yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

河野美代子さん「性と生を考える」三重大学特別講演会-2の条

2010-11-29 22:07:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 来年は入学式に新一年生全員に聞かせたい、とてもとても感動的なお話しだった。超多忙な河野先生にこの性教育後進大学の三重大学まで来て頂いたことに厚く厚く御礼申し上げたい。来年も是非お願い致します。

 河野先生のブログに三重大学の学生が次々とコメントしてくれています。広がりのあるとても充実した、素敵な講演会だったことがこれでよく判ります。これこそ三重大学が最近お念仏のように唱えている「生きる力」(4つの力の内の一つ)となる講演会だったと思うのです。

 ところで、なぜ私が河野先生をお呼びしたいと思ったかなのです。

 私が学生達に常日頃授業で申していることは、「考古学は「ロマン」学ではなく、人文科学であり、歴史学である」ということなんです。だからどんなテーマの授業でも、必ず現代と対比して話しすることを心がけているのです。
 
 例えばこの前の尖閣列島での問題も、ちょうど斉明天皇の牽牛子塚古墳が発見されたときに「外交」と「戦争」をテーマに対比して話しました。斉明天皇は百済の遺臣達の要請を受ける形で大和から「一族郎党」全てを引き連れて九州に遷り、朝倉宮を設けて百済出兵に備えます。しかし、天皇は既に病を得ていたのかこの地で亡くなり、その跡を継いだ中大兄皇子が白村江に大軍を派遣しますが4万とも言われる軍は全滅します。さらに、唐・新羅連合軍の反撃を畏れた皇子は百済遺臣達の援助を受けて九州から瀬戸内海一帯に朝鮮式山城を構築し一大防衛体制を組みます。さらに緊急事態に備えるために非難に適した近江大津宮に宮殿を移します。日本が外国に占領される最初の危機でした。

 その原因こそ、「強腰」の政策による海外侵略にありました。おそらく、天智天皇の治世はこの後遺症によって大きく後退したものと推測されます。

 マスコミや戦争大好き集団はやたらと菅政権の弱腰を批判していますが、日本という国は歴史的に外交下手だし、常に「弱腰」なんです。今回もその「伝統」がそのまま出たに過ぎないんです。本当に馬鹿正直なんです。下手なんです。どうしてもう少し巧妙に立ち回れないのか、ホント、悲しくなります。しかし、これまでのどの政権も下手だということは最近次々と公表されている戦後の外交文書を見れば明かです。最も典型的なのがアメリカに対する「弱腰」です。

 だからといって、強行に打って出て成功した例は一つもないんです。その一番最初の典型例が斉明天皇による百済支援戦争、そして一番身近なのが太平洋戦争でしょうね。今回の件も、「弱腰」と叫んでいる人達のどれだけの人が自分達の失敗の歴史を見直しているんでしょうね。じゃ、「強腰」に打って出てどう収拾するんですかね。戦争するんですか?「弱腰」だと批判するのではなく、いかに外交を進めるべきかを政党なんてどうでもいいから知恵を絞り合うことなはずなんです。まさに党利党略でしかものを言わない。普天間問題然り、年金問題然り、消費税問題また然り。このまま日本は沈没するんですかね。もったいない。

 こんな感じです。歴史学は現代の課題を解決するための極めて現実的な、現代的な学問であることを申し上げています。考古学だけが「ロマン」だなんてとんでもない!人間にとって学問ほどロマンテイックなものはありません。最も人間的な営みなのです。先日のノーベル賞をもらわれた根岸さんも鈴木さんも化学は面白い!!こんなに楽しいものはない!!と仰っているのです。そして彼らはこう言います。

 「現代社会のためになる研究をしてきた。」と。私たち人文学は直ぐに人類の役に立つ成果を示すことはできません。とってもまどろっこしく、時間をかけて説明し、納得させ、資料を積み重ねて課題解決の道を示すからです。いろんな資料を使う内に、いろんな方法で説明する内に、様々な人が様々な方法で示すので、「解答例」が何種類も出てくるのです。だから自然科学のように解答がきちんと出ることはないのです。でも人間は考える葦です。考えることによって、社会を進めてきました。答えは直ぐ出ないが、しかし人類を緩やかに、人間的な方向に持ってきたのは人文学なのです。

 先日の日本学術会議中部支部の講演会で驚くべきことを聞きました。日本学術会議のテーマには「人文科学」は入れないと謳ってきたというのです。信じられません!!これだから日本は駄目なんです。成果や効率だけが人間社会が追い求めるものでないことは日常生活をみれば明らかです。悲しい!!

 いろんな人間がいろんな意見を交わし、みんなで考え、少しずつ実行してきたからこそ社会は進んできたのです。

 歴史学をやる私は、過去の人間の姿を知ることによって、現代社会の課題を解決する、考える材料を与えているつもりです。若い学生がどう生きていくのか、生きる指針の何本かを提示しているつもりです。

 目の前の学生達が「性」で悩んでいたら、「生」を迷っていたら、その学生達にいろんな解決方法例を提示するのが教育だと思うのです。私が専門とする日本の古代社会、とりわけ国家を動かしてきた支配者層では「性」は男「性」によって支配されていました。女「性」は子供を産む装置と化していました。私の研究している桓武天皇は26人もの女性に35人もの子供を産ませたとして知られています。こんな歴史、繰り返したくないですよね。じゃ、どうするの?という感じなのです。

 25日はどれだけの学生が集まってくれるか、とても不安でした。こちらからお願いしておいて20人や30人では話しになりませんものね。それで3週間程前から自分達でチラシを作って、デートDVを研究する院生のTMさんと毎日毎日チラシ撒きをしたんです。彼女のゼミの同級生達もとても熱心に手伝ってくれました。男子学生も来てくれたのにはある種感動しました。

 内の考古学の学生にもチラシの印刷やパンフレットの製本など裏方さんとして手伝ってもらいました。印刷する間に中身を読むものですから、みんなそれなりに関心を抱いてくれるようになって、

 「私これ絶対に聞きに行きますから!」と言ってくれました。

 もちろん受け付けもやってくれ、しっかり聞いてくれました。本当は彼氏にも聞かせたかったことだろうが、今彼は山奥で研究中とか。ま、また機会があるだろうから、次回は二人で聞いてもらおうと思います。
 つい先ほども内の男子学生がお礼を言いに来ました。「きいてよかった!」と。

