yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

くわな歴史と文学を語る会で榎撫駅を語るの条

2010-07-16 05:35:31 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 7月11日午前は「くわな歴史と文学を語る会」7月例会で「久留倍遺跡からみた聖武天皇東国行幸」という題で話した。
 聖武が桑名で宿泊した石占頓宮の置かれた場所がどこにあるのか、榎撫駅の所在地を中心にお話しをすることにした。石占頓宮はどこなのか、なぜこの地に泊まったのか、この課題の検討を中心に話すことにしました。

 もちろん一般の市民の方々が対象なので、さほど難しい話はできないのだが、この会の方々もとてもレベルが高く、毎月こうした例会を開催され、いろいろな方から話を聞いているらしい。だからあまり平板な話もできない。当日は何と150人もの方がお集まりになって私の話を聞いて下さった。

 全体の話しの流れはこんな感じでした。

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 1999年に発掘調査が開始された久留倍遺跡はその後の調査によって、奈良時代の大規模な建物群からなる朝明郡随一の公的性格の遺跡であることが判明しました。私はその規模や構造から、奈良時代はじめは朝明駅、中頃に聖武天皇の朝明頓宮に改修され、奈良時代終わりには朝明郡の正倉別院となったと考えております。聖武天皇の東国行幸は壬申の乱における大海人皇子の事績を辿ったものとされますが、特に鈴鹿郡赤坂頓宮以降の行幸ルートはほぼそれに沿っていることが知られます。ご当地桑名にも石占頓宮に一日宿泊しており、その推定地が多度町戸津周辺にあった榎撫駅であったとされます。久留倍遺跡での朝明駅・朝明頓宮・朝明郡衙正倉別院の発見はこうしたこれまで判らなかった頓宮や駅家の所在地を考える上でとても大きな役割を果たしました。今回は聖武天皇東国行幸を中心に古代伊勢国の交通路についてお話ししました。
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はじめに

 桑名と聖武天皇東国行幸を交通路の視点から話すことを告げる。

1 久留倍遺跡の構造       
まず久留倍遺跡がどんな遺跡であるのかを再確認しました。
(1) 第Ⅰ期の施設群:朝明駅家
・ 「コ」字形の官衙的建物群を配置
・ 東面する構造
・ 丘の上に立地
・ 正殿背後に総柱建物
(2) 第Ⅱ期の施設群:朝明頓宮
・ 極めて規模の大きな建物が丘の最頂部に南面して配置
・ 四段に造成された丘の上に階層差の高い施設が展開
・ 衛禁律の罰則規定
・ 中国洛陽西苑内の合璧宮
(3) 第Ⅲ期の施設群:朝明郡衙正倉別院
・ 規模の小さな倉庫群
・ 防火水槽を持つか
 
2 朝明駅家から朝明頓宮へ
 そして朝明駅であったが故に400の騎馬と600人あまりの官僚を従えた大行列の宿泊地としてこの地・久留倍域が選ばれたことを示しました。
(1) 駅家の馬管理機能
・ 聖武行幸時の400の騎兵
・ 駅家は最適
(2) 丘上の防御性の高い立地
・ 防御機能型の駅家を頓宮に転用

3 石占頓宮と榎撫駅家
 一つ判ると次々と謎が解けていきます。
 なぜ最初に河口頓宮が選ばれたのか。その答えは、この地が川口関だったからです。頓宮の関利用として、この後聖武が宿泊した施設である赤坂頓宮は鈴鹿関、不破頓宮は不破関であることが知られます。ではそれ以外の頓宮はどんな理由で、どんな条件からその地が選ばれたのでしょうか。
 聖武が朝明と目と鼻の先の桑名に宿泊したのは、この地が壬申の乱における大海人皇子側の拠点だったからでしょう。宿泊地の候補として桑名郡衙も検討されたはずです。今のところ郡衙がどこにあったのかがよく判っておりませんので、その実体は不明です。しかし倭名抄の郷名やその並び(野代郷・桑名郷・額田郷・尾津郷・熊口郷)からみて、桑名郷に郡衙が置かれたと推定できますから、現在の桑名の中心部に所在したのしょうか。

