yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

タンロン通信-5 一人「出」の子守歌の条

2008-02-29 09:11:23 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
団塊の世代は死ぬまでこき使われそうだねと思ったらよろしくお願いします。


(現場には山田博士の厳しい目が光る!!「ウーン、こりゃ何や!?ようわからん掘りかたやなー)
 とうとう一人になってしまった!

 さすがに初めての海外が東南アジアなどという学生もいるのでそのせいかもしれないが、下痢やら風邪やらいろんな症状が出て病院との往復にてんやわんやの3日間であった。保険をかけていてホッとした。それにしてもNご夫妻のお陰でどの病院が藪でどの病院がいいのかが判りとてもよかった。適切な処置が直ぐにできたことが救いだった感謝!!

 第5日目(27日)は地層の分層結果を調査員同士で認識を一致させるための検討会をやり、基本的な認識を再確認した。その結果を図面に記載していく途中で終わってしまった。また南端に遺されている高まりを確認するため一部断ち割を広げて地層の再確認を行いながら掘削を進めた。その結果3層までの堆積を確認し、第2層に植物質が大量に堆積していることが判明した。残念ながら加工遺物は認められなさそうだ。


(真剣な眼差しで聞く嘱託職員の皆さん。地区割りの説明。)
 また、現場の嘱託職員を中心とした専門家の卵達に調査地の遺物の取り上げ方法などについて認識を一致させるための現場会議を開いた。

 タンロン座標と呼ばれる敬天殿を基準とした5度ほど傾いた独自座標系に基づくタンロン王城遺跡全体の地区割り方法を再確認し、現場の地区名を説明して遺物の取り上げ方法を説明した。何しろまだ座標による地区割りや実測が始まったばかりなのでその点が徹底できていないようなのだ。

 それでも皆さん全員とても素直で、物わかりがよく、判らないことは直ぐに聞いてくれるのでとても説明のしがいがある。日本の学生だと「
何か質問は?」と聞いてもたいていの場合
「シーン!」だ。子供の頃からの教育が違うのだろうか。

 この調査地D3区はタンロン座標系の「TNWABH~R、87~92」に当たることが判明したのでこれを基準にこれから確定していく遺構名称(略号)と合わせて全ての情報を標記することができることになった。


(東壁の精査)
 第6日(28日)は東断面の写真撮影と図面準備のための断面壁の精査を行った。いろいろな認識の違いがあって、結局完成できないまま、おまけに終わりかけに大雨が来てまた明日!ということになってしまった。

 その間現場では調査方法について調査担当者が激論を交わし、その上で認識を一致させて調査を進めることができた。議論をしておかないと後で困ることになるので少々激しいやりとりも必要だと改めて実感した。

 調査地の南西隅から見付かった磚積みの溝の所属時期を決めるために周辺の精査を行ったところ、これだけは古い時期の物である可能性が高くなった。その遺構の下に植物質の物を大量に含む黒色の層が認められ、これが安南都護府形成直前の地層ではないかと考えられた。

 第7日目(29日)は昨日のやり残した写真と図面作業である。これから食事をしていってきます。今日は全員元気になって参加できそうである。誰かさんのお祓いとお清めが効いたかも、有り難う!!

(写真はまた帰ってからアップしますね)

 ちょっと寒いハノイですが頑張れよと思ったらもよろしくね



タンロン通信-4 雨の現場の条

2008-02-27 07:48:07 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
雨でも現場は大変だねと思ったらよろしくお願いします。
 今日もまた一人ぶっ倒れてしまった。原因がわからないので困るのだが、とにかく早い目に休むと言うことを徹底して寝させたのだが、本当に私ともう一人の女子学生のみとなってしまった。もっとも先に倒れた?調子が悪かった山田博士は既に回復されていて毎日学生以上に元気に現場に立ってもらっている。有り難いことだ。

