yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

OPEN!!   「三重大ミニ博物館」の条

2006-07-15 07:46:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 とても博物館と呼べる代物ではないのですが、学生達が本当に真剣に準備した展示がようやく形を現してきました。その一つがポスターです。もちろん手作りのもので、大学校内限定のものです。同じものをチラシに転用して、あちこちの授業でも配っています。

 最初はなかなかエンジンがかからなかったのですが、先週の塩作り辺りからみんなも目つきが変わってきました。それにしても皆さん造作物を作るのが好きですね。特にキャラクターはとても上手です。
解説も結構自分で図書館に行ってよく調べてきます。授業中に行われた図書館ツアーが大いに役立ちました。ありがとうございました。


(3班に分かれて19人の学生が作りましたので、各コーナーの名前が「○○のトビラ」です。もしよかったらノックしてみてください。ちなみにこれは古代班のトビラです。)

 もちろんいろいろなハプニングはありました。いや、ハプニング続きです。ですからここしばらく家に帰れません。昨日もせっかく撮影した塩作りのビデオを編集しようと学生達がやってきたのですが、近くの事務室においてあるビデオが壊れているらしく(それだけ使わないのですよね)、断念せざるを得なかったのです。いくらお金がないといってもこういう機器類こそどしどし最新鋭のものに代えていく体制が出来ていないといけないと思うのですが、残念なことです。仕方がないので、生ビデオを流すことにしました。


(ちょっと見にくいですが、この地図の3番が展示をしているロビーです。早く本当の博物館がほしいな!!)


 遅くまで準備作業をやるもので、クラブに行けず、先輩からきつく叱られて、来れなくなった学生もいます(この頃、授業よりクラブ、研究よりクラブ、ゼミよりクラブの学生がとても多いんですよね。これでいいんですかね?疑問!!中にはクラブを辞めるくらいなら大学を辞めるというのもいますものね。大学はクラブやサークル以下なんですかね・・・。寂しい!!)

 でもそこはチームワーク、大変大変といいながら、結構そんな穴を補い合って頑張っていますよ。

 参考までに学生達の許可を得てポスターの一部を載せておきます。素材の一部は提供しましたが、コピーもデザインも学生達の「力作」です。第1期展示が7月18日から8月5日まで、第2期展示が10月3日より10月31日までです。


(そしてこれがポスターの一部です。本当はもう一枚写真を背景にしたのがあるのですが、これは大学でのみ公開です)


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御案内  第7回東海例会三重県大会御案内の条

2006-07-10 03:15:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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標記の件に付き下記の通り御案内申し上げますので多数のご参加をお願い申し上げます。

第7回 考古学研究会東海例会のご案内

テーマ:「古墳時代における地域と集団Ⅱ-横穴式石室からみた伊勢と三河の交流-」


(参河湾に浮かぶ比莫島の北地古墳群を見学する歴博共同研究会の皆さん)

日時: 2006年8月5日(土)13:00~17:30
会場: 三重大学人文学部3階大会議室 津市栗真町屋町1577 
近鉄江戸橋駅から徒歩約15分
津駅より三重交通バス4番のりばよりバスで約15分「大学前」下車
趣旨: 2005年に開催いたしました第5回例会のテーマ「古墳時代における地域と集団」を引き続き取り組みます。第5回は主に美濃と尾張地域に着目したのに対し、今回は海を介して隣接する伊勢と三河について、とくに古墳時代後期に地域的な特色を保持しながら展開する胴張型横穴式石室や竪穴系横口式石室などの埋葬施設を俎上に、地域間の交流の実態を探ろうとするものです。

プログラム 
開会挨拶13:00~
13:10~13:30 趣旨説明「古代の伊勢と三河の交流」
            ( 山中 章:三重大学 )
13:30~14:15 発表1「伊勢の横穴式石室の展開と地域間交流」
            ( 竹内 英昭:三重県埋蔵文化財センター )
14:15~15:00 発表2「三河の横穴式石室の展開と地域間交流」
            ( 岩原  剛:豊橋市美術博物館 )
15:10~16:00 発表3「東日本の横穴式石室の展開と地域間交流」
            ( 広瀬 和雄:国立歴史民俗博物館 )
16:10~17:20 討 論(司会 山中 章)    
17:20~17:30 閉会挨拶・次回開催案内

