yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

湯豆腐談義の条

2011-02-27 08:00:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 あなたは湯豆腐に何を入れますか?

 こんなことを聞いたら京都の人間は大いに馬鹿にするに違いない。

 「湯豆腐には豆腐を入れるだけやんか」と

 昆布を入れて出汁をだし、そこに絹ごし豆腐を入れて醤油、ネギ、鰹節をかけて頂く。

 それだけ!!これで熱々のご飯があれば十分!子供の頃はこれでご飯を何杯もおかわりして食べた。安くて、美味しくて、そして暖まる。そして、ダイエットにもなる。こんなに素敵なお料理はない。

 にもかかわらずである。ここ東海地方では白菜じゃの、こんにゃくじゃの、椎茸じゃのいろんなものを入れるという。

 「○△か!」とつい言ってしまう。それは水炊きに豆腐がはいっているだけやないか。水炊きは水炊き、鴨鍋なんて最高やね。それと湯豆腐を一緒にしてはいかん。

 と言うわけで学生の前で京都純正の湯豆腐をご披露した。

 果たしてその反応は??



美味しい!!


おいしい!!!


オイシイ!!!!



であった。

 早速名古屋の自宅に帰って実践し家族に差し出した学生も居た。

 「反応はどやった?」

 「美味しい!!もっと作って!

 最近広島出身の学生がオイスターソース(牡蠣の醤油)をくれた。これがなかなかうまい!!

 

 湯豆腐に 何も入れるな! 尾張びと

 湯豆腐と 熱燗で一杯 たまらない

 湯豆腐に 寒さ忘れて 食談義

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 ここ二ヶ月はとにかく缶詰状態で缶詰を食し、ストーブで直ぐできるうどんを食す生活が続き、とうとう5kgも痩せたのである。もっともこれまで太りすぎなのでこれでも後5kgは痩せないといけないのである。つまり後二ヶ月間詰めになると理想の体重58kgになるのである。

 

 これはとてもいい食事の日である。鰺の干物ともやしスープ、そして新米の炊きたてご飯。日本ならではの美味しい食事なのである。

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このビデオを見て下さいの条

2011-02-25 20:53:58 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 世界中のあらゆる体制が崩壊しつつあります。

 右や左や真ん中という基準はもう既にどこにもありません。

 あるのは「権力者」とそれ以外です。

 人類の歴史は権力闘争でした。その終焉が近付いているのかも知れません。つまり歴史的には人類の崩壊なのかも知れません。もしこの先に非権力の社会を作ることができなければ。人類の住める地球の自壊作用が始まるのかもしれません。そうなるのかどうかは人類の「智恵」にかかっているのでしょう。「智恵」が生まれなければアフリカでも、中東でも、そしていつか中国でも再び混乱が席巻し新たな「暴君」を生み出すだけかも知れません。

  http://www.youtube.com/watch?v=J56oGIznUOQ

 
 立て飢えたる者よ

 今ぞ日は近し・・・・



*****************


 暴虐の雲光を覆い

 敵の嵐は荒れ狂う

 怯ます進め我らが友よ

 敵の鉄鎖を打ち砕け!・・・・・



************************

 この歌が久しぶりに活き活きと甦ってきます。

 しかし、「繁栄」と「自由」につかりきった日本の若者の一体何人がこの心境がわかるのでしょうか。何人がアフリカに、中東に連帯することができるのでしょうか。

 悲しい!!

 でもこのビデオを見て、非暴力の「力」の強さを実感します。軍隊も、核兵器も秘密警察も何もいりません。必要なのは非暴力と非権力のみです。


 虐殺され続けているリビアの若者に支援を!!

 自由のない中国の若者に金ではなく自由を!!

 そして日本の若者に、考える力を!!

 権力のない社会の構築を考え、行動する力を!!