 次回はデートDVに焦点を当てて講演会をやったらどうかと思っています。皆さんまた協力して下さいね。

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河野美代子さん「性と生を考える」三重大学特別講演会-1の条

2010-11-28 14:26:32 | yaasan随想
 11月25日には広島から産婦人科医、河野美代子先生をお招きして特別講演会を開くことができた。

 

 「性と生を考える」と題して90分にわたってお話し頂いた。三重大学共通教育の公式な特別講演会だった。大方の予想を覆して(私には自信があったんだが)150人もの学生が集まってくれた。とっても嬉しかった。



 考古学の学生がとても苦労して作ってくれた横断幕。この経験でこれからは苦労することなくこうした横断幕の作れることが判明した。けがの光明である。



 実はこの企画は私の提案だった。親しい先生にメールして、「広島にとても素晴らしい産婦人科の先生がいらっしゃる。学生(若者)のことをとても心配し、考えて様々な活動をなさっている。詳しいことはブログにあるのでそれを見て貰えればどんな先生か直ぐ判る。是非三重大学にお招きして学生に話を聞かせたいのですが、ご協力頂けませんか。」と。



 最初の、いや、会う人会う人の反応はこうだった。

 「エッ?先生て、「考古学」ですよね・・・」

 「ええ、でも学生時代はサボって考古学なんてやってませんでした。「社会勉強」ばかりしていたのでいろんな先輩を知っているんです。河野先生も私の大学の先輩なんです。もちろん医学部ですから普通は知るはずもない存在なんですが・・・。」

 こんな調子で相談する内に、大学のトップまで話しを持っていって下さった。さすがである。そこで河野先生と連絡を取って決まったのが夏前だった。それから私の方は海外調査やら何やらで仕事をしている内にあっという間に時間が経って、25日を迎えてしまった。 

 前日に会場を下見したのだが、明らかに椅子が足りない(と私は思った)。そこで事務の担当者に椅子を増やして欲しいとお願いした。相手方は半信半疑で、椅子はもうない!といってわずか20脚ほど準備してくれただけだった。



 蓋を開けて皆さんびっくり、来るは、来るは、あっという間に会場は一杯になった。そして定刻通りに始まった。

 そこで最も驚いたのが、学生達の真剣に聞き入る姿。誰一人として寝ようとはしない。会場は150人もの学生がいるとは思えないくらいシーンとし、河野先生の話がどんどん進んでいく。

 恥ずかしいことに、私の授業にも120人ほどの学生がいるが、まず喋るな!と注意するところから始まる。それでもひそひそ話すからまた注意しないと行けない。そのうち半分くらいの学生が寝出す。或いはメールやゲームに興じる。集中して聞いてくれるのは前の方に陣取る30人くらいである。

 何が違うのか?

 医療の最前線で得る最新の情報に基づいた、最新の対応に日々奔走されているその姿が伝わってくるからだろう。

 まず最初に先生が初めてドクターになって二年目に会った癌患者の方の話しから始まった。後に話される子宮頸がんの話しの伏線だろう。子宮頸がんはビールスによって引き起こされることが判り、ワクチンが開発されて唯一防止できる癌となった。にもかかわらず、ある宗教集団共はワクチンを飲むと妊娠しなくなるとか全くのデタラメを言ってこのワクチンを子供に摂取することを妨害している。実は彼らの主張の最大の理由は、ワクチンを打てば子供がsexに走り、世の中が乱れるというのである。

 これほど馬鹿げた理由はない。人間を人間としてみていない証拠であろう。大半の人はいつか結婚し、子供を作る。その過程で女性にビールスがうつり、癌になる危険性が生まれる。これを防止するのにもっとも適切な処置、癌にならなくする処置がワクチンなのである。もし子宮頸がんになり子宮を切除することになればその女性は(そのカップルは)子供をもうけることができなくなる。ハハとして子供を育てる機会を失う危険性ができるのである。これを防ぐことのできる最善の方法が子宮頸がんワクチンというのに、それに反対する輩がいる。とんでもない集団である。

 だから先生はまず、命の尊さ、癌患者の、患者自身だけではなく、患者の家族も含めた人々の悲しみの姿を話された。

 次が受診者の生々しい妊娠、性感染症罹患の実態紹介であった。不十分な避妊による妊娠や性感染症への罹患が極めて現実的なことであることが紹介された。

「もし君たちが、同様の行動を取るとこうなるのだから、しっかり事例を見て、もしカップルで過ごしている人がいたら二人で相談してしっかり対応するんだよ!」と教えて頂いた。

 そして子宮頸がんワクチンのお話し。



 前述の通り、唯一の防止できる癌でありながらその普及が様々な障害で止まっている現実を訴え、少々のお金はかかるが命が救えるのだから、打つべきだと強調された。ご自分が経験された若いお母さん方の子宮癌による絶命の姿をできるだけ防ぎたいという切実な訴えであったと聞いた。学生達の真剣な眼差しが大変印象的であった。

 最後に男女の身体について丁寧なお話しがあった。特に今回は男子学生が多かったので彼らの性の悩みに関する詳細な話しがあった。講演後一人の男子学生が歩み寄り、初めてこれだけ詳しく聞かせて頂き、とても印象に残った。彼女を大切にこれからも付きあっていきたいという姿に、とても暖かい人間性を感じることができた(この学生さんでしょうか、河野先生のブログにコメントが寄せられています。)


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高橋美久二さんの命日の条

2010-11-23 00:00:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今日11月23日は高橋美久二さんのご命日である。
 もうあれから4年も経ったのかと不思議な気持ちになる。

 あの角刈り頭から訥々と話される高橋さんにどれだけ励まされ、勇気づけられたことか。

 高橋さんはめったに怒られない。また、めったに人を貶さない。だからついその気になって頑張ってしまう。するとまた褒めてくれる。するとまた頑張ろうかなと思う。そんな高橋さんが御病気になられて直ぐの頃、なぜかこんな話しをされたことがある。

 「山中君な、そろそろ考古学協会に入ってくれないか。」

 「エッツ!?」

 意表を突かれた私は言葉に詰まってしまった。
 そもそもが、高橋さんは私が協会には絶対に入らないと知っておられたのである。その理由もそれとなく。だからお付き合いして頂いた30余年間の一度もこんなことは仰らなかった。

