アイ・ラブ みどり

逆境にもめげず、けなげに生きるみどり達がいとおしくてなりません。

眞鍋小学校の桜

2012年04月14日 | みどりの風景
 土浦市立眞鍋小学校の校庭には、105年前、明治40年に植栽された染井吉野5株が満開を迎えています。ソメイヨシノの樹齢は60年と言われていますが、この百年桜は今も元気に花を咲かせています。校庭に植えられているため、根元は子供達に踏み固められ、木登りする子供達も多いのではないでしょうか。余程生命力の強い桜ではありませんか。百年以上も多くの子供たちを見守り、また守られてきたこれらの桜の存在感には、本当に圧倒されます。正に学び舎の誇れるシンボルです。誇れるものを持つことは、子供達の心の成長に少なからず影響をもたらすのではないでしょうか。
 海外で活躍する日本人にとり、国旗と国歌は最も基本的な精神的拠り所であるはずです。しかし日本の学校では、国旗も国歌も軍国主義の遺物として無視あるいは軽視されているといいます。最近大企業では英語が公用語に採用され、学校でも英語教育が重視され、相対的に国語が軽視されようとしています。これから、国旗・国歌・国語を誇りとしない若者が増えるのでしょうか。それは日本人なのでしょうか。
 私の14年間の海外勤務での経験では、外国人の日本人に対する興味は「日本人的」考え方でした。私の日本人としての常識が、彼等にはとても新鮮に映るのです。彼らとは異なる私のアイデアを、彼等は真剣に理解しようとするのです。そこで私の日本人の定義は「日本の環境で育ち、日本語でものを考える人」となるのです。遺伝子は関係ありません。
 国際化とは、英語を上手に話すことではありません。日本人的ものの考えが出来ることだと思います。逆に外国人が、彼等のモノサシで日本を語るとき、日本人には気がつかない新鮮な日本観に接することができます。それが面白いのです。従って、国際化には日本人は日本人になりきることが肝心なのです。いろいろな国の人達が集まり、それぞれの意見を戦わせば、新しい「国際的」文化が生まれるのです。英語が上手に話せても、日本人的思考が身についていなければ、それは英語族を崇める猿真似人種にかならず、外国人には相手にされません。
 真壁小学校の卒業生の心には、あの百年桜にまつわる思い出が残り、人格形成に少なからぬ影響をもたらしていることと思います。きっと素晴らしい人材に恵まれているのではないでしょうか。

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1 コメント

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English (noga)
2012-04-23 02:51:18
宇宙の成り立ち、古代文明の有様、外国の実情などを知る場合にも、我々は英語を使わなくてはならない。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。

英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


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