yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2014年度人文学部公開ゼミー2「伊勢大神宮・斎宮の考古学」の条(続き)

2014-12-23 12:52:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 前回の続きです。但し、以下の基本的な内容は先にお知らせした古代学協会の提携講座「伊勢湾の考古学」の趣旨と基本的に変わりません。重複部分も多いですが、一応ご紹介しておきます。

 第三節 海上交通から内陸支配へ
 六世紀に入ると伊賀盆地南端に琴平山(ことひらやま)古墳、伊勢湾西岸北部に井田川茶臼山古墳,南部に丁塚(ちょうづか)古墳という横穴式石室を主体部とする新しい埋葬型式が導入される。伊勢湾西岸南部地域に最初に築造されたのが宮川下流域の丁塚古墳であった。


(磯神社の鎮座地は宮川の氾濫などで変遷しており、古代の位置は厳密には不明だという。しかし、私は、東海道志摩支路の位置復原、志摩支路が宮川と交差する付近に展開する七~九世紀の遺跡群などから考えればいいと思っています。)

 (一) 水陸交通の結節点   
丁塚古墳は、高ノ御前遺跡から宮川中流域へと遡った地点に築かれた。後には古代東海道志摩支路が整備され、志摩国へと向かう直線路が付近を通過していた。一角に倭姫による天照大神奉祭のための「行幸」の地と伝える磯神社が鎮座するのは偶然であろうか。その後も宮川渡航点における物資集積の拠点とされ、七・八世紀には殿垣外(とのがいと)遺跡、九世紀には小御堂前(こみどうまえ)遺跡が維持され、対岸にも高向(たかむこ)遺跡が置かれ、宮川流域における水陸交通の結節点としての機能を果たし、宇治山田の地に設けられたとされる度会駅家へと都からの情報を伝える重要拠点となるのであった。
 宮川河口部は、六世紀まで、東をめざす拠点港として利用されていたが、七世紀以後、内陸部への窓口と化す。海から川へ、川から陸へ王権の支配域が次第に拡大する様を遺跡は表している。

 (二)高倉山古墳の成立  《図7挿入》
 宇治山田の地を見下ろす高倉山の頂に築造されたのが高倉山古墳である。墳丘の直径四〇m、横穴式石室を主体部とする六世紀後半の円墳である。横穴式石室の全長は一八.五m、高さ四.一mあり、東海地方最大である。石室は盗掘を受けており、副葬品は一部しか知られていないが、飾り馬に用いる馬具、被葬者が付けていた金環や小玉などの装身具、直刀、馬具、三輪玉、捩り金環等を出土している。特に三輪玉は玉纏大刀(たままきのたち)との関係が指摘される特殊品である。
 高倉山古墳の石室はその後の玉城丘陵の古墳のモデルとなり、広く多気郡一帯に展開するという。当該規模の古墳を在地豪族クラスが築造したとは考え難く、被葬者はヤマト王権と深く繋がった人物と推定されている。
 高倉山古墳の築造をもって「伊勢神宮」周辺の地は一挙にヤマト王権との関係性を深めたのである。

 (三)五十鈴川下流域の変化
 一方、五十鈴川下流域には六世紀後半に入ると、遠江地域で多用される横穴式木室墓という特異な墳墓型式を持つ南山古墳が出現する。五十鈴川流域でも、六世紀代には伊勢湾から新たな文化が入ってくるのである。五十鈴川流域では、引き続き七世紀前半に営まれた横穴式木室墓を主体部となす昼河古墳群が築造される。昼河古墳群では木で造られた墓室に火を付けて焼失させる「火化」という遠江地方で実施されていた特異な葬法が採用されている。宮川、五十鈴川両流域の文化の変化が海側からもたらされていることに刮目すべきであろう。「火化」が火葬を葬法とする仏教の影響を視野に入れるならば、五十鈴川中・下流域では七世紀に入ってもまだ「伊勢神宮」の痕跡すら認めることができないのである。
 
 第四節 ミヤケの設置と伊勢湾西岸地域  
 ヤマト王権が宮川・五十鈴川中流域に関心を示し、高倉山古墳を築造して以後、伊勢湾西岸地域に大きな変化が生じる。ミヤケの設置である。
 (一) 大鹿ミヤケの設置
 六世紀後半から七世紀初めにかけて、ヤマト王権は地方支配の方法をダイナミックに転換する。地方を直接支配するための拠点としてミヤケを設置するのである。ある地域では交通の要所に、ある地域では在地支配の弱い地点に拠点を置き、施設や土地の管理者を任命し維持に当たらせるのである 。ミヤケの管理者にはヤマト王権から認定の物品が配布された。伊賀・伊勢の交通の拠点には脚付短頸壺と喚ばれる特異な須恵器が配布された 。
 脚付短頸壺は河曲(かわわ)郡の東端、金沢(かなさし)川の河口部の小さな独立丘陵の上に設けられた岸岡山古窯で生産された。配布の拠点となった港が岸岡山の麓、金沢川の潟に設けられた天王(てんのう)遺跡であった。脚付短頸壺は、東は参河国宝飯郡、西は大和国宇陀郡、北は伊勢国朝明郡、南は伊勢国度会郡にまで分布が確認できる。一地方豪族では交易しきれない広範な地域への分布である。その分布域を図上に落とすと内陸部では七~八世紀代に「官道」として利用された交通路上に展開し、海浜部では、伊勢湾岸に河口部を持つ潟や島嶼部、半島の先端部などに位置する。館野和己氏が指摘する典型的な「B型ミヤケ」である 。
 六世紀末から七世紀初めにかけて、伊勢湾西岸地域の内陸交通は一体的に管理が可能となり、これらは水上交通でもって伊勢湾を越えて参河地域にまで及んでいた。その中核となったミヤケこそ、河曲郡に本拠を置く大鹿(おおが)氏を管理者とする大鹿ミヤケであった。
 (二) 伊勢湾西岸南部のミヤケ
 七世紀の伊勢湾西岸南部「度会郡」「多気郡」「飯野郡」地域とヤマト王権との関係についてはこれまでその実態が十分に把握できていなかった。ところが脚付短頸壺が「多気郡」域の河田A-三号墳、「度会郡」域の丸山一号墳で出土が確認され、当該域がようやくこの時期に王権の直轄地と化したことが実証された。
 ところでこの地は、壬申の乱後の六七三年、天武天皇によって高市大寺(後の大安寺)に墾田地八〇町が施入された飯野郡中村野に隣接し、七世紀後半以降に斎宮の置かれた場所でもある。ヤマト王権が七世紀後半以前に飯野郡東部から多気郡一帯の面的な空間を王権の直轄地(A型ミヤケ)として管理していたからこそ可能な行為だったのではなかろうか。
 ところで、頭椎大刀は、神島の八代神社にも所蔵されている。これが坂本一号墳と同じ時期に奉納されたとすると、その奉納の意味を検討しなければならない。既に確認したように、神島は五世紀後半にはヤマト王権の東国進出時の安全祈願の島として利用されていた。頭椎大刀の奉納は、七世紀に入っても依然として神島が同様の機能を持つ島として重要な位置づけを付与されていたことを表している。あるいは、内陸部でのミヤケのように、伊勢湾西岸南部から志摩地域に至る広範囲な「海洋権」を確保したことを象徴する威信財として奉納されたのかも知れない。

 第五節 壬申の乱と伊勢湾西岸
 七世紀前半に確立した支配地を「祖先神・天照大神」の鎮座する土地とするにはもう一工夫必要であった。
 (一) 迹太川での天照大神望拝
 『日本書紀』天武元年六月二六日条は「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神」と、大海人皇子が戦勝を祈願するために朝明郡の迹於川(とおがわ)の辺で天照大神を望拝したとする。王権と伊勢神宮とが直接的関係を有したことを示す初めての史料である。記事によれば、大海人皇子は既に伊勢湾西岸南部の地に天照大神が鎮座し、戦勝祈願するに値する神であることを認識していたことになる。壬申の乱はその一ヶ月後に大海人皇子の勝利でもって収束する。
 次いで、『日本書紀』天武天皇二年(六七三)夏四月条は、「欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。」と、大来皇女を天照大神宮に遣わし、泊瀬(はつせ)に齋宮(いつきのみや)を設置して神に仕えるために潔斎させたという。「伊勢神宮」はまだ「天照大神宮」であり、名称すら確立していなかった。同三年十月条では「大來皇女自泊瀬齋宮向伊勢神宮。」潔斎の済んだ大来皇女を伊勢神宮に派遣するというのである。この一年余で制度が整えられ、名称も「伊勢神宮」に固定する。大来皇女の派遣をもって斎王制度の確立とするのが定説である。斎宮こそ、「王権の祖先神化」を文献史料からも、考古資料からも実証しうる遺跡なのである。
 次いで持統朝に式年遷宮が開始されたとされる。当該期こそ伊勢神宮と王権祭祀とが一体化する時期なのである。
 (二) 考古資料からみた斎宮跡と伊勢神宮
 斎宮跡の考古資料によって伊勢神宮の成立を直接裏付けることのできる資料は少ないが、伊勢神宮祭祀を具体化させる斎宮の施設が、早ければ七世紀後半には機能していたことを裏付けるのが史跡指定地西部からの土器などの考古資料である。王権が伊勢神宮祭祀を斎王制度の整備と並行して進めていたとするなら、斎宮跡でのわずかではあるが関連する資料の検出は、既述のミヤケの形成と合わせて、七世紀後半に伊勢神宮祭祀が確立したとする私見に大きな援軍となろう。