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『三重大史学』第11号刊行の条

2011-02-25 12:12:12 | 三重大学考古学研究室情報
 私達考古学研究室と日本史研究室、そして昨年から東洋史研究室も一緒に一年に一回雑誌を出すことにしている。

『三重大史学』という。

 刊行して今年で11年。もう既に10号を越えた。そこでこれまでのバックナンバーを作成したのでご紹介しておくことにする。まさに玉石混淆の雑誌であるが、興味をお持ち頂けた掲載誌があり、購入頂ければ幸いです。ただし、2号につきましては在庫がほとんどありませんので、コピーサービスにてお願い致します。ご注文は、下記まで料金を添えてお申し込み下さい。

 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148 山中 章

送料は不要です。

三重大史学バックナンバー(各1000円)

創刊号    比較都市考古学の旅―慶州と飛鳥―                      山中 章
江戸時代における大名居城の城門規定について                白峰 旬
人物埴輪樹立の意義                          神尾 和歌子
賀茂別雷神社と盲人                           山田 雄司
鳴物停止令と地域社会―伊勢神宮周辺地域を中心に―             塚本 明
伊勢新聞に見る近代日本のアジア観                    伊藤 真琴
第2号     伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国庄                  山中 章
伊勢・伊賀における埴輪製作集団の動向                 中川 千恵美
『北野社家日記』人名索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
山田奉行の裁許権                             塚本 明
第3号     尾張国名古屋城修補許可の老中奉書について                 白峰 旬
尾鷲大庄屋文書の調査始まる―地域文化運動としての古文書調査の試み―    塚本 明
中華人民共和国陝西省東龍山漢墓
―陝西省考古研究所・三重大学人文学部考古学研究室合同発掘調査記録―
三重大学人文学部考古学研究室
『北野社家日記』地名索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
南北朝期室町幕府の軍事制度について―建武五年の畿内「大将」統轄軍―   石川 匡伸
第4号     鈴を付けたS字文鏡                           赤塚 次郎
漢代における壁画墓の地域色に関する研究                鈴木 裕美子
中世における武士の愛宕信仰                       小林 美穂
速懸―近世宇治・山田における葬送儀礼―                  塚本 明
第5号     律令期における地方祭祀の諸形態―木製祭祀具を素材として―       竹内 絵里奈
大学と地域連携―尾鷲組大庄屋文書調査のその後―              塚本 明
『北野社家日記』事項索引             三重大学人文学部日本中世史研究室
第6号     古代伊賀・志摩における官営瓦工房                    梶原 義実
「宗国史訓注(一)」                     谷井 俊仁・斎藤 正和
近世村落における山林所有形態の展開―尾鷲九か村持合山を事例に―     井口 侑子
中世遷宮にみる伊勢神宮の構造                      山内 宏之
第7号     伊勢湾交通からみた北伊勢の地域的特徴                 栄原 永遠男
洛陽隋唐城における合璧宮遺跡への初歩的調査                陳 良偉
平安時代伊勢国朝明郡大矢智周辺の状況―伊勢神宮との関係から―      山田 雄司
文献史料に見る行幸史料集(抄)               天野 三恵子・山中 章
紀州藩の医療政策と地域社会                       上野 周子
第8号     『宗国史』の歴史叙述                    谷井 俊仁(谷井 陽子)
嗚呼、谷井俊仁さん                           廣岡 義隆
慰労詔書書式の変遷に関する覚書                      山中 章
道中記研究の可能性                            塚本 明
鈴鹿峠と坂上田村麻呂                          山田 雄司
第9号     人里昆虫が語る三重県・鬼が塩屋遺跡の古環境          奥野 絵美・森 勇一
松井石根と興亜観音                           山田 雄司
伊勢国村落の年中行事と豪農の生活―伊勢国三重郡八王子村を事例に―     藤谷 彰
平安時代の天下触穢について                       青島 史敏
第10号    考古学からみた古代王権の伊勢神宮奉祭試論                 山中 章
居延県城と漢代河西社会                         村 武幸
近代の志摩海女の出稼ぎについて                      塚本 明
直島における崇徳院伝承                         山田 雄司

編集したばかりの11号はこれ。

第11号
研究ノート 
『伊勢新聞』に見る近代の志摩海女―明治・大正期の「海女」の諸相―  塚本 明 (1)
卒業論文
船岡式製塩土器の機能に関する一考察              山 し央倫 (19)
宝塚古墳における円筒埴輪の製作技法と配置
―埴輪工人集団の分析から―              中野 綾子(57)
論文
中世の葬送と供養観の展開                      吉田奈稚子(一)


 4人でお金を出し合って発行している。もちろん大赤字だが、時々光る卒論や修論を埋没させておくのももったいないので、これに載せている。

 今回はいろいろな事情で、予定していた原稿が急に掲載できなくなったり、投稿直前にキャンセルになったり、やむなく編集の責任を取って、考古学の2人の学生の卒論を編集し直して載せることにした。

