yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

PBLセミナ-A企画展示 「浮き浮き江戸ウオッチング」開催の条

2012-01-15 17:02:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ここのところほぼ毎年開講しているPBLセミナーという授業で成果を示す展示会を開いているが、今年のテーマはなぜか「江戸」であった。

 その成果展を三重大学の総合研究棟という建物のロビーを使って開催することになった。博物館施設を持たない三重大学なので、こんなところでやらざるをえない。残念なことだ。

 2012年1月16日(月)から20日(金)9:00~17:00

 短い期間での展示会だが、お近くにおいでの方は是非お立ち寄り下さい。



PBLセミナーA “博物館学芸員への道” 企画展示会に寄せて

「浮き浮き江戸ウオッチング」への誘い         山中 章


 今年のPBLセミナー展示会の総合テーマは「江戸」となった。
 開講に当たり受講生10人を二班に分けて展示構想を自由に討議するところから始まった。受講生は全員女子。人文学部文化学科が9人、生物資源学部が1人という内訳だ。
過去の展示会のテーマなどを図録などから紹介し、参考にしてもらった。人物埴輪がいい!という意見、原始古代の装身具をやろうという案もあった。ところがいつしか二班とも江戸時代をやろうということで落ち着いた。どうも吉丸先生と塚本先生の熱意溢れる共通教育での授業が大いに刺激を与えたらしい。特に吉丸先生がご専門の江戸文芸には関心が高く、いろいろ議論する内に、展示するには「浮世絵!!」ということになった。しかし私の手元には大した資料もない。駆け込むようにして吉丸研究室の戸を叩き、
「浮世絵に関する資料をお貸し頂けませんか?」
ということに。あるワあるワ!棚のあちこちから次々と関係書籍が出てきた。
「どうぞご自由にお使い下さい。なんでしたら浮世絵も少し持っていますよ」
ということで、本物を見せて頂くことになった。それどころか、1コマ分、江戸から明治にかけての印刷事情、出版事情について講義までして頂いた。もちろん学生の目の輝きが違った(これぞPBL!!思わず手を打った)。
 さて、たくさんの資料は手に入ったのだが、ここからが大仕事、当然読まなければならない。しばらく「学習」の時間が続いた。そしていよいよ展示構想である。どんなテーマにするのか、何を展示するのか。知恵を絞った結果が
 A班 江戸の美
 B班 浮世絵の秘密
とあいなった。「江戸の美」コーナーでは伊勢市にある根付博物館から実物を借りて展示することになり、後日借用のお願いにも上がった。まさに学芸員として必ずやらなければならない任務である。
 次いでポスターとチラシの作成。これもなかなか手間取ってしまい、できたのは年末近くになってからだった。そして展示図録がこれである。今回は会場が研究教育棟のロビーをなった。学生達の力作をご堪能下さい。
  2012年1月16日


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センター試験監督が終わったの条

2012-01-15 12:46:52 | yaasan随想
 私の14年に及ぶセンター試験監督の歴史が昨日終わりました。
 万歳!万歳!です。
こんなストレスのたまる仕事は二度とごめんです。
特にリスニングは、命を縮めます。あんな試験はやめるべきです。喜んでるのは、英会話の塾とicプレーヤーの製造業者です。

 そんな中、昨日、私の担当教室で事件が起こらなかったのは奇跡としかいいようがありません。定年まであと二ヶ月のオジンに、なんでこんな仕事をさせるのか?ほとんどいじめです。
私の担当は定員112人という最大規模の部屋!その責任者?!昔なら、どうぞ後ゆっくり退職のご準備でもしてください。というときですよ!せめてリスニングくらいはずしてよ!ほんま、ムカつく!さらにさらに問題が!

 あほな役人が机上で描いた試験シュミレーションなのでしょう。現場で実際にやらされる我々のことなどこれっぽっちも思っていない(あいつらが思うはずがない!!)、机上のプランで実施された社会と理科。時間も実施方法も前年度通りに実に適当に組まれたため、とんでもない混乱が起こり、翻弄された初日でした。

 そもそも受験者の多い、国語、外国語、社会をなんで初日にまとめるのかがわかりません。外国語にはリスニングという難関があります(受験生にとっての難関ではあいりませんよ!監督者にとっての難関です!!)。私は、リスニングが112人もいる大会場の担当!信じられん!!100人もいれば一人くらい「聞こえません」「トイレに行きたい」「気分が悪い」という学生がでるでしょう。そうなれば再会テストだの再試験だのその対応だけでも大変なのです。

