◆谷口與鹿と草場珮川
草場珮川(くさばはいせん)は、天明八年〈一七八八〉正月七日の生まれ、慶応三年〈一八六七〉年十月二十九日没、享年八十歳の長命であった。
字は棣芳、通称瑳助、珮川は後に佩川と書き号である。肥前の多久の人で。二十三歳で江戸湯島の昌平黌に学び、古賀精里に師事した。多久侯に仕え、佐賀藩の儒員となり、藩校の弘道館教授をつとめている。漢詩集に『摂西六家詩集』、『佩川詩鈔』(嘉永六年刊、四巻四冊)があり、『文久二十六家絶句』(文久二年刊、三巻三冊)にも選ばれ、諸家より詩文集の序文、跋文、評語などを依頼されている。
師の古賀精里が幕命を受け、朝鮮通信使にあうため対馬に随行し、約二ヶ月間の見聞を記した『津島日記』があるほか、鍋島藩の命でしばしば対馬に渡り、朝鮮からの使節との通詞にあたっている。
若いとき使節と筆談を交わしているが、のちには不自由なく朝鮮語で話せたという。また日々の出来事を記した『草場珮川日記』が知られる。安政四年に谷口與鹿と橋本香坡は西遊からの帰りに佐賀の草場珮川邸を訪れている。この応酬を知りたいと思い旧佐賀城内にある県立図書館を訪れ、渉猟したが見当たらず、図書館の司書の方が佐賀大学に連絡してくださり、ちょうどその時期は草場珮川が藩主の命で対馬に赴いていたことがわかった。草場珮川とは会うことができなかったのである。
橋本香坡は、篠崎小竹門の後藤松陰とともに摂西六家詩抄の編集に関わっており、谷口與鹿とともに伊丹郷町で酒を酌んでいる。
逢えなかったのはさぞ残念だったろうと思われる。
草場珮川(くさばはいせん)は、天明八年〈一七八八〉正月七日の生まれ、慶応三年〈一八六七〉年十月二十九日没、享年八十歳の長命であった。
字は棣芳、通称瑳助、珮川は後に佩川と書き号である。肥前の多久の人で。二十三歳で江戸湯島の昌平黌に学び、古賀精里に師事した。多久侯に仕え、佐賀藩の儒員となり、藩校の弘道館教授をつとめている。漢詩集に『摂西六家詩集』、『佩川詩鈔』(嘉永六年刊、四巻四冊)があり、『文久二十六家絶句』(文久二年刊、三巻三冊)にも選ばれ、諸家より詩文集の序文、跋文、評語などを依頼されている。
師の古賀精里が幕命を受け、朝鮮通信使にあうため対馬に随行し、約二ヶ月間の見聞を記した『津島日記』があるほか、鍋島藩の命でしばしば対馬に渡り、朝鮮からの使節との通詞にあたっている。
若いとき使節と筆談を交わしているが、のちには不自由なく朝鮮語で話せたという。また日々の出来事を記した『草場珮川日記』が知られる。安政四年に谷口與鹿と橋本香坡は西遊からの帰りに佐賀の草場珮川邸を訪れている。この応酬を知りたいと思い旧佐賀城内にある県立図書館を訪れ、渉猟したが見当たらず、図書館の司書の方が佐賀大学に連絡してくださり、ちょうどその時期は草場珮川が藩主の命で対馬に赴いていたことがわかった。草場珮川とは会うことができなかったのである。
橋本香坡は、篠崎小竹門の後藤松陰とともに摂西六家詩抄の編集に関わっており、谷口與鹿とともに伊丹郷町で酒を酌んでいる。
逢えなかったのはさぞ残念だったろうと思われる。
メールありがとうございます。これは大変奇遇ですね。実は萩原進氏の「橋本香坡傳」ははやくから所持しています。当ブログは「日本の山車」を執筆していすが、当然ながら各地の取材にお邪魔しています。沼田市も何度もお邪魔しました。近年になり、知り合いの方から沼田市が市史編纂にかかっているから「是非」といって編集室のほうに引っ張っていかれそこで親しくお話しをうかがう機会を得ました。当然、萩原先生についてお聞きすることになったのですが… 大変失礼ですが、お聞きしましたのはご逝去との悲しいお話でした。
すでにお気づきかもしれませんが、橋本香坡と谷口與鹿(たにぐちよろく)は兄弟以上の交わりでした。高山を代表する山車(屋臺)は日本三大祭の筆頭に挙げられますが、谷口家と深いかかわりがあります。
当ブログに「谷口與鹿に」ついて若干記述しています(未掲載記事がまだまだありますが…)。とりあえず、今日はご挨拶に代えさせていただき、これからもよろしくとお願いいたします。
「橋本香坡伝」東京文松堂昭和刊行会(1944)
この分を、WIKIPEDIAの亡父の記事・主な著作欄(発行年順)に加筆頂ければ幸いです。
加筆してくれる・できる人がいません。
また、国立国会図書館や群馬県下の主な公立図書館に、この本が所蔵されている可能性も高いとおもいます。