 何度も読んだし、中味も熟知していたので、少々「てにおは」を直せば何とかなる、と鷹をくくっていた。ところがである、卒論として読むのと、公にするのに際して読むのとでは大違い。もう最後はエイヤッだった。疲れた!いつもなら充実感があるのだが、今回はまたもやヘロヘロ。

 だから編集後記も好き勝手なことを書いた。

第11号編集後記

 本年度は十六本の卒業論文が提出された。近年の傾向と違わず、今年も出身地に関する題材を出発点に資料を集め、当該地を知る者ならではの視点で分析を加え、新たな解釈を導き出す秀作が目立った。ただ惜しむらくはそれらが、地域に深く食い込んで詳細な分析をしながら、普遍化する力が弱い点に課題を残した。もう少し風呂敷を広げる若者らしい大胆な発想の論考があってもよかった。
 今、チュニジアに始まる「ネット革命」で、数十年間抑圧され続けた市民達が、丸腰の若者達を核に戦車の前に立ちはだかり、「暴君」を次々と追放している。天命による「革命」が地響きをあげて連鎖反応を起こしている。
 陳腐なのは、「革命」の本場・中国で、九〇年に及ぶ「独裁」に天命が下るのを恐れたのか、為政者達が、必死で情報統制を加え、「革命」の波及を食い止めんとしている姿である。間もなく二二年目の「天安門事件」がやってくる。二〇一一年六月四日、北京から目が離せなくなった。
 ところが日本では、革命などどこ吹く風と、国民を放り出した醜い党派闘争が繰り返されている。小心者の代表者は何も決められず権力にしがみつき、前の代表者は自らの発言を「方便」だと言い放ち、汚い金まみれのカリスマは、自らの犯した罪を棚上げして居直り、元権力者集団は敵失に乗じて権力奪還に奔走している。この間隙を縫って放言軍団はできもしない約束を大声でぶち上げる。実現の可能性など無いと判っていても、目先の利益に飛びつくしか術のない国民は、ウジウジと方針も出せない奴よりましかと、絶望しながら「大声」に期待をかける。北アフリカとは逆に「暴君」の方がましか、と多数が思い始めている。
 そして今の日本の若者の一番の関心が、「ディズニーランドでの冷たい雨の日の傘がない」ことだとしたら、これほど悲しいことはない。
 最後の編集担当を終え、ホッとしたところでの愚痴である。  (山中)


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悲しい報せの条

2011-02-23 23:50:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨夜はうたた寝しながらやっとの事で『三重大史学』第11号を編集することができて夕方印刷屋さんに渡した。原稿を自分で書いたわけではないのでもっと楽なはずだったのだが、これがなかなか。学生の卒論を二本も載せる羽目になったのが問題の始まり。

 余りに日本語が下手くそなのだ。ちょっと直すつもりが、泥沼状態、終わったのは印刷屋が原稿を受け取りに来る直前だった。

 それでも一仕事終わった開放感からビールでも飲もうかな?等と思っているところへ、いつもの友人からスカイプのチャットが入った。お、ちょうどいいや、マイクでお喋りでもするか、ということに。

 ところが、チャットに不気味な文字が。

 「訃報をお知らせしなければなりません」とある。


「エッツ???誰?」

 大学の友人から来る「訃報」というのは、誰か他の友人本人以外に考えられない。いろんな顔が浮かんだ。

 だれ?癌?事故?それとも・・・・・?

 Aさんだった。聞いてドキッとした。

 でもよく聞くと、なんでも一週間程前に転倒し頭を強打してそのまま亡くなったのだという。私より一つか二つ上だからまだ60代前半である。とても残念だ。

 彼は文学部の中国文学の専攻だった。少しくせのある話し方だが、とてもバイタリテーに溢れた方で、確か、自動車部だったような気がする。私の親友の先輩でもあったから専攻は違ってもいろんなところで話す機会があった。確か『没法子』(しょうがない、どうしようもない)という雑誌を出していたときの執筆者の一人だったような気がする。

 しかし、大学生活後半になるとみんなあちこちへ分散していって、ほとんど会うこともなかった。彼も人伝に大学を辞めて仕事をしていると聞いた。

 ところが、その後私もなんとか卒業して、どこか就職口はないものかと,職安に行って探す内に、ある運送会社で募集していることに気付いた。

「たしか、あそこにはAさんがいたよな。彼に相談してみようかな。」などと思いながら会社の門を叩いた。たまたま会社でばったり会って、いろいろ話す内に、彼は今、大学を中退して、運転手をしているという。