 今朝から霧の少し大粒のような体中にしみこむような雨が続いていた。そんな中での図面取り作業と東側断面の精査であった。西側の断面についてはようやく3人の見解を整理することができてこれで図面は一挙に進むだろう。

 ところで昼には珍事件があった。会計係のO君が少し調子を崩しかけていたのだが、そのせいか、N氏が
「電灯を買いに行ってくる」というのを聞き違えて、
「弁当を買いに行ってくる」と理解したのだ。

我々は
「本当にそんなこと言ったの?」と不審に思ったのだが、断言するものだから信じて寒い現場事務所で待っていた。彼は少し寒いというからいろいろなものを着せて寝かせていたのだが、待てど暮らせどN氏の現れる気配がない。

 どうも怪しい、と思って電話をかけると、
「エエエッツ?3000000ドン預かって電灯を買いに行くと言ったのであってそんな高い弁当を買うはずがないじゃありませんか!」と絶句された。

3000000ドンは2万円くらいだからもっともなことだ。飯は6人で大体1000円だからあり得ない。どこでどう聞き違えたのか?

でんとう と べんとう 最初の一字違いだった。

但し思い当たるのは今の学生にとって「でんとう」という言葉は余り日常的に聞き慣れない言葉になっているのではないだろうか。昼に買うといえば「べんとう」。

そんなこんなで昼は危うく食べ損ねるところであった。

 いろいろある現場である。夕方にはまたまた不愉快なことがあって、厄払いに思い切って山田博士、N氏3人で日本料理を食べに行って思いきり飲み食いして憂さを晴らした。

 これで明日からみんなが元気になればいいのだが・・・。ぼちぼちやることにしよう。現場の方は、図面が少し遅れているが、一応予定通り進んでいる。これが唯一の救いである。明日辺り気晴らしに博物館へでも行ってみよう。

 健康が第一!と思ったらよろしくね


タンロン通信-3 ハノイの地鎮祭と戒律破りの条

2008-02-26 06:46:58 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
看病も大変だねと思ったらよろしくお願いします。


 昨日は若者達は元気だ!とお伝えしたのだが、今朝になって山田博士の祟りか。はたまた単なる偶然か、朝、男子学生がダウン、昼から女子学生がダウン。これで病人は合計三人にまで膨れあがった。

 残るは三人、最後まで残るのは誰か、等というくだらない順番当て競争が始まりつつある。異国の地での健康管理は本当に難しい。


(ようやく綺麗になった調査前の現場です(南から)。向こう側の屋根の下になっているのがD2区です。)

 貴重な戦力を二人も裂かれる中、午後にはようやく西側壁面の断面実測図を開始することになった。ここで問題となったのがいったいどの層が連続した意図の下に形成されたのかという問題である。前回報告したように池状遺構は二段階に分けて埋め立ってられたことが確実になってきた。ところがその第1段階目がどこで終わっているかについての判断を鈍らせる土層が北端部にあるのである。この判断の違いによっては2段階目の造成時期が相当異なることになる。


(東側の断面にもやはり海抜7mの位置で真っ直ぐ伸びる地層のラインが見えつつあります。西側の断面と連続します。)

 もちろんこれまでの調査自体が余りこの遺跡の破壊状況について注目してこなかった形跡があるので、我々のために遺されている地層がほんのわずかであるという問題がある。しかし当然のことながら新しい遺構がどこまで古い遺構群を破壊しているかを明確にしておかなければ発掘調査などできるはずがないので、やむなくその判断に全力を傾けているのである。明日4日目には、反対側に遺されている断面がようやく新鮮面を出す予定である。これとの総合的判断で、この問題に決着を付けいよいよ本格的に平面調査にはいる。

 今日4日目はその調査直前状況の写真撮影も行ったところである。

 ところで私達の調査区の直ぐ南隣は新国会議事堂建設予定地である。既に既存施設は除去され、整地されて発掘調査の開始を待つばかりである。そんな調査地のど真ん中に忽然と祭壇が現れた。


