無知の知

ほたるぶくろの日記

寒い台風?

2010-10-29 00:10:37 | 日記

黒点が活発に活動しています。今日は寒かったです。いよいよ季節は冬を感じさせるようになってきました。それなのに、今頃台風が接近しているのです。本当に季節の感覚がおかしくなりそうです。来週は20度になるとか?

今週も予定が詰まっています。ありがたいことです。職場では、不満やストレスを溜め込んでいる方がいて、いらぬお節介=干渉をしてきますが、きっぱり祓っています。うっかり漏電しかけていましたが、何とかなっております。皆さんもっと自分の道を歩んで頂きたいです。立ち止まって他人の道行きにあれこれ言いがかりをつけている場合ではないとおもいます。命短し!


今日の雑感

2010-10-26 00:12:10 | 日記

太陽の黒点も多く、小さめのフレアが沢山起こっています。太陽X線グラフは小刻みに忙しく動いています。平成になってもう20年以上が経ったのですね。鳳凰について思いをめぐらせておりました。

鳳凰に気持ちを寄せますと、なぜか凛とした空気が流れてくるのを感じます。あの正しい姿勢のせいでしょうか。さまざまの画家の方が鳳凰を描かれていますが、どれもまことに豪華ではあっても乱れのない美しさです。その表象のごとく、日本に住まう人々が生きていけるといいなと思います。

光と液体。工学系の方達に、何らかのヒントとなるのでしょうか。過去の地球の遺産を食いつぶしながら生きる現代の生活。早く改めたいと願っております。どんな発明がとびだすのか楽しみにしていましょう。


道の確認

2010-10-24 10:22:17 | 日記

昨日は夕方からは寒いくらいでした。昼間出かけるときはちょっとこれでは暑いかも~と思えるくらいだったのですが、持っていってよかった、上着、でした。今年の夏は長かったので、今もまだちょっと暑いとついつい油断してしまいそうです。でも、確実に季節は進んでいて、もう秋なのですね。日が落ちますとすうっと冷えてきます。とくに昨日の夕方は風も冷たく、上着を着るとほっと暖かい感じがしてなんだかうれしくなってしまいました。

このところ折に触れてさまざまな言葉や議論にふと何かを感じることがあります。先日の「一灯照隅 万灯照国」もそうです。時間のあるときに書いていきたいと思っていますが、なかなか出典の明らかにならないものも多いです。

これもそのひとつなのですが、
「どんな境遇の中でも感謝するべきことがあり、自分を大切に生きていくことが大切である」
という趣旨の言葉が中世のキリスト教神学者のことばとして紹介されていたのを耳にしました。宗教改革以前の方の言葉です。まだ出典や正確な文言が見つかりませんので、詳細はそのうちということでお許しください。さて、この言葉に対する反論として、
「それでは今大変劣悪な社会的条件のなかにおかれている方もその境遇に満足し、改革を目指すことはいけないということですか?」
という疑問がなげかけられますと、
「そういうことではなく、自分の長所も短所もふくめて大切な自分であると受け入れて、毎日を努力していくことが現実を生きていく基本である」
という議論であったと思います。

あまりに平明でそうですかと流してしまいそうなことですが、これをすることが何と難しいことか。全ての悩みはここに始まると言ってもいいかもしれない、と思うほどに「自分を受け入れること」ができずに苦しむのが人間のようです。「自分」といいましてもその状況はどんどん変わっていきます。失敗をしてしまったトホホな自分であったり、病を得てボロボロの自分であったりすることもありましょう。それでも、その「自分」はこの世を生きている限り神さまを宿す神社であるのです。この世に生きていることができる、何かを「する」ことができる大きな恩寵を得ています。

さまざまな幻惑に囚われず、たんたんと生きていけるといいな、と思います。


一灯照隅、万灯照国

2010-10-20 00:07:05 | 日記

日曜日にやや大きめのフレアが発生して以来、太陽X線のグラフは大きく動いています。昨日今日と小さなフレアが断続的に発生しています。黒点数も多くなっていて、太陽は活発です。
あまりにたんたんとした太陽の活動に静かな感動をおぼえます。

先日、ちょっと面白い文章にであったので紹介させて頂きます。
安岡正篤という方の文章で、最澄の「一灯照隅 万灯照国」という言葉を解釈した文章です。
『一灯照隅 万灯照国』
一つの灯火を掲げて一隅を照らす。
そうした誠心誠意の歩みを続けると、
いつか必ず共鳴する人が現れてくる。
一灯は二灯となり三灯となり、
いつしか万灯となって
国をほのかに照らすようになる。
だからまず自分から始めなければいけない。
そのためには自分自身が
明りにならなければいけない。
それは手燭を持つことではない。
そんなものは吹き消されたら
それっきり真っ暗になってしまう。
そうではなく、自分自身が発光体になるのだ。

10行目の「それは手燭を持つことではない。」と
最後の「自分自身が発光体になるのだ。」にはびっくりしました。

今自分ができることを誠心誠意やり切ることが人生の目的なのだと思います。他人からの評価や結果は目的でもなんでもありません。それは付随してあるものにすぎないのです。


私たちと酸素

2010-10-18 00:08:42 | 日記

30億年前まで地球に酸素がほとんどなかったことは地質学的な証拠から明らかなのだそうです。したがって、その頃までに現れた地球最初期の生物は酸素のないところでも生きられる、逆に酸素があると増殖できなかったり死滅してしまうような嫌気性生物であったと考えられています。そしてこのときの生物は、現在でも偏性嫌気性菌としてヒトの腸内や地中に広く棲んでおり、連綿と命をつないでいるのです。

においのある腸内ガスを産生する偏性嫌気性菌は超太古から生息している細菌であるのです。お腹の中に地球上の生命の始まりの生物が生きている。こう考えますとほんとうに目眩がするような気がします。身体の中に地球の歴史があったのですね。

ところで空気中の酸素濃度は大体21%です。職場の特別な部屋は事情があって酸素濃度のモニタリングをしていますが、数字はほとんど21%です。めったにぶれません。すごいことです。約18%未満になりますと酸素欠乏症になり、ひどいときは脳細胞の破壊がはじまります。たった数%ぶれただけでヒトは死んでしまうのです。こういうごく身近な物理的環境の安定性を考えますと、この宇宙空間に生かされていることがなんと奇跡的なことかがよくわかります。

逆に血中の酸素分圧が高くなった場合、神経系の細胞、気道、肺胞の細胞が酸素によって障害され、生命の危険がでてきます。酸素カプセルに入るくらいではこのようなことは起こりません。主に潜水などのときにこの危険があります。スキューバダイビングをされる方は理解されていた方がよいと思います。その他は未熟児網膜症の一因であることでしょうか。子宮からいきなり大気中の酸素濃度に晒され、さらに保育器では高濃度の酸素が投与されています。現在は酸素管理が厳重になって、患者さんは激減したということです。