 おわりに
 以上、考古学から伊勢神宮が王権の祖先神を祀って現在の地に鎮座するのを七世紀後半の天武朝と考えた。最後に論点を整理してまとめとしたい。
① 四世紀(「垂仁朝」)に関係する考古資料は皆無であり、考古資料による限り、垂仁朝説は成り立ち得ない。
② 五世紀前半から後半の考古資料は、王権と深く関わるが、神島や宝塚一号墳の資料は伊勢湾から外洋へと海上交通に関係するものが主であった。
③ 六世紀前半には、宮川中流域に丁塚古墳が築造され、ヤマト王権の関心が内陸側にも向け始められる。後半の高倉山古墳の築造は宇治山田地域に王権が進出したことを示す決定的な証拠である。
④ 六世紀終末には伊勢湾西岸北・中部同様、南部にミヤケの設置が確認でき、七世紀前半には伊勢湾岸の水陸を結ぶミヤケのネットワークが完成した。
⑤ こうした歴史的背景の中で勃発したのが壬申の乱であった。開始時における天照大神への戦勝祈願が、勝利の形で成就されると、乱後の秩序形成の中で、皇祖神化が図られた。
⑥ 様々な制約の下、考古学的な調査・研究のできない伊勢神宮域に対し、大来皇女に始まる斎王制度は、その検証を可能とし、頭書の課題に迫ることのできる貴重な資料である。持統朝に「式年遷宮」が制度化され、伊勢神宮は確固たる地位を確立するが、その制度化が天武の跡を追った持統朝に行われる点も伊勢神宮制度化の時期を示して余りある。

参考文献
岡田登一九九五  「伊勢大鹿氏について(上・下)」(『皇學館大学史料編纂所、史料一三五・一三六号』)
金子裕之二〇〇四 「三重県鳥羽八代神社の神宝」(『奈良文化財研究所紀要』)
金子裕之二〇〇五 「三重県鳥羽八代神社の神宝二」(『奈良文化財研究所紀要』)
清水みき一九八三 「湯舟坂2号墳出土環頭大刀の文献的考察」(久美浜町教育委員会『湯舟坂2号墳』)
鈴鹿市考古博物館二〇〇四 『現地説明会資料 天王遺跡一三次調査』
館野和己一九七八 「屯倉制の成立」(『日本史研究第一九〇号』) 
都出比呂志二〇〇五 『前方後円墳と社会』(塙書房 )
八賀晋一九九七 「伊勢湾沿岸における画文帯神獣鏡」(『三重県史研究』第一三号)
広瀬和雄二〇〇三 『前方後円墳国家』(角川書店)
穂積裕昌二〇一三  穂積裕昌『伊勢神宮の考古学』(雄山閣)
松阪市教育委員会一九八八 『山添二号墳』
松阪市教育委員会二〇〇五 『史跡宝塚古墳』
三重県二〇〇五 『三重県史資料編考古-一』
三重県二〇〇八 『三重県史資料編考古-二』
山中章二〇〇二a 「伊勢国北部における大安寺墾田地成立の背景」(三重大学歴史研究会『ふびと』第五四号)
山中章二〇〇二b 「伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国庄」(三重大学考古学・歴史研究室『三重大史学』第二号)
山中章二〇〇三 「律令国家形成前段階研究の一視点―部民制の成立と参河湾三島の海部―」(広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い-古代観の大転換-』ゆまに書房)
山中章二〇〇四 「伊勢国一志郡の形成過程」(藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館)
山中章二〇〇八 「律令国家と海部―海浜部小国・人給制にみる日本古代律令支配の特質―」(広瀬和雄・仁藤敦史編『支配の古代史』青木書店)

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2014年度公開ゼミ-1「伊勢大神宮・斎宮の考古学」の条

2014-12-22 11:27:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 2014年度の人文学部公開ゼミの担当を依頼され、2014年10月22日・29日・11月5日の三回にわたって担当することになった。そこで近年研究を進めている「伊勢大神宮・斎宮の考古学」をテーマにすることにした。
 要旨
 伊勢国には天皇家の祖先神を祀る伊勢大神宮及び天皇に代わりその祭祀を司る斎宮が所在する。その成立起源には諸説あるが、考古学からは通説とは異なる見方も可能となる。本講座では、三回にわたりその起源を考える考古資料を紹介する。

 まず伊勢神宮・斎宮に関する基本史料を整理しておこう。
〈『日本書紀』『続日本紀』の伊勢大神宮の記述〉
 ・垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥《十》条
  離天照大神於豐耜入姫命。託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處。而詣莵田筱幡。〈筱此云佐 
  佐。〉更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日。是神風伊勢國。則常世之
  浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川
  上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。
 ・天武元年六月二六日条
  旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神
 ・天武天皇二年(六七三)夏四月条
  欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。
 ・天武三年同三年十月条
  大來皇女自泊瀬齋宮向伊勢神宮
 ・文武天皇二年(六九八)十二月乙夘《廿九日条》
  遷多氣大神宮于度會郡。
 ・文武三年(六九九)八月己丑
  奉南嶋獻物于伊勢大神宮及諸社。 
 ・大宝二年(七〇二)四月丁未《十日》
  從七位下秦忌寸廣庭獻杠谷樹八尋桙根遣使者奉于伊勢大神宮。
 ・慶雲三年(七〇六)閏正月癸酉《廿八日》
  泉内親王參于伊勢大神宮。
 ・慶雲三年(七〇六)八月庚子《廿九日》
  遣三品田形内親王。侍于伊勢大神宮。
 ・慶雲三年(七〇六)十二月丙子《六日》
  遣四品多紀内親王。參于伊勢大神宮。
 ・神亀四年(七二七)九月壬申《庚午朔三日》
  遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉。
  《以下略》  

 第1回 「考古学からみた伊勢大神宮成立前夜の伊勢~ヤマト王権の伊勢支配~」
 今回は第1回の前半を紹介します。

はじめに

 天皇の祖先神としての天照大神を伊勢の地(伊勢国度会郡)に祭るようになったのはいつからなのだろうか。従来は主に文献史学の立場から、『日本書紀』の記載通りに最も古くみる垂仁朝説 から最も新しくみる文武朝説 まで様々な説が提示されてきた。ところが、文献史料の数少ない時期の歴史事象であるにも関わらず、考古学から検討したものは意外と少なかった。
 八賀晋氏は、五世紀末から六世紀初めにかけて、伊勢湾岸に同向式画紋帯神獣鏡が集中して分布することをもって、当該期にヤマト王権と「伊勢神宮」との関係を想定する[八賀晋一九九七]。また、金子裕之氏は、坂本一号墳の頭椎太刀や伊勢神宮神宝の中にある金属製紡織具の存在から、六世紀初頭前後に伊勢と王権との関係を論じている[金子裕之二〇〇四・二〇〇五]。近年では、穂積裕昌氏が、『伊勢神宮の考古学』(雄山閣)において、内宮内出土祭祀遺物や高倉山古墳の展開過程を下に、積極的に雄略朝説を展開している[穂積裕昌二〇一三]。
 この様な研究を基礎に、本稿は新たに伊勢湾西岸地域でのミヤケの成立時期と構造に着目し、ヤマト王権が伊勢湾西岸を直轄支配する時期の検討を通して、「伊勢神宮」成立の時期を探ろうとするものである。

第一節 「伊勢神宮」前史 


 穂積裕昌氏は、「内宮」域 の神聖さを象徴する素材として、①滑石製勾玉や小玉類の「内宮」域からの出土、②伊勢神宮正殿の建築様式が神明造と称される「独立棟持柱建物」である点を上げる。両資料は本当に伊勢神宮の成立と関係するのであろうか。以下、全国の考古資料と比較しながら検討してみよう。

 (一)「内宮」域出土滑石製玉類  
 穂積氏は『神都名勝誌』四所載の荒祭宮北方出土滑石製品(図1)や東京国立博物館所蔵皇大神宮境内出土品、大場盤雄氏紹介の皇大神宮域内小松林発見の臼玉や勾玉を根拠に、「伊勢神宮」域が遅くとも五世紀初めには聖域であったとする。
 滑石製玉類が祭祀に用いられていたことは近年の各地の発掘調査によって確認されており、これらが出土したとされる「内宮」荒祭宮北方域が五世紀初め頃まで当該地域の祭場として利用されていたことは間違いなかろう。だからといって、これらの遺物は決して「内宮」に固有のものではない。古墳時代前期から中期にかけて、列島全域に普及していた祭祀具の一種であり、祭祀行為であった 。滑石製玉類の出土は、後に「内宮」となった地域が古墳時代に当該地域の人々の祭場であったことを証明するに過ぎないのである。
 このほか、「内宮」内で採集される土器もまた、後世の伊勢神宮での土師質土器の大量使用と関連づけて指摘される場合があるが、採集土器の大半は古墳時代に遡るものではなく、近世以降のものであり 。境内から土器が出土することと「内宮」域の成立とは直接結びつけることはできない。