資料代:実費


(参河湾から神島を経て志摩へ。この地域に点在する横穴式石室や竪穴系横口式石室はどういう意味を持っているのか。一緒に考えてみませんか。)

この間私の研究テーマになっている後期古墳時代から律令期への展開過程を伊勢・志摩・三河という海でつながった地域の横穴式石室や竪穴系横口式石室を素材に検討します。最近、関東の横穴式石室の検討をされている広瀬和雄さんからも貴重な報告をいただく予定です。

東海例会はまだまだ予算が十分ではありません。案内は口コミ、メールに限られております。是非是非このブログを読まれた方は上記案内を印刷の上、関係機関に貼りだしていただければ幸いです。もちろん転送大歓迎です。

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研究余録  「朝凪に玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ」(後編)の条

2006-07-09 15:45:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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さて、そんなわけで、土曜日の海岸は荒れ気味の海で、ほとんど誰もいない中で、我々7人衆が塩作りに励んだのです。

(ホンダワラです!!昔の人たちはこれを玉藻と申しました。粋ですね!)

まず第1にホンダワラ干しと藻塩焼きと煎熬用の炉作りです。

(これではなかなか乾きませんでした。) 

ここでは二人しかいない男子学生が大活躍、石集めから、薪集め、あちこちを飛び回って材料を集めてきてくれました。ありがとう!!


(町屋海岸と第1部担当鬼のトビラ班の6人衆)

さて、ホンダワラ干しですが、当初はザルの中で乾かしていたのですが、よくよく考えると、砂浜に直接おいて乾かすのが合理的だと気づき、歩くのも熱い砂浜に並べることにしました。(砂が付くことを恐れたのですが、よく考えてみるとどうせ後で洗い流すのですから砂が付いてもなんの問題もなかったのです)。


(砂浜直干しが大正解!出した)


(うまく乾いてパサパサになってきました。)

ホンダワラ干しの準備が整ったところで海水汲みです。実はこの町屋海岸というのは戦前に女学生30余人が波にさらわれて亡くなったという曰く付きの海岸なのです。ですから今は遊泳禁止地域で、浜辺にも誰もいませんでした。わずかに中国人の子供達がお父さん達と一緒に砂遊びをしていました。

海水を汲みながらどうしてたくさんの人が亡くなったのか大変よく分かりました。海水を汲みながら足下に力を入れると波が引くときに急激に足下が抉れ、バランスを失うのです。これが、浅瀬と棚との境目だとおそらく一気に海に引きづり込まれるでしょう。私も何度かこけそうになりました。

そうこうするうちにホンダワラもいい具合に乾き始め、早速第1回の海水かけです。本当は10回くらいかければいいのですが、次第に曇りだし、天候が不安定になってきたので、やむを得ず3回にしました。ですから鹹水が薄いのではないかとさらに不安が増したのですが、仕方ありません。実行です。でも、以前の時よりは確実に海藻の乾き具合、かける毎に縮まっていく藻の状態など、以前、と比べると明らかにいい感じで進んでいきました。少しはワクワクしてきました(でも舐めてみるとあんまり辛くなく、やぱり駄目かもネ・・・と、不安も)。


(藻塩焼く!)