 それが突然のカウンターパンチであった。その勢いに押されて

 「しばらく考えさせて下さい」と答えてしまった。

 あそこまで言われたら入ろうかな?高橋さんを困らせるわけにもいかないしな。おそらくもう一度言われたらきっと「了解しました」とお答えしたに違いない。

 でもその後亡くなるまでお会いすることがなかった。手紙は一度だけ書いたのだが、その事には触れなかった。

 高橋さんが亡くなって、もちろん今、私は入る気持ちは全くないのだが、少しだけ引っかかったままだ。それにしてもなぜ突然に私にあんなことを仰ったのだろうか。田舎でこそこそ動いてないで真ん中で発言しろという意味なのだろうか、考古学協会で暴れてこいと言うことだったのだろうか?きっと前者だとは思うのだが、お元気なときに返事をし、その真意を聞いてみたかったのは事実である。

 ついでに言うと私がなぜ入らないか?「権威に頼って生きていきたくない!!」からだ。だから、いつしか日本遺跡学会からも足が遠のいて、とうとうやめてしまった。どこかの監督じゃないが、私には日陰が似合っている。但し、高橋さんとならなんかできたような気もする。
 そんな時、大嘗祭の跡発見!!と大々的に流された藤原宮のその跡と言われた遺構が実は見当違いだったというニュースが流れた。誰にだって間違いはある。だからそれをとやかく言う必要はないと思う。ただ、最近の研究所には、本気で都城を掘っている人、掘ることに意味を見出している考古学研究者があまりに少ないことだけは事実であろう。そんな伏線が、こんな誤報を生み出したとしたら悲しい。権威は嫌いだが、中味のない権威ほど厄介なものはない。

 今年も御霊前に参ることができず、お花を送るに留まってしまった。情けない!!

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 新嘗めと 共に逝きし師 今いずこ 

  

第13回三校交流会in三重大開催の条

2010-11-21 18:26:58 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 昨日20日は三重大学、奈良女子大学、京都府立大学三大学の考古学研究室に所属する学生達による研究成果発表会であった。

 今年で13回目を迎えるこの会は、1998年、当時まだ奈良女子大学にいらっしゃった広瀬和雄さんと始めた交流会である。どうしても内に閉じこもりがちな地方大学、女子大学の学生を刺激して、相互の研究、調査、思考等々をぶつけ合って刺激し合うという主旨で始まった。

 関西にある奈良女子大学ならばいくらでも刺激の場はあるのだが、三重となると周辺を見渡してもその様な機会はほとんどない。せいぜい私たちがやっている考古学研究会東海例会や、名古屋大学の方々が中心となって開催されている古代史研究会がある程度である。

 しかし、いずれも相当の研究者が発表する場であって、学生や院生のレベルではとても機会を得ることは難しい。そこでこうした場を設けて一年に一度他流試合をしようと言うことで始めたのである。主体は学生達であって教官は基本的に口を挟まないことにしている。

 広瀬さんが歴博へ移られてからも続き、途中、京都府立大学の学生達にも参加してもらって、今は三校で順番に回している。今年は三重大学が当番校となった。13時から17時まで熱い議論が続いた。

 昨日の報告は次のようなものであった。

1 松本薫(三重大学M1)「古代伊勢の葬送ー横穴式木室と火化の考察からー」

 古墳時代後期から古代にかけて、遠江から伊勢へ伝来したとされる横穴式木室の構造と火化(木室墓に火を付けて焼くこと)の時期に着目して火化の意味を考察するというものであった。木室を分類し、六世紀初頭から七世紀後半までの同埋葬形態の時期毎の分布を示したまではよかったのだが、その結果当初の課題である火化の目的や意味について考察するには至らなかった。会場からもこの点が厳しく指摘され、現段階の見解でいいから示して欲しいという要望があったが残念ながらそれすら表明されなかった。資料を集めるだけに終わるという典型的な学生の発表であった。
 今改めて構造毎の分布や地域に着目してみると、A形態とされた最も多いタイプが遠江中部の天竜川と太田川に挟まれた地域で、G・H形態が天竜川以西の地でMT15型式の時期に発生したことが判る。A形態という中央に主柱穴を持ち、4辺の溝中からも柱穴が確認されるしっかりした構造の木室墓と、溝だけで形成される木室墓が同時期に別々の地域で成立することに違和感を感じるのだが、G・H形態が浜松市を中心とした天竜川以西に集中するのに対し、A形態が以東の磐田市周辺部に駐中するという地域差によるのかも知れない。これらはいずれも火化されることはなく、木室墓と火化との関係が当初からどの地域にもあるわけではないことを暗示している。
 これが爆発的に増えるのがTK10型式の時期で、天竜川以西と以東(太田川以西)の地域で同時に一挙に事例を増やす。この時期に伊勢国にも伝えられ、津市の君ヶ口古墳や伊勢市の南山古墳でこの時期にはまだ畿内およびその周辺部には展開しない。また、この時期においても火化された可能性は低く、これによっても横穴式木室墓と火化とは当初は関係ないことが予想できる。
 火化が一般化するのがTK43型式の時期で、この時期に初めて畿内およびその周辺部(丹波)に展開し、一部で火化が始まる。火化されるのはA形態のものと、F形態のもので、地域差は認めがたい。ほぼ同時期に遠江、畿内で始まったらしい。畿内(和泉)で始まった点が興味深い。

 せめてこれくらいの分析はして欲しかったのだが、やや準備不足というところであろうか。ま、これからの分析・考察に期待したい。

2 片岡沙霧(奈良女子大学4年)「東部瀬戸内の高地性集落ー弥生時代中期~後期の淡路島北部を中心としてー」

 本報告では淡路島北部が分析の対象とされたのだが、あまりに対象資料が少なく、この資料でもって「東部瀬戸内」を論ずること自体に限界があったと思う。当該地域の高地性集落の研究は大変多く知られており、この点からも少し物足りなかった。一つ一つの遺跡の分析はそれなりに丁寧にやれているだけに惜しまれる。

3 藤原光平(京都府立大学M1)「古墳時代前期における石製品の製作技術について」

 前期古墳時代の石製品、主に椀飾類を中心にしてその製作技術と石材の産地との関係から複数の製作者集団を復元し、石材の流通にも関与した「緊密なネットワーク」の存在を指摘した。

 石材毎に製作技法が異なるのは当然だと思うのだが、それがネットワークを組むというのがどうも解りづらい。今後もう少し事例分析を加えて、列島全体での比較研究できれば面白くなるのだが・・・。