伊勢神宮内宮境内からは今でも均整の土器や銭などが落ちています。でも、古代のものは見つけることができません。しかし、近代に入る前後にはこの様なものを見つけることができたというのですから、この地は文化財保護法にいうところの遺跡です。



 (二)「独立棟持柱建物」は神殿か 
 伊勢神宮の正殿は神明造りと称されている。考古学で類似の遺構に「独立棟持柱建物(どくりつむなもちばしらたてもの)」と呼称する建物遺構がある。図2のような棟通りの両外側に柱を配置する建物で、弥生時代の環濠集落内を中心にして検出され、高床倉庫だとするのが通説である。全国各地から検出例が報告されている。広瀬和雄氏は、これが一般的な高床倉庫とは機能を異にし、春から秋にかけて収穫を祈念するための「神殿」であり、収穫のなった秋には実際に穀物を納め、倉庫として本来の機能を発揮するという[広瀬和雄二〇〇三]。倉庫跡付近から鳥形木製品が出土する例があり、天空との往来の役割を果たす鳥と解釈し、「神殿」との解釈を補う資料として注目する。
 穂積氏を初めとして多くの研究者が独立棟持柱建物を神明造りの祖型とみる。しかし、神明造との相違点も多い。
 ① 神明造りが三間×二間の切妻、平入で、あるのに対し、独立棟持柱建物は十間×二間(池上曽根遺跡例)等のように、桁行の間数が多いのが特長である。
 ② 銅鐸絵画などによれば、出入り口は妻側にあった可能性が高く、平入りの神明造りとは異なる。
 ③ 独立棟持柱建物は弥生時代末から古墳時代初めの時期に伊勢湾西岸地域内でも津市や鈴鹿市など各所で発見されており、伊勢神宮固有の建築様式ではない。当該期に日本列島全体で用いられた建築様式であるに過ぎない。
 ③ 正殿建物が創建当初から神明造であったことを示す資料はなく、室町時代の絵図には独立棟持柱建物でない正殿が描かれている事例もあるという 。
 ④ 大社造りとされる出雲大社の本殿は、現地での発掘調査の結果、十二世紀に描かれたとする『金輪御造営差図』とほぼ一致しており、『口遊』の記載などから平安時代の出雲大社の本殿が『金輪御造営差図』通りであることが判明している。それによれば建物はほぼ正方形で、南側の妻側に入り口があり、これに一〇〇余mの階段が取り付いて、当時の高さが四八mであった東大寺大仏殿より高かったという。三世紀末の神殿跡とされる京都府向日市の中海道遺跡の建物跡は方形の側柱建物で妻側に階段が付くと推定されている 。この様に最も古い時期(垂仁朝を四世紀前半とすると)の当該期の神殿の主流は独立棟持柱の神明造建物とは限らないのである。内宮正殿の現在の建物が弥生時代の神殿と「似ている」というだけで、伊勢神宮の成立に関連づけるのは早計である 。
 
 第二節 ヤマト王権の伊勢湾西岸進出
 四世紀以前の考古資料に直接伊勢神宮の創建と関係のある資料は確認できなかった。考古資料からみる限り伊勢湾西岸地域とヤマト王権との間に特に密接な関係は見いだせなかったのである。では、五世紀に入ると関係に変化が生じるのだろうか。文献史学・考古学共に、既存の研究では、五世紀後半と推定される雄略朝を伊勢神宮成立の時期とする説が有力である。

 (一)石山古墳から宝塚一号墳へ  



 ヤマト王権と地方豪族との関係を測るバロメーターが前方後円墳である。都出比呂志氏や広瀬和雄氏は古墳時代前・中期を前方後円墳に象徴される社会だという 。前方後円墳は日本列島独自の墓の形態であるだけではなく、ヤマト王権が認めて初めて築造できる墓だと指摘するのである。
 弥生時代、日本列島は近畿地方、東海地方、山陽地域などのように、一定の範囲で墓の形態や構造が異なっていた。ところが、三世紀後半にヤマト東南部に巨大な前方後円墳が築かれると、近畿地方→瀬戸内海沿岸部→北東部九州というように急速に前方後円墳にとって代わられていった。
 ヤマトから東へ、後の東海道周辺で初めて築かれた前方後円墳が伊賀市の石山古墳であった。四世紀末に築造された三重県最古の前方後円墳である。墳頂には円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪などで構成される埴輪区画が形成されている。特に後円部中央には盾形埴輪や靱(ゆぎ)形埴輪などで囲繞された方形の区画が設けられ、その中に多様な家形埴輪が配置され、当該期の伊賀の王の支配空間を明示した。遺体を納めた主体部には三基の木棺が発見され、副葬品には石釧、石製鍬形石、琴柱など石製模造品が大量に埋納された。
 この直後に伊勢湾西岸沿いの松阪市に築造されたのが宝塚一号墳である。伊勢湾西岸地域において初めて築かれた全長一一一m、大型の前方後円墳である。囲形埴輪や井戸形埴輪など出土埴輪は石山古墳と多くの共通点を持つが、唯一の相違点が船形埴輪の設置である。外洋船の特長を有し、デッキには王権のシンボルである大刀・蓋・玉杖を掲げていた。伊勢湾以東の地域に大王の存在を誇示するための形代ではなかろうか。
 宝塚一号墳がヤマト王権との深い繋がりの中で築造されたことはほぼ疑いないであろう。五世紀初め、王権はようやく伊勢湾西岸に影響力を発揮し始めるのである。その古墳の最も個性的な資料が船形埴輪である。



 (二)神島への同向式画紋帯神獣鏡の奉納  《図4挿入》
 次いで注目される資料が、古墳や孤島に奉納された鏡である。
 八賀晋氏は、同向式画紋帯神獣鏡の分布に刮目した。五世紀後半に鋳造された同向式画紋帯神獣鏡二四面の内、伊勢湾岸からは七面が出土している。一面は伊勢湾の入り口部に浮かぶ神島の八代神社が保管するものである。神社には他に四神二獣鏡や頭椎大刀(二点)、ミニチュアの金銅製紡織具(カセイとタタリ)が保管されている。また、頭椎大刀(かぶつちのたち)を出土した坂本一号墳に近い明和町上村の神前山(かんざきやま)古墳からは三面、後の東海道を見おろす丘に築かれた亀山市井田川茶臼山古墳から二面出土している。
 神島のものがいつ奉納されたかは不明であるが、五世紀後半から六世紀前半の同向式画紋帯神獣鏡や、七世紀中頃から後半の頭椎大刀など、時期や種類の異なるものが保管されている点から、神島への目的を持った奉納とする見解が有力である。その目的を理解するのに参考になるのが玄界灘に浮かぶ沖ノ島の祭祀遺跡群である。沖ノ島の祭祀は四期に分けて場所や奉納品を変えて行われたという。四世紀後半~五世紀に営まれた初期の岩上(がんじょう)祭祀には銅鏡や鉄製の刀剣などが用いられ、五世紀後半~七世紀の岩陰(いわかげ)祭祀では金製指輪など朝鮮半島からもたらされた品が多く見られ、七世紀後半~八世紀前半の、半岩陰・半露天祭祀では中国製の金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう)や唐三彩が使用され、八世紀~九世紀末の露天祭祀では緑秞(りょくゆ)陶器などが使用された。神島では浜辺で発見されたものが神社に奉納されたとするが、厳密な発見場所は定かではない。しかし、鏡や大刀、金銅製品など時期の異なる多様な品々が認められる点は、その立地と合わせて,航海の安全を祈願した奉納品であった可能性は十分考えられる。五~八世紀にかけて、伊勢湾岸においてもまた、ヤマト王権による航海の安全祈願のために孤島での祭祀が行われていたのであろう。
 金子裕之氏はミニチュアの紡織具が伊勢神宮神宝にあることから神島のこれもまた神宮との関係を示すものとする。しかし、型式的には神島のものが古く、神宮のものが新しいとされ、仮に型式通りの時期に神島に奉納されたとすると、伊勢神宮の方が後にこうした祭祀具を神宮祭祀の中に取り込んだことになる。ヤマト王権は、沖ノ島同様、神島に海上交通の安全を祈願したと推測できる。同向式画紋帯神獣鏡が伊勢湾岸や内陸部でも後の幹線道に接して配布されたのにも交通路の確保という共通の目的があったからではなかろうか。但しここでも伊勢神宮との関係を伺わせるものは認められない。




 (三)久居古窯址群の開窯と高ノ御前遺跡の設置
 ヤマト王権が着目したのは伊勢湾を核とした海上交通だけではなかった。五世紀末に伊勢湾岸が王権との関係を深めたことを証する遺跡に津市久居(ひさい)古窯址群がある。須恵器TK四七 型式(稲荷山鉄剣と共伴したTK二三型式の後続型式)を生産した施設で、伊勢湾西岸部で初めて須恵器を生産した窯であった。当窯で生産された須恵器は、宮川河口部の高ノ御前(たかのごぜん)遺跡へいち早く運ばれている。高ノ御前遺跡は伊勢湾西岸南部の港であった。遺跡からは関東系の土師器が出土しており、海を通じて両地域は深く繋がりあっていた。
 五世紀になると外洋航海も可能な船舶と航海技術が確保され、同向式画紋帯神獣鏡を用いた新たな祭祀が開始され、耐久性に優れた食器や容器の生産が始まる。新たな文化や技術を携えて、ヤマト王権は本格的に東へと舳先を向ける。久居古窯の開窯もまた、海を通じた東国との交流・交易に目的があったのである。