 「気楽なとこやケーこいや」と誘われて勤めることにした。

 私は一応事務職なのだが、運送屋に事務もへったくれもなかった。広島の江南にあったその会社は、24時間稼働していた。1ヶ月に一週間夜勤があった。深夜12時に出勤して朝8時までの勤務を一週間続けるのである。まだ若かった私には仕事の辛さよりも、変な時間に寝起きするのが苦痛だった。一度などは気がついたら4時だった。「???」夕方の四時か?と淡い期待を抱きながら恐る恐るラジオを付けると、どうも夜明けの4時のようだ。慌てて飛び起きて、自転車で五分もかからない会社に飛び込んだ。

 4人で一組の班だったが、係長は平気な顔をして謝り倒す僕に笑いながら、

「タイムコーダーは押してあるから」と、こともなげに言ってくれた。

「こいつなんか度々じゃケー」と、もう一人の若者を指さしながら笑っていた。そんな和気藹々としたチームだった。

 深夜の勤務以外は夕方に集荷されてきた荷物のチェックが仕事だった。

 Aさんはよくタイヤ倉庫に集荷に行っていた。プラットフォーム(と呼んでいたトラックの横付けされる広ーい空間)には四方八方にトラックが着き、集荷された荷物でごった返した。そんな時Aさんは優しく荷物を送ってくれる。

 「山中、行くぞ-。これから倉敷の営業所分120本だからなー」

こんな調子で,いつもニコニコしながら仕事をしておられた。
タイヤをプラットフォームの反対側から転がしてくれる時も、常に心遣いがあった。意地悪な運転手なら、そんなことお構いなしで、どんどん流してくる。ちょっと数を間違えると

「大学まで出てて数もかぞえられんのか!」と来る。

「わしらー小学校しか出とらんでなー」

こんな職場に耐えられたのも事ある毎にアドバイスしてくれたAさんのお蔭だった。時には食堂で、時には喫茶店で、顔を見かけたら声をかけてくれた。半年も経てば、会社にも溶け込んで、いかさま横行の麻雀に誘われたり、係のみんなで広島球場に巨人戦を見に行ったり、結構楽しい職場だった。だから、1年後、伯父の強引な命令で、職場を辞めて京都に帰るときにはみんなが惜しんでくれた。

 まだ職も決まってないのに辞めたものだから、しばらく京都支店に転勤したらどうや、とまで言ってくれた。それもこれもAさんのお声掛けがあったからだ。

 その後Aさんは体調を崩されて田舎に帰られたと聞いた。ある時ひょっこり京都に来られ、何時間も我が家で雑談して帰られたことがあった。体調が余りよくないらしい。あの元気で、ニコニコされていた姿とは大違いの寂しそうな顔に、何とも言えないやるせなさを感じたこともあった。

 もうあれから何年経っただろうか。一昨年の還暦集会にも一度は来ると仰っていたが、結局お出でにはならなかった。

 今の自分があるのはあの運送屋での一年の経験がとても大きいと思っている。安月給の、決して楽とは言えない仕事だったが、決してつまらなくはなかった。どんな集団の中でも、ひたむきに働けばいずれ仲間は心を開いてくれるし、暖かく付きあってくれる。だから、その後しばらく定職もなく,伯父の歯医者でバイトをしていたときも、見習い技工士として、それなりの仕事はしたつもりだった。一生懸命やれば自ずと周りの人々は支えてくれた。人間の温かさをここでも知ることができた。

 それもこれも、やけにならないよう、常に見守ってくれたAさんのお蔭だ。

 やっと人間世界の苦悩から解き放たれて、今彼はきっと再びニコニコとあちらの車を運転していることだろう。いつか僕も乗せてもらうことになる。『没法子』を主宰していた親友も既にあちらにいる。また雑誌を再開しようではありませんか。

 感謝!!