 乾かしながら炎天下でパンをほおばり、午後からいよいよ藻塩焼きです。事前に学生には白い煙が出るから、といっていた手前出なかったらどうしようと少し不安でしたが、杞憂でした。風が強かったので煙は横に流れましたが、真っ白な煙が立ち上り大歓声でした(ホッ)。藻塩を焼くこと30分。横で見ている学生が薪の灰も一緒になってもいいんですか?と不安げ。どうせ灰は沈殿するんだから心配ないよ、と言いながら、灰を海水に。ジュウッツという音の度に何故か学生が歓声。日頃火をおこすことなどないせいでしょうね。

炭の混じった真っ黒な鹹水をタオルで濾し、灰や砂を除去しながら次第に海水だけにしていく。ここでも透明感を増す海水に歓声。なんだか子供っぽい風景だった。大した感動を経験していないのだろうか。


(灰を海水に入れる。第一次鹹水の完成)

何とか鹹水ができあがり、いよいよ煎熬である。あらかじめ炉で暖めていた製塩土器に少しづつ鹹水を入れていく。一挙に吹きこぼれそうになる土器に慌てて海水をつぎ足す。直ぐに周りが白くなっていく。それでも中にはなかなか吹き上がらないものがある。みんなで、「暑い!暑い!」を連発しながら炭を追加し、あまり勢いのないところに炭を集めて温度を上げる。塩が周りにどんどん付くに従ってみんなの集中度が増す。もちろん鹹水が薄かったので決して十分ではないのですが、このみんなの感動の仕方、集中する眼差しは成功!を予感させてくれました。


(煎熬開始)

煎熬すること1時間余、いよいよ最後の一滴を注ぎ込んで完成です。

結構塩が付いています!少し舐めてみると海藻の香りがします。とてもうまみのあるおいしい塩です。成功です!!

(次第に結晶ができてくる!)

ご協力いただいた皆さん、本当に、本当に、ありがとうございました。まさかこんなにうまくいくとは思わなかったので、当日は近くのファミレスで簡単な打ち上げをして解散しました。みんな、お疲れ様!そしてありがとう!!


(ポスター班のみんなも応援に来てくれました)


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研究余録  「朝凪に玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ」(前編)の条

2006-07-09 10:52:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 朝から体中がヒリヒリして仕方がない。というのも昨日は一日中大学前の町屋海岸に立ち詰めだったのです。
 「ナニ、人が台風の危険迫る瀬戸内海を航行している最中に大学で海水浴?けしからん!!」
とお叱りの声が九州の方から聞こえてきそうですが、これもれっきとした し ご と !
 朝から台風迫る海岸で塩作りに励んでいたのです。天気予報では午前中曇り、昼から大雨というのに学生は今日是非やってしまうというのです。前日の不摂生が祟って少し風邪気味でつらかったのですが、仕方ありません。節々の痛む体に鞭打って、海岸へ道具を運びました。
 ところがナナナント、晴れてきたのです。ガンガン照りとまでは行きませんが、結構晴れ間も出て、日差しがきついのです。半ズボン半袖姿の私は見事に紅白のサポーター状態です。

 先週はいよいよ開館目前の「三重大ミニ博物館」の準備で大忙しだったのです。中でも最も大変だったのが塩作りだったわけです。



 まず製塩土器を作らなければなりません。以前から度々お願いしている旧安濃町の草生窯へ粘土を買いに行きました。土器作りの開始です。



(悪戦苦闘する土器作り風景。とても製塩土器とは思えない代物も現れた。)

 これを乾かすのに2週間の予定がこれまた諸般の事情で10日ほどに短縮。本当は野焼きの予定だったのですが、とても時間がありません。しかし苦しいときには頼もしい助っ人が現れるものです。M市のWさんのお陰で無事とてもしっかりした「製塩土器」を作ることができました。これで一応土器の方は一安心。


(お陰でこんなにうまく土器はできあがりました。ありがとう!)

 さて大問題が一つ。ホンダワラです。以前塩作りをしたときもこれが手に入らず、結局その辺の海藻を拾ってやったのですが、これが大失敗。とても鹹水なんて代物ではなかったのです。ですから今度こそは!と心ははやるのですが、いざとなるとどうすればいいのか・・・。と、そこへ朗報。学生が聞き込んできた話によると、大学近くの白塚や白子では手に入らないが、南の方に行けばあるかもしれないと。