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古代学協会仏教大学四条センター連携講座『伊勢湾の考古学1~大鹿ミヤケと伊勢湾水上交通の管理~』の条

2014-12-20 22:55:56 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先週は恐怖の一週間でしたが、その一つに表記講座での講演がありました。
 この間三重大学で勉強させていただいた伊勢湾に関するものです。今回は表記のようなテーマで主に6世紀末から8世紀中頃までの伊勢湾岸の王権と地域との関係を話してみました。

 レジュメは以下通りでした。

公益財団夫人古代学協会提携講座「伊勢湾の考古学~大鹿ミヤケの伊勢湾水上交通の管理~」山中 章

[講座の概要] 
 古代伊勢国は大和から東へ向かうにあたり水陸両交通の重要拠点であった。東国支配が志向されるようになると、王権は様々な形で伊勢国に支配の楔を打ち込もうとする。その第一弾が、松阪市宝塚古墳、第二弾が亀山市井田川茶臼山古墳被葬者の掌握であった。しかし、在地豪族を通じての支配は十分な効果を得られず、6世紀後半になると直轄支配の拠点としてミヤケの設置が志向される。伊勢湾岸では、水陸両交通の拠点に次々とミヤケが設置されていった。ミヤケの所在を示すのが古墳の副葬品であった。考古資料は、王権の地方支配の具体像を示すことができたのである。
前代の支配構造は律令国家へも形を変えて継承される。ミヤケを核にした国府、郡衙、関、駅家の設置と官道の整備である。伊勢国内で進む考古学の研究成果は、古代王権の地方支配のあり方を具体的に教えてくれるだけでなく、鈴鹿関の構造解明は、伊勢国に課せられた特異な機能をも明らかにしてくれた。本講座では、最新の発掘調査成果を基に、伊勢国がどのようにして王権支配に取り込まれていったのかについてお話しすることとする。




はじめに
・伊勢大神宮はヤマト王権の祖先神「天照大神」を祀る神社です。では伊勢神宮はいつできたのでしょう。本講座の出発点はここにありました。
・文献史学では、伊勢神宮の成立を4世紀初めとされる垂仁朝から7世紀末の文武朝まで実に様々な仮説が提示されています。
・では考古学からはどんな説が出されているのでしょう。これに答えるためのヒントは「伊勢」の地に所在する遺跡や遺物にあると考えています。
・ところで、日本考古学の今日の研究では古墳時代前期から中期に地方がヤマト王権との関係を持っていたことを示す最も象徴的な遺跡が100mを超す大規模な前方後円墳だとされています。そこで調べてみると
→ 伊賀地方には伊賀盆地中央部に4世紀後半に初めて120mの石山古墳が築造されます。次いで、南東部に142mの馬塚を持つ美旗古墳群、北東部に180mの御墓山古墳が築造されていきます。伊賀地方がヤマト王権との強い繋がりを持つ豪族により支配されていたことを示す重要な資料です。
→ にもかかわらず、伊勢地域には松阪市に111mの宝塚1号糞が5世紀初頭に築造された後、100mを超す前方後円墳は築造されなくなります。
→ 前方後円墳を指標にすると伊勢地域はヤマト王権と疎遠であったとしかいいようがないのです。
考古資料には、4~5世紀に伊勢地域とヤマト王権との関係の深さを示す材料はない。



Ⅰ ヤマト王権の伊勢地域への進出
 

〔1〕青銅鏡の再配布





・ところが、5世紀末から6世紀初めにかけて変化が生じます。同向式画紋帯神獣鏡という当該期に王権が配布した青銅鏡が伊勢湾岸に集中的に発見されています。
・特に伊勢湾の入り口部に所在する神島には多様な青銅鏡のみならず、ミニチュアの祭祀遺物が奉納されていることが知られています。これらは、博多湾に位置する宗像神の神宝を埋納し、航海の無事を祈るための島であったとされる沖ノ島のものと多くの点で共通しています。海を媒介して王権との強い繋がりがあったことを推測させてくれます。
→ 但しこれらはあくまで海とヤマト王権との関係を強調するものです(宝塚1号墳の船形埴輪も海との関係を強調する資料でしょう)



       図1 高倉山古墳の石室

〔2〕高倉山古墳の築造
・宮川下流域への丁塚古墳の築造(6世紀前半における南勢初の横穴式石室)がヤマト王権と伊勢地域との関係を示す初めての考古資料。
・次いで、6世紀中頃になると、畿内型の大規模な横穴式石室を持つ高倉山古墳が築造されます。
・外宮の裏山という伊勢平野から最もよく見える位置への築造は、宇治山田を支配していた豪族に対する楔と考えられます。ヤマト王権の影響がはじめて宮川右岸の地域に進出したのです。
→ ヤマト王権と伊勢との関係の大きな画期
   図2 井田川茶臼山古墳出土の同向式画紋帯神獣鏡
(三重県埋蔵文化財センター提供)



Ⅱ 大鹿ミヤケの成立
 〔1〕 ミヤケとはなにか
・6世紀末から7世紀初めに全国にミヤケが設置されました。
・伊勢湾岸(伊勢・伊賀・志摩地域)から参河湾岸でもほぼ同時期にミヤケの成立を示す考古資料が認められます。



・ミヤケとは、地方の土地や交通拠点を王権が直接掌握し、管理する制度です。
・国造制・部民制と共に、王権による地方支配制度の一つでもあります。
→ ミヤケ制は土地(御田)だけではなく交通の拠点などの空間も含む地方支配に重要な役割を果たす空間を媒介した支配政策です。
→ 国造制は、伝統的地方支配者の追認や再任、新たな支配者の任命を王権が行うことによって全国の地方支配者の掌握と管理を目指す制度です。
→ 部民制は地方豪族によって支配・管理されていた部曲(かきべ・人民)をミヤケなどで特定の職掌に付く部曲を定め(部民)王権が直接これらを支配・管理する制度です。
→ 御田で農耕などに従事する者は「田部」、海で海産物を収取する者を「海部」等と称しました。中央豪族の配下に入り在地で皇族や中央豪族の指示に従って労働する者はその皇族・豪族名を採って例えば「丈部」「額田部」「大伴部」「安曇部」「三宅人部」等と名乗らせて支配し管理しました。
・ミヤケには次の3つのパターンがあったといわれます。
→ ミタ(御田)・屯田を伴わないA型ミヤケ
→ ミタを伴うB型ミヤケ  豪族の土地を割いたB1型と王権が開発したB2型に分けられます。
・伊勢の多くは交通拠点を掌握したA型ミヤケだったようです。
 
〔2〕 考古資料が明かす大鹿ミヤケの成立と展開




・伊勢湾西岸地域では、当該期のミヤケの一部は主要交通路に展開しました。
・現在の鈴鹿市東部、海岸付近に金沢川という小さな河川があります。その河口部・河曲郡東端の海岸縁に岸岡山古窯という須恵器焼成の窯があります。窯では甕や杯等、一般の食器や容器を造っていましたが、中に、脚付短頸壺という、お鉢に長い足の付いた変わった土器も生産されました。
・中でも注目されるのが脚付短頸壺です(図3)。
・製品は丘から下ろされ、金沢川沿いの天王遺跡に集められ、伊勢案を横断して知多半島や三河湾沿岸地域に運ばれました。
→ 天王遺跡は岸岡山古窯製品の積み出し港だったようです。
→ その製品の出土範囲から、伊勢湾と三河湾を結ぶ海上交通の中核港でもありました。
→ それを証明するのが遺跡から発見される倉庫群、物資集積場跡、統治施設などです。
・脚付短頸壺の分布する後期古墳は律令国家の制定した官道及びその支路に沿って展開しています。
・脚付短頸壺を副葬する主な古墳をまとめますと、図4のようになります。
① 宇賀新田古墳群:鈴鹿関と不破関を結ぶ最短ルート(古墳番号1~6)
⑪ 岸岡山古窯:脚付短頸壺生産窯
⑫ 天王遺跡:大鹿ミヤケ港   
⑳ 河田A-3号墳:飯野郡と多気郡の郡界に立地
㉑ 丸山1号墳:内宮に近接する五十鈴川上流域に所在
㉒ 奥弁天4号墳:伊賀・近江(甲賀)・伊勢(鈴鹿)を結ぶ結節点
㉔ 石田1号墳:伊賀と大和(宇陀)を結ぶ交通路
㉖ 北地5号墳:三河湾日間賀島に所在する群集墳。律令期に佐目楚割りを御贄として献上
・私はこの分布範囲こそが、王権が直轄支配した拠点ではないかと考えました。
・つまりA型ミヤケではないかと考えたのです。
・古墳の分布地点を結びますと、二つのルートに別れて展開していることが判ります。
→ 東海道ルート
→ 巡検街道(伊勢道)ルート
・さらに興味深いのは、古墳の分布と重なるように大安寺の墾田地が広がっていることです。

