無知の知

ほたるぶくろの日記

心の時代

2013-10-19 11:04:17 | 日記

先日某テレビの番組で某国の様子が放映されたようです。私は観ていませんので、詳細はわかりません。放送予定という番宣を観ました。日本の約十倍くらいの人口があって、この数十年で資本主義経済が導入されました。かねてより貧富の差のあること、汚職が蔓延していることなど知られていましたが、今や貧富の差はさらに拡大し、人々の欲望が巨大化しているのでしょう。

心ある人々が嘆くような事態が多くなっているのかもしれません。そしてこの番宣を観て、やっぱりという感じがしました。また、こうした動きのあることが大変頼もしく、有り難いことだと思いました。彼の国の人々が自分で気づき、正して行くことが肝要です。

「宝の持ち腐れ」を憶い出させる出来事が最近身の回りによくあります。

持っているだけではどうしようもありません。聖書の中にもそのような一節があったかと思います。適切に使って行かなくては何のために持っているのか?これは財産のことだけではなく、能力もまたしかり。体力も知力も技術も持っているだけでは何にもないのと同じです。

そのことを改めて良く噛み締めますと、つまり動いて何かをしなくては何にもならない、ということです。当たり前すぎる当たり前のことなのですが、心に留めて生きて行きませんとついつい持っていることに胡座を書いている自分に気がつきます。油断は禁物だと自分に言い聞かせています。


小雨の日

2013-10-05 19:24:46 | 日記

小雨の日は私の中では雪の日と同じ範疇に入ります。なんとなく静かで心が落ち着く感じがする日だからでしょう。雪の日はしんしんと寒く、小雨の日は風に乗った小雨が身体を濡らします。屋内にいることが大変心地よい日でもあります。

しかしだからこそ、私は出かけたくなります。今日も普段はぐったりしている土曜日の昼に、わざわざ買い物に行きました。しかも歩いて。雪の日にも私は無性に出かけたくなるのです。寒いですし雪道を歩くのは骨が折れます。以前から変な癖だと思っていました。そして今朝も、小雨が降っているのを確認し、なんとなく心も軽く出かけようと思ったのでした。外へ出ますと、案の定ひんやりとした湿気を含んだ空気を感じ、しぶしぶと傘に関係なく身体に小雨が降り掛かってきました。考えようによっては不快な外出ではあります。それなのに私はとても嬉々として出かけようとしていました。

しかも今日に限って電車を使わずに歩いて買い物にいきました。雨に濡れているのにちっとも嫌じゃないのです。いや、体感的にはじめじめとして嫌なのに何故か楽しい。なんでなんだろうと歩きながら考えこんでしまいました。

そうして思い至ったのは、外出して帰ってきて、屋内の快適さを改めて感じることが楽しいからなんだと気づきました。これが土砂降りであったり、台風のような大風が吹いていたり、身の危険を感じるような状況でしたら外出したくなったりはしません。じっと屋内にいて、不安に思いながら外の様子を窺っています。静かな雪や小雨だからこその楽しみなのです。

それは今の私が雨風を凌ぐ住処がある、ということを確認する作業なのでしょう。その有り難さを殊更に感じることができる。そのための、言うなれば儀式のようなものなのかもしれません。私は余り賢くなくて、有り難い状況を確認するためには、そうではない状況に一度身を置かなくてはその有り難さを認識できないのでしょう。あるいはそれを確認することがとてもうれしい。変な性分ですね。

人生もそんな面があるように思えます。わざわざ困難に突っ込んで行くようなことをすることがあります。ばかだなあ、と思いながらそのような方向に舵を取ることが何度となくありました。その度に、何でなんだろう、と密かに思っていました。これもそこから這い上がったとき、ああよかった、とほっとするときの幸せな気持ちを感じたいための無意識の選択なのかもしれません。

人間はいつも自分が快適に感じるための選択をしますが、それがしばしば逆に思えることもあります。しかしそれは結局は、廻り回って幸せを感じるための選択なのかもしれません。