「南?・・・・!!」

 直ぐにT市教育委員会のTさんに電話した。
 「ホンダワラない?」
 「なんですか、その「ホンダワラ」ちゅうのは?」
 「エッツ!(絶句) 要するに海岸縁に生えている胞子が玉のような殻に入っている藻のことなんやけど・・・、とにかく誰か漁師さん知らん?」
何しろ彼にはいつも何かあると漁港から魚や貝を送ってもらっている仲である。本人が知らんでも漁師さんなら知っているだろう、ということで漁港に聞いてもらうことにした。これが大正解!!湊まで来てくれという。
 しかしここでもいろいろトラブルがあって、結局ホンダワラを取りに行ったのが金曜日。事前に干しとかなあかんのに・・・、内心ドキドキものである。しかし人に頼むこと、こちらの都合ばかりでは行くはずがない。相変わらずのぶっつけ本番!と、鳥羽まで車をぶっ飛ばした。


(図書館の奥に埃だらけになってしまわれていた贄遺跡の志摩式製塩土器。でも近日中に別の所に展示できるようになるらしい。素晴らしい!! Tさんが文化財担当になってから随分いい方向に動き出している。大いに期待したい。何でもお手伝いしますよ!!)

 ところがこれがまたまた大正解!! なんと、船を出してくださって、船上からホンダワラ採りをしてくださったのである。千賀浦漁港の南さんの船で波静かな千賀浦に出かけた。最高だった。まさか志摩の浦々の一つを船から、それもゆっくりと見学できるなんて思いもしなかった。港では素敵な海女さんのお話も伺えた。


(南さんの船でいざ出航!!)

 「この湾は何湾というのですか?」
早速質問攻めである。不思議そうに、
 「的矢湾ですが・・・」
 「ア、 あの、この小さな浦々にも名前が付いているのですか?」
 「はい、もちろん。」
 「この辺の岸壁に穴が連続して開いたところはお見受けになりませんか?」
等々・・・。


(とても陸からは近づけそうにもない小さな浦が点在し、浦々を遮る断崖絶壁が連なっていた。海藻が生えるということはアワビや、サザエ、等の産卵の場があるということで、海底には様々な藻が生えているとおっしゃっていた。これが志摩国の貴重な「資源」なのだと納得した。)


お伺いしたいことは一杯あったのですが、ホンダワラの生えているところに到達。早速特製の長い熊手のようなもので海底あさり。ところが前日の雨でホンダワラが抜けてしまったらしく、岸には一杯うち上がっているのですが、海中からはなかなか見つけられない。
 「すんませんなー、昨日の大雨で海が濁ってしまって、よう見えないんですわ・・」
こちらが恐縮するくらい丁寧に謝られるものでさらに恐縮してしまって・・・。
 そうこうするうちにどんどんホンダワラがあがりだした。志摩でも製塩をしていたはずなのだが、なぜかこれまでのところ、焼塩土器は一杯出るのだが、製塩土器は出ない。これだけのいい環境なのにどうしてだろうか。そこでまた質問。
 「どこか浜辺で土器がたくさん出るところをご存じありませんか。」
 「サーナー、しらんなー」(残念!!)
結局ザルに満杯のホンダワラを手に入れて帰港。
 「お礼を・・・」
 「いらんわさー」
 「エエッツ?! ど、どうもありがとうございます。」
というわけで大変な勉強をさせてもらった上に大量のホンダワラまで手に入れることができて無事帰校。これで塩作りを失敗したらどないしよう。大変なプレッシャーの下に大学に戻ったのです。
 それにしても南さん、Tさん本当にありがとうございました。


(このような形で次々と採ることができた。帰港後海女さんんとお話ししていると、彼女たちにとっては海藻は難敵らしく、「たくさん生えとると気持ち悪いんよね」とあわびやサザエを捕るにはプロの海女さんでも不気味なくらい海底には多種多様な藻があるという。)

 塩作りの本番はこの後直ぐに。

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研究余録  鈴鹿関と不破関の条

2006-07-03 01:01:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
人間追い込まれれば追い込まれるほどもっと先に逃げようとするものです。