(新国会議事堂の建設予定地で始まった地鎮祭の跡。)
 果物、鶏肉、穀物、酒、酢?水?等の食材の他に、バラの花やお菓子が供えられ、模造のお金が大量に置かれている。もちろん線香と蝋燭が絶やされることはなく、仏教色の濃い祭壇となっている。その端に置かれていた馬の模型は色紙で飾られ、異界を結ぶ役目を担っているようだ。

 この光景を見てすぐさま思い出したのが2003年中国東龍山漢墓で発掘調査をやったときのことである。墳丘の前に置かれた祭壇には今回と同じ様々な食材が並べられ、線香が焚かれていた。地元の名士と共に私も拝まされ、調査の無事を祈ったものである。今回と異なるのは、拝礼が終わると共に爆竹が鳴らされ、生きた鶏が持ち出され、その生き血が四周に撒かれたことであろう。さすがに犠牲の国である。日本ではもっとも忌み嫌う血を敢えてこの儀式の場に持ち出すのである。

 ヴェトナムではその中間なのだろうか?少なくとも犠牲は捧げられなかったようである。儀礼終了後、貨幣や馬のミニチュアは燃やされたことは言うまでもない。

 現代に生きる地鎮の実体を見ることができた貴重な一日でもあった。果たしてどんな遺跡がこの地から姿を現すのか楽しみではあるのだが・・・

 ところで、その夕刻に大事件!が起こった?

 ナナナント、体調不良で意識朦朧となさっていたのか、彼の大根嫌い教の教祖様山田博士が、こともあろうにその最も大事な戒律である

「大根を食べない」

を自ら破り、ヴェトナムの大根をお召し上がりになったのである。その事実を突きつけられ、狼狽した教祖様は、

「イヤ、あの、あ、大根に見えなかったのだ」とか「やはり大根ではないのではないか」とか見苦しい言い訳をすのである。

 そこでもちろん私は宣言したのである。

 「本日をもちまして山田大根嫌い教は解体されました!!信者の皆様(どこにもいないが・・・)、どうかご信心を変更下さい。世界の大根栽培農家のためにも、こぞって健康にいい、大根を食べましょう!」と。

 2008年2月25日19時5分34秒はこの世から大根嫌い教が消滅した記念すべき日となりました。記録に留めておきたく思います。

 異国の地の地鎮祭とても興味深いねと思ったらもよろしくね

 

タンロン通信-2 過酷な調査??に山田博士ダウンの条

2008-02-25 02:55:31 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
博士をいじめちゃいけませんよと思ったらよろしくお願いします。


(昨日はこんなに元気だったのに・・・左から2番目が博士の雄姿。)

調査が始まってまだ三日しか過ぎていないのに早くも犠牲者が出てしまった。今回のプロジェクトの主要メンバーである山田博士である。
昨夜からお腹がしくしく痛むとかで今朝も余り顔色がよくなかったのだが、現場終了と同時にとうとうお酒も飲まずに部屋に引きこもってしまった。もっとも博士は渡越直前まで風邪を召されてダウンなさっていたので、恐らく相当体力が落ちていたのだとおもう。

天地神明に誓って、決して私がいじめたのではありませんからね!!
中には日頃の鬱憤を晴らしたに違いないとか、毒を盛ったのではないかとかあらぬ事を噂しようと思っている人もいるやに聞くが、決してそんなことはありませんからね。

原因の可能性のある出来事に、実は昨夜23日夜に行われたベトナム側の歓迎の会にあります。いえいえ、折角お招きいただいたのにそれに因縁を付けるつもりはないのですよ。単にその宴席で、生牡蠣をむしゃむしゃ食べた人がいて、そのお方が誰とは言いませんが、ひょっとしたらそれにお当たりあそばされたかも知れないのです。だから、私が何かしたのではないことだけは信じてください。

