無知の知

ほたるぶくろの日記

ホーキング教授の警告

2010-04-29 10:57:27 | 日記

先日物理学者スティーブン・ホーキング教授がエイリアン(地球外生物)とのコンタクトについて発言されたことがニュースになっておりました。ホーキング教授は
「地球外に生命体が存在すると確信する。しかしわれわれはその生命体を探しだしてはならず、できるだけ接触を避けなければならない。」
と主張されたそうです。

『博士は、4月25日に放映された自らの宇宙観を紹介する番組で、地球以外に生命が存在する可能性はかなり高く、自分の惑星の資源を使い果たした後、資源や居住場所を求めて宇宙をさまよっている恐れがあると指摘。(宇宙人が)地球に来たら「コロンブスが北米大陸に来て、先住民にとっては悪い影響をもたらしたのと同じような結果になるだろう」と述べた。 』(47NEWSより)

彼も何事かを伝える必要を感じているのかもしれません。この警告には聞き流すことのできないものを感じます。

エイリアンとも友好的にと考えている方々が困惑しているようですが、それは少々世間知らずな(宇宙知らず?)ことかもしれません。


頭の中のしきり

2010-04-28 23:34:37 | 日記

毎日いろいろなことがあります。そのたびに、「あ、これは書いておきたいなぁ」と思うことが浮かびます。とくに通勤の途中など、そんなテーマがいろいろ浮かぶのです。が、あれこれ一日の仕事を終えて夜になり、さて書こうかと思ったとき、それらのテーマはすっかり頭の中から抜けています。「あー何だったけなー」と考えるのですが、さっぱり思い出せません。どうも時間限定で開く記憶箱が頭の中にあるらしいです。

とくに最近は自宅の方でもやること満載なため、頭の中は段取りで一杯一杯。仕事場のほうも水面下での動きがあり、これまた無視できない要素があるため、input情報がわんさかあります。しかもすぐには結論を出せなかったり、判断がつかないことがほとんど。もともと私の得意技でもある「とりあえず泳がせておく」ことにますます磨きがかかっている(?)状況です。私の潜在意識は大変忙しいはずです。一日のうちどこにいるかで、頭の中にしきりがあるようなのです。その場に身をおきますと、記憶が自然に湧いてきて昨日の続きの作業や考えごとが始まります。ほとんど自動的にそうなります。チャンネルが切り替わるような感じです。

今回そんな毎日で困ったことがありました。昼間のうちに連絡しておかなくてはいけない引っ越し関連のことなどがあって、仕事場での空き時間に連絡をしようとしました。最近は何でも「ID」や番号が必要なわけですが、家ではすぐに頭に浮かぶのに仕事場では全く思い出せないのでした(汗)用件を済ませるのにだいぶん冷や汗をかきました。脳内の自動運転回路が沢山できているのかもしれません。活動的に働かせる容量を確保するために、顕在意識に出力する情報を制限しているのでしょう。その場で必要とされる情報しか、自然には出てこないようになっているようです。

しかし逆に、あることに集中することが容易になってきたようにも思います。まったくもって不思議です。


日本人の腸内細菌

2010-04-26 22:39:41 | 生命科学
先日のNatureに腸内細菌についての面白い記事が出ていました。世界中の食文化の違いは、あるものを消化できるかどうかを決めているようだ、という話です。えっ、人間の消化できるモノは人種が違うと異なるの? いえいえ人種ではなく、食文化そのものが消化できるモノを規定していくらしい、というはなしです。ある場所に生活し、その場所の食文化になじんでいれば消化できるようになるという話しです。今回の論文であきらかにされたのは、日本人の腸内細菌はノリに含まれる硫酸化多糖類を消化するCAZyme(カザイムあるいはCAザイム)という酵素をもっているのに、北米人の腸内細菌はもっていない、ということです。

もともとこの酵素は腸内細菌の持ち物ではありません。それは海洋細菌(海中に生存する細菌)から腸内細菌に移ってきたものらしいのです。日本人は滅菌していない海のものを食べます。その中には毒性のない海洋細菌も含まれています。それが腸内に到達し、長い年月の間に海洋細菌から腸内細菌へとCAZymeの遺伝子伝播が起こったようです。そしてめでたくわれわれはノリを消化できるようになったということです。

これは面白いことです。食べるものによって食べられるものが決まってくることを意味するからです。なんだか意味深いことだなぁと妙に納得してしまったのでした。

心の問題もそういうことなのでしょうか。受け取る情報が受け取ることができる情報を決めるようになっていくとか。違和感を感じずに何度も受け取っていられる情報に接しているうちに、さらにその情報を受け取りやすく変化(進化)していく、ということでしょうか。また、初め違和感があったとして、それでも受け取り続けていると受け取りやすい精神構造になっていくとか。。。それは一種の憑依、洗脳ともいえるかもしれませんね。どのような情報、刺激を心に受け止めるべきなのかは慎重でありたいと思います。

