣、
二番田楽、
三番上下京衆千人ニ作花笠鉾ニテ作法、
四番申楽新作能
とある。
8月4日
「当月13日を豊国臨時祭とする」家康からの下命があった。
その後さらに「一番御幣、御榊」が加わったが、はじめ三番とされた千人の作花笠鉾の踊衆は五百人に減じ、五番に下がり、別の日に開催することに変更された。
慶長9年8月12日、豊国臨時祭は湯立神事からはじまった。
二日めの13日。
第一番御幣、御榊、
第二番騎馬二百騎、
第三番田楽、
第四番猿楽の順
に華々しい行粧が進むはずであった。しかし、当日は、一時晴天であったがのち雨となった。『梵舜日記』には「天晴、後雨降、豊国臨時雨儀延引」とあり、『義演准后日記』には「既欲ニ出門処ニ、頻降雨、侑儀延引了、終日大雨也」とあって予定された13日の行事は翌14日に順延となった。
14日、一日延びた豊国臨時祭の行列が始まった。
設らえられた桟敷には、三条から豊国社まで翠簾がさげられ、金屏風がたてられた。
第一番は御幣、御榊
左側は金の御幣で長さ七尺五寸、御榊は右で金箔で七尺五寸、葉は六百枚に達したという。
御幣と榊は一人持で、これに供奉する供の衆は百人。
第二番は、騎馬行列。豊国神官六十二人、吉田の神人三十八人、
上賀茂社神官八十五人、楽人十五人(『梵舜日記』)
の社家衆が従っている。
騎馬は二百騎。馬は「国持郡持大名衆」より、献納された。
大名衆は、
『豊国大明神祭礼記』によると
三十疋羽柴肥前守
二十疋羽柴待従
十五疋加藤肥後守
十二疋羽柴越中守
十疋浅野紀伊守
六疋若狭宰相
六疋丹後待従一疋福島掃部
二疋伊賀侍従六疋蜂須賀阿波守
三疋中村伯奢守三疋山内土佐守
五疋生駒讃岐守
十一疋鍋島信濃守
九疋田中筑後守
六疋加藤左馬助
六疋藤堂佐渡守
二疋有馬玄蕃頭
一疋脇坂淡路守
二疋寺沢志摩守
一疋加藤左衛門尉
二疋金森出雲守
二疋一柳監物
二疋徳永法印
二疋富田信濃守
二疋九鬼長門守
二疋古田兵部少
二疋稲葉蔵人
一疋関長門守
二疋本田因幡守
二疋前田主膳正
一疋亀井武蔵
二疋高橋左近
二疋伊藤修理
一疋秋月長門守
一疋羽柴左門
一疋羽柴因幡守
一疋大野修理
一疋前田権助
一疋長谷川右兵衛
一疋杉原伯暑守
一疋速水甲斐守
一疋伊藤丹後守
一疋堀田図書
一疋青木民部少
一疋竹中伊豆守
一疋毛利伊勢守
一疋山崎左馬丞
一疋柘植大炊介
一疋片桐主膳正
一疋野々村次兵衛
一疋真野蔵人
一疋中島左兵衛
一疋西尾豊後守
とあって、飛騨高山城主だった金森出雲守は二疋を献じている
この馬の寄進は、単に馬をだしたという頭数だけでなく、馬の意匠飾が絢爛豪華であった。
一例をあげると、三十疋を拠出した羽柴肥前守の場合は「金覆輪之鞍ニ、狸」障、紅総房、押懸鰍、三尺縄、沓等二至迄同前也。馬取之出立者、白帷銀之打鮫髭斗付ヲサシテ、馬柄杓、金二濃、腰ニサシタル也」
第三番は田楽衆三十人で、
騎馬行列と同様に二列に並んで弓手・馬ゞだ。手に持った弓矢・鉾はそれぞれ悪疫・悪霊退散を願った祈祷を意味し
第四番目は猿楽四座衆で、先頭は金春、ついで観世、宝生、金剛の四座が続いた。
『祭礼記』は、
「一度に四人面を当、面箱も四ツ、三ばさも四人舞也。太鼓四丁、小鼓十五張にて、樵出しを打囃、天地も響渡も動く計にて、殊勝さ感涙浸袖。定而明神も可給成感応乎」
と記す。