Ⅲ ミヤケの展開と大安寺墾田地
 〔1〕 ミヤケから大安寺墾田地へ








・大安寺は舒明天皇によって建立された初の国家寺院・百済大寺(吉備池廃寺)を継承した当時の最も有力な寺院でした。
・藤原京では高市大寺や大官大寺と称し、平城京で左京五条四坊に大安寺と名前を代えて再建されます。当代随一の国家寺院でした。
・『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(8世紀後半段階の大安寺の財産目録)によれば、天武朝と聖武朝に伊勢・伊賀国に1300余町の墾田地が施入されています。









         図4 脚付短頸壺の分布





→ その歴史的背景はどこにあるのでしょうか。
→ 『日本書紀』によると、敏達天皇四年(575)正月甲子(九日)条に「立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。〈更名麻呂古皇子。〉其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。其四曰大派皇子。次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人。生太姫皇女。〈更名櫻井皇女。〉與糠手姫皇女。〈更名田村皇女。〉」とあります。敏達天皇に嫁ぎ、田村皇女を生んだ大鹿首小熊女は采女として朝廷に指されていた大鹿首の娘だったのです。その娘が産んだ子が押坂彦人大兄皇子との間に産んだ子が舒明天皇なのです。
→ 小熊女が二人の子を産んだ頃には大鹿氏の本拠地は王権と深く関係していた可能性が推測されます。
→ ミヤケとして管理されていた空間が、舒明天皇の祖母の故郷に展開していたことが、舒明天皇の建立した百済寺を継承した大安寺の財政基盤として寄進されたということは十分予想できるでしょう。
・なお、伊勢・伊賀国の大安寺の主な墾田地には次の様なものがあります。
① 員弁郡志理斯野・宿野原:不破関への近道=宇賀新田古墳群
② 三重郡采女郷・日野・東大寺三重荘:東海道=久留倍古墳群
③ 飯野郡中村野:東寺大国荘
④ 伊賀国阿拝郡壬生野:奈良時代東海道=奥弁天4号墳



〔2〕 飯野郡中村野と東寺大国荘






・『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に、伊勢国中部の墾田地として唯一記載されたのが飯野郡中村野です。
・飯野郡中村野については隣接する多気郡の弟国・兄国一帯に所在した東寺大国庄の所在地を伝える一連の史料(「民部省符」承和3年2月5日『平安遺文』1-58等)が現地比定に有力な資料を提供してくれます。
・これらの史料を使うことで、飯野郡から多気郡に至る櫛田川中流域の開発と王権との関係についても分析を加えることができます。
  (1) 伊勢国飯野郡の大安寺墾田地
・『資財帳』によれば伊勢国から大安寺へ施入された土地は合計13ヶ所あります。
・天武朝に4ヶ所・662町(開田88町、未開田574町)、聖武朝に9ヶ所・644町(開田16町、未開田628町)の総計1306町です。ただし、大半が未開墾地であることは注意を要します。
・なぜ伊勢国中部に位置する飯野郡が、施入地として選ばれたのでしょうか。
・飯野郡80町の現地比定をすると興味深いことが判ります。
・飯野・多気郡の条里制墓なり困難だといいます。そこで他の史料から検討してみましょう
  (2) 東寺大国庄の庄域
・時代は変わりますが、飯野郡界から多気郡界にかけて、東寺の荘園大国庄が所在していることが知られています。
・その四至は「限東宇保村高岡、限南多気郡佐奈、限西中万氏墓、限北四神山里縄并大溝」(「伊勢国符」『平安遺文』78)とされ、ほぼ、多気郡十一条から十五条辺りに所在したものと推定できます。
・大国庄成立の歴史は、桓武天皇の皇女である布施内親王が天皇から賜った田772町の一部に当たる185町9段180歩を、その没後の弘仁3(812)年、東寺に施入したことに始まるとされます(「民部省符案」『平安遺文』1-35)。
・大国庄については研究が進み、『平安遺文』(1-58,78,233)他にその庄域を示す記事が残されています。これらの記事を参考にして各坪付けとその所有関係を整理すると、次図の通りとなります。
・大国庄は飯野郡11条5山下里から始まり、ほぼ二里程度の東西幅をもって南北に伸び、14条5・6里の井於里南端まで集中しています。15条4鎌田里にはわずか2坪にしか認められず、大国庄は北部の飯野郡で一応のまとまりをもっていた可能性があります。
・13条6・7里が大国里と呼称されていたこともそうした推定を支えるものです。
・北端の11条5・6・7(山下里・井於里)両里ともに縁辺部で公田と接していることがわかります。後述する大安寺領が12・13条に集中していることをみると、飯野郡では北から公田-大安寺領-大国庄の順に並んでいたのかも知れません。
・最も占有坪数の多いのが12条である。特に6中村里には大安寺領と3ヶ所で接している他、8野田里でも大安寺領と接している点が注目されます。
・大国庄の荘域に関する民部省符の検討を通じて次のようなことを確認することができました。
①大国庄の中心は大国里であること。
②12条6里西方及び8里東方には大安寺領が所在すること。
③飯野郡11から14条が大国庄の中核であること
④多気郡内の大国庄地は散在し、大安寺領は認められないこと。
・大安寺領との関係で特に注目されるのが②です。
・6里中村里10・11・22坪と8野田里東辺10坪になぜ大安寺領が所在するのでしょうか。
・12条6中村里の里名が大安寺墾田地飯野郡中村野と無関係とは考えにくいのではないでしょうか。
・飯野郡中村野は遅くとも天武朝には王権の所領となっていました。それがなぜ大安寺の所領と化したのでしょうか。
・そのヒントこそ、多気郡に残る相可の相鹿上神社や逢鹿瀬寺等と通じる名称にあるのではないでしょうか。
・多気郡や飯野郡にも「大鹿首氏」との関係を示す資料があるのです。
・中村野周辺の古代寺院としては、多気郡の西方に位置する逢鹿瀬寺跡が注目されています。

まとめにかえて

・伊勢湾岸では5世紀初めから末に欠けて伊勢湾での水上交通に関係してヤマト王権が関係の強化に努めた様子が読み取れます。
・6世紀に入ると宮川右岸への関与が始まり、6世紀中頃    図6 日間賀島と大鹿ミヤケ
・には高倉山に巨大な横穴式石室をもつ高倉山古墳が築造されます。
・6世紀後半にはミヤケの設置が始まり、ほぼ王権の直轄地と化します。その先頭に立ったのが大鹿氏でした。
・大鹿氏は、伊勢北部では水陸交通網を確保し、王権による支配を確固たるものにします。
・奈良時代に入り、ミヤケなどの前代からの支配形態は不要となりますが、依然として王権はそれらの地域を手放さず、国家寺院である大安寺の所領として維持します。
・大安寺の所領となった背景にも、大鹿氏の影が見え隠れします。
・なお、知多半島の先にある日間賀島の古墳から出た鮫の釣り針も大鹿ミヤケとの関係を教えてくれます。
・次回 2月25日(水) 10:30~12:00 「鈴鹿関と古代東海道~三間による陸上交通の確保~」
参考文献
弥永・谷岡1979  弥永貞三・谷岡武雄『伊勢湾岸地域の古代条里制』東京堂出版
榎村1993     榎村寛之「文献より見た斎宮の構造についての覚書―発掘調査との対比の     
         試み―」斎宮歴史博物館『研究紀要二』
舘野2000    舘野和巳『古代都城廃絶後の変遷過程』(平成9年度~平成11年度科学研 
        究費補助金【基盤研究(C)(2)】研究成果報告書)
河北1994    河北秀実「西谷遺跡(栃ヶ池瓦窯)逢鹿瀬廃寺・四神田廃寺採集瓦の同笵関
        係と想定される供給パターン」三重歴史文化研究会『Mie history Vol7』
河田1974    多気町教育委員会「多気町文化財調査報告2 多気郡多気町河田字東谷 河
         田古墳群発掘調査報告Ⅰ」
谷岡1979    谷岡武雄「飯野・多気郡の条里制」(弥永貞三・谷岡武雄『伊勢湾岸地域の
        古代条里制』東京堂出版 1979年)
知多1997    知多古文化研究会『愛知県南知多町の考古資料』
山添1998    松阪市教育委員会『山添2号墳』
山中2002    拙稿「伊勢国北部における大安寺墾田地成立の背景」(三重大学歴史研究会
        『ふびと』第54号2002年1月21日)

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伊賀連携フィールド講演会「日本古代の情報伝達網 ~「烽火」の設置と原始・古代社会~」の条

2014-12-18 22:13:09 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

 ちょっと古い話なのですが、暫くブログを書いていなかったので、この間やった歴史関係の活動を少しずつ紹介することにします。
 
 2014年10月11日1030-1200伊賀市にありますハイトピア伊賀で行った伊賀連携フィールドでの「古代の情報伝達網」に関する報告です。

 依頼主は三重大学人文学部における今や日本一の忍者博士・山田雄司先生でした。その一部は既にお伝えしたことがあるのですが、最近パワーポイントのJPEG化の方法を知ったのでそれを利用して当日のレジュメを再現します。