 ましてや初日は、今回が初施行である社会。社会と理科は、同一教科内の複数科目受験を可能にしろという、思いつき的試験方法導入で大混乱したのです。現場のことなどどうでもいい役人、そんな奴らが訳のわからんシステムを考えた時点でアウトだったのです。

この選択制の表現がまたまた極めて難しく、この間入試要項の作成のために関係委員会では何度も表現の仕方を修正したのであります。制度そのものがわかりにくいものを実際に実施するとなるとこれまた運営が大変なのであります。そのツケが見事に?昨日噴出しました。

 説明している私もようわからん中でとにかく昨日9時半に始まりました。

 地歴・公民は同じ「教科」です。地歴の中には地理、日本史、世界史(いずれもA/Bの区別あり)の科目があります。たとえば三重大学の人文学部では「地歴・公民」(ようするに社会)から2科目を選択して受験します。これはとてもシンプルです。

 一番シンプルなのは、前年までの方法です。もっとシンプルなのは、昔のように、理科も社会も大学が指定する科目を受けさせればいいのです。
 ところがこちらが受けさせたいと思っていても、高校のカリキュラムで脇に追いやられてしまった科目が社会にはいっぱいあるのです。その代表が日本史です。役人の突然の思いつき~二科目選択をしようにも、高校の段階ですでに、地歴は軽視されているのです。そこから改めてやるのならわかりますよ。あの、わけのわからない、ゆとり教育とやらでぐちゃぐちゃになった教育、その過程で、バカどもが考えたのが世界史必修。日本人なのに日本史を知らない子供が大量生産。だからといって世界史が詳しいかというとぜんぜん!その失敗をごまかすために、二科目を言い出した。

 これまでは、地歴と公民を分けて、その中から各1科目を選択させて2科目の数を社会の点数とするというものでした。ところが「強い意見」が来て、地歴または公民の中だけでも2科目採れるようにしろというのです。
 つまり、日本史と世界史を採って社会の点数としたり(もちろん今やこんなのを採る変人?はいません。点数稼ぐのが大変だもの!)、倫社と現社を採ってみたりということです。

 これを実際の試験に置き換えると、事件が起こるのです。もちろん根本的に変えればできるのですよ!そうしない、そうできないところが問題なのです。どこぞの政党が継ぎ接ぎだらけの方針を出すのとそっくり!一貫性がない!

昨年までだと、地歴で1時間、公民で1時間試験がありましたから、その両方を別々に受ければよかったのであります。もちろん社会が1科目というところがありますから、そのどちらか(どちらも採っていい方を採用する)を受験すれば済んだのであります。

 しかし今年は地歴の中の2科目を採ることも公民の中の2科目を採ることも可能になりましたから、地歴と公民という「教科」の塊を維持する以上、それぞれを二回受けなければならない大学が出てきたわけです(三重大学もそうです。おそらく全国の国立大学がそうです。)。

 ただし、全国の大学がそうならいいのですが、国立の理系などは社会が1科目というところが普通ですし、私立で社会が二科目というのもそうありません。。すると、2科目受けるふりをして、実際には1科目しか必要ないので、1科目目に問題をよく見ておいて、ダメな方を解答して捨て、自分に有利な問題の方を次の試験で選ぶ奴が出てくる。つまり、1科目目は捨てて、2科目目で勝負する奴が出てくる。これはけしからん。ということで、最初に解答する科目の成績を最優先するということになったのであります。

 最初に日本史を宣言すると、1科目であろうが、2科目であろうがまずこの成績が社会の成績に組み込まれるわけです。次の2科目目の試験で公民の中から倫社を選ぼうが、地歴の中から世界史を選ぼうが、どの成績がよくても1科目目が最優先されるわけです。もちろん2科目採る人は2科目目の試験で採った点数と併せて社会の点数になるわけです。

 これも最初は2時間分まとめて地歴と公民の試験をやり、その中から2科目選ばそうとしたらしいのです。ところがいろいろ考えた奴がいて、1科目しか必要でない人間は、2時間分使って1科目を解くことができる(もちろん1科目は捨てるわけです)からおかしいということになって、それじゃ、どうする?

