以前から感じていることなのですが、「疑似科学」にはもちろん困惑しますが、それに対抗する方々の文章にもしばしば困惑します。罵倒に相当する言葉も多く、そのような言葉を使わなくとも、淡々と証拠が足りないこと、考え方のバリエーションに偏りがあること(他の可能性を敢えて無視する)、などを指摘することが重要だと思います。
さて、疑似科学です。少し私の思うところを整理させて頂きます。
疑似科学の重要なポイントは「えっ?」と思うような意外性。そして反現代科学。この二つの傾向は大体どれも同じです。疑似科学のサイトに書かれている学説の歴史は大概似たようなストーリーが多く、次のようなものです。
「ある現象に関して、意外性のある仮説を「科学者」や「医者」が世に問うたが、学会には無視された。または否定された。その場合、論争の期間を経て、その科学者は学術界で抹殺され学説もお蔵入りしてしまった。」
おそらくその学説の支持者は
「ところが長い時を経て、その方の仮説がまた再評価され、仮説の先見性が見直された」
という経過を「信じている」のだと思います。
実際、学説が問われた時代の学会では、その学説は全く理解されなかったがその後大変に優れたものであった、という事例は沢山あります。学問の世界にも流行があって、その流行から外れた分野は研究費にも困る、という事情はあります。国を揚げて「○○研究」を支援、などとなりますと、その傾向はますます強くなります。
したがって、現在「疑似科学」とされている学説でも、そのうちには日の目を見るに違いない。という予想はあってもおかしくありません。
「疑似科学」の支持者の主張には「その分野の学術界から何の反論もない。」とありますが、科学的仮説は「実証」が全て。きちんとした「実験」がなされて初めてその仮説の真偽があきらかになります。それまでは「可能性」は「可能性」として残されているわけであり、否定も肯定もできない、というのが「良心的な科学者」の態度だと思います。
ではなぜ誰も実験をしないのか?現代においてその仮説を実証するための実験に予算をつけるかどうか、です。科学予算が限られている限り、取捨選択されるわけで、予算がつくかどうかはその時代の要請とも無関係ではないのです。
理論的な「仮説」は殆ど資金無しで行えますが、「実証」のためにはかなりの予算が必要です。その予算の原資は日本の場合殆ど国家財政です。欧米のような大きな個人的財団は少ないですから。したがって「仮説」は時がくるまで「仮説」として残しておくよりほかはありません。あるいはファンドレイジングなどで研究予算を確保して「実証」を試みることも選択肢の一つでしょう。
ただ、いくつかある「疑似科学」でも「医療」に関するものについては、実際に安易に人に応用されて大変な結果につながることもあります。「信じる」前によくよく検討されるべきだと思います。
また、ある学説を支持する方々が宣伝に使っている「説明文」にはかなり危うい部分もあります。学術界からの警告があっても良さそうなのですが、学者の立場からしてみると、反論に費やす労力がない、ということでしょう。反「疑似科学」の方々はそういう意味ではボランティア精神の旺盛な方々であり、頭が下がります。
そんな方達にさらなるお願いをするのは心苦しいのですが、説明をもう少し丁寧に行って頂ければ「疑似科学」の犠牲者ももう少し減るのではないかと思う次第です。