前回の続きです。但し、以下の基本的な内容は先にお知らせした古代学協会の提携講座「伊勢湾の考古学」の趣旨と基本的に変わりません。重複部分も多いですが、一応ご紹介しておきます。
第三節 海上交通から内陸支配へ
六世紀に入ると伊賀盆地南端に琴平山(ことひらやま)古墳、伊勢湾西岸北部に井田川茶臼山古墳,南部に丁塚(ちょうづか)古墳という横穴式石室を主体部とする新しい埋葬型式が導入される。伊勢湾西岸南部地域に最初に築造されたのが宮川下流域の丁塚古墳であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/c4/280f4cdb356311789d00a975f886eacd.jpg)
(磯神社の鎮座地は宮川の氾濫などで変遷しており、古代の位置は厳密には不明だという。しかし、私は、東海道志摩支路の位置復原、志摩支路が宮川と交差する付近に展開する七~九世紀の遺跡群などから考えればいいと思っています。)
(一) 水陸交通の結節点
丁塚古墳は、高ノ御前遺跡から宮川中流域へと遡った地点に築かれた。後には古代東海道志摩支路が整備され、志摩国へと向かう直線路が付近を通過していた。一角に倭姫による天照大神奉祭のための「行幸」の地と伝える磯神社が鎮座するのは偶然であろうか。その後も宮川渡航点における物資集積の拠点とされ、七・八世紀には殿垣外(とのがいと)遺跡、九世紀には小御堂前(こみどうまえ)遺跡が維持され、対岸にも高向(たかむこ)遺跡が置かれ、宮川流域における水陸交通の結節点としての機能を果たし、宇治山田の地に設けられたとされる度会駅家へと都からの情報を伝える重要拠点となるのであった。
宮川河口部は、六世紀まで、東をめざす拠点港として利用されていたが、七世紀以後、内陸部への窓口と化す。海から川へ、川から陸へ王権の支配域が次第に拡大する様を遺跡は表している。
(二)高倉山古墳の成立 《図7挿入》
宇治山田の地を見下ろす高倉山の頂に築造されたのが高倉山古墳である。墳丘の直径四〇m、横穴式石室を主体部とする六世紀後半の円墳である。横穴式石室の全長は一八.五m、高さ四.一mあり、東海地方最大である。石室は盗掘を受けており、副葬品は一部しか知られていないが、飾り馬に用いる馬具、被葬者が付けていた金環や小玉などの装身具、直刀、馬具、三輪玉、捩り金環等を出土している。特に三輪玉は玉纏大刀(たままきのたち)との関係が指摘される特殊品である。
高倉山古墳の石室はその後の玉城丘陵の古墳のモデルとなり、広く多気郡一帯に展開するという。当該規模の古墳を在地豪族クラスが築造したとは考え難く、被葬者はヤマト王権と深く繋がった人物と推定されている。
高倉山古墳の築造をもって「伊勢神宮」周辺の地は一挙にヤマト王権との関係性を深めたのである。
(三)五十鈴川下流域の変化
一方、五十鈴川下流域には六世紀後半に入ると、遠江地域で多用される横穴式木室墓という特異な墳墓型式を持つ南山古墳が出現する。五十鈴川流域でも、六世紀代には伊勢湾から新たな文化が入ってくるのである。五十鈴川流域では、引き続き七世紀前半に営まれた横穴式木室墓を主体部となす昼河古墳群が築造される。昼河古墳群では木で造られた墓室に火を付けて焼失させる「火化」という遠江地方で実施されていた特異な葬法が採用されている。宮川、五十鈴川両流域の文化の変化が海側からもたらされていることに刮目すべきであろう。「火化」が火葬を葬法とする仏教の影響を視野に入れるならば、五十鈴川中・下流域では七世紀に入ってもまだ「伊勢神宮」の痕跡すら認めることができないのである。
第四節 ミヤケの設置と伊勢湾西岸地域
ヤマト王権が宮川・五十鈴川中流域に関心を示し、高倉山古墳を築造して以後、伊勢湾西岸地域に大きな変化が生じる。ミヤケの設置である。
(一) 大鹿ミヤケの設置
六世紀後半から七世紀初めにかけて、ヤマト王権は地方支配の方法をダイナミックに転換する。地方を直接支配するための拠点としてミヤケを設置するのである。ある地域では交通の要所に、ある地域では在地支配の弱い地点に拠点を置き、施設や土地の管理者を任命し維持に当たらせるのである 。ミヤケの管理者にはヤマト王権から認定の物品が配布された。伊賀・伊勢の交通の拠点には脚付短頸壺と喚ばれる特異な須恵器が配布された 。