そんなこんなで今夜は一人寂しくホテルの一室で、近くのスーパーで買ってきた缶ビールを飲みながらこれを書いています。

ところで若者達はみんな元気ですよ。直ぐに環境に慣れて、早速近くを探検して、このビールを売っている店を探してきてくれました。現場まで車で10分足らず。ホテルシェラトンの直ぐ横にもかかわらずシェラトンは220ドル、こちらは22ドル!でもインターネット環境は抜群!ホテルだってとても綺麗だし、なんと言っても従業員の皆さんがとても親切!!そして近くにスーパーはあるし、時々お腹が痛くなる人もいるけれどとても変わった料理の出る酒場もあるしとてもいいところですよ。皆さんご贔屓に!!AU CO ホテルです。空港にも近いですよ。


(こんな感じでひたすら壁を削っています。後で怖い顔をして睨んでいるのが山田博士です。もちろん僕と一緒に外国まで行って、何もせずに帰れると思うのが甘い!!)

さて現場は初日からとてもハードになっています。基本的に我々に与えられている時間は限られているという問題があります。もちろん今年度は資金もかなり制約されています。だからいかに調整して効率よくやるかが課題なのです。

初日から3日間の大きな課題が現場の東西に残されていた壁の精査でした。調査の原則は既存の断ち割り面を利用せよ!です。どんなに優れた学者でも残念ながら地中のものを心眼で見つけることは不可能です。たまたま破壊されていた面などがあればこれを利用して地下の状況を判断するわけです。

今回の場合は現場そのものが巨大な攪乱坑だと言っても過言ではありません。その時期は一応黎朝期(1428年~1789年)だとされていますがはっきりはしていませんでした。そこでまず東西に遺された壁をもう一度きちんと削ろうと言うことで始めました。

その結果これまで考えられていたようにある時期に大きく掘削された巨大な池状の遺構が、黎朝期のどこかで埋め立てられたのはなく、間にもう一段階か二段階あることが判明したのです。何故池状の遺構を掘ったのかも謎なのですが、途中で何故これを埋め立てて造成したのかも新たに浮上してきた問題となりました。

いずれにしろこの三日間をかけて精査した壁の再調査による池状遺構の時期変遷に関する調査を本日夕刻写真撮影して終了しました。

途中、ブログには書けないいろいろなこともありましたが、マ、何とか順調に調査の方は進んでいます。明日は皆さんをようやく調査の済んでいるA/B区へ御案内し、全体像を把握してもらうことになります。

なお、今日は以前にもご紹介したことのある南郊殿を訪れました。南郊殿建設時の古環境を探るための材料入手の調査です。同行している名古屋大学院生のOさんの専門である昆虫による環境復原です。南郊殿の基礎地業や最下層さらに地山などの土砂を採取し、昆虫を見つけようという算段です。


(こんな感じで昆虫のいそうな地層から土砂を採取していくのですが・・・・この帽子姿がO嬢)

残念ながら写真はお見せできませんが、西または南西に推定されている円丘壇の周りに建てられた「工」字状の建物跡が発見されています。東西20余m、南北16m前後の5×4間の北側建物と、1×5間の南側建物とが、1×3間の廊下状の建物で繋がっている。とても複雑な構造の建物が現場で発見されているのです。柱間も大半が4m近くを計り、中央間に至っては6m余の幅があることが判っている。


(黎朝期に埋め立てられたという池状遺構の西壁断面。)

 もっと残念なことはこれだけの遺跡が現地に遺されることもなく移設保存されることである。世界遺産級の、世界でも初めてに近い、円丘の発掘調査の成果がほとんどの人が見ることなく消えてしまうらしいのです。とても残念なことです。
 私は世界遺産級の施設である南郊殿がこの世から消えてしまうことをとても残念に思っているのです。中国から独立した国家であったことを具体的に示すことのできる施設が南郊殿なのですが、残念ながら大半の人々はそんなに大事なものだとは誰も知らないのです。ヴェトナム人民の誇りのためにもとてもとても大切なもので、二度と元に戻すことはできないだけに悲しくさえなってしまいます。