 そもそも古代国家に「忍者」はいたのか?というのが私の素朴な疑問でした。でも山田先生は何が何でも私を巻き込みたかったようで、「情報伝達とか、諜報活動のようなものはあったでしょう?!」としつこく攻めてくるのである。つい、
 「ま、確かに、烽火とかはありますけれど、・・・」といったのが運の尽き。
 「忍者」はいないが忍者的任務はあった」ということで話しをする羽目に。
 
 伏線は既に張られており、忍者の仕事とはという質問に答える形でこんな本をもらってしまっていました。
  山田雄司監修『忍者の教科書 新萬川集海』笠間書院2014年

 「忍者」の姿は見えないが「忍者」の仕事は存在したということになり、とうとう講演する羽目に。情報伝達の装置としての「烽火(のろし)」軍事的目的としての烽火を話すことになりました。(このスライドは同じ話を授業でもしたのでタイトルがこうなっています)



 戦争に情報収集は不可欠です。日本列島の戦争の歴史はあの有名な漢書地理志の「倭国分かれて百余国をなす」という史料から知られますが、より具体的なのは、「魏志倭人伝」の次の文章です。
 「其國本亦以男子爲王。住七八十年倭國相攻伐暦年及共立一女子爲王名曰彌呼」(その国はもともと男子を王としていた。七・八十年前、倭国は乱れ、何年もの間攻撃しあっていた。そこで、国々は協議して一人の女子を王にした。名前を卑弥呼という。 )
 この「倭国乱れていた」時の情報伝達網が、考古学の研究により、高地性集落であるというのです。高地性集落というのは平地近くから見つかる集落遺跡とは別に40~50mの小高い丘の上から見つかる遺跡のことで、調べてみると延長線上に見通せる遺跡があるというのです。そこで、この遺跡から狼煙を上げれば見ることができるのではないか?時期も戦争が多発した3世紀前後のものが多いということで、定説化したのです。

、確かに弥生時代の頃から情報伝達網としての烽火がある。では、烽火全般について話してみてはどうかということになったわけであります。この写真にある北山遺跡は、京都府向日市の西端を南北に延びる「長岡」(向日丘陵)の南端から発見された高地性集落で、遺跡の南南東に位置する八幡市の幣原遺跡とが見通されといわれ、高地性集落が情報伝達網の役目を果たしていたとする説の根拠とされました。



日本列島でも、戦争の時代が始まりました。



7世紀後半になると、九州から瀬戸内海沿岸部にかけて突然、山頂部に朝鮮式山城や神護石系山城とと呼ばれる、頑強な石垣で固められた山城が発見されます。



白村江の戦いに敗れた天智王権は直ぐに国内の防御態勢を固めます。それがこの665年築造の大野城(大野城市・筑紫野市)であり、664年に設置された水城(同)でした。『日本書紀』によればこの時対馬、壱岐、筑紫に烽火台が設置されたとあります。戦争に烽火台は不可欠だったわけです。



同様の防御態勢を敷いたのがローマ皇帝ハドリアヌスが122年から建設にかかったHadorian’s Wallでした。現在のイングランドとスコットランドを分けた城壁でもありました。スコットランドからの攻撃を監視するために約20キロ置きにフォートと八尾ばれる防御施設が置かれ、随所に烽火台も設置されました。













ほぼ同じ時期に設けられ、活用されたのが漢代の長城です。これはシルクロードの一角、河西回廊に残る烽火台です。



これは明代の長城です。この南、山の上に漢代の長城が遺っているそうです。



漢代の長城はあちこちで枝分かれし、匈奴の侵入を防ぐ役目を果たします。これは甲渠候官と呼ばれる防御機関の一つです。これまでに大量の木簡が発見され、烽燧と呼ばれる烽火台での兵士の役割や生活などが判明しています。







これは蓁・漢代から清代まで長安の東南東の関として役割を果たした武関です。武関から長安(現西安)まで牡丹江沿いの山頂部には点々と烽火台が遺っているとされます。







朝鮮王国正祖の時代に都として設けられた水源にも烽火台がありました。





さて、日本の奈良・平安時代の烽火台として初めて確認されたのが栃木県宇都宮市の飛山遺跡です。







 以上、今平利幸『飛山城跡』同成社 2008年 より。

直接的に烽火台の遺構が見つかったわけではありませんが、十分その可能性のある遺構が鈴鹿関より見つかっています。三重大学が発掘調査して確認した西城壁と北城壁の角部の上方に巨大な岩があります。同様の岩は3箇所で認められており、ちょうど眼下を走る新旧の東海道を見下ろす位置にあります。この位置にも烽火台が置かれた可能性があります。





さて狼煙を上げる烟の材料は律令によると「よもぎ・わら・生柴(青葉の付いた杉や檜の枝)」とされます。しかし、私たちが以前実験した藻塩焼くときの烟もとてもよく目立つ白煙でした。


日本古代に忍者はいなかったが、忍者が行ったと推定できる情報収集・伝達活動に不可欠な烽火台施設は世界中にあることが判った。古代の忍者捜しも面白いな、と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ



大阪城三ノ丸の発掘調査に体験参加の条

2014-12-17 16:46:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
毎年恒例のO高校の授業が終わった後、現場で体験学習をすることになっている。近年はほとんどが室内での土器洗いやマーキングなど、現場での体験発掘は現場の都合が付かず、できなかった。ところが今回は事前に学生の希望をよく読んで下さった調査の方が配慮下さり、発掘体験することができた。



雄々しいヘルメット姿の生徒達。



 これが発掘現場。何でも現在、豊臣崩壊の大坂夏の陣の後に、徳川が行った大造成(豊臣の痕跡を消すための造成)を掘り下げるところだという。
 ちょうど午前中の授業で、私が話した、
「ローマがカルタゴを滅ぼした後、その痕跡を徹底的に消すため、破壊し尽くしただけでは気が済まず、3m近い盛り土をして埋め立ててしまったのとそっくりだね。」というと、やっと納得してくれたみたいだった。権力者というのはホント恐ろしいものです。





 私は前回掲載した仙台でのミニ講演があったので途中で新大阪駅に向かわざるを得なかったが、きっと学生達は感動したに違いない。いつも後から送られてくる感想文が楽しみだ。



 一列になってガリかけ。さて何が出るかはお楽しみ。

 参加した学生は全員女子で、それも理系志望だという。だから話していると、申し訳なさそうにいうので、「イヤイヤ、そんなことは気にしなくていいよ。理系志望の若者が少しでもこういう歴史的な事柄に興味を持ってくれることは、私たち教員にはとても嬉しいことなんだよ。」「最近は余りにそれぞれの分野に特化しすぎて、文化や教養に余りに疎遠な理系が増えすぎていると思うので。」と伝えておいた。

 いつか、社会に出て、今回のことが少しでも思い出として心に刻み込まれることを望むばかりだ。

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テルマエロマエと大阪府立O高校での授業の条

2014-12-16 15:06:26 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 2014年12月12日(金)毎年恒例となっている大阪府立の進学校O高等学校での授業を行った。高校生に大学の授業はどんなものかを知らせ、進路選択の参考にするという趣旨で始まったものだ。もう16年になる。
 事前に授業の候補をお知らせし、学生や先生に選んでもらって決められたテーマですることになっている。
 今年は、「ローマ人の風呂文化と水道~テルマエロマエを考古学する~」となった。授業が始まってみんなに聞くと意外なことに、みんな、漫画も映画も観ていないという。ただお母さんが持っていたのでしてはいるとか、さすが受験校、勉強一筋らしい。

 そんなわけで今年の受講生は少なかったが、皆さん熱心に聞いてくれた。最後の質問時間も足りないくらい。やりがいのある授業だった。

 授業の一部をご紹介しておこう。



テーマはこれ。

以下主なパワーポイントの抜粋です。

先ず、昨年春に行ったチュニジアにあるフェニキア人の商業都市、ケルクアンで確認した風呂です。

この遺跡はあまり知られていませんが、ローマ人の手によって破壊し尽くされたカルタゴの遺跡の中で、奇跡的に残った港町です.ローマ人が来る前に廃れていたことが、彼らの目にとまらず、破壊を免れたのでしょう。そのお蔭でフェニキア人達の都市構造を観ることのできた素晴らしい遺跡だったのです。私にとってもっと感動的だっtなおは彼らの風呂が確認できたことでした。彼らはナナナント、日本人のようにお湯につかっていた様なのです。但し、一人しか入れない、まるで今のユニットバスのような風呂でした。



こんな風呂が小さな家々一軒ずつにあるのです。カルタゴのフェニキア人も風呂好きだったようです。
これはチュニスにあるカルタゴの遺跡です。但し、フェニキア人達の町はローマ人によって徹底的に破壊され、この写真はローマ人達が破壊の後に造ったローマ都市の下から出てきたフェニキア人の都市です。この町もよく見るとケルクアン同様に比較的小さな区画で家々が構成されている共通点があります。フェニキア人の都市は例が少ないので余り研究が進んでないように思います。レバノン郊外にあるビブロスの遺跡などとの比較研究があるのかも知れませんが、とてもおもっしろい研究材料です。





 彼らフェニキア人達はタニト(この人形のようなマーク)と呼ばれる豊穣を祈る神様を信仰していたようです。



ケルクアンの町並みの復元図です。港に接した小さな商業都市です。



 ローマ人達はカルタゴを破壊した後その上にローマ都市を造りますが、先ず実行したのが水道の建設でした。チュニス郊外約二三キロほど東の山裾にあるザクーアンはその水源地の遺跡でした。ここから引かれた水はローマ時代のカルタゴ(チュニス)まで届き、一角には広大な貯水総軍が設けられました。