脚付短頸壺は河曲(かわわ)郡の東端、金沢(かなさし)川の河口部の小さな独立丘陵の上に設けられた岸岡山古窯で生産された。配布の拠点となった港が岸岡山の麓、金沢川の潟に設けられた天王(てんのう)遺跡であった。脚付短頸壺は、東は参河国宝飯郡、西は大和国宇陀郡、北は伊勢国朝明郡、南は伊勢国度会郡にまで分布が確認できる。一地方豪族では交易しきれない広範な地域への分布である。その分布域を図上に落とすと内陸部では七~八世紀代に「官道」として利用された交通路上に展開し、海浜部では、伊勢湾岸に河口部を持つ潟や島嶼部、半島の先端部などに位置する。館野和己氏が指摘する典型的な「B型ミヤケ」である 。
六世紀末から七世紀初めにかけて、伊勢湾西岸地域の内陸交通は一体的に管理が可能となり、これらは水上交通でもって伊勢湾を越えて参河地域にまで及んでいた。その中核となったミヤケこそ、河曲郡に本拠を置く大鹿(おおが)氏を管理者とする大鹿ミヤケであった。
(二) 伊勢湾西岸南部のミヤケ
七世紀の伊勢湾西岸南部「度会郡」「多気郡」「飯野郡」地域とヤマト王権との関係についてはこれまでその実態が十分に把握できていなかった。ところが脚付短頸壺が「多気郡」域の河田A-三号墳、「度会郡」域の丸山一号墳で出土が確認され、当該域がようやくこの時期に王権の直轄地と化したことが実証された。
ところでこの地は、壬申の乱後の六七三年、天武天皇によって高市大寺(後の大安寺)に墾田地八〇町が施入された飯野郡中村野に隣接し、七世紀後半以降に斎宮の置かれた場所でもある。ヤマト王権が七世紀後半以前に飯野郡東部から多気郡一帯の面的な空間を王権の直轄地(A型ミヤケ)として管理していたからこそ可能な行為だったのではなかろうか。
ところで、頭椎大刀は、神島の八代神社にも所蔵されている。これが坂本一号墳と同じ時期に奉納されたとすると、その奉納の意味を検討しなければならない。既に確認したように、神島は五世紀後半にはヤマト王権の東国進出時の安全祈願の島として利用されていた。頭椎大刀の奉納は、七世紀に入っても依然として神島が同様の機能を持つ島として重要な位置づけを付与されていたことを表している。あるいは、内陸部でのミヤケのように、伊勢湾西岸南部から志摩地域に至る広範囲な「海洋権」を確保したことを象徴する威信財として奉納されたのかも知れない。
第五節 壬申の乱と伊勢湾西岸
七世紀前半に確立した支配地を「祖先神・天照大神」の鎮座する土地とするにはもう一工夫必要であった。
(一) 迹太川での天照大神望拝
『日本書紀』天武元年六月二六日条は「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神」と、大海人皇子が戦勝を祈願するために朝明郡の迹於川(とおがわ)の辺で天照大神を望拝したとする。王権と伊勢神宮とが直接的関係を有したことを示す初めての史料である。記事によれば、大海人皇子は既に伊勢湾西岸南部の地に天照大神が鎮座し、戦勝祈願するに値する神であることを認識していたことになる。壬申の乱はその一ヶ月後に大海人皇子の勝利でもって収束する。
次いで、『日本書紀』天武天皇二年(六七三)夏四月条は、「欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。」と、大来皇女を天照大神宮に遣わし、泊瀬(はつせ)に齋宮(いつきのみや)を設置して神に仕えるために潔斎させたという。「伊勢神宮」はまだ「天照大神宮」であり、名称すら確立していなかった。同三年十月条では「大來皇女自泊瀬齋宮向伊勢神宮。」潔斎の済んだ大来皇女を伊勢神宮に派遣するというのである。この一年余で制度が整えられ、名称も「伊勢神宮」に固定する。大来皇女の派遣をもって斎王制度の確立とするのが定説である。斎宮こそ、「王権の祖先神化」を文献史料からも、考古資料からも実証しうる遺跡なのである。