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飛鳥苑地跡見学の条

2011-02-22 22:22:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 超忙しかったのですが、これだけは見ておかないと、と思い、行ってきました。飛鳥苑地の現場です。

 ナナナント超豪華メンバーがいらっしゃいました。

 現場の角に立っている怪しげな姿。これぞ今や奈良県庁文化課で右に出る者がいない?!というMSさんであった。

「なんでこんな所に立ってらっしゃるの??」
「いえ、まー、あのー、その」といつもの口調で説明される。

なんでもこの苑地は史跡指定とその後の整備が絡んでいるので、県庁の仕事でもあるらしい。いろいろゆっくり酒でも呑んで話したいことはあったのだが、この日は残念ながらそのまま退散した。心なしか元気がなく気になったところである。

 そして現場に近付くと誰かが傍にやってきて話しかける。「誰」と思って見上げるとつい先日(と言っても11月末のことだが)お会いしたばかりの研究所のIFさんだ。

「アレー、今日はえらく偉いさんばかりが出てらっしゃるんですね。どうされたんですか?」

こんな会話から始まって大先生から懇切丁寧な現地説明を伺うことができた。現説の忙しいときに丁寧な解説など期待できないのが普通だが、こうやって問題点を聞きながら見学できるのは最高だ。予想外の事態にとても嬉しくなった。





 なぜ私がこの苑地に着目するか?

 長岡宮嶋院

との関係なのだ。

 いうまでもなく日本の古代宮都は飛鳥の最晩年に天武が設けた新城に始まる。ただし、「宮城」の原形は推古の豊浦宮以来飛鳥の地に設け続けられた諸宮殿域にある(私はそれ以前の崇峻や用明の宮殿も既にある程度の形ができていたと思っているのだが、何せ調査歴が全くないので証明のしようがない)。つまり飛鳥からその伝統の継承性、非継承性を見ていかなければ宮城論などできやしないのである。長岡宮嶋院がなぜ遷都早々から建設され、曲水の苑地として使われたのか。西宮なんてものがあんなところにあるはずがないという大きな根拠がここに潜んでいるのである。

 日本の古代宮都の変遷を長岡宮でしか見ようとしない狭い視野の方々に宮都研究なんてできるはずがない!!遺跡の価値を判らずして遺跡を残すことなど不可能なのである。

 と、ま、愚痴はこれくらいにして、苑地である。

 飛鳥川右岸の低地を実にうまく利用して南北に長い苑地が設けられた。その建設時期は未だに諸説あって固まっていないが、私は斉明朝でいいのではないかと思っている。飛鳥川の河岸段丘上に宮殿を置き、その下の氾濫原を利用して苑地を設ける。苑地には様々な給水、噴水設備が設けられ、陸橋で繋がった中島からその風情を楽しむことができる。

 或いは一段高い宮殿の西端からもその光景を眺めることは十分に可能だったろう。飛鳥苑地はまさに長岡宮嶋院なのである。飛鳥の苑地はどんなに立派でも誰も文句は言わないが、長岡宮の嶋院が複廊を備えた立派な苑地だというととたんに皆さん首をかしげる。なぜ?

 と言うようなわけで飛鳥の苑地遺跡を眺めていたのである。今回の成果としては東端から南北に延びる石敷き溝が確認され、これを研究所は「雨落ち溝として発表している。もしそうだとすると池に接して南北棟の立派な建物が配置されていたことになる。場所は北池の北端付近である。南池の直ぐ東には宮殿があるから他の施設は配置しにくい。池に関連する建物はこの辺りにしか置けないのかも知れない。飛鳥宮の全体構造を考える上でとても重要な施設だと判った。

 アー早く科研の報告書を終わって、「長岡宮嶋院考」書き上げたいものだ。

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神雄寺に塔があったの条

2011-02-20 02:21:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 忙しくて紹介することができなかったのが、一昨日の新聞に小さく掲載されていた(ことを先ほど知った)馬場南遺跡発見の神雄寺塔跡の情報だった。

 1月31日に津からの帰りに時間を取って急遽現地を見学させて頂いた。
 もちろん木津川市の中島さんのご案内だ。新聞発表の後ならなんぼ書いてもいいよ、と言われていて、しかし、上記のような理由ですっかり忘れてた。おまけにドジなことだが、ナナナント今日現説だったというではないか。ごめんなさい!中島さん。でもきっと彼のことだからたくさん人を呼び寄せたに違いない。



17日朝の朝日新聞です。京都版にしか載っていませんでした。この頃の新聞記者って、ホント勉強不足!!いい記事は自分で調べて価値を見出し、そこで大きく取り上げるべきか否かを考え、デスクに訴える。デスクもその話をきちんと調べて判断する。これが本来なんだよね。価値が解ってないよね。情けない。




