yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

聖武天皇東国行幸都市サミット-1 東国行幸の謎に迫るの条

2008-10-28 23:35:12 | 久留倍遺跡を考える会
 聖武天皇東国行幸都市サミットに出かけてみようと思ったら・・・ 


(こんな冊子ができました。余分がありませんので当日中になくなると思います。参加できない方のために少し内容をご紹介していきます)

今回のシンポジウムでは近年の発掘調査によって明らかになった河口、赤坂、朝明、石占、禾津の頓宮及びその出発点となった平城京、到着点となった恭仁京の発掘調査に関わる関係教育・研究機関からパネラーをお呼びし、聖武東国行幸の謎に迫ろうと考えています。既にこの様に立派な資料集も刷り上がり開会を待つばかりですが、その内容の一部をご紹介しておきたいと思います。
第1回は私の拙文による全体像の提示です。


(総カラー24頁の資料集です。)

聖武東国行幸の謎に迫る  山中 章

天平十二(740)年十月二十九日、聖武天皇は突然、「我関東に行かんとす」という謎めいたことばを残して平城京を後にしました。
人はこれを、“九州で 勃発した藤原広嗣の乱に恐れおののいた天皇が、乱を避けるために東へ逃げたのだ”と評しました。この評価こそ聖武を「ひ弱な天皇」とするイメージを植え付けた元凶だったように思われます。本当にそうなのでしょうか?
本サミットは、この行幸の際に聖武が宿泊したと推定される七箇所の頓宮の所在地で調査研究にあたっておられる研究者の方々にお集まりいただき、その当否を探ろうとするものです。
個別の頓宮の実態を探る前に、まず初めに「東国行幸」全体について私の考えを述べておこうと思います。もちろん各地の先生方の意見とは必ずしも一致しませんのでご注意下さい。私が検討する材料は『続日本紀』と発掘調査成果です。

〔1〕『続日本紀』の表現方法
 聖武天皇の東国行幸を伝える『続日本紀』の記事の表現方法には三つのパターンが認められます。それぞれ宿泊した施設と深く関係していたものと推定しています。

【頓宮型】:造伊勢行宮司が造営した長期滞在型の施設です。
・ 十一月一日     伊賀国伊賀郡安保頓宮宿
・ 十一月二~十一日  伊勢国一志郡河口頓宮
・ 十一月十四~二十二日 鈴鹿郡赤坂頓宮
・ 十二月一~五日    不破郡不破頓宮
安保頓宮を除き十日から五日の長期滞在型です。但し安保頓宮への宿泊は大雨による臨時避難的なものであったと考えられまず。斎王帰京時に用いられる頓宮に宿泊したのではないでしょうか。これ以外の他の三頓宮がいずれも関所在地である点は注目すべき点です。

【頓宿型】:造伊勢国行宮司が、短期宿泊用に郡関連施設を改修・建設した宿泊所です。
・十月二十九日      山辺郡竹谿村堀越頓宿
・十一月二十五日     桑名郡石占頓宿
・十二月六日       坂田郡横川頓宿
 ・十二月十一~十三日   志賀郡禾津頓(宿)
・十二月十四日      山背国相楽郡玉井頓宿

【郡到型】:郡衙の所在する郡の中枢部の施設を転用・改築した宿泊所です。
・十月三十日       到伊賀国名張郡
・十一月十二・十三日   到一志郡宿
・十一月二十三・二十四日 到朝明郡
・十一月二十六~二十九日 到美濃国当伎郡
・十二月七・八日     到犬上(郡)頓
・十二月九日       到蒲生郡宿
・十二月十日       到野洲(郡)頓宿
 特に頓宮型に注目しますと、頓宮滞在中に各行幸の性格を示すような特別な行動(行為)をとっています。頓宮が関の一角に設けられたことも大きな特徴で、長期滞在にふさわしいしっかりした施設が設けられていたのではないでしょうか。

 〔2〕平城京放棄の決意
 聖武天皇の東国行幸は、藤原広嗣の乱によると言われます。乱の起こったのが天平十二(740)年九月三日、同年十月二十三日に大野東人によって捕らえられ、処刑されて事件は終わります。ところが、既に戦況も明かな十月十九日、造伊勢国行宮司(伊勢の国に行宮を造るための臨時の役人と機構)が任命・制定されています。さらに二十四日には次第司(行幸を管理・警備する役人)が配置され、従四位上塩焼王を御前長官。従四位下石川王を御後長官。正五位下藤原朝臣仲麻呂を前騎兵大将軍、正五位下紀朝臣麻路を後騎兵大将軍が任命されます。これによって徴発された騎兵は東西の史部と秦忌寸等からなる総勢四百人の大部隊となりました。
 これだけの計画が「乱に驚いた」人物にできるでしょうか。造伊勢国行宮司が造作を担当した可能性のある施設は五箇所に上ります。不可解に思ったのは敵地で闘っていた大野東人であって、聖武はこの時だからこそ行幸に出発したのではないかと思われます。
 十月二十六日、有名な「朕縁有所意今月末、暫往関東」という詔を発し、二十九日に伊勢国に向かって出発します。平城京には留守役として鈴鹿王と藤原豊成が残されます。そして、光明皇后も、先の天皇・元正太上天皇も随行しませんでした。ここにも聖武の行幸の意図を読み解くヒントが隠されています。既に平城京廃都の意思は硬かったのではないでしょうか。
 同日、大和国山辺郡竹谿(つげ)村堀越に、三十日名張郡、十一月朔日伊賀郡安保頓宮に宿泊します。