個人と組織について

2010-04-25 10:47:45 | 日記

世界各地での大地震、アイスランドでの火山の爆発から、地下でなにかが起こりつつあるのだろうなぁ、とは思っていました。日本海側では「竜宮の使い」という珍しい深海魚が昨年末から相次いで観察されています。これも深海での海水温の変化や潮流の変化、あるいは地磁気の変化などを示しているのではないでしょうか。いずれにせよ地球規模での変化が感じられるできごとが多く、何かがかわりつつあるのだなあと感じます。地球も他の天体と同様、常に変化しているということです。本当にゆっくりとした、しかし圧倒的な力で地球の地下も動いているのです。まさに地球という大きなエネルギーを感じることができます。日々の忙しい暮らしの合間にも、ときどきは空を見上げ地を踏みしめ風を感じ、この宇宙にこうして生かされていることに思いを馳せていきたいとおもいます。

今回の引っ越しでは、予定を立てていた数日、それまで冷たい雨や風の続いた日々だったのがウソのように暖かく、からっと晴れてくれました。終わった後に、その最中はすこしもお天気の心配をしなかったなあ~、と気がつきました。なんとなくあれこれ忙しく過ごしていましたら、いいお天気に恵まれた、という感じです。偶然かもしれませんが、何らかの配慮を頂いたのかもしれません。本当にありがたいことでした。

昨日は家族でこの辺りの散策をしました。この住居は以前のところから氏神様へ行く途中にあり、私はこれまで何度も目にしていたところです。まさかそこに移ることになろうとは思いもよりませんでしたが。そんなこともありまして、私にとってはなにかとおなじみの地域なのですが、駅や学校への道筋がメインであった子供や主人にとっては目新しく感じるようです。そうして最後に氏神様へお参りをし、帰ってきました。氏神様では結婚式の最中!拝殿の外からそっとお参りさせて頂きました。そのとき、ふわわ~と柔らかな風が吹いてきました。気のせいかもしれませんが、何となく歓待して頂いたような気がしてうれしく思ったことです。

さて、話は変わりまして、個人と組織のことについてまた考えていました。これは以前からの私のテーマの一つです。人間が社会の中で生きていくとき、どうしても何らかの組織に所属することになります。私はどうもこれが苦手です。とはいえ、これまで新興宗教などに無縁でいられたのも、この組織嫌いの御蔭さまかもしれません。ただ、組織嫌いということは「仲間を作る」ということへの躊躇にもつながります。社会生活においてはなかなか厄介な心の動きなのであります。もちろん、仕事場において私は組織に属しておりますし、日本国民であります。また上にも書いたように氏神様の氏子でもあります。実際には様々の組織に属し、活動しています。そして、それの社会生活における重要さもよくわかっています。(一応責任ある大人でありますし)

それでは、なんでまたこんなにいやなのか、と思っておりました。ごく具体的な実務上必要な事柄をこなすための組織、というのはよろしいのです。問題はその先、「人の精神を縛る要素」についてでしょう。そして人間の構築している組織ではつねにその要素が紛れ込んできます。これに対して私たちは無防備ではいけないのだと思います。

人間社会はつねに他の方に触れ、刺激を受け、魂を鍛える場です。他人を避けていてはそもそもこの世にやっとの思いで生まれてきた意味が無くなってしまいます。他人の思いをを避けることでしょうか。他人に触れ自分を磨き、しかもその思い(重い)をさらっと受け流していくことができればよいのでしょう。そのためにも自分を十分に涵養することが重要なのだとおもいます。目の前の為すべきことを一生懸命やること。それによって常に自分自神に立ち返り、自分の元気を養うことになるのでしょう。自分を信じて。


ごった煮のこの世

2010-04-21 23:04:27 | 日記

昨日はときどき亡き母のことなど思い出しつつ、穏やかに一日を過ごすことができました。もう不思議と哀しい気持ちにはなりません。いろいろなことが懐かしくおもいだされますが、それはもう過ぎ去った遠い記憶となっています。そうして改めて母が一生懸命に生きて働いていたとおもいました。

よい人生だったのではないでしょうか。最後には孫であるうちの娘を可愛がってくれました。子供はそれを憶えていて「おばあちゃんはこうしてくれたよね。」などとときどきいいます。また、そのことでうちの子は人はしんでいくものであることを学び、お年寄りを見ると「もう、明日しんじゃうんじゃないかと思うとたまらない~」などと言って、主人の父母を気遣ったり、近所のお年寄りを気遣ったりするようになりました。

母が逝ってから、もう三人も親類の方がなくなりました。70歳以上の叔父叔母が沢山おりますので、これからもひとりまたひとりと人生を終えていかれるときに立ち会うことになります。どなたも私の縁者であり、大切な御先祖さまの係累です。最後の最後まで悔いの無いよう明るく生きていって頂きたいと願っています。

さて、ある方の話しです。その方は他の方に比べればずっと恵まれた境涯にあるにもかかわらず、不満で不満でびりびりしています。ご自分よりはるかに恵まれていない周りの方に立場が上なことをいいことに、思いやりのない行動をとっています。そんな姿を見ていますと、なんとなくもの寂しい気持ちになります。もしもその方がご自分の恵まれた立場に感謝し周りの方々を大事にしていたら、きっとその方は今のどから手が出るほどに欲している立場を容易に手に入れることができるのに、と思うからです。感謝どころか不満をまき散らし、自分の欲が叶わないのはお前のせいだとばかりに周りに当たり散らしているのです。しかしそれも過去の自分を見るようで、その方を非難する気持ちより、過去の自分を深く恥じ反省することにつながっています。
今の私がしなくてはならないこと。それはこの組織から逃げるのではなく、命がけで組織内を改革する気概をもつこと。この世はあらゆる世界の存在のごった煮なのですから。