 報告会の後簡単な鍋パーテーを開いて無事本年度の交流会を終わらすことができた。皆さんお疲れ様でした。また来年を楽しみにしておきます。

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北畠館跡確認調査の条                                                                                                                                                                                                                                                     

2010-11-20 22:00:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は上の妹の誕生日だった。生きていれば60歳、還暦である。そう、彼女が亡くなってもう11年がたつ。その間に母も逝ってしまった。今頃向日で親父も入れて誕生パーテーでもしているのだろうか。



 昨日は午後一番に日本学術会議中部地区会議の講演会に動員され、副会長様の「水循環・水再利用技術と新しい科学と秘術」と題した講演を聴いた。大して期待もしていなかったのだが、理系のトップクラスの講演というのはどんなものかと少しこの点にだけ興味を持って聴くことにした。

 40分の講演をパワーポイントだけで、いろいろなデーターをグラフや数字に表して話しをされた。要するに、水道というものがいかに多くのコストをかけながらも、しかし、いかに安価で安全に全国津々浦々まで供給されているかを文系の人間にも判りやすく話された。

 日本独特の水の再利用という話題を江戸以来の歴史と重ねながら話されたのはなかなか興味深かった。

 もう少し宣伝や広報をすべきだったとは思うが、日頃縁のない日本学術会議なるものの一端が判ってそれなりに興味深かった。その後も二つの講演があったがこちらはパスさせて頂いて美杉村の北畠館跡での範囲確認調査に伺った。





 今回の確認調査の一番北端のトレンチ

 予め何も出ていないということを聞かされていたので、どの様なコメントをすればいいのか少し心の準備が必要だったが、現地に出向いてみてそんな心配は杞憂だと判った。



 たしかに地山と洪水堆積の跡しか出ていなかった。トレンチを開けたどこからも遺構らしき遺構は見付からなかったようだ。

 しかしその対象地の大半は八手俣川の旧氾濫原である。八手俣川は確かに今の流路は幅も狭く、深くなっているが、どうも中世にはもう少し上面を幅広く流れていたと考えざるを得ない状況に見えた。



 こんな遺構??がある程度だという。

 これまでに遺構が確認されている地表面とは2~3m以上高低差があるのである。多気北畠遺跡は一乗谷朝倉氏館跡に比べて面積は三倍近くあるといわれる。果たしてどれだけの家臣団がこの地に居住していたのかよく知らないが、一説によれば700~800人だという。これに関係者を入れて、どんなに多く見積もっても2000人、少なく見ると1000人であろうか。江戸時代に作成されたという絵図によれば、谷にぎっしりと建物が建っていたように描かれているのだが、本当なのだろうか?

 少なくとも今回の確認調査の成果を参考にすれば、八手俣川の縁辺部には施設は何もなかったと判る。これをネガテイヴに捉えるか、ポジテイヴに捉えるか前者なら「空き地の多い、閑散とした土地利用」ということになり、「後者だと、自然景観を活かした館跡」ということになる。

 まだまだ確認調査は始まったばかり、今後の展開がどうなるか判らないが、私は今のところ、後者だと思っている。



 この夏には東端のこのトレンチの直ぐ東の段の上で調査が行われたが、ここでも何も出なかった。段の上は慶正寺伝承地であった。仮にこの地から見付かれば遺跡の東西の軸線である道路が西の北畠館と東の慶正寺を直線で結ぶことになったはずなのだが、・・・・。なかなか想定通りにはいかないのが発掘調査である。

 大都会京都に慣れ親しんだ北畠一族にとって、京都は忘れがたい「故郷」なのだろうが、逆に言うと、伊勢の地にまで来て、自然を活かすことなく暮らすのも野暮な話しである。ま、まだまだこれからどんなどんでん返しが待っているか判らないが、ひとまず昨日はそんなイメージを目に焼き付けて帰宅した。 



 

 果たしてこの様な様相がいつか出てくるのだろうか?少し疑問が感じられた今回の調査であった。

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 北畠 深紅の紅葉 誰か見る

 八手俣の 川面に映ゆる 深紅の葉

 強者ども 多気の紅葉に 何思う

江戸橋・宇治橋身近な橋の話しいろいろ(其の三 外宮火除橋)の条

2010-11-19 21:43:42 | yaasan随想
 こうしてみてみると内宮にも結構大小様々な橋があることが判る。その中にはこんな小さな橋も付け替えられていた。



 清めの手水鉢の近くの小さな橋

 さて内宮の見学を終わって次は外宮であるが、その前にちょっと寄り道。宇治橋の手前にある橋姫神社を見学に行った。

 宇治橋を守る神様で、渡り初めの時にはこの神様が案内するという。驚いたことにこの神殿も改装されていたのである。



 姫が祭神ということでそれでこんなに可愛らしい神殿なのだろうか。もっともそのお蔭で近くで見ることができた。

 

 なぜ橋の神様が女性なのか。主神がアマテラスだからなのだろうか。調べてみないといけない課題なのだが、今日のところはこれくらいにして。





 そして次は外宮である。



 新装なった外宮への入口??火除橋



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 橋姫の 護る宇治橋 蘆の影

 五十鈴川 清流の先 風日橋

 

江戸橋・宇治橋身近な橋の話しいろいろ(其の二 宇治橋)の条

2010-11-18 12:23:58 | yaasan随想
 今年はなぜかよく伊勢神宮に行くことがある。


 明治以降式年遷宮に際して建て替えられるようになったという宇治橋。



 この下を流れる五十鈴川。日本では古墳時代以来、清流、浄水が重要な神事と化す。

 内宮をこの地に置いたのも大いにこれと関係しようか。



 ちょっと失礼、宇治橋の横からのショットである。



 とっても綺麗だね。
 
 別に宗旨替えをしたわけでもなく、信仰心が高まったわけでもなく、突然愛国心が高まったわけでもないのだが、ある時は大学院の授業で、ある時は卒業生との旅行で、既に三度伺った。

 間もなく2013年には式年遷宮ということでその事前?準備が各所で行われており、次の式年遷宮の時には生きていないだろうから、この際その次第を見ておくことも決してマイナスにはならないだろうと思いそれなりに楽しんでいるのである。もちろん天照大神にお賽銭は渡さないし、手を合わすこともない。あくまで歴史資料として「遺跡」見学に行くのである。

 ちなみに式年遷宮というのは第1回が持統天皇の690年に行われており、このことも伊勢神宮の成立を考える上で重要な資料であることも忘れてはならない。そして、持統朝から絶えることなくやられている訳ではなく中世には随分長く断絶しているのである。