ザクーアンから延々と引かれた水道橋の跡です。



さて、ローマの風呂・テルマエロマエの世界です。その前に一応ローマの中心部をご紹介。政治・経済・宗教の中枢部・フォロロマーノです。





そして文化の中心・コロッセオ。



 これがカラッカラ浴場。変な名前ですが、同名のローマ皇帝の名前に由来します。





ローマで一番大きかったといわれるトラヤヌスの浴場です。



これらに水を引くための水道橋です。



ローマ人達は現在の西ヨーロッパ世界を形成しますが、その支配地にも必ずといっていいほど風呂を造りました。これはローマの港町オステアに設けられた小さな風呂です。



そしてこれはローマ郊外にあったハドリアヌスの別荘です。有名なチボリの丘の麓近くにあります。
来客用、皇帝家族用、皇帝用と三種類の風呂がありました。ローマ人の風呂好きがよくわかります。テルマエロマエはハドリアヌス皇帝の時代設定になっています。




ハドリアヌスがイギリスを征服するために設けたハドリアヌスウオールにも各フォート(要塞)に風呂が設けられていました。




憧れのポンペイにも風呂と水道が完備されていました。





地中海を征服したローマは地中海の東端・現在のレバノンにも植民都市を設けました。私たちが少し発掘や測量のお手伝いをしたチュロス(Tyrl)にも港町に付属した大浴場がありました。






水源地から延々と引かれた水道橋の残骸です。
水源地は今も町の人々の貴重な水源です。




首都ベイルートにも現在の大統領官邸の直ぐ横にローマ人の残した大浴場があります。どれもローマの風呂と同じ三段階の温度の部屋を設けた風呂です。


シリア国境から引かれたベイルートへの水道です。ここは現在も使われています。



 私の研究目的は都市の比較研究です。その中の文化の比較研究というサブテーマの素材が風呂とトイレのです。
以上のようなローマの都市文化とアジアがどう異なるのか?これが次なるテーマです。
 そしてこれは長安郊外の温泉地か華清池の風呂跡です。左の華形が楊貴妃、右の大きいのが玄宗の風呂だといわれますが、そうでしょうか?私は左の風呂に一緒に入ったと思うのですが・・・。



長岡京から発見された現在のところ日本最古の風呂です。宝菩提院廃寺という長岡京において最高の権威を持った寺院から発見されました。日本古代で発見されている唯一の風呂跡です。つまり、日本人はこの時代、高僧や天皇以外に風呂に入ることはなかった!!と私が結論づけると、生徒達は[エエッツ、汚い!!ホントですか?」と口を揃えていいました。でもこれが事実ですから、みんな汚かったに違いありません。こうした事実の確認にこそ文化の比較に意味があるのです。現在の文化や習慣なんてそんなに古いとは限らないのです。何でも伝統だと言い張って日本の文化を強調する方々に見せてやりたい事実です。



見事な風呂でしょう。半円形のところに大きな鉄釜があったと思われます。その周りの石敷きで湯浴みをしたと私は思うのですが、有名大学の建築史の先生は後世の絵巻物の資料などからこのお湯を部屋に引き込んで蒸発させ、熱い蒸気で発汗させる、サウナ風呂的な構造を復原されています。でも考古学の私はこれには全く賛同できません。なぜなら、それならこの見事な石敷きはどんな機能をするのですか?こんな質問を浴びせれば済むことだと思うのです。日本古代においてこれほど見事な石敷き遺構は飛鳥の宮殿以外にありません!!


次に風呂の遺構がはっきり判るのは、有名寺院に現在も残る中世以降のものとこの山科本願寺のものしかありません。



そしてテーマに沿ってまとめてみました。



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次回は生徒達と訪れた大阪城の現場紹介です。お楽しみに!!

「今泉隆雄さんを追慕する会」ミニ講演の条

2014-12-15 11:42:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 もう一年が経とうとするのに、涙が止まりません。
 2014年12月13日(土)KKR仙台ホテルで「今泉隆雄さんを追慕する会」が開かれました。20分ほどの講演をさせていただきました。「今泉隆雄さんの木簡研究」という題です。パワーポイントのノート版が原稿ですので、それを再掲します。実際にはこんなにスムースには話せませんでした。

今泉隆雄先生を追慕する会



今泉さんは二歳年上の先輩です。本来なら当然〔今泉先生〕と申し上げるべき立場です。しかし、1977年に初めてお会いした時から、〔今泉さん〕と言い慣らわせてきました。東北大学に移られてからもずっとこれで通していました。ご本人もそれを望んでおられましたので、今日も「今泉さん」と呼ばせていただきます。お許し下さい。
 本報告も、その多くは今泉さんと私の接点の中で得られた知識、情報を下にした時に私的な内容になることを予めご理解頂ければ助かります。
 なお、この写真は六年前、私の科研でベトナムのタンロン遺跡出土の文字塼の調査に行った折のスナップです。ネコを見つめる眼差しはまるで我が子のようで、木簡以上です。



今泉さんの木簡研究の業績の大半は著書『古代木簡の研究』にまとめられています。その構成は第一編木簡の史料学的研究、第二編が木簡群と遺跡、第三編が個別木簡の考察、となっています。本報告では第三編を除くご研究の成果をお話ししようと思います。
 この大著がまとめられるまでにその基礎をなした研究が第2回木簡研究集会での報告であり、それをまとめた『木簡研究創刊号』に載せられた「貢進物付札の諸問題」という論文でした。そしてこの論文の直後に調査に当たられたのが長岡京で初めて一千点を超す木簡でした。それぞれが第一・第二編の核となる研究でした。
 そして、私と今泉さんとの出会いを用意してくれた木簡群でもありました。
 『長岡京木簡一』は、報告書の体裁をとっていますが、今泉さんの著書というべき研究成果の賜です。その内容はこの後お話ししますように、木簡学に新たな地平を拓き、今泉さんの木簡研究・古代史研究を大きく展開させたものだったと思います。



これはガリ版刷りの第2回木簡研究集会での今泉さん直筆の報告要旨です。お借りした「貢進物付札の諸問題」と題されたファイルに大切に挟まれておりました。37年も前のものですから紙も赤茶けておりました。 
 今泉さんが「貢進物付札」を最初の研究テーマとされたのは、ある意味、必然であったように思います。
 さきに熊谷さんのご報告にありましたように、今泉さんの古代史研究の初めは郡司制・地方行政組織の成立にありました。奈良文化財研究所で、地方から送付されてくる貢進物付札に着目され、「誰が、どこで、いつ作成したのか。」「貢進主体の属する国によって何らかの違いがあるのか、その違いはどんなものなのか。」 この課題を解決するために、今泉さんが着眼されたのは、木簡そのものでした。
 木簡の文面だけではなく、それぞれの木簡の書式、書風、形態にまで及んでいました。今日の木簡研究で当たり前になっている研究方法の基準が今泉さんの手によって確立されたのでした。



ご家族からお借りした「貢進物付札の諸問題」「文書木簡の廃棄の時期と計会制度」という二冊のファイルには研究過程の様々な集計作業が記載されていました。
 左上は貢進物付札に記載された貢進物と木簡の型式との関係を確認するために作成された集計表です。
 真ん中の折れ線グラフは、宮都別の木簡の寸法の集計表です。右下は国別、時期別の木簡の寸法の分布を示したグラフです。
 こうした作業を経て論文が構成されていました。



貢進物付札の研究は、調庸の付札に始まりました。
 例えば、この若狭からの調の塩貢進木簡は典型的な違いを見せます。
若狭国には当時遠敷郡と三方郡の二郡しかありませんでした。今泉さんはその二郡から出された貢進物付札に着目しました。表裏両面に記載する遠敷郡、大宝令の規定では記載することになっていた貢進年月日を一切書かない三方郡、繊細な筆遣いの遠敷郡、木簡という物に即して細部にわたって観察を重ねた結果の研究成果でした。
 余談になりますが、この頃今泉さんと度々手紙のやりとりをしていた私はあるときこんなことを言われました。
 「手紙は筆で書いた方がいいよ。木簡を釈読するというのは文字の形じゃなくて、筆の運びから読み解くんだ。だから日頃から筆で書いていれば、木簡のわかりにくい文字も浮かんでくることがあるんだ。」
 そんなことばに刺激されて私もしばらく筆で書いていました。この頃、今泉さんの生活の全てが木簡だったと判ります。
 なお、今泉さんはこの近江の木簡の分析から、これらが運搬人である大友醜麻呂によって太政官厨家の研修現場で書かれたものと解明されました。



今泉さんの木簡研究を貢進物付札の研究から宮都研究へと大きく舵を切らせたのが長岡京木簡ではなかったかと思います。
 1977年の夏は今泉さんにとっても、私にとっても人生を大きく変える転換点の年となりました。
 様々な苦難の末に世に出されたのが「長岡京太政官厨家木簡」でした。
 先ず明らかにされたのがやはり貢進物付札でした。但しそれまでとは違う「地子」という特殊な税物に付けられた木簡でした。共伴する様々な木簡の指し示す方向が「太政官厨家」であることが明らかにされました。