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 上石津町の西高木家陣屋跡を訪れた後、午後から本来の仕事である講演に向かいました。久しぶりに垂井町を通り、藍川の側で昼をいただいて、午前中に見た西高木家のお陰でなぜか心も落ち着いて講演の心構えをすることができました。お題は「不破関と鈴鹿関」でした。
 西濃地域の合併では当初、上石津町だけではなく関ヶ原町も垂井町も合併対象だったと聞いていたのですが、なぜか両町は合併協議会から離脱し、結局は上石津町が飛び地になってしまうなど、今回の合併の弊害モデルのような形で落ち着いたようです。もし大垣市になっていれば、美濃国分寺・尼寺、美濃国府、不破郡衙、不破関等々日本古代の極めて重要な遺跡群が一市に所在することになり、優れた調査技師の下で一括して統一した方針の下に調査研究することができる!と、大いに期待したところなのですが果たせませんでした。残念!

 実は三重大学に赴任して直ぐの年に私は「美濃国府」の調査のため不破郡垂井町に一ヶ月ほど泊まり込んで発掘調査をしたことがあるのです。だから、周辺の遺跡群も学生達と一緒に随分訪ね歩いたものです。もちろん不破関は人を案内してまで数回訪れたことがあります。おそらく潜在意識として、いずれ鈴鹿の関を掘りたい、調査・研究したいという意欲があったから、熱心だったのだと思います。いや、実は「美濃国府」の調査ももっとやるつもりでしたから、いつか不破関も・・・、と予定していたのです。
 しかし、今から考えると、あの当時は結局、不破関の一部分を見ていただけで、関の本質は全く分かっていなかったと大いに反省しています。あのまま調査などしなくてよかったと、今頃気付いた次第です。

 今回、講演会の準備をしながら、不破関の「土塁」がなぜあのような位置に設けられたのか、どのような土木工事を経て建設されたのかについて、ようやく具体的に考えることができたのです。それもこれも、鈴鹿関の西築地跡を発見するという手がかりを与えてくれたからなのです。講演のために不破関の報告書や関ヶ原町史を読み直し、三関を貫く可能性のある三つの事柄に気付いたのです。
 その第一は、不破関も鈴鹿関もこれまで土塁と呼ばれてきた施設は築地塀ではないかということです。


(長岡宮築地跡。『向日市埋蔵文化財調査報告書第9集』1980年より)

 私はもう27年も前になりますが、長岡宮で官衙の囲繞施設である築地跡を初めて発掘調査しました。平城宮ですら誰も本格的な築地跡を掘った人がいなかったので手探り状態での発掘でした。でもそのお陰で、律令国家が築造した築地塀の工事過程やその構造を詳細に知ることができました。今回その経験が大いに役立ちました。不破関の「土塁」の図面を見て驚いたのです。そっくりなんです!!


(築地築造工程の復原模式図)

 土塁は帯状に延びる土の山ですが、築地は土の山の上に屋根が着いているのです。一般的にはお寺の塀やお役所の塀に用いられる装飾性の高い囲繞施設なのです。もちろん両者では屋根に瓦が葺かれ、のきさきには文様を持つ軒瓦が載せられて、装飾性をさらに高めていました。お役所では築地の表面に漆喰が塗られ、柱は朱で彩られていたと思われます。日本の築地塀は必ずしも防御性が高いわけではなさそうで、築地は度々破損したようです。このため専門の修理担当の役所・修理官が置かれ、瓦をストックして補修に当たっていたようです。築地塀からはたくさんの「修」「理」と刻印した瓦が出土します。
 そんな不安定なものがなぜ関所に?
 そうです!そこが今回の大発見の大いなる意義なのです。
 以前から日本の関所はさほど軍事的機能には重きを置いていないという考えがありました。都で異変が起こると「固関」といって、三関を閉鎖させるのですが、その大きな目的は反乱者の東国への脱出の防御でした。敵の大群が押し寄せるのを防ぐというより都からの脱出を防ぐというかなり二次的なものでした。
 だから山のような土塁が必要なのではなく、「ここが関所だぞ!」と威厳を示せればよかったのです。機能より見栄えのようです。