 さて今年行って驚いたのは(単に常識がないだけなのだが)、内宮・外宮の殿舎のみならず、様々な施設の新装工事がなされていたことである。

 まず、内宮・外宮共に本殿への入口である橋(宇治橋と火除橋)が架け替えられていたのである。調べてみるとこんな行事は明治からのことだそうで、昔は本殿だけを建て替えたらしい。

 綺麗になった宇治橋や火除橋を渡って、橋の横からその裏側を狙って写真を撮ってみたが、うまく写らない。困ったな、と思って進んでいくと、別宮風日祈宮の前の橋も建て替えられている。おまけにまだ工事中でその細部がよく判るのである。喜んで写真を撮りまくった。特に橋板をどの様にして設置していくのか、この様子が実によく判った(これを参考にするとさきの江戸橋もこのようにして造るのだろうか)。もっと近くで見ていたかったのだが木の間から写真を撮った。



 風日祈宮前の橋。これはまさに工事中であった。



 まだ橋板が置かれていないのでとてもよく判る。



 



 そしてこれが上屋構造である。これを見ると江戸橋の枕木のような木の役割がよく判る。





 風日祈宮側から見た橋。



 まだまだ伊勢神宮でのエピソ-ドは続くのだがとりあえず今回はこの辺で。もう少し続きます。

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江戸橋・宇治橋身近な橋の話しいろいろ(其の一 江戸橋)の条

2010-11-17 06:28:14 | yaasan随想
 一ヶ月ほど前から大学への最寄り駅、近鉄江戸橋駅の先にある「江戸橋」の改修故事が行われている。通行は新江戸橋という、国道23号に架かる橋の方へ迂回するので少し不便である。しかし、そのお蔭で、鉄筋コンクリート造りとはいえ、往時の江戸橋を参考にして造られたと思われる「江戸橋」の構造を見ることができるので、ここに少し、最近訪れた伊勢神宮の宇治橋他の橋と一緒にご紹介しておくことにする。

 実は私は橋にとても興味があるのである。

 なぜ?
 今から三十年程前に長岡京の東二坊坊間小路に架かる小さな橋を掘ったことがあるからだとおもう。調査では、道路の橋に接っして、宅地内にも橋が架かり、これは土橋だった。この宅地というのが長岡京の研究を飛躍的に進めた太政官厨家の敷地。敷地の中央を流れる排水溝に、役所内を移動するための様々な構造の橋が架かっていたのである。これをきっかけに全国の橋を調べ、橋が陸上、水上交通に果たす役割、障害となる理由を考えたのである。(拙稿「古代都城の交通-交差点からみた条坊の機能-」(『考古学研究』第37巻第1号1990年 ほか)

 以来、橋をみるとワクワクするのである。母の旧姓が「大橋」であるのも無関係でないかも知れない。(笑)

 そんな私の目の前に、江戸橋の改修現場が現れたのである。何年か前にもやっていたような気がするのだが、その頃は車を使っていたので、余りこの駅を利用せず、印象に残らなかったのだろう。

 バリケードの隙間から垣間見える橋脚は全部で何本あるのだろう?と思って覗くとこんな光景が。



 橋脚は流石にコンクリートだが、橋板を乗せるための部分には枕木のような木が使われている。この旧江戸橋は現在車も通るので、てっきり完全な鉄筋かと思っていたら木橋としての雰囲気を残しているのである。だから時々こうして改修しなければならないらしい。そんなことならいっそのこと車の通行を制限すればいいのにと思うのだが(だって、こうして通行止めにしてもそんなに困っている人もいないし、交通渋滞が起こっているとも思えないのである。)どうもまた、車を通すらしい。


 向こうに見えるのが国道23号に架かる新江戸橋。こちらはもちろん完全な鉄筋造り。



 そしてその下を流れるのが志登茂川。かつては相当な暴れ川だったらしく、弥生時代の終わり頃(1800年程前)には、三重大学の敷地はほとんど川の中だったらしいことが発掘調査で判っている。ちなみにこの志登茂川が伊勢湾に注ぐその先に「小丹(おに)神社」があったらしい。小丹が転じて鬼と表記するが元は丹、つまり水銀と関係のあることが判る神社が存在したのである。おそらく、かつて上流から水銀を出していたのであろう。なんと言っても伊勢は水銀の国である。

 この江戸橋が繋いでいる道が伊勢街道(参宮街道)と言って、江戸時代には何百万人もの人々が通過した道である。東国からやってきた人は必ずこの橋を渡らなければならなかったはずだ。その橋を渡って直ぐのところに常夜灯がある。



「常夜燈

安永六丁酉正月吉祥日

嶋田氏」

江戸橋の常夜燈(江戸時代・管理者津市)津市指定史跡(昭和50年4月26日指定)

 江戸橋西詰めは伊勢街道(参宮街道)と伊勢別街道の分岐点にあたり、古くから交通の要衝であった。江戸時代には伊勢神宮への参詣が盛んで特にほぼ60年周期で爆発的に流行することがあった「おかげ参り」のときには、各街道筋も参詣客であふれた。
 この常夜燈は、『伊勢参宮名所図会』の絵の中では、江戸橋西詰めの追分けの所に大きく描かれている。安永六年(1777)の銘があり、春日型の形式をしており総高5.4メートル、最下壇の幅2.8メートルで、基壇最上段正面に伊勢信仰の象徴である「太一」を示す「○印」が刻まれている。
 「太一」は、本来中国では北極星の宇宙神のことで、それがいつの頃からか中国の天体思想と伊勢信仰に習合されて、伊勢神宮の天照大神を示す印となったと思われる。
 このような伊勢神宮への献燈は県内各地に見られるが、これらは参宮道者の安全、また神宮への感謝や町内の安泰を祈るものであった。この常夜燈は刻銘から、嶋田氏という一人の寄進者によるもので、沓脱半兵衛という石工によって造られた、津市内に現存する最古のものである。  
 津市教育委員会(常夜燈前の解説)

と書いてある。

 そのすぐ前には道標があり、ここが追分であるとよく判る。



 確かにこの先には高田専修寺がある一身田だ。一身田というのは変わった地名だなと思っていたが、「一御田」なら理解することができる。今ある神社の名前は明治になってつけたものらしいので使えないが、元々「御田」即ちミヤケがこのあたりに置かれていた可能性は十分ある。志登茂川の水運と、伊勢別街道と伊勢街道の陸路が交差し、情報の結節点である。

 なお、江戸橋という橋の名前は藤堂藩参勤交代時の江戸への出発点だからという説が一般的なようだが、「江戸」とは「江」つまり海の湊の「戸」入口という意味で、この辺りが古くから小さな湊であったことによる可能性も十分ある。「御田」がそれ故設けられたと考えるとより興味深いのだが・・・。

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 江戸橋の たもとで休む 雁一羽

 小丹が江の 干潟のアサリ 磯の鴫

 志登茂川 干潟の鴫と 江戸の橋
 

 

ロッテの季節到来,万歳!!の条

2010-11-15 17:32:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都


 これは私の最も好きなチョコレートである。

 あまりに嬉しすぎて写真を撮る前に一本食べてしまった。残念!!