 ところが、『続日本紀』は郡衙に泊まった場合は「○○郡に宿す」等と記され、石占のような別名を付けないことが多いようです。すると、郡衙に次いで可能性が高いのが駅家です。桑名郡には伊勢国北端の駅家として榎撫駅家が置かれ、交通の拠点であったことが知られています。 では榎撫駅家はどこなのでしょうか。そこで倭名抄にある尾津郷が注目されるわけです。旧多度町戸津には尾津神社があります。
「榎撫」という名称も「江・津」(えのつ)であったとも考えられます。江=伊勢湾と揖斐川の合流部にできた入り江に置かれた津という名称ではないでしょうか。多度町「戸津」や「尾津」はぴったりの名称です。

4 榎撫駅と柚井遺跡

 地名以外に榎撫駅を示す資料は今のところ無いといわれます。しかし私はかの有名な柚井遺跡はその一角であったのではないかと考えています。
 柚井井遺跡を調査した鈴木敏雄や伊藤富太郎の記録によれば、当地はかなりの低湿地であり、海水域の貝類や汽水域の貝類が出土しているという。平安時代前期にはこの地は海と川の接点であったのだ。「戸津」の北側に位置するこの地が「江津」の一角であった可能性は大いにあるのである。

 駅家ならここでも400の騎馬隊を受け入れるには十分な施設があったに違いない。

 聖武天皇は鈴鹿関の赤坂頓宮→朝明駅の久留倍遺跡→東海道伊勢国北端の駅家榎撫駅→美濃国当耆頓宮(当耆郡衙に置かれたのか)と、公共施設を改修しながら旅を続けたのではなかろうか。

 なお『日本後紀』 延暦二十四(805)年十一月壬申(13日)条には次のような興味深い話が伝えられている。

 「壬申。先是伊豆国掾正六位上山田宿祢豊濱奉使入京。至伊勢国榎撫朝明二駅之間。就村求湯。有人与之。更復煖酒相飲。其後嘔吐。至伊賀国堺。豊濱従者死。豊濱情知毒酒。勤加療治。至京遂死。遣使左兵衛少志従六位下紀朝臣濱公勘之。无得。」

 805年11月13日、伊豆国の国司の1人である山田宿禰豊濱が都(平安京)へ登らんと東海道を進み、尾張国馬津駅家から船に乗って榎撫駅家へ渡り、今度は陸路を朝明駅へ向かう途中でとんでもない事件に巻き込まれたのです。何の恨みがあったのか、よほど失礼なことでもしたのか、国司一行が休憩したところで毒を盛られ、鈴鹿関から伊賀へ向かうところで従者が亡くなり、本人も、京都に着いたところで亡くなったというのです。よほど珍しい事件だったのでしょうね、正史に載せられていたのですから。

 それにしてもこのお陰で私達はこの頃の尾張→伊勢→伊賀の駅路を確認することができるのです。そしてこの頃の東海道はまだ鈴鹿峠越えではなく、柘植から草津を通るコースであったこともこれから確認できます。鈴鹿峠越えが正式な官道として用いられるのはやはり元慶2(886)年のことのようです。

 また、次のような史料は、榎撫駅の規模を彷彿させてくれます。、
 『日本後紀』弘仁三(812)年五月乙丑(16日)条 

 「乙丑。伊勢国言。伝馬之設。唯送新任之司。自外無所乗用。今自桑名郡榎撫駅。達尾張国。既是水路。而徒置伝馬。久成民労。伏請一従停止。永息煩労。許之。」

 榎撫駅には国司赴任の時に使用する伝馬5疋が置かれていたが、この駅家は水路を船で行き来するもので、維持管理が大変なので、これを廃止したというのである。

 水陸海三交通の結節点が榎撫駅だったのである。

おわりに

 桑名の地の交通の拠点としての重要性を再認識して頂いて、一刻も早く榎撫駅=石占頓宮を発見して、久留倍遺跡と共に保存活用に励みましょうとお願いして終わる。

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