 地歴と公民を1時間ずつで切って、ただし、一旦学生を外に出したら情報が外に漏れたり、参考書を調べられるからそのまま教室に入れておいて、10分間だけ間をおいて、解答回収の作業をし、引き続き2科目目の試験をしようということになったのであります。

 ただし1科目しか必要のない受験生がいますので、その受験生の対応もしなければならない。そこで、1科目だけ受験する学生と2科目受験する学生を予め分けておいて(この場合建物も分けます。でないと移動する学生でうるさいので)1科目だけ受験する学生は1科目目が終わる少し前0に教室に入れて、同じ10:40から受験させようということになったのです。

 私はこの1科目目なし、2科目目から受験という学生の部屋でしたので10:00に教室に入り準備をしました。
 内の大学ではその2科目目に地歴か公民かどちらを受けるかによって予め教室が分けてありました。だからよその大学のように混乱することはありませんでした。教室にはどちらかの問題を持っていき、学生に配るだけですから。これが他の大学のように受験生によって違いを認識して渡していたら、とても30分間で作業をすることはできません(実際、できなかった大学がいっぱいあったのです)。

 更に当日、地歴については問題訂正がありました。いつもなら黒板に書いて済むところが、地図の訂正なので印刷物として配布しなければならなかったのです。更に時間がかかります。単に配るのではなく、配布枚数と残部の確認もしなければなりません。いい加減な教員もいて、うまく配れないのも時々いるのです。だからチェックしなければなりません。これだけで5分はかかります。私の部屋などは112人もの受験生ですから、もっと時間がかかりました。

 おまけに携帯のスイッチが切れない学生が出現したり、今年からわざわざ鞄にしまっていた携帯などを一度机に出させてチェックさせる(去年の京大事件のせいです)ばかげた作業があり、更に時間がなくなります。

 説明し終わるとほぼ同時に「試験はじめ」

 冷や汗ものでした。もちろんこんな事で遅れた大学がいっぱいありました。


 そして予言しておきますが、今日も絶対に起こりますよ!!だって今日の理科も2科目選択があるのですから。ようするに理系文系の逆を今日やるのです。

 もっとも理科を複数採る学生の方が数が少ないのでその分楽ですが・・・。果たしてどうなる事やら、もう私には関係ないので傍観者です。

 間もなく理科1科目目が終わります。

 だいたい、センター試験なんて止めればいいのですよ。害あって益なし。

 でもま、もう私には関係ないのでどっちでもいいですがネ。

 ま、私のセンター試験人生はこれで無事終わったのでよしとしましょう。来年からこれをやらんでだだけ幸せ!

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堀内明博さんの死の条

2012-01-11 02:59:45 | yaasan随想
 今年も正月から余りいいお話ではありません。悲しい、寂しい訃報です。

 元京都市埋蔵文化財研究所の調査員、その後古代学協会へ遷られ、同会解散後は府立大学の特任などを勤められた堀内さんでした。

 まだ六〇歳になられたばかりという「若さ」です。葬儀にはわずか二ヶ月ほど前の講演の声が流されました。ちょうど一年前に秋田県の横手市でお会いした時よりはよほど元気そうな張りのある声でした。

 詳しい原因は存じ上げません。というか、余りに寂しいその死の様子を聞いていると尋ねる気にもなりませんでした。

 弔辞は元滋賀大学教授の小笠原好彦さんが読まれました。小笠原さんが堀内さんと親交を深めたのが1981年の訪中団だったそうです。私はその次の1983年の訪中団で一緒でした。当時は埋文研の堀内と言えば誰もが知っている平安京出土陶磁器のプロでした。私のような小さな町の職員などは足下にも及びませんでした。

 でも現場に行くと、あの朗々と響く声で、親切にしかし時には厳しい言葉で質問され、小さくなりながら現場の説明を聞いたものでした。

 私の初めての海外がこの団で行った中国でした。岸俊男先生を団長とした江南の都城を二週間にわたって訪ね歩くものでした。今から思うとそうそうたるメンバーが参加されていました。上海でもまだ人民服が主流だった時代、公園を散歩する人民軍の幹部候補生でしょうか、凛々しい兵士が若い赤いスカートをはいた女性を連れているとお構いなしに写真を撮ったものでした。もちろん町は自転車だらけ。ぼろぼろのトラックが煙をはいて走っていました。

 印象的だったのは揚州で毎朝6時頃に出かける堀内さんの姿でした。なんであんなに早く起きるの?散歩?穴場でも見に行くの?などと思っていると、後にわかりました。町の風景をスケッチしていたのです。さすが建築史の出ですね。今あのスケッチはどこへ行ったのか、見つかれば展示会でもしてあげればいいのにと思います。