 寒風の吹く中久しぶりの馬場南遺跡であった。現地はすっかり保存モードになっていて、史跡指定の対象地には厚く土が入れて保護されていた。馬場南が指定されれば木津川市で九つめの史跡になるという。素晴らしい!!三重県では全部で特別史跡も入れて37だから木津川市だけでその四分の一を占めることになる(ちなみに京都府下の国特別史跡・史跡は91件だから木津川市はその1割を占めることになる)。どこぞの埋文センターが、自説をひけらかすために他説を排除し、保存の訴えも極限られた方々に頼ってやっているのとは大違いだよね。




 昨年確認された仏堂跡の西上方にほぼ軸線を揃えてあるという。



 この方向に水路上に架かる土橋があったという。何か関係があるのかも知れない。

 西側の斜面には本来なら雨落ち溝のようなものがあっていいはずだが、見学したときはまだ判らないという。



 塔の北半分である。可愛らしくはあるがちゃんと心礎がある。



 東から南側をみた所。
 


 来年度は西側の池も発掘するという。

 さてこの神雄寺、一体誰がいつどんな目的で建てたのか、これが問題だ。これまでの京都府の報告書によれば、出土している土器の中心をなすのが平城宮の3~4(文字化けするのでアラビア数字にしたが本当はローマ数字)だという。740年~770年頃の土器である。これ以外に長岡宮期の土器も出土している。発見された遺構は小規模な仏堂跡と今回の塔跡である。瓦は出土するが決して小型瓦ではなく普通の瓦が用いられている。仏堂跡からは緑釉の「須弥山」(ではないという意見が最近は強いらしいが・・・?)と四天王像が出土している。

今回の発掘成果について京都新聞は
「文献に登場しない奈良時代の寺院「神雄寺」跡が発見された京都府木津川市木津の馬場南遺跡発掘調査で、市教委は16日、仏堂西側の天神山中腹で、類例のない構造の「層塔」とみられる建物跡が見つかったと発表した。市教委は「信仰対象である現天神山の象徴として建てられたのでは。聖域の山を背景に池で囲まれた儀礼空間が存在し、外側に俗地があるという寺の形態が分かってきた」としている。
 神雄寺は、天神山の山裾に仏堂や礼堂、川状の池が配置され、水源の山を信仰していたと考えられている。調査では建物の四方を支える四天柱の北側2本と、中心の心柱の礎石計三つが見つかった。残る二つの据え付け穴もあり、四方が扉の層塔とみられる。
 三重塔などの層塔は通常、心柱の周囲に四天柱、さらに外側に側柱があるが、塔跡には側柱の痕跡がなかった。心柱と四天柱のみの構造は国内に例がないという。坪井清足元興寺文化財研究所所長は、きちんとした基壇がない点にも着目し、「地面に直接礎石を埋める様式も見たことがない」と指摘する。
 高さは不明だが、一辺約1・8メートルと屋外木造塔では国内最小の規模で、仏堂や池と同時代のものと考えられる。心柱を囲む位置から壁土も見つかり、市教委の中島正課長補佐は「塔内に四方仏など構造物が置かれていたのでは」と推測。過去の調査結果も踏まえ、「仏堂、礼堂、塔は一連の計画の中で作られたとみられる。山中に修行の痕跡が希薄なことも含め、神雄寺は平地寺院とも山岳寺院とも異なる、儀礼を中心とした形態の寺だった」と分析している。」

と伝えている。

 上記の見解だとどうも聖武・孝謙親子が特殊な祭場として建立したと考えられているようだ。

 しかし私が一番気にしているのは、緑釉「須弥山」だ。
 「須弥山」ではないとする意見が強くなっているようだが、その解釈はお任せするとして、なぜこれと同じもの(おそらく同一工房で製作されたもの)が、伊勢国飯野郡の伊勢寺廃寺から出るのかということだ。

 著名な先生方はこの資料を中央の資料からばかりお考えのようだが、私はこれを解く一番の鍵は伊勢寺廃寺にあると考えている。

 8世紀後半、伊勢で起こった大事件とは、称徳・道鏡王権による伊勢太神宮寺の建立である。逢鹿瀬寺がそれで、遺跡としては逢鹿瀬廃寺がこれに当たるとされている。

 当該王権は伊勢太神宮の直ぐ近くに寺を建て、神宮に揺さぶりをかけたのである。さらにまるで神宮を北から包囲するかのように飯野郡内に次々と寺を建てたのである。斎宮の直ぐ北西にも大雷寺廃寺が建てられている。瓦の共有関係からこの寺が王権と深い繋がりを持っていたことが明らかにされている。