楽衆の能は豊国祭のために「翁」と新作能が演じられ注目された。大西洞院時慶は、
四番四座、一番ツツ新作二テ仕、翁ハ四人一同也。ス舞八一人ツツ次第ゝ之。蟻ト云物、ス舞ノ先二出也。小鼓十五張、大鼓二張也。能ノ時ハ笛鼓二ツ、鼓八一ツツアリ
と記し、かってない「四人による翁」が納められたことを伝えている。
新作能の奉納は日記によれば、
金春が「橘」、
観世が「武王」、
宝生は「太子、金剛心」
だったという。
8月15日の風流
15日は五番目に相当する上京と下京衆五百人による風流踊で、踊衆は上京衆が三組と下京衆二組に分かれ、それぞれ百人の踊衆がつけられていた。
『時慶卿記』によると上京衆は「小川組、西陣組、上立売組」を一組、中筋組を中心とした一組、六丁町組を一組とした三組。
『祭礼記』は「上立売組」、「下立売組」、「新在家組」としている。
下京衆は丑寅組と川西組、中組の二組であった。
この踊衆の行粧は
豊国社への奉納ばかりでなく禁裏御所にも踊衆の参入があった
昼間、まず上京衆が御所に入って天皇をはじめ女院に風流踊を披露したあと豊国社にきた下京衆は、豊国社大仏前で踊の奉納を行い晩に入って御所に参入した。
風流踊の狂喜乱舞のさまは、『祭礼記』によると、
躍衆・かみ下京五百人。上京三組、下京二組。おとりの仕立、何れも紅梅摺薄花笠、手に手に作花を手にも持なり。金銀にたみて、細工の上手工夫を廻らし、手柄を尽し、我おとろしと、諸有結構を拵出立て、衣香あたりをはらひ、四方に薫し、花麗なる有様、おひたたしきよそほひ、古今ためしすくなき御事也。
まさに古今に例が少ないほどの華麗さだった。
『義演准后日記』
「笠ハ金銀二皆タミ結花二テカサリ扇金銀帯草鞄二至マテ紅金銀也」
と記し、
『祭礼記』はこの行粧・装束に触れ、かみたちうりくみ(上立売組)百人、笠の花ハ、玉椿、荻着、手に持花は芙蓉也。
下裁売くみ(下立売組)百人、物首の笠鉾の花ハ鳳凰也。新在家組百人、物かしらの笠鉾の花ハ桜也。手に持花ハ色々草花也。
花と紅金銀の強烈な色彩が、あたりを興奮にかりたて、
「飛ヅ駅つ、踊上り、飛上り」
ある時は拍子よく、時に乱拍子に変わり、桟敷の見物衆は「生死の眠も覚へぬ」状況だった。
見物衆や踊衆だけではなく、警固役、上下京の年寄衆五百人や床几持五百人までが「きんの棒を手に手に持て、躍り廻る」乱舞するありさまとなった。
乱舞の一団が通過したあと、一瞬の静寂のなかで
「津島笛」
の演奏が続き、
「一つ物」と呼ばれる仮装行列も人目を一段と引いた。踊衆一組に対して、「一つ物」一組ずつが催された。
大黒、
布袋、
毘沙門、
鍾馗、
大臣、
南蛮人、
唐人
の仮装に、山路牛に乗て笛を吹たる所。
比丘胎みたるを先に立て坊主の跡より団扇を持て仰きさすりつめりたる風情。
頼朝ハケ国の射手を集め、色々様々異風体を出て、富士のすそ野の鹿をからせて御覧する所。
判官義経一谷鉄皆が峯攻落したる所。
など語り物にちなんだ演しものもあった。
伏見稲荷祭、祇園祭の風流がもちこまれたといってもよい。
この
豊国祭臨時祭礼で用いられた、風流、練り物、笠鉾などの一部はのちに金森長近より国表である、飛騨高山に下賜されることになった。
高山祭の嚆矢は豊国祭臨時祭礼にあったといえよう。
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