暘州通信

日本の山車

◆02155 都萬神社祭 更新

2014年09月02日 | 日本の山車
◆02155 都萬神社祭 更新
□社名 都萬神社(つまじんじゃ)
□所在地 宮崎県西都市大字妻
□祭神
コノハナサクヤヒメ 木花開耶姫命
一説に、
ツマツヒメノミコト 柧津比賣命
□祭は七月下旬。
□山車
山車の呼称、形態は、太鼓山車。
・互親会
□汎論
 【都萬神社】は、日向國に鎮座する六坐中、兒湯郡(こゆのこおり)に記載される四坐のうちの一座。祭神は、社記によれば、オオヤマツミノカミ(大山祗神)の息女である、コノハナサクヤヒメノミコト(木花開耶姫命)が祀られる。神話に、ニニギノミコト(瓊々杵尊)と、コノハナサクヤヒメノミコト(木花開耶姫命)が、【逢初川】で見逢いをし、コトカツクニカツナガサノアミ(事勝国勝長狭神)の媒酌により、結婚式が【八尋殿】で挙げられたという。
 仮説であるが、『魏志倭人傳』に記載される、【邪馬臺國】の位置は依然として不明であるが、洛陽ー樂浪ー帶方ー狗邪韓国ー對島國ー臺岐ー末盧國ー伊都國-奴國ー不彌國 にいたる経路にはほぼ争いがないものの、その跡に記載される方角が、【南】か? あるいは【東】の誤りか? 【水行二〇日】、【陸行一月】とは? この推論が邪馬臺國の九州説、畿内説の二大論因となている。 
【投馬國】はどこか? そして、【邪馬臺國】の所在、【卑弥呼】とよばれた女王はまったくなぞに包まれている。
 仮に、『魏志倭人傳』の記載にある、不彌國から、南に【水行(海路)で二〇日、【陸行なら一月】とよむと、【投馬國】の所在は日向國ではないだろうか? という説・根拠が出てくる。このときに、都萬神社がおおきく浮上する。
 【都農神社と都萬神社】の創祀は、一対をなしていたと推察する。【投馬國】の存在はひとまず措くとしても、西都市西岸の洪積層台地には西都原古墳群があり、【日本最大級の古墳群】として知られる「西都原古墳群」がある。当古墳群は当地に弥生時代日本でも最大級の都邑が存在していたことを示しており、その勢力は、熊本県、鹿児島県に及んでいたいるといえよう。宮崎県、熊本県、鹿児島県には、『延喜式神名帳』に記載される神社が著しく少ない。このことは、当地方が大和朝廷が成立した後も、長く朝廷にはなびかなかったことをうかがわせる。神話に、ニニギノミコト(瓊々杵尊)と、コノハナサクヤヒメノミコト(木花開耶姫命)の婚姻神話は平安時代以降の創作であろう。
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◆00699 日田祇園山鉾会館 更新

2014年09月02日 | 日本の山車
◆00699 日田祇園山鉾会館 更新
□施設名 日田祇園山鉾会館(ひたぎおんやまほこかいかん)
□所在地 大分県日田市隈2丁目7-10
電話 0973-24-6453
 【日田祇園山鉾会館】に展示されている。当地の形式の山車は佐賀県の小城市(旧小城町)、福岡県のうきは市(旧浮羽町)などに見られ、またみられた。福岡市の博多には、飾山として展示されている。早い時代に、山笠と分離したものと推定される。
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◆00076 日田祗園祭 更新

2014年09月02日 | 日本の山車
◆00076 日田祗園祭 更新
□社名 八坂神社
□所在地 大分県日田市
□祭神
□祭は、七月下旬。
□山車
山車の呼称、形態は、、山鉾。
山車(山鉾)九臺を曳く。
隈・竹田地区
・隈一・二丁目
・大和町
・川原町
・若宮町
豆田地区
・御幸通り
・上町
・港町
・中城町
□汎論
 日田祇園祭には、隈、竹田地区、豆田地区。それに平成になって建造された平成山鉾を曳く。
【日田市】は江戸時代は天領であり、町の経済を一手に握っていた掛屋による公金の運用で豊かな町であった。広瀬淡窓の私塾学問所である【遠思楼・咸宜園(かんぎえん)】は著名で、全国から学んだ子弟の数はおびただしい数にのぼる。飛騨高山からも、『飛騨国中案内』を著した【上村木曾衛門】、上宝村(現高山市)常蓮寺の【吉田文助】ほかが学んでおり、上村木曾衛門はその塾頭に推されている。
【広瀬旭荘】は淡窓の弟で、晩年大坂池田(大阪府池田市)に住んで、伊丹にあった【谷口與鹿】とも交流があり、飛騨高山を訪れている。安政四年、谷口與鹿は、長崎の帰りに橋本香坡とともに日田を訪ね、【森氏の水亭】に招かれ清遊している。
広瀬淡窓は、前年安政三年に死去したため会うことはできなかったが、長崎で会えなかった旧友である、【木下逸雲】と会うことができた。逸雲は医術の心得があり、画を得意としたが、駿河沖を航海する黒船と、富士山を一枚の画に描いて得意になっていた話が伝わる。木下逸雲は豆田の料亭である【市山亭・しざんてい)】に留連(いつづけ)していたが、ここで香坡らと歓を尽くしたことはいうまでもない。市山亭はいまも当時のまま残されており、逸雲が過ごした部屋もそのまま保存されている。近年公開され見ることができる。

日田祇園祭の一本柱山車
 大分県日田市は、江戸時代には代官所がおかれ、市中には独特の掛屋制度があって、財政を司り、裕福な街づくりが行われてきた。また、廣瀬淡窓(ひろせたんそう)の遠思樓咸宜園(えんしろう・かんぎえん)は、全国に知られた私塾学問所で述べ数千人が学んだとされる。はるばる飛騨高山からは数人が入門しているが、高山の地役人をつとめた上村木曾衛門満義、上宝村(現飛騨市)の吉田文助の名も見える。広瀬淡窓はからだが弱かったと言われ、あまり他出していないが、弟の廣瀬旭莊は大坂や池田(現池田市)に住み、伊丹郷町にいた谷口與鹿と交流があり。北陸を経て飛騨高山を訪ねている。長い穂の筆で書いた書はじつにみごとである。寥郭堂に廣瀬旭莊の屏風、廣瀬淡窓の偏額が保存されている。
 当時としてはいずれも遠隔地であったが、日田(ひた)と飛騨(ひだ)は、訓みがよくにていて、おなじ天領であったこともあって不思議な縁がある。
 日田の祇園祭には一本柱の山車(山鉾)がある。一本の稈(幹)から枝を張る巨木のように、枝には多くの場面が表現され、全体としてひとつの物語を構成しているが、まさに目を奪う圧巻である。下臺にはぱいぱいというひご状の付属物が取り付けられるが、一説では水飛沫をあらわしていると言われる。
□参考
次を参考にさせていただきました。
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