 つまりこの時期

 王権 対 伊勢太神宮

が極めて深刻な状態にあったのである。

その同じ時期に都に近い木津川左岸の地では「神雄寺」という意味深な名前を持つ「寺院」が建立・維持されていたのである。この地でも「神」とかけられている点に注目があつまる。

 称徳・道鏡王権による「神」勢力との神経戦の場こそこの地だったのではないだろうか。ただしこの戦いは長くは続かなかった。神護景雲四年八月四日道鏡を支えた称徳天皇が死去し、直後に道鏡は下野薬師寺へ追放される。称徳・道鏡王権の解体によって、伊勢太神宮寺もその五年後には多気郡から排除され、その命運を断つ。この辺りの詳しいことは2010年9月19日のブログ「原稿が進まないのに忙しくて・・・・の条」に詳しく書いているので参考にして頂きたい。(それにしてもこの頃も原稿に追われていたんだな・・・。)
 もちろんこうした点については詳細な分析が不可欠であり、いずれ論をなしてみようと思っている。

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 神雄寺 寒風の先 小塔一基

 道鏡の 野望破れた 木津の雪
 


クタクタの条

2011-02-18 01:55:33 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
最後の書き込みからちょうど一ヶ月経ちました。早いものですね。

ま、時々あることとはいえ、今回は相当疲れました。

いいことは一つもありません。それも自分の責任に負うものではないところが疲れるところです。

最後の一撃はもう再起不能かと思うくらいでしたが、何とか立ち直りつつあります。自分起源でないだけにブログに書くわけにも行かず、ストレスがたまるばかりです。だからでしょうか、三日前には突然の嘔吐に襲われ、夜中から昼まではき続けました。お腹の中が空っぽなのですが、水を飲んでも気持ちが悪いので、我慢していると火曜の朝のおしっこは真茶色でした。びっくりしました。あのチリの人達もこんなのだったかも知れませんね。でもその後の「事件」で寝ているわけにもいかず、大学に強行出勤して、悲しいくらい訳のわからない「仕事」をしたお蔭で、吐き気は止まりました。

何が何だかさっぱりわかりません。

そんなこんなでお約束の「嶋院考」も展開する暇がなくなりました。あんないいかげんな説を信じる奴がいるのかと思うと、いるんですね。天下の日本史研究会が西宮を考える講演会の後援をするとか。ま、保存のための方便と言えばそれまでかも知れませんが、どうして嶋院を西宮と言いくるめて一切これを検討せず、保存せよ、応援しろ!というのは国民を馬鹿にしてませんかね。

百歩退いて「嶋院や西宮という説があるとても大切な遺跡だから保存しなさい!」というのが科学者の集まる団体の掲げる看板だと思うのです。

私が久留倍遺跡が見付かったとき、朝明頓宮だと主張はしましたが、それ以外の説であった朝明郡衙説を否定などしませんでした。その両説を掲げて世論に訴え、結果、堂々と国の史跡指定を勝ち取りました。こんな所で自説の自慢をして他説の研究者を敵に回すことほど馬鹿らしいことはないからです。

「長岡宮嶋院考」はブログで詳しく書くより、きちんとした雑誌に論文を載せた方がいいですよ、というアドバイスもあったので、ここで述べることは止めますが、長岡京を正都と認めないなら別ですが、そうであるとするなら、西宮などと考える人の顔が見たい!!というのが私の変わらざる思いです。

日本史研究会の後援する会にも著名な先生がお出になるようですが、思いつきではなく、自分できちんと事実を確認して御話し頂くことだけを願うばかりです。

そんなことよりやっと終わりました!!年末から缶詰に缶詰を繰り返した原稿が。明日その成果の最終形のチェックに出かけます。この原稿、文字だけではないのです。今流行の3Dにもしなければならないのです。もちろんそれはプロがやってくれますが、そのための基礎情報はこちらが提供し、修正に修正を加え、完成に近づけるのです。それがやっと明日完成します。