次いで持統朝に式年遷宮が開始されたとされる。当該期こそ伊勢神宮と王権祭祀とが一体化する時期なのである。
(二) 考古資料からみた斎宮跡と伊勢神宮
斎宮跡の考古資料によって伊勢神宮の成立を直接裏付けることのできる資料は少ないが、伊勢神宮祭祀を具体化させる斎宮の施設が、早ければ七世紀後半には機能していたことを裏付けるのが史跡指定地西部からの土器などの考古資料である。王権が伊勢神宮祭祀を斎王制度の整備と並行して進めていたとするなら、斎宮跡でのわずかではあるが関連する資料の検出は、既述のミヤケの形成と合わせて、七世紀後半に伊勢神宮祭祀が確立したとする私見に大きな援軍となろう。
おわりに
以上、考古学から伊勢神宮が王権の祖先神を祀って現在の地に鎮座するのを七世紀後半の天武朝と考えた。最後に論点を整理してまとめとしたい。
① 四世紀(「垂仁朝」)に関係する考古資料は皆無であり、考古資料による限り、垂仁朝説は成り立ち得ない。
② 五世紀前半から後半の考古資料は、王権と深く関わるが、神島や宝塚一号墳の資料は伊勢湾から外洋へと海上交通に関係するものが主であった。
③ 六世紀前半には、宮川中流域に丁塚古墳が築造され、ヤマト王権の関心が内陸側にも向け始められる。後半の高倉山古墳の築造は宇治山田地域に王権が進出したことを示す決定的な証拠である。
④ 六世紀終末には伊勢湾西岸北・中部同様、南部にミヤケの設置が確認でき、七世紀前半には伊勢湾岸の水陸を結ぶミヤケのネットワークが完成した。
⑤ こうした歴史的背景の中で勃発したのが壬申の乱であった。開始時における天照大神への戦勝祈願が、勝利の形で成就されると、乱後の秩序形成の中で、皇祖神化が図られた。
⑥ 様々な制約の下、考古学的な調査・研究のできない伊勢神宮域に対し、大来皇女に始まる斎王制度は、その検証を可能とし、頭書の課題に迫ることのできる貴重な資料である。持統朝に「式年遷宮」が制度化され、伊勢神宮は確固たる地位を確立するが、その制度化が天武の跡を追った持統朝に行われる点も伊勢神宮制度化の時期を示して余りある。
参考文献
岡田登一九九五 「伊勢大鹿氏について(上・下)」(『皇學館大学史料編纂所、史料一三五・一三六号』)
金子裕之二〇〇四 「三重県鳥羽八代神社の神宝」(『奈良文化財研究所紀要』)
金子裕之二〇〇五 「三重県鳥羽八代神社の神宝二」(『奈良文化財研究所紀要』)
清水みき一九八三 「湯舟坂2号墳出土環頭大刀の文献的考察」(久美浜町教育委員会『湯舟坂2号墳』)
鈴鹿市考古博物館二〇〇四 『現地説明会資料 天王遺跡一三次調査』
館野和己一九七八 「屯倉制の成立」(『日本史研究第一九〇号』)
都出比呂志二〇〇五 『前方後円墳と社会』(塙書房 )
八賀晋一九九七 「伊勢湾沿岸における画文帯神獣鏡」(『三重県史研究』第一三号)
広瀬和雄二〇〇三 『前方後円墳国家』(角川書店)
穂積裕昌二〇一三 穂積裕昌『伊勢神宮の考古学』(雄山閣)
松阪市教育委員会一九八八 『山添二号墳』
松阪市教育委員会二〇〇五 『史跡宝塚古墳』
三重県二〇〇五 『三重県史資料編考古-一』
三重県二〇〇八 『三重県史資料編考古-二』
山中章二〇〇二a 「伊勢国北部における大安寺墾田地成立の背景」(三重大学歴史研究会『ふびと』第五四号)
山中章二〇〇二b 「伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国庄」(三重大学考古学・歴史研究室『三重大史学』第二号)
山中章二〇〇三 「律令国家形成前段階研究の一視点―部民制の成立と参河湾三島の海部―」(広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い-古代観の大転換-』ゆまに書房)
山中章二〇〇四 「伊勢国一志郡の形成過程」(藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館)
山中章二〇〇八 「律令国家と海部―海浜部小国・人給制にみる日本古代律令支配の特質―」(広瀬和雄・仁藤敦史編『支配の古代史』青木書店)