 これもロッテが日本シリーズで優勝したお蔭なのだろうか。或いは、私がロッテファンでもないのに、CS日本シリーズと、一生懸命応援したご褒美なのだろうか。何でもいいのだが、これが手に入ったことが最高に嬉しいのである。

 見るとバッカスの方は「季節限定」とあるではないか。それをゲットしてくれたのが我が娘なのである。持つべきものは娘!!とはよく言ったものである(ホント??)。

 久しぶりに官舎の風呂に入りに帰ると、机の上にこの二つが並んでいるではないか。
 娘曰く
 
 「いつもの通り入ったコンビニでフト目に留まった」

というのである。いつでも売っているチョコなら娘も気にもしなかったのであろうが、私が、この二つはめったに売ってない!と愚痴をこぼしているものだから気付いてくれたのであろう。

 なんと言ってもロッテのチョコはどれも美味しいのである。そのベースにあるのが40年程前に開発された(と思う)ロッテミルクチョコレートなのである。これが何とも言えないコクのあるチョコで、噛むと歯にねっとりとくっつき甘みが徐々に口に広がるのである。

 最近は流石に余り食べなくなったが、基本的に甘党の私は学生に「おつまみを買ってこい」と命じられる(??!!)と、それとなくこれを忍び込ませるのである。次いで好きなのが、クランキーチョコ!。これもまた別のうまさがあって、余りひつこくないのでつい食べ過ぎてしまう。第2位のチョコなのである。

 ア、もちろん別格官弊大社バッカスとラムレーズンは至高の一・二位ですよ。どっちが好きかって?ウーン難しいな。ラムレーズンのちょっとした苦み、バッカスのお酒とのうまみ、ウーン、どっちかな-判らん!

 それにしてもロッテは素晴らしかったよね。どっかのヘボ監督には到底真似の出来ない采配。少々のことでは動揺しないしぶとい度胸。きっと落合も内心これを一番畏れていたのじゃないかな。だから珍しく、日本シリーズ前の監督会議で先制パンチを浴びせたり、自分の方が上だと見せつけたり。あれはおそらく逆効果だったと思うな。西村にしてみれば「落合が焦ってるな」と思わせたのじゃないかな。だって、中日の投手力があれほど優位だとみんな思っていたのに、その投手の投球練習の球数を保証せい、などと言うのは、投手力に不安があることをさらけ出したようなもの。

 事実、チェン以外は使いものにならなかったもんね。これは来シーズンの巨人(セリーグの他球団)にチャンスの情報なのだが、ぼけ監督には理解不能だろうね(一刻も早い川相監督就任を!らいシーズン開幕15連敗くらいすれば回ってくるように思うのだがね。)。

 そうそう、日本シリーズといえば今江ですよね。あの何とも言えないひょうきんな顔で、右に左に、大きいのやら小さいのやら、時には大振りして三振するかと思えば、フォアボールを選ぶやら、何ともつかみ所のない選手。その野球の母体がかつて私の勤務していた向日市にあったというのが、小さな自慢なのである。もちろん少年野球の時代の今江を知っているわけでも、その後に付き合いがあるわけでも何でもないのだが、ちょっぴり嬉しいのである。

 そういえば今年の文化勲章をもらった脇田晴子さん、脇田さんのお家も向日市にある。講演の依頼やら、遺跡の保存やら、文化財保護委員会の打ち合わせやらで何度もご自宅を訪ねた。ほとんどはご主人の脇田修さんに会いに行くのが目的だが、時々いらっしゃる晴子さんからお茶を頂いたり、ご自慢の能装束の話を伺ったりしていた。そんな思い出が、勲章受章の記事と共によみがえってきた。今年は京都府では「向日市」がキーワードなのだが、果たして市民は、向日市の役人は、市長や議員はどれだけ自覚していることやら。

 何せ、かつて国宝の流失に何の手も打たなかった市だもんね。

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 久留倍丘 バッカスチョコと 秋の空

 ラムレーズン ほおばる口に 葭の香

 シリーズに 原なき巨人 明日こそは

 

晩秋の伊勢路を300人と楽しく歩くの条

2010-11-14 09:01:45 | 久留倍遺跡を考える会
 昨日は第3回久留倍遺跡まつり、第19回壬申の乱ウオークだった。秋晴れの快晴とはいかなかったが、暑くもなく、寒くもなく、手頃な気温で歩くには最適の一日だった。もう三回目なのでそれほど参加者は来ないのかなと思っていたが、せんと君効果なのか、300人余の方々にお集まり頂いた。

 特に久留倍遺跡では四日市市教育委員会の方々が丁寧な説明をして頂き、全員が熱心に聞き入った。何よりも事前に現地の草刈りをして頂き、広々とした丘で、子供達が走り回っていたのがとても印象的だった。

 今日はその写真集をまとめてアップすることにする。



 朝6時起きで学生さん達は過酷なスケジュールを終日実にしっかりとこなしてくれた。感謝!三岐鉄道の黄色の車体がまぶしい。



 早朝から三岐鉄道大矢知駅は多くの市民で埋まった。近鉄富田駅で乗り換え、一駅でこの駅だ。是非一度お越し下さいね。



 速く歩き出さないかなーと心待ちの皆さん。



 第一の中継点長倉神社。急な坂の階段をよいしょよいしょと登った。急遽ウオークの解説を任された私はマイクを持って、リュックを背負い、喋りながらの歩きで、とてもとても疲れてしまった。



 子供達待望のせんと君とのショット!

 せんと君には子供達が群がって、なかなか説明が始められないシーンも。



 行列は続く。古代衣装の皆さん、本当に有り難うございました。お疲れ様でした。



 高架の道はほぼできあがってしまった。とても悲しい!!