 せめて古環境の復原くらいはと言うことで、今日許可を得ては南郊殿に出かけ、昆虫の生息していた可能性のある地層を切り取って持ち帰ったのです。

南郊殿の現場が見たいな、と思ったらもよろしくね

タンロン通信-1 無事着きましたの条

2008-02-22 04:27:26 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
暑い中、頑張れよと思ったらよろしくお願いします。

朝7時に京都を出発し、9時に関西国際空港南ターミナルにあるヴェトナム航空のカウンターに集合、全員揃って無事出発することができました。

ホーチミンでの荷物の引き継ぎなどでゴタゴタしましたが、マ、何とか難局を切り抜け大変な人混みの関空の搭乗手続きを終え、ほとんど予定通り離陸いたしました。ホーチミンまでは約5時間なのですが、私は前日、前々日の徹夜のお陰でほとんど寝ていました。途中折角もらったコーヒーすら飲まないという、信じられないことをしながら・・・。

ホ-チミンはナナナント30度!!寒いどころの騒ぎではありません。コ-トを来ている人などいるはずがありません。日本からの観光客もみんな半袖!そんなホーチミンでの問題は無事荷物を受け取り次ぎの国内線に引き継いでくれるかどうかだったのですが、そんなことも杞憂に終わりました。

それにしても関空の日航のカウンターの職員の勉強不足!!自分のことしか知らないで、コードシェアーなんぞと偉そうなことを言うなよ!と言う感じでした。

国際線から国内線へはかなり離れていて、一端外に出て5分ほど歩いていきます。国内線のチケット受け取りもマいろいろあって、ゴタゴタし、受付のおねーちゃんが搭乗口を間違えて記載するなど、今となっては笑い飛ばせる事件を経ながら3番口へ。余りに時間があるのでコーヒーでもと言うことで、1杯1.5ドルのコーヒーと2ドルのマンゴージュースなどで時間つぶしをしました。

現地時間17時に搭乗した国内線は予定通り2時間でハノイ空港に着きました。空港では心配した荷物もちゃんと出てきて、迎えのタクシーともばっちり!8時半過ぎにはホテルに着きました。ホテルでは昨年12月に滞在したのをちゃんと覚えてくれていて、大歓迎、直ぐに部屋に入れてくれました。

それから荷物の整理をして、持ち込んだ機材などの点検をして早速ミーチング。ここで学生一人がダウン!緊張してたのでしょうね、

一応の確認をしてサー!と言うところで睡魔が襲ってきて一端就寝。そんなところへ西村さんから電話があり明日の打ち合わせ。

折角だからとここに第1報を打ち込んだ次第、とにかく繋がることをお知らせするだけですが、これから毎日書き込みますね。

無事到着おめでとう!と思ったらもよろしくね

雪の田辺城そして明日出発の条

2008-02-20 04:39:37 | 三重大学考古学研究室情報
田辺城、国史跡級だねと思ったらよろしくお願いします。

(田辺城の大手の前に作られた塾人荘の駐車場から見ることのできる田辺城説明板)
 16日も再びいなべ市に分布調査と新しい国土座標のポイントを設定するために出かけた。ここのところ西日本はとても寒く、昨日も小雪がずっとちらついており、山は真っ白だった。

 そんな中いなべ市でも最北端、旧北勢町田辺の集落にある田辺城に行ってきた。現状を確認し、その評価を定めるためだ。
 私は山城について深く研究したこともないので田辺城がどの程度残っているのかを確認するために現地に入ったのである。もちろん、大事な遺跡かどうかの判断くらいはできる。山城が問題になるとき、いつも気を重くさせるのが新しく造られる道路の犠牲になることがとても多いということだ。今回も東海環状道路が遺跡を横断するらしい。先の見えない道路建設のためにまたまた城が犠牲になるかも知れない。一体日本の国はいつまでこんな道だらけの国土破壊をし続けるつもりなのだろう?どこかの知事達も次の選挙を考えると「地元」という力の前に道路道路と言わざるを得ないのだろうが、悲しい利益誘導型の政治がまだまだ続いていく。