伊勢大神宮・斎宮の考古学とても面白そうっだと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
第三節 海上交通から内陸支配へ
六世紀に入ると伊賀盆地南端に琴平山(ことひらやま)古墳、伊勢湾西岸北部に井田川茶臼山古墳,南部に丁塚(ちょうづか)古墳という横穴式石室を主体部とする新しい埋葬型式が導入される。伊勢湾西岸南部地域に最初に築造されたのが宮川下流域の丁塚古墳であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/c4/280f4cdb356311789d00a975f886eacd.jpg)
(磯神社の鎮座地は宮川の氾濫などで変遷しており、古代の位置は厳密には不明だという。しかし、私は、東海道志摩支路の位置復原、志摩支路が宮川と交差する付近に展開する七~九世紀の遺跡群などから考えればいいと思っています。)
(一) 水陸交通の結節点
丁塚古墳は、高ノ御前遺跡から宮川中流域へと遡った地点に築かれた。後には古代東海道志摩支路が整備され、志摩国へと向かう直線路が付近を通過していた。一角に倭姫による天照大神奉祭のための「行幸」の地と伝える磯神社が鎮座するのは偶然であろうか。その後も宮川渡航点における物資集積の拠点とされ、七・八世紀には殿垣外(とのがいと)遺跡、九世紀には小御堂前(こみどうまえ)遺跡が維持され、対岸にも高向(たかむこ)遺跡が置かれ、宮川流域における水陸交通の結節点としての機能を果たし、宇治山田の地に設けられたとされる度会駅家へと都からの情報を伝える重要拠点となるのであった。
宮川河口部は、六世紀まで、東をめざす拠点港として利用されていたが、七世紀以後、内陸部への窓口と化す。海から川へ、川から陸へ王権の支配域が次第に拡大する様を遺跡は表している。
(二)高倉山古墳の成立 《図7挿入》
宇治山田の地を見下ろす高倉山の頂に築造されたのが高倉山古墳である。墳丘の直径四〇m、横穴式石室を主体部とする六世紀後半の円墳である。横穴式石室の全長は一八.五m、高さ四.一mあり、東海地方最大である。石室は盗掘を受けており、副葬品は一部しか知られていないが、飾り馬に用いる馬具、被葬者が付けていた金環や小玉などの装身具、直刀、馬具、三輪玉、捩り金環等を出土している。特に三輪玉は玉纏大刀(たままきのたち)との関係が指摘される特殊品である。
高倉山古墳の石室はその後の玉城丘陵の古墳のモデルとなり、広く多気郡一帯に展開するという。当該規模の古墳を在地豪族クラスが築造したとは考え難く、被葬者はヤマト王権と深く繋がった人物と推定されている。
高倉山古墳の築造をもって「伊勢神宮」周辺の地は一挙にヤマト王権との関係性を深めたのである。
(三)五十鈴川下流域の変化
一方、五十鈴川下流域には六世紀後半に入ると、遠江地域で多用される横穴式木室墓という特異な墳墓型式を持つ南山古墳が出現する。五十鈴川流域でも、六世紀代には伊勢湾から新たな文化が入ってくるのである。五十鈴川流域では、引き続き七世紀前半に営まれた横穴式木室墓を主体部となす昼河古墳群が築造される。昼河古墳群では木で造られた墓室に火を付けて焼失させる「火化」という遠江地方で実施されていた特異な葬法が採用されている。宮川、五十鈴川両流域の文化の変化が海側からもたらされていることに刮目すべきであろう。「火化」が火葬を葬法とする仏教の影響を視野に入れるならば、五十鈴川中・下流域では七世紀に入ってもまだ「伊勢神宮」の痕跡すら認めることができないのである。
第四節 ミヤケの設置と伊勢湾西岸地域
ヤマト王権が宮川・五十鈴川中流域に関心を示し、高倉山古墳を築造して以後、伊勢湾西岸地域に大きな変化が生じる。ミヤケの設置である。
(一) 大鹿ミヤケの設置
六世紀後半から七世紀初めにかけて、ヤマト王権は地方支配の方法をダイナミックに転換する。地方を直接支配するための拠点としてミヤケを設置するのである。ある地域では交通の要所に、ある地域では在地支配の弱い地点に拠点を置き、施設や土地の管理者を任命し維持に当たらせるのである 。ミヤケの管理者にはヤマト王権から認定の物品が配布された。伊賀・伊勢の交通の拠点には脚付短頸壺と喚ばれる特異な須恵器が配布された 。