 

 第二の中継点天武天皇遙拝所ではお茶のサービスが。これまた感謝!!



 迹太川だとの説もある十四川沿いに北上。ちょっと最後が尻切れトンボで残念だった。



 2時間余のウオークが終わって講演前の開場ではせんと君のパフォーマンスが。



 中に入って一日中熱演してくれたNAさん、そしてこれをサポートしてくれた院生のMKさん、四年生のIHさん、お疲れ様でした。

 


 最後は森浩一先生から「伊勢国雑考」と題して、伊勢国にまつわる様々な話題を判りやすくお話し頂いた。開場の皆さんは大満足の様子であった。

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 晩秋の 伊勢路で聖武 何思う

 せんと君 葭満つ久留倍 降り立ちて 

 古代服 駆け巡る童 赤とんぼ



第3回久留倍遺跡まつり開催!!の条

2010-11-12 09:09:03 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 明日11月13日(土)は第3回久留倍遺跡まつりである。

 今回の総合テーマは、聖武天皇と万葉歌人と伊勢」である。

 午前中は第19回壬申の乱ウオークを兼ねて久留倍遺跡周辺を約2時間ほど歩く予定である。途中久留倍官衙遺跡でせんと君や古代衣装隊との写真撮影会を予定している。

 ウオークの主役は「せんと君」である。考える会の皆さんが昨日奈良から借りてこられ、早速着ぐるみを担当する学生に予行演習ということになった。



 せんと君が到着して、いろいろな装置を調べ、着替えることになったのだが、結構これが大事で、服を着替え、Tシャツやスパッツをはいて、そして着ぐるみを着なければならない。この時期でも結構暑いという。

 さらに問題は着ぐるみが1m60cm以下の人しか切れないとのことで、必然、女子学生が着ることになったのである。

 

 早速私の所へ来てくれて、ツーショット!!

周りの学生がえらく羨ましがっていた。

 ということで明日八時半から「まつり」が始まる。日程は以下の通り。

 事前のメールでは関東からも何人か来て下さるとか。午後の講演会は同志社大学名誉教授の森浩一先生と奈良文化財研究所の馬場基さんである。是非ご参加下さい。



 午前の部 壬申の乱ウオーク「久留倍遺跡を歩く!

1 開場 8時30分 三岐鉄道大矢知駅前集合(近鉄富田駅の同じ構内-名古屋方面行き乗り場と同じところです-に三岐鉄道の乗り場があります。真っ黄色の2両編成の車両です。)

2 ウオーク出発 9時
 主なウオーキングコース 三岐鉄道大矢知駅→大矢知そうめんの里→長倉神社(延喜式内社・論社)→国史跡久留倍官衙遺跡 遺跡説明・せんと君や古代衣装隊と撮影会 →天武天皇迹太川御遙拝所→十四川堤→耳常神社(延喜式内社 論社)→あさけプラザ到着(11時45分予定)

 午後の部 平城遷都1300年記念特別講演会 入場無料 講演要旨集500円で希望者配布

1 場所 あさけプラザ 近鉄富田駅下車西口(名古屋方面に向かって左側)から徒歩15分

2 開場 12時30分 せんと君や古代衣装隊のパフォーマンスあり

3 講演会 13時~16時30分
 1 山中 章「伊勢斎王の悲劇-大来皇女万葉歌にみる斎王-」

 2 馬場 基先生「聖武天皇と万葉歌人と伊勢」

 3 森 浩一先生「伊勢国雑考-特に持統天皇と聖武天皇の行宮-」 




冊子もできあがり!!


 是非ご参加下さい。

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京都アスニーでの講演の条

2010-11-06 09:43:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は京都市の外郭団体である京都市生涯学習振興財団が運営する京都アスニーでの講演会だった。



 平安京創生館の最新の展示

 昨年もちょうどこの頃お話しをさせて頂いたのだが、今年もお声がかかった。というのも、昨年からいらっしゃる元京都新聞記者のSTさんの影響大なのだろう。STさんとはもう30年以上も昔、乙訓担当記者として赴任されたときからのお付き合いで、その後もずっと年賀状だけはやりとりしていたのだが、昨年、アスニーの講演で訪れた事務局の部屋でばったり再開したのだ。

 その折りも懐かしさのあまり、事前の準備もそこそこに話し込んだんだが、今回も懐かしい昔のこと、最近訪れられたという長岡宮大極殿や宝菩提院廃寺のことで話しが大盛り上がり。会場に入る2分前に話が終わるという楽しい一時だった。

 会場に入って驚いたのは、ナナナントこのアスニーのゴールデンエイジアカデミーという企画はいつも大盛況で500人は下らないというのである。さらに驚いたことに山科会場でも放映されており、合わせて700人くらいの方が聞いて下さるという。
 
 実は直前になってパワーポイントの写真を配布資料として作っていたのだが、その用意した数は100。これではとても足りないということで、終了後に配ることにした。

 話の中身は、最近凝っている伊勢神宮と斎王についてで、「斎王が来なかった斎宮」と題して話した。ちょっと後半の時間が足りなくて,というより、前半に時間を使いすぎて、少々最後は急ぎ足になり、ちょっと会場のみなさんには判りにくい部分が残ったのではないかと大いに反省しているが、まあまあ何とか斎宮の存在意義は伝えられたのではないかと思っている。

 それにしても、関西と中部でのこの聴衆の質や量の違いは何なんだろうか。逆にいうと、関西にいて、これが当たり前と思って育ってきた私が、今や中部東海の人が来なくて当たり前というのに慣れすぎてしまっていたことをあらためて思い知らされた一日でもあった。

 最近は伊賀などで講演する機会が増え、次第に聴衆が増えていっている姿にそれなりの手応えを感じていたところだが、伊賀で70人が「すごい!」のに対し、京都では700人が当たり前!!この違いをもっともっと思い知って、自ら研鑽し、より多くの方々に東海地方でも来て頂けるように、中味の濃い、しかし、楽しくて判りやすい考古学の話題を提供しなければいけないことを実感した次第である。

 講演が終わってホッとして事務所のソファーで雑談をしていたらまたまた知り合いが登場。この春まで京都市埋蔵文化財研究所の課長?部長?をなさっていたNSさんが突然現れたのだ。定年前にお辞めになっていたことは聞いていたのだが、まさかここに再就職なさっていたとは驚きだった。

 彼とは向日市に勤めていたとき、ちょうど京都市埋文研が長岡京地域を調査するときいつも担当されていたのでとても懇意にして頂いていた仲で、ここのところは全くご無沙汰していたのだが、その誠実なお人柄から京都市埋文研の中でも数少ない友人の一人だっただけに再開はとても嬉しかった。そしてわざわざアスニーの一階の展示コーナーが模様替えをしたので案内して下さった。


 香をかぐコーナー

 今回のテーマは「かほり」ということで、京都の有名なお香屋さんである松花堂の協力を得て、にほいに関する資料が展示されていた。中央には風俗資料館から借りてきたという源氏物語の香争いの場面を再現した模型が置かれ、その周囲には松花堂から借りたという各種の香材が手にとってかげるように置かれていた。

すばらしい!!

