暘州通信

日本の山車

◆秩父聖大明神(聖神社)の龍頭と獅子舞 左甚五郎

2006年04月02日 | 日本の山車 左甚五郎
和銅発祥の地として知られる黒谷地区。
元明天皇は和銅の献上を喜び、勅使を遣わして祝山に神籬を画して金山彦尊を祀った。オホヒルメムチノミコト(天照大神)、クニトコタチノミコト(国常立尊)、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が併祀される。
当時、採掘された和銅石二個(当初十三個)と、下賜された銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対が御神宝となっている。
左甚五郎が秩父神社の帰り黒谷の地に立ち寄ったとき、龍頭を作って聖大明神に奉納した。のち、元禄時代になって、大畑の伊左衛門がこの龍頭を参考にして獅子頭をつくり、参州(三河)岡崎下妻流の師匠を招いて一五種の舞の伝授をうけたいう。聖神社の例大祭には秩父市の無形文化財に指定される黒谷の獅子舞が奉納される。



◆長崎滞在 谷口與鹿

2006年04月02日 | 日本の山車 谷口與鹿
與鹿の長崎滞在中の様子を伝える話がいくつか伝わる。

長崎にいたとき竹根で作った亀がなかなかの出来であった。 水に浮かせると手足で水をかいて泳ぐという趣向のものだったという。

與鹿の滞在した宿舎がまだわからない。滯在したのは長崎の曹洞宗寺院か?
あるいは、香坡とはおなじだったか? 橋本香坡は浄土寺にほぼまちがいない。
「時雨松」という松があったと記している。

 長崎への旅は、伊丹で建造する屋臺の緋羅紗、懸装品(タペストリ-)、装飾品の下見と、仕入先の選定、唐様の策定にあった。剣菱酒造の主人、坂上桐陰は伊丹に屋臺をつくることにとくに熱心で與鹿の支持者のひとりだった。かって、頼山陽が伊丹を訪ねるとき、自分はは剣菱を呑み、母には白雪をすすめたという。文人に剣菱を愛飲する人が多いのはそのいきさつによる。
剣菱の剣は箕面の滝不動の不動が持つ剣をイメージしたもの、当時醸造中に酒が腐敗してしまうことが多く、これを防ぐために寒中に箕面の滝の水を汲んでこれを醸造の酒に加えることが行われた。
 いま、剣菱は伊丹をはなれ、西宮に移ったが、飾樽の正面には剣と菱、瀧水と書かれているのがそれである。
 いまも文筆家には剣菱を愛飲する人が多い。
酒造家なのに坂上桐陰は酒が呑めず、與鹿によく意見している。長崎滞在中の與鹿とのやりとりを伝える書面がのこっているが、このなかでも諌めている。

香坡とは崇福寺、萬福寺、諏訪神社をめぐり、清の後藤春卿に招かれて丸山の花月に遊び与えれた一文字を読み込んだ即興漢詩をつくっている。ここでは砲術家の高島秋帆と知り合い、坂本龍馬との交友が生まれた。
江戸に幕府の大砲試射場がつくられたがいまの高島平である。伊豆韮山に反射炉を築いた江川氏は高島高島秋帆と共同で水車力を利用した旋盤をつくって砲身の加工をしている。
稲佐山にはよく登ったようである。長崎の女校書(遊女)たちは中国へ帰る清人を見送るためこの山にのぼり、鶴浦から舟が見えなくなるまでここに立ってひそかに見送る風習があったという。冬は凧あげが行われる。よく見えるように帯をといて風に吹流したという。與鹿は女校書に頼まれ、清人への手紙の代筆までしてやった逸話がある。

 浄土寺の山手裏側わずか二丁ほどのところに、亀屋社中の建物があった、建物といっても粗末な小屋のようなものだったらしい。ここが、坂本龍馬の長崎海援隊の拠点であった。近年まで建物が残っていたが、昭和五〇年代、荒廃があまりにひどいので取り壊したそうである。今は石碑がたてられている。
近年再建されゆかりの品があつめられ、多くの女性龍馬ファンが訪れている。