脚付短頸壺は河曲(かわわ)郡の東端、金沢(かなさし)川の河口部の小さな独立丘陵の上に設けられた岸岡山古窯で生産された。配布の拠点となった港が岸岡山の麓、金沢川の潟に設けられた天王(てんのう)遺跡であった。脚付短頸壺は、東は参河国宝飯郡、西は大和国宇陀郡、北は伊勢国朝明郡、南は伊勢国度会郡にまで分布が確認できる。一地方豪族では交易しきれない広範な地域への分布である。その分布域を図上に落とすと内陸部では七~八世紀代に「官道」として利用された交通路上に展開し、海浜部では、伊勢湾岸に河口部を持つ潟や島嶼部、半島の先端部などに位置する。館野和己氏が指摘する典型的な「B型ミヤケ」である 。
六世紀末から七世紀初めにかけて、伊勢湾西岸地域の内陸交通は一体的に管理が可能となり、これらは水上交通でもって伊勢湾を越えて参河地域にまで及んでいた。その中核となったミヤケこそ、河曲郡に本拠を置く大鹿(おおが)氏を管理者とする大鹿ミヤケであった。
(二) 伊勢湾西岸南部のミヤケ
七世紀の伊勢湾西岸南部「度会郡」「多気郡」「飯野郡」地域とヤマト王権との関係についてはこれまでその実態が十分に把握できていなかった。ところが脚付短頸壺が「多気郡」域の河田A-三号墳、「度会郡」域の丸山一号墳で出土が確認され、当該域がようやくこの時期に王権の直轄地と化したことが実証された。
ところでこの地は、壬申の乱後の六七三年、天武天皇によって高市大寺(後の大安寺)に墾田地八〇町が施入された飯野郡中村野に隣接し、七世紀後半以降に斎宮の置かれた場所でもある。ヤマト王権が七世紀後半以前に飯野郡東部から多気郡一帯の面的な空間を王権の直轄地(A型ミヤケ)として管理していたからこそ可能な行為だったのではなかろうか。
ところで、頭椎大刀は、神島の八代神社にも所蔵されている。これが坂本一号墳と同じ時期に奉納されたとすると、その奉納の意味を検討しなければならない。既に確認したように、神島は五世紀後半にはヤマト王権の東国進出時の安全祈願の島として利用されていた。頭椎大刀の奉納は、七世紀に入っても依然として神島が同様の機能を持つ島として重要な位置づけを付与されていたことを表している。あるいは、内陸部でのミヤケのように、伊勢湾西岸南部から志摩地域に至る広範囲な「海洋権」を確保したことを象徴する威信財として奉納されたのかも知れない。
第五節 壬申の乱と伊勢湾西岸
七世紀前半に確立した支配地を「祖先神・天照大神」の鎮座する土地とするにはもう一工夫必要であった。
(一) 迹太川での天照大神望拝
『日本書紀』天武元年六月二六日条は「旦於朝明郡迹太川邊望拜天照太神」と、大海人皇子が戦勝を祈願するために朝明郡の迹於川(とおがわ)の辺で天照大神を望拝したとする。王権と伊勢神宮とが直接的関係を有したことを示す初めての史料である。記事によれば、大海人皇子は既に伊勢湾西岸南部の地に天照大神が鎮座し、戦勝祈願するに値する神であることを認識していたことになる。壬申の乱はその一ヶ月後に大海人皇子の勝利でもって収束する。
次いで、『日本書紀』天武天皇二年(六七三)夏四月条は、「欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。」と、大来皇女を天照大神宮に遣わし、泊瀬(はつせ)に齋宮(いつきのみや)を設置して神に仕えるために潔斎させたという。「伊勢神宮」はまだ「天照大神宮」であり、名称すら確立していなかった。同三年十月条では「大來皇女自泊瀬齋宮向伊勢神宮。」潔斎の済んだ大来皇女を伊勢神宮に派遣するというのである。この一年余で制度が整えられ、名称も「伊勢神宮」に固定する。大来皇女の派遣をもって斎王制度の確立とするのが定説である。斎宮こそ、「王権の祖先神化」を文献史料からも、考古資料からも実証しうる遺跡なのである。
次いで持統朝に式年遷宮が開始されたとされる。当該期こそ伊勢神宮と王権祭祀とが一体化する時期なのである。
(二) 考古資料からみた斎宮跡と伊勢神宮