さすがNSさんである。やはり展示にしろ調査にしろ中味をうまく伝えられるのは「人間!!」だと改めて実感した。

これからもいろんなアイデアの展示をしたいとお話しなさる姿は活き活きとなさっていて、早く辞められてもこんな職場があってよかったな!ととても清々しい気分になって帰ることができた。

 夕方からは来年春に予定しているローマ時代の都市遺跡の踏査の打ち合わせのために山口大学のHY博士と一杯やった。彼はこの夏に長く住み慣れた山口のお家を引き払って、久しぶりに京都に移り住むことになり、その膨大な蔵書(何でも書斎を大改修し、23000冊の蔵書可能なラックを購入したとか。○○○万円かかったとか。お前も作れといわれたが、そんな事したら息子夫婦に追い出される!(笑))の整理にここのところ明け暮れているのだという。

 途中、イタリアの案内の件で数少ない私の大学時代の親しい後輩であるTSさんとの電話会談も入れて、4時間も素敵なお店で歓談した。とっても美味しい和食の品々は、写真を撮るのも忘れるくらい食が進み、寒いので暖房を付けて飲むという贅沢なビールも杯を重ね、少々酔っぱらい気味で帰宅した。HY博士のご自宅も同じ私鉄沿線になり、これからも度度飲もうねということで、久しぶりにすっきりした気分で帰宅!レバノン以来約1ヶ月半に渡る朝昼逆転現象がやっと解消できそうなくらい、そのままバタンキュウ!!久しぶりに清々しい気分で朝を目覚め、息子の息子や息子の娘と朝から「お遊び」する「凡人の日常」を楽しんだのであった。

 さあ、これから鉢巻き締め直して、原稿と明後日の研究会の資料作りである。頑張らねば!!

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 土瓶蒸し かほる祇園に 友といて

 銀杏の 苦みをほほに 蓄えて

 斎王が 鄙の地揺れる 葭の道

 みやこ人 思いやる先 伊勢の荻 

 雛の辺に 雅びと往く
 勢多の雁





 祇園谷本の美しい食事

紀の国での結婚式の条

2010-11-01 01:18:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 10月30日の土曜日は紀の国和歌山で教え子の結婚式だった。もうこれで?まだこれで??6人目の結婚式である。これまでに70人ほどの教え子を出してきたがまだうん十人残っている。みんな晩婚になってきて、30を越えてまだ独身なのが一杯いる。誰か何とかして!!



 花嫁代表として挨拶しろということで新郎についで挨拶する羽目に。



 前日までの多忙のため何にも用意していかなかったので大慌てで電車の中から研究室に電話!花嫁の卒論の正確なタイトルを確認して、必死で暗記。
 それがまた小難しくて、「紀氏配下の専業集団に関する一考察-海部を中心として-」でなかなか覚えられない。何度か復唱する内に6年前の今頃、彼女と紀氏をどう評価するかで何度か議論したことが思い出されてきた。
 彼女の実家はかの有名な岩橋千塚の近く。国の特別史跡になっている和歌山県随一の史跡である。そんな古墳群の主が言うまでもなく紀氏である。

 紀氏にも2系統あり、紀朝臣氏と紀臣氏がいる。紀ノ川を挟んでそれぞれ形成する古墳群が異なるのであるが、そうした紀氏の統括したであろう専業集団の中から海部をとりだし、どの様な形で塩生産を専業化し、その過程で王権とどの様に関わっていったかを古墳群の分布などから考えようというものであった。

 卒業後は和歌山県や市の嘱託をしながら採用試験を受けていたのだが、職を得る前に、県庁から伴侶をゲットしてしまったらしい。そんな彼女のお祝いの会であった。


 学友達も勢揃い。

 この頃の結婚式はとても演出が凝っているので、飽きないのだが、ある面懲りすぎて、自然さに欠ける点もなきにしもあらずだが、今回は、花嫁の気性も手伝ってか、とても自然で、楽しい会となった。学生時代からさっぱりしていて、言うことをはっきり言うタイプの学生だったもので、結婚するという話しの時も、「マー、何となくですワ!」「そうなってしまったという感じ」などと、もちろんテレもあるのだろうが、語っていた。

 そんな彼女だが、今日はおとなしく、しおらしくしているのかと思いきや、様々な世卿に大笑い、よくあるケーキの食べさせ合いでも、自分の食べるものは堂々と小さくせい!と命ずる有様。既にお尻に敷いている感が強かった。(笑)

 そんな彼女がちょっぴりしんみりしたのが、彼の弾き語りのギターの時。きっと思い出が脳裏をよぎったのだろう。涙こそ後少しのところで我慢したが、この時ばかりはぐっと来たみたいである。



 そんな彼女を祝って三重や愛知からもたくさんの友人が駆けつけた。同級生の3人はいつもとても仲良しである。もう一人の仲間であった学生は今医師と結婚して奄美大島にいる上、この前の大雨で飛行場に行けないところにいるとかで残念ながら参加できなかったがいろんなメッセージをよこしてくれた。我々も会場から花嫁姿を写メールした!!この頃は便利ですよね。



 またまた凝った研究室仲間からの寄せ書きジグソーパズル。



 夢中でジグソーパズルに挑戦する彼女を心配そうに横から眺める新郎。

 そして、二次会にもこいというから市内の繁華街であった若者だらけの二次会へ!!これまた楽しい出し物ばかりで花嫁は笑い転げる始末。とても幸せそうで,とても嬉しかった。今日からフランスに新婚旅行だそうだ。羨ましい限りだ。







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 紀の国の 秋の花嫁 大笑い

 白無垢の しとやかな妹 青き空

 紀氏達の 栄華を夢む 秋の嫁