 〔3〕伊勢・美濃行幸の二つの目的
(1) 伊勢神宮奉幣行幸 (十一月二日~十三日)
 行幸の隊列は二日にいよいよ伊勢国に入り、一志郡河口頓宮に至ります。翌三日、伊勢大神宮へ大井王の引率の下、中臣・忌部の両神事に携わる氏族を率いて幣帛が奉られます。関宮とも呼ばれた河口頓宮には十日間もの長きにわたり滞在し、滞在中に藤原広嗣の処刑を確認し、聖武天皇としては珍しく遊猟も行いました。この後、雲出川沿いに下って、一志郡に入るまでが前半の行幸でした。
 ところで、聖武は都祁から名張に入った後、安保から伊勢に至ります。伊賀を縦断した大海人皇子とは別ルートを採りました。ここにも河口へ入った明確な意図が読み取れます。出発した十月二十九日を記録した『続日本紀』は、わざわざ「行幸伊勢国」と明記しています。聖武の第一の目的は伊勢つまり伊勢大神宮への奉幣だったのです。
 なお、『万葉集』の記述から大伴家持が内舎人として陪従していたことが知られています。

 河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも

 河口頓宮で詠んだこの歌からは、新婚早々に伊勢国に陪従させられた若き家持の悶々たる心情が伺えます。家持は一連の歌の最後に新京恭仁京をめでる歌を残していますので、おそらく最後まで聖武に従ったものと思われます。
(2) 壬申の乱追体験行幸 (十一月十四日~二十五日)
 ところが一志を経った後、十一月十四日には伊勢湾岸から踵を返すように北へ方向を転じ、鈴鹿郡赤坂頓宮に入ります。その後の行幸行程は、壬申の乱において大海人皇子の進んだコースとほとんど一致します。伊賀国の行程を省き伊勢国以降を追走したのです。
 赤坂頓宮では十一月十四日から二十二日までの九日間もの長きにわたり滞在し、行幸に陪従した橘諸兄を筆頭に関係官人に叙位しています。さらに、二十三・二十四日には朝明郡に宿泊しますが、次の桑名石占頓宿地とは目と鼻の先です。壬申の乱において大海人皇子は朝明郡との境・迹太川で天照大神を望拝し、戦勝を祈願します。大海人皇子と伊勢神宮こそ聖武が拠って立つ大きな柱だったのです。久留倍遺跡の丘に立つと、真南に伊勢神宮を臨むことができます。発掘調査された遺構群は頓宮に相応しい構造をしています。偉大な曾祖父の事績を整然とした隊列でもって辿り、祖先神を抱く伊勢国で自らの偉大な姿を示すことによって、聖武の存在感はいよいよ増したに違いありません。
 
 御食国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ

 家持が狭残行宮で詠んだというこの歌からも、伊勢・志摩への熱い思いを知ることができます。
(3) 美濃行幸と不破関 (十一月二十六日~十二月五日)
 二十六日に美濃国当伎郡の養老に至り美濃行幸が開始されます。十二月朔日には壬申の乱で陣頭指揮をとった地、不破郡不破頓宮に入り、五日まで滞在します。この間、二日には宮処寺(みやこでら)と曳常泉(ひきつねのいずみ)を訪れ往時を偲んでいます。宮処寺に比定されているのが岐阜県不破郡垂井町に所在する宮代廃寺です。三重塔に復原可能な塔心礎が残り、壬申の乱に功績のあった宮勝木実の氏寺であったとされます。大海人皇子一行が拠点とした桑名の地が縄生廃寺でよいとしますと同じ塔であったといえます。
 四日には、それまで随行してきた騎兵司の任務を解いて平城京へ帰還させます。軍事パレードとしての伊勢・美濃行幸の目的が達成されたことを意味します。
 
 〔4〕恭仁遷都行幸 (十二月六日~十五日)
 六日に不破を出て近江国坂田郡横川に宿泊すると、右大臣橘諸兄を山背国相楽郡恭仁(くに)郷へ派遣します。遷都のためです。琵琶湖沿岸を七日犬上郡、九日蒲生郡、十日野洲郡、十一日志賀郡と足早に進み、禾津(あわづ)に宿泊すると目指す地は直ぐそこでした。十四日に山背国玉井へ入ると、翌十五日には恭仁京遷都が宣せられ、平城京に留まっていた光明皇后と元正太上天皇が新京に呼び寄せられるのでした。翌天平十三年正月朝賀の儀式は宮垣の何もない中帳を張った急ごしらえのものでした。周囲の目を欺く電光石火の早業でした。十五日には藤原不比等に与えられていた封戸五千戸が返され,内三千戸は国分寺の仏像造立費用として全国に分与されます。既に聖武の新政策は煮詰まっていたのです。


 その時歴史は動くはずだった?!しかし聖武の思惑は外れてしまったのか!・・・ 

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