先日職場で「鈍感力」が昼食時の話題にのぼり、それ以来気になっています。同題名を掲げたW氏の最近の著作を読まれた方がいて、夫婦がうまくやっていくには結局鈍感力が重要であるらしい、ということなどを話されていたのでした。その他に、評論家のいうことなどに傷ついて書けなくなってしまう才能のある小説家の方々のことなども取り上げられているということでした。ここでも鈍感力は重要で、何を言われようと馬耳東風で自分のスタイルを貫き通すことができるかどうかが生き残る鍵である、と主張されていたようです。確かに現代では高く評価され、大変な高額で取引されている絵なども当初は猛烈な批判を受け、酷評されていたりしています。音楽もしかり。
私自身はその本を読んでおりませんが、その方の話しを聞きながら、ふと「オリジナル」を保持することが思い浮かんだのでした。とはいっても何故かストレートにつながるとは思えない、何か引っかかるものを感じたのでした。一見もっともらしい話しの筋ではあるのですが、どうも「鈍感力」がオリジナルを養うことにはならないのではないかと思うのです。
鈍感である、ということは「自分を傷つけない」ことに近いように思われます。しかし、そこにはどこか投げやりな誤摩化しを感じるのです。とりあえず見なかった、聞かなかったことにする、というような。それはあまりにも小手先の処世術で、結局いつかは破綻するようにおもうのです。
逆に酷評したり足を引っ張ったりする方々のことを深く理解し、思い遣る繊細さ=細やかな気遣いが「自分を傷つけない」強さにつながるように思うのです。それは結果的には「鈍感力」のように見えるかもしれません。そうやって様々な刺激を受け流し、飄々と我が道を行き、オリジナルを養っていくことができるのではないでしょうか。もちろんそんなこと今のわたしには到底できないことなのですが、生きる目標です。究極は「抱き参らせる」ですね。
こうありたいものだなぁ、というアイディアがあることはなかなか素敵なことです。