斎宮跡の考古資料によって伊勢神宮の成立を直接裏付けることのできる資料は少ないが、伊勢神宮祭祀を具体化させる斎宮の施設が、早ければ七世紀後半には機能していたことを裏付けるのが史跡指定地西部からの土器などの考古資料である。王権が伊勢神宮祭祀を斎王制度の整備と並行して進めていたとするなら、斎宮跡でのわずかではあるが関連する資料の検出は、既述のミヤケの形成と合わせて、七世紀後半に伊勢神宮祭祀が確立したとする私見に大きな援軍となろう。
おわりに
以上、考古学から伊勢神宮が王権の祖先神を祀って現在の地に鎮座するのを七世紀後半の天武朝と考えた。最後に論点を整理してまとめとしたい。
① 四世紀(「垂仁朝」)に関係する考古資料は皆無であり、考古資料による限り、垂仁朝説は成り立ち得ない。
② 五世紀前半から後半の考古資料は、王権と深く関わるが、神島や宝塚一号墳の資料は伊勢湾から外洋へと海上交通に関係するものが主であった。
③ 六世紀前半には、宮川中流域に丁塚古墳が築造され、ヤマト王権の関心が内陸側にも向け始められる。後半の高倉山古墳の築造は宇治山田地域に王権が進出したことを示す決定的な証拠である。
④ 六世紀終末には伊勢湾西岸北・中部同様、南部にミヤケの設置が確認でき、七世紀前半には伊勢湾岸の水陸を結ぶミヤケのネットワークが完成した。
⑤ こうした歴史的背景の中で勃発したのが壬申の乱であった。開始時における天照大神への戦勝祈願が、勝利の形で成就されると、乱後の秩序形成の中で、皇祖神化が図られた。
⑥ 様々な制約の下、考古学的な調査・研究のできない伊勢神宮域に対し、大来皇女に始まる斎王制度は、その検証を可能とし、頭書の課題に迫ることのできる貴重な資料である。持統朝に「式年遷宮」が制度化され、伊勢神宮は確固たる地位を確立するが、その制度化が天武の跡を追った持統朝に行われる点も伊勢神宮制度化の時期を示して余りある。
参考文献
岡田登一九九五 「伊勢大鹿氏について(上・下)」(『皇學館大学史料編纂所、史料一三五・一三六号』)
金子裕之二〇〇四 「三重県鳥羽八代神社の神宝」(『奈良文化財研究所紀要』)
金子裕之二〇〇五 「三重県鳥羽八代神社の神宝二」(『奈良文化財研究所紀要』)
清水みき一九八三 「湯舟坂2号墳出土環頭大刀の文献的考察」(久美浜町教育委員会『湯舟坂2号墳』)
鈴鹿市考古博物館二〇〇四 『現地説明会資料 天王遺跡一三次調査』
館野和己一九七八 「屯倉制の成立」(『日本史研究第一九〇号』)
都出比呂志二〇〇五 『前方後円墳と社会』(塙書房 )
八賀晋一九九七 「伊勢湾沿岸における画文帯神獣鏡」(『三重県史研究』第一三号)
広瀬和雄二〇〇三 『前方後円墳国家』(角川書店)
穂積裕昌二〇一三 穂積裕昌『伊勢神宮の考古学』(雄山閣)
松阪市教育委員会一九八八 『山添二号墳』
松阪市教育委員会二〇〇五 『史跡宝塚古墳』
三重県二〇〇五 『三重県史資料編考古-一』
三重県二〇〇八 『三重県史資料編考古-二』
山中章二〇〇二a 「伊勢国北部における大安寺墾田地成立の背景」(三重大学歴史研究会『ふびと』第五四号)
山中章二〇〇二b 「伊勢国飯野郡中村野大安寺領と東寺大国庄」(三重大学考古学・歴史研究室『三重大史学』第二号)
山中章二〇〇三 「律令国家形成前段階研究の一視点―部民制の成立と参河湾三島の海部―」(広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い-古代観の大転換-』ゆまに書房)
山中章二〇〇四 「伊勢国一志郡の形成過程」(藤田達生編『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館)
山中章二〇〇八 「律令国家と海部―海浜部小国・人給制にみる日本古代律令支配の特質―」(広瀬和雄・仁藤敦史編『支配の古代史』青木書店)
伊勢大神宮・斎宮の考古学とても面白そうっだと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
![人気ブログランキングへ](http://image.with2.net/img/banner/banner_22.gif)