 
この様な木くずや土器の塊の多くは、整理が進むと太政官厨家に関連するものが一括して投棄されていることを示しました。
 その分析によって、太政官厨家には「倉代下」が利用されたこと、太政官曹司や山桃院・嶋院など王権の中枢部の建設に関する部局があること(作官司所)、人事に関する考所が置かれていたこと、鉄などの物品が保管されていたこと、これらの業務を遂行するために多くの史生が配置されていたことなどが明らかにされました。中央官司機構に関する初めての詳細な研究成果でした。
 そしてその出土位置に着目した今泉さんは、長岡京太政官厨家と平安京諸司厨町の中のそれが位置を連動させていると評価しました。
 この頃、今泉さんの研究の関心が、古代宮都研究へと展開しつつあった要因の一つが、長岡京木簡の調査・研究成果にあったことも事実でしょう。
 


私もこの今泉さんの研究成果を基礎に、後に平城京で長屋王邸が発掘調査され、三都にわたって宮城の外に現業官司を配置する伝統があったことを証明しました。宮都研究において、長岡京研究が前後の都の施設配置など、大きな影響を与えたことを実証する貴重な資料でした。



並行して進められた太政官厨家木簡の分析により、中央官司機構において木簡が多様な役割を果たしていたことが明らかにされました。
 勘検検収付札と命名されたこれらの木簡は官司(太政官厨家)内で、物品(ここでは地子物か))などを四月八日他に秦安麻呂が点検したことを示す木簡です。貢進物付札と一緒に束ねておいて、後に集計などに用いたものと推定されています。宮都の中央官司で、収納物の集計や返抄交付の資料として木簡が利用されたことを示す貴重な証拠となりました。



今泉さんの木簡研究の大きな特長に木簡群と遺跡との関係を常に念頭に置いて分析を加えられることでした。木簡の研究において、文字のない木簡状木製品にも研究が加えられ、この様に木簡素材がどのようにして成形さえるのかが明らかにされました。



さらに、木簡の小さな切り込みに着目し、これが定木であることを証明されたのも今泉さんでした。



その証明のために正倉院などに残る公文書の堺線を集計され、目印がそれらと深く関係することを実証されました。



木簡の作成から廃棄までを系統立って解明されたのも今泉さんでした。
 門牓木簡という、宮城門など、官吏や官司が、物品や官人・兵士などの移動の際に用いられる点検札を通して、木簡の「ライフサイクル」に着目されたのも今泉さんでした。
 常に、木簡が移動するものであることを念頭に、研究を進められた大きな成果でもありました。木簡研究の先駆者である中国漢牘の研究者も驚く成果でした。



最後に、木簡とは少し離れますが、文字資料に関するご研究の一端についても触れておきたいと思います。
 これはベトナム(大越国)の都であるタンロン遺跡から出土した文字をスタンプした塼です。多様なスタンプが李朝から黎朝までの各王朝の造営に関して生産された塼に押されていました。



私たちは全く気付きませんでしたが、中にこの様な変わった線刻やスタンプのある塼に気付かれた今泉さんは、帰国後同僚の専門家のアドバイスを得て、これらがチャム文字であることを確認され、ベトナム中部に存在したチャンパ王国(中国名・林邑)もまた、タンロンの建設に関与させられていたことを明らかにされました。
 文字だけではなく、文字をもつ遺物そのもの、そしてそれが遺跡に残ることの意味を常に念頭に置かれていた今泉さんならではの研究成果でした。

以下、報告書の抜粋です。
「タンロン王宮遺跡出土チャム文字塼について」
2008年3月にタンロン王宮遺跡出土の文字塼について、ベトナム社会科学アカデミー考古学研究所が作成した拓本集4冊によって調査を行った。文字塼の大部分は漢字によるものであるが、第2冊26号文字塼の文字は見慣れないものであったので、東北大学文学研究科言語学講座後藤斉教授に鑑定を請うたところ、インド系のチャム文字ではないかという教示を得た。ここに後藤氏から聞いたこととその時いただいた資料によって、チャム文字について記しておく。(下略)
チャム族は、文化的には中国よりもインドのヒンドゥー教の影響を受けて、チャム語を書き記すのにインド系の文字であるチャム文字を使った。チャム族の国であるチャンパは、10世紀からベトナムの圧力を受け、11世紀以降、ベトナムの李朝・陳朝・黎朝の侵略を受けてその支配下に入り、17世紀にはついに併合された。
 このチャム文字塼の時期は不明であるが、以上のようなチャンパとベトナムの歴史、及び漢字塼の記載が塼製作に関する負担の主体を示すものであることから、このチャム文字塼の記載内容も支配下にあったチャム族あるいはチャンパ国が塼製作の負担を負ったことを記載するものであることが考えられる。



最後になりますが、私たちと今泉さんの木簡研究の関わり、今泉さんの学問に対する姿勢の一端をご紹介してまとめとしたいと思います。
 今泉さんが長岡京研究に関与されるきっかけを作られたのは右端におられる故・高橋美久二さんでした。高橋さんによって、この左端の後ろ姿の写っている清水みきさんも私も、木簡研究に携わることができ、今泉さんとの親交を深めることができました。
 右下のロシア-中国東北部に点在する渤海の遺跡を巡った時のこの写真には思い出が一杯詰まっています。この時初めて今泉さんのお二人のお嬢様ともご一緒しました(※これは私の勘違いで、その2年前の洛陽踏査の時でした)。高橋さん、清水さん、吉田歓さんとも一緒でした。なぜか、私の次男坊や清水さんの姪御さんまで一緒という、変わった学術調査でした。とても充実した二週間でした。いつまでも忘れられない旅でした。それだけにこんなに早いお別れをしなければならなかったことが残念でなりません。木簡研究だけで|なく、古代史、古代宮都に欠かせない今泉さんを失ったことの喪失感は終生消えることはないと思います。

最終講義で示されたこの様な厳しい学問に対する姿勢は、残された私たちに強烈に残っております。「資料に厳しく!」という学問の原則を忘れることなく、肝に銘じてこれからも進んでいきたく思います。
「最終講義「文献史学と考古学のあいだで」」

•文献史学と考古学の基本的研究姿勢について指摘
•「(文献史料と考古資料)それぞれの資料から事実を確定するためには、それぞれの資料的性格に基づいて資料の論理を追究して、事実を確定しなければならない。事実の認定において、両者の資料を都合よく利用することは“もたれあい”であり、避けなければならない。両者の資料のそれぞれの論理を追究して事実を確定した後、解釈の段階においてはじめて、両者から確定した事実を照合して、利用すべきである。」
•「考古学の研究成果を利用しようと思うならば、最低限でも発掘調査報告書を正しく理解できる能力、具体的には、報告書に記述されていることのどこまでが事実で、どこからが解釈なのか、また、事実の認定が正しいかなどを見極める眼力を養うことが必要である。」
• 今泉さんの指摘を肝に銘じ研究に励みたい。
(「最終講義 古代史学と考古学のあいだで」(『国史談話会雑誌』第五十一号2010年)より)


 最後になりましたが、本報告をなすに当たって貴重な資料をお貸し下さった奥様の今泉瑞枝様、お二人のお嬢様に厚く御礼申し上げたく思います。
 そのノートを繰ると一冊一冊が今泉さんの古代史の源泉であることがわかります。書きとめられたメモにはたくさんの着想が隠れています。
 いずれ、ノートが公開されるやに伺っております。若き研究者がこれを引き継ぎ、今泉史学をさらに発展されることを願わずにはいられません。
  今泉さん、ありがとうございました。      山中 章


 研究者として、教育者として、そして何よりも人間として素敵な今泉隆雄さんを失って寂しくてならないと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

平等院の裏山に眠ることになった義弟の条 

2014-12-02 09:43:32 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日(12月1日)は妹の連れ合いの納骨の日でした。



 平等院の裏をダムに向かって10分ほど登っていったところにその墓地はありまた。生前の本人の遺志は散骨だったようですが、社会事情がそうは簡単にしてくれませんでした。山好きだった彼のためにどこか信州の樹の裾にでも撒こうかという意見もあったのですが、法律でそうもいかないことがわかった。海上での検討したのですが、いろいろ調べるとお骨の扱い方やらで直ぐにはいい方法が見つかりませんでした。



 たまたま妹が見つけてきたのが、宇治平等院の奥に「樹木葬」という名称で、桜の木の下にお骨を入れる空間があり、そこに納めるというものでした。

 いってみて驚いたのはそうしたことを願う人がとても多いということ、その空間がとてもきれいに整備されていて、後にお参りするにも感じのいい空間だったことでした。

 一人寂しく逝ってしまった義弟ですが、やっと落ちつく場所が見つかりました。お骨を置いた場所に目印として小さな墓標が置かれることになっていました。それがこれです。当日雨だったので良く写っていませんが、長女が描いたものです。酒を欠かすことのなかった義弟に相応しい、ユーモア溢れる「墓誌」でした。






 宇治川の先には我が家もあります。あのねちこい眼差しで、そっと見守っていて欲しいと願いました。

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 鳳凰の抱く枯れ野眠る御霊