(田辺城の本丸、とてもとてもよく残っています。)
そしてそんな犠牲になるのが、「生活」に無関係だという「文化」なのだ。

犠牲になる前に私達がしなければならないのはどんなに「文化」が「生活」に必要なものかを説き続けることだ。私達にむけられる非難は

「霞を喰っては生きてはいけない!」だ。

もちろんそうだが、でも私達は今や飯だけ食って生きてはいない!!
食べるのも大変な人々がいることは事実だが、多くの日本人が食べ散らかしているのだ。非難する側のほとんどの人々こそ、食べるのに余りある経済力を持っている。食べる量をちょっと調整するだけなのだ。


(この城壁の残り具合を見れば判るでしょう、すごい!!と)
さて、田辺城だが、木造長政の建てた城だとされる。天正14(1586)年に旧久居市にある戸木からこちらへ移ったという。しかし4年後には織田秀信の家臣となり岐阜へ移った。

田辺城は養老山地の西側斜面の裾部に伸びる南北に長い平坦地を利用して形成されており、中枢部は二重の土塁によって囲われ、現地に入るとその遺構が実によく保存されている。本丸だけではなく、その直ぐ西側にはやや低い土塁で囲われた長方形の空間が遺存しており、屋敷跡とされるが、城主の日常生活の空間であろうか。北に向かって伸びる平坦地を部分的に利用しながらさらにいくつかの土塁が認められており、北に落ちる谷との境には現存高2m前後の土塁がとてもよく残っている。家臣団の生活空間であろうか。


(田辺城の北端付近。この鉄塔を建てるときに発掘しとかなきゃね。もっとも当時は担当者が誰もいなかった!!)
城跡のど真ん中を町道が縦断するのが無粋ではあるが、あるいは城内の道がその後も利用され続けたのかも知れない。

いずれにしろ、中世末の山城の構造がそっくり現地に遺されている極めて遺存状態のよい城跡であることは間違いない。特に本丸の城壁はとても遺存状態がよく、このまま往時の偉容を知ることができる。

何故木造がこの地に移動したのかはその立地を見れば一目瞭然である。
田辺城を挟むようにして北に延びる二本の道がある。東へとると養老山地を越えて現海津市志津へ出、北上すれば直ぐ養老である。西へとると国道365号から上石津を経て関ヶ原(不破関)へ出る。伊勢から美濃へ出る要衝の地なのである。

こんな所に巨大な道を造るお金があるのなら、私なら、この二つの道に緑豊かな歩道を造り、三岐阜鉄道阿下喜駅から養老鉄道駒野駅を結ぶハイキングコースとしたり、同じく阿下喜から上石津を経て関ヶ原に至る遊歩道を整備して歴史ロマンの道を再現する。

そしてその中継の核になるのがこの田辺城である。幸か不幸か、4月から民間委託?になるかという福祉施設塾人荘がある。旅人がちょっと休憩するにもいいし、資料館として再生してもいいのではないかと思う。

もっともっと文化的に「田舎」の自然と歴史を活かし、CO2削減にこんな所から取り組んでいかないことには、偉そうに環境サミットなどと言えたものではないのではないだろうか。道路をやめるだけでもこの地に振りまかれるCO2は減るし、代わって緑を遊歩道にすれば、供給される酸素は増加することになる。さらに近鉄が放り投げた養老鉄道の活性化や三岐鉄道の復活にも力になるに違いない。