(すごくよく似ているでしょう!長岡宮の築地と。確信に近いものがあります。夏が楽しみです。)
 第二に、不破関の関司推定地周辺や今回の鈴鹿関西築地跡出土の瓦類が、いずれも八世紀中頃の特徴を持っていることです。これまでにも三関がいつ設置されたのかということについてはいろいろな議論がありました。少なくとも大宝律令に記載されているということは701年にはその存在が確実視できるのですが、それがどこまで遡るかが問題だったのです。不破関で出土する瓦のうち最も古いものがその第Ⅰ型式と名付けられた瓦群で、川原寺系の文様構成を持ち、7世紀末のものではないかといわれています。鈴鹿関については壬申の乱における『日本書紀』の記事に「鈴鹿関司」の名前が出てき、「関」の存在を推定する研究者もいますが、後の潤色だという意見も強いようです。今のところ鈴鹿関については考古資料からは年代を推定できません。ですから、依然として創出時期については決着が見られないのですが、少なくとも8世紀中頃には鈴鹿・不破両関で築地塀が存在したことが判明したのです。これは大変大きな発見です。
 というのはこの頃、両関をめぐる重大な「事件」があるのです。聖武天皇の東国行幸です。740年10月29日に平城京を後にした天皇は大和の柘植から名張を経て伊勢に入り河口、一志と泊まった後、鈴鹿郡の赤坂頓宮に入り、以後、壬申の乱における大海人皇子の行程を辿るかのように進みます。そして、12月1~5日不破郡に滞在するのです。桑名から当伎郡の養老を通って不破関に入るコースは、前回ご紹介した伊勢東街道であった可能性が高いと思われます。両関から出土した遺物の年代観から、まさに両関はこの頃整備されているのです。聖武行幸の前に事前に整備されたのか、行幸後に訪問先を整備したのか、今のところ出土遺物などからは判明しませんが、そのどちらかであることは間違いないようです。
 そして第三に気付いたことは、不破関と鈴鹿関の規模や構造に多くの共通点があることです。公表されている地図を検討すると、今回見つかった鈴鹿関はどうも北西角の築地である可能性が強いのです。その形がまた既に調査されている不破関の北西コーナーとそっくりなのです。不破関と鈴鹿関が同時期に同一規格で整備されたと仮定して、不破関の検出済みの「土塁」を鈴鹿関に被せると、南西隅が観音沖遺跡、東辺が関中学校校庭付近にかって存在したとされる痕跡に見事に合うのです。おそらくこれが『続日本紀』に出てくる「西城」でしょう。あるいは西内城の記述から考えると西外城なのかもしれません。
 いずれ調査が進めば詳細はまた判明してくるのでしょうが、招かれた講演会を契機に勉強させてもらったお陰で、三関に関する大枠を何となく捕まえたように思っています。


(学生達の右側にあるのが発見されたA築地で、不破関にも北西コーナーに北西方向に少し延びる築地跡が確認できる。偶然とは思えない。)

 8月21日からは亀山市教育委員会と三重大学考古学研究室共同で、記念すべき鈴鹿関第一次発掘調査に着手します。学生達とこの前泊まったあの鈴鹿峠自然の家に泊まり込んでの調査です。是非興味をお持ちの方はこの夏鈴鹿関へお越しください。もちろん、差し入れを忘れないでね!!(但し最近の学生はあまり呑みませんから、酒より肉がいいかも?!!なお、お泊まりいただくことも可能ですが、雑魚寝で、風呂は車で移動です。飯も自炊ですからあまりたいしたものはありません(だから肉!?もちろん山田博士のぶよぶよの贅肉はいりませんからね!!)。


(昔懐かしい小学校の朝礼台のある鈴鹿峠自然の家。安くてちょっと不便だけれど、いいところですよ。)

 是非学生達と活発な議論をしてやってください。お待ちしています。
 
 久しぶりに充実した一日であった。

 後はなかなか進まない原稿!!昨日今日と何回書き直したことか、進んでは戻り、戻っては立ち止まり。アー、神様私にもう少し文才を!!

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