 このたびでとても印象に残ったのが岸俊男先生との個人的な会話でした。もちろん雲の上の先生ですから、私が親しくお話しすることなどなかったのですが、少し前に長岡京で大量の木簡が出た時直ぐに飛んでこられて木簡を読まれたので面識はありました。だから声をかけてくださったのでしょう。眼鏡の奥の優しい目がとても印象的でした。まだ文化大革命が終わって間もない頃でしたから、町のあちこちには毛沢東の肖像画が遺っていました。私はどうして毛沢東の主張が覆されたのか、不思議でならない。毛沢東は13億の民が飢えないための政策を採ったと思う。などと申しますと、何となく懐かしそうに、あの頃(69年大学闘争の頃)の学生はまじめで元気やったな-、とぽつりと仰りました。

 学問の道一筋だったと思っていた先生が、学生運動に関心を持たれていたことを知りとても意外で驚き、と同時にとても暖かなものを感じました。こんな大学者もいるんだ!!

 そんな思い出深い旅を堀内さんとも共有していたわけです。そういえば初めて広瀬和雄さんと会ったのもこの時でした。もっとも旅行中はほとんど話すこともなく、私は「元気な大阪のおっさん達やなー」くらいにしか思っていませんでした。後日、「中国の復習会をするからきいひんか?」と誘われて当時堺に住んでおられたマンションを訪ねてびっくり!!ナナなんと、広瀬さんは私の高校の先輩だったのです。世間は狭い!!以来30年のおつきあいです。

 一年前、東北で会った堀内さんはえらく顔色が悪く、声も元気がなかったのですが、休憩時間につかつかと寄ってきて、「今度自分のとこで研究会するやろ。細かいことわかったら案内状送ってや。わしなー最近官道掘ったことあるねん」「あ、そうですか、それは是非来てください」

 昨年8月に行った東海例会のことであった。

 案内したのだが残念ながらおいでになることはなかった。しかし、その官道のことが知りたかったので、後日レジュメ集を送った。でも返事もなかったので、あれは社交辞令やったんかなーと忘れることにした。しかし、今となってみるともう尋ねることもできない。

 彼とはいろいろあったが、僕より若い人が先に逝かれると寂しい!!

 あっちの世界でいっぱいスケッチしててくださいね。


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 いやなことがあったのでブログを止めようかなと思っていたら、あちこちから「ダメ」という声が届いた。

 思案中である。今週は最後のご奉公??センター試験監督。それが終わるまでは元気が出そうにない。












2012年元旦 謹賀新年の条

2012-01-02 04:22:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
謹賀新年

1月恒例の卒論騒動で正月は研究室にて初日の出。2月アラブの春に驚く。3月11日の大震災!直後にイタリア踏査。ローマでは城壁を完全制覇!二度目のポンペイは1日かけて見学。はじめてのエルコラーノも体験。でももう一度行きたい!! 4月当然全原発廃炉かと思いきや「風評被害」や感情論でもってマスコミの擁護論が氾濫。ブログで反撃開始。5月壬申の乱ウオークで牽牛子塚古墳・越塚御門古墳など飛鳥の地へ。6月電気を使うから原発がいると言うから「クーラー使わない宣言」実行。7月中学生藤波心さんの原発を考えるブログに出会う。8月炎天下、大学校内遺跡の調査で500年前の液状化痕跡を確認。直後に初めてのトルコでローマ都市やオスマントルコのモスクを訪ねる。9月落合がクビなのに原が続投と聞いて怒り心頭!!10月二度目の集安、国内城。世界遺産の観光化の課題を実感。11月北畠館跡で東西方向の溝状遺構発見。12月恒例の忘年会で40年ぶりに友と再会。今年から次男創が勤務地近くへ引っ越し。長女玲は早朝から深夜までの激務で限界か。道代はおバァさん業まっしぐら。章はこの3月で定年。後1年特任で終わり。さてどうする?

 というわけで、昨年後半は絶不調であったブログ、一応元旦から出発します。

 とは言っても年末にあまりいい話を聞かなかったので、もうそろそろ止めようかなとも思っている今日このごろです。喘息もひどくなってきて、三重県ともおさらばするし、定年を境に長く続いたこのブログも店じまいかも。

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