もっとも最終完成版は年度末にできます。今回の第1段階完成品は元々科研の成果を利用したものなのです。だから大変なのです。二重の期限に追われてやっているもので。

実はこれからまた第2段階目の缶詰が始まります。科研の正報告書〔約200頁〕を年度末までに作らねばなりません。もちろん今学生達が一生懸命図面を作ってくれています。図面ができれば原稿です。鈴鹿関、中国武関、Tyre ヒッポロドーム、中国直線道・・・・頭の中はパニックです。

さらにさらに、もう一つ難題が。これも私が原因ではないのですが、『三重大史学』第11号の編集を担当しているのです。これもいろいろ「事件」が起こって、急遽膨大な編集作業が転がり込みました。時間があれば楽しいことなのですが、何せ時間に追われながらの作業です。これから徹夜でやります。何せ、火曜には業者に渡さねばならないからです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嫌な話しはこれでおしまい!!!!!




〔楽しい話第1〕

本当はこのブログで直前にきちんとお知らせしなければならなかったのですが、2月12日に第20回壬申の乱ウオークをやりました。

バスで不破関→「美濃国府」跡→美濃国分尼寺跡→美濃国分寺跡・同資料館→昼飯大塚古墳を一日85人で巡ってきました。前日の大雪でどうなることかと思いました。中止も考えたのですが、その後の日程が合わず、決行しました。



実は第10回が大雪の大津京でした。今でも印象に残っているのが故大森俊輔君が壬申の乱ウオークの幟を持って雪の大津宮にたたずむ姿です。またあれか!と覚悟しました。ところが今回は神様が味方してくれました。暖かく、晴れ上がり、とても快適な一日でした。少し残念だったのは、僕の友人夫妻が来たいと言っていたのに、連絡できなかったことです。もっとも当日大阪はまだ雪だったみたいなので無理だったかも。そう慰めています。

次回第21回は牽牛子塚古墳や野口王墓古墳を回ります。5月14日(土)です。三重からはバスを使いますが、現地で合流できます。言うまでもなく牽牛子塚古墳は大海人皇子のお母さんの墓ではないかとの最近の説です。そして野口王墓古墳は天武・持統の合葬陵です。壬申の乱の原点を訪ねる旅になります。楽しみです。5月ですから飛鳥は人で一杯でしょうね。でもいい天気なら最高です。詳しくは直前にこのブログに掲載しますね。

〔嬉しい話第2〕

この間大学院の試験がありました。今年も難関中の難関でありました。文科省の地方国立大学つぶしの方策の一環で、旧帝大には大学院の定員枠が余りに余り、定員が満たないのに、地方国立大学の定員は一人たりともオーバーするな、という訳のわからない命令の下、昨年から人文学部文化学科の大学院である地域文化論専攻科はたったの6人しか進学できないのです。そのくせ留学生には配慮しろだの、これまた訳のわからない通達もあり、メチャクチャ。

その難関を突破して今年も考古学から一人進学したのであります。

おめでとう!!YSさん。

彼女の卒論もよかった!!今度急遽『三重大史学』第11号に載せることになった。(これの編集が今から始まるのです)

若狭の連中は未だに船岡式製塩土器を煎熬用だと信じて疑わない。イヤ全国の皆さんもかもね。こうなると新興宗教みたいなもので、この信心を覆すのは並大抵ではない。それに果敢に挑戦し、焼塩用であることを論証した。興味のある人は三重大史学を買ってね(いつもは1冊1000円なんだけど、今度は厚いからまだ値段は不明。)。

そんなパワフルな院生が誕生しました。本当はもう一人候補がいたのだがこれがうまいこと岐阜県中津川市の文化財担当職員に採用されたので、そちらへ行くことになった。これも三つ目の嬉しいことではあるが、もうこれは昨秋に判っていたことなので今回はパス。その上、この頃、この野郎、ちょっと浮かれているから厳しく締めないと、どうもたるんどる。


本当はもう一つあるのだけれど、一辺に書くとネタがなくなるからまた次回。


それにしても大学教師は今やかつての高校の教師以下!!おそらく中学の教師より下かも。特に留学生たらいう私達の手ではどうしようもない連中がとんでもないことをしでかす。早く来い来い定年日。後730日ちょっと。

久しぶりに書きすぎた。

もうランキングなんてどうでもいいのだけれど、戦争大好き人間が席巻しているのを見ると仕方がない、一応アップするか。

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