(塾人荘のロビーに飾られていた付近からでた縄文時代の石器や中世の土器類。)
そんなことを思いながら雪の田辺城を歩き回った。

もう一度言おう!道、道と大きな道を造るために叫ぶばかりが脳じゃない!知事さんも、市長さんも、町長さんも、もう一度自分達の足元をしっかり見て、どんな道が必要なのかを考えてから発言すべきではないだろうか。

明日ハノイに向かって立ちます。1ヶ月の長丁場の発掘調査です。ハノイからは「タンロン通信」を流します。ご期待下さい。また、姉妹ブログhttp://eastasiagis.cocolog-nifty.com/
も時々覗いてみて下さい。これから充実させていきます。

行って来まーす。

ちなみに、僕の宿敵?山田博士も一緒に行くんですよ。この頃彼のブログが止まっているのは、2週間もの長きにわたって風邪でダウンしてたからなのです。本日自宅で生きていることを確認。明日からの旅にも耐えられるとか・・・、でも僕に風邪だけはうつさないでね。ハノイでこき使ってあげるから、そしたらその軟弱な身体がしゃきっとするに違いない(笑)。二人の珍道中もご期待下さい。

ハノイへも行ってみたいなと思ったらもよろしくね

東アジアGIS研事前研修会の条

2008-02-16 03:08:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
GPSよさそうだねと思ったらよろしくお願いします。

 あと6日で出発となった「GISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究」第1回現地発掘調査のための事前研修会を開いた。GPS測量器具の習熟のための研修でもある。


(久しぶりの306号線を北上。途中たまたま停車したところが海蔵川の直ぐ横。この左手の小さな流れが海蔵川。そう!あの大海人皇子が天照大神を遙拝したという川の上流部分。向こうに見えるのが冠雪した鈴鹿山脈。美しいが、寒い!!)

 対象とした現場は、三重県の最北端いなべ市の旧藤原町。丁度、分布調査の真っ最中である。これから先、発見した遺跡の発掘調査が入ってくること間違いない。そこで、担当者と相談して、現地に新点をいくつか打ちこれの測量をやると共に、今後の調査に活かそうという魂胆なのである。


(旧藤原町飯倉にある国土地理院の新点。途中小雪がまい、急遽傘をさすことに。それにしても現代っ子は機械に強い!たった1回の研修でもうほとんど習熟している。嬉しい悲鳴だ。もっと驚いたのは今傘をかざしている学生、ナナナント彼が小学校の時私が三重県で初めて発掘調査した宇賀新田古墳群の発掘現場を訪れたのだとか・・・、そんな学生が考古学に来てくれるなんてとても嬉しい!!これも地域と密着した仕事の成果だと思うのだが・・・・三重大学人文学部文化学科の教員連中の半数はこんなことが大嫌いらしい。「何もしない、このままでいたい、だから何かする奴は泥沼に引きずり戻す。」こんな悲しい教官達の陰謀が現実味を帯びて進み始めた。悲しい!!)

 最新の機器は日進月歩、さらに問題はいろいろな業者がいて、その器具の操作がこれまた異なるという問題。何とかして欲しいが、これが資本主義の無駄な世界。

 何が環境や!と叫びたくなる。要するに資本主義が世界の、地球の環境を破壊していうることは100%間違いないんだから、これを変えればいいのに、中国やソ連までなくなって、そして今やベトナムもアメリカ化、これじゃ、地球は破壊される!!

 それはさておき、GPSだ。

 慣れれば実に簡単に操作できることが判ったのだが、なかなか精度が上がらない。これまでなんにもやっていないところからすればかなりの精度なのだが、それにしても日本の精度には程遠い。


(見事な田園風景。こんな自然を残したいよね。こんな所でのんびり遺跡の発掘調査がしたいよね。)

 それにしても小雪の舞い散る藤原町は寒い!!とうとう一緒に来た学生がダウン。途中で駅まで送っていく羽目に。なかなか物事は予定通りには運ばないものだ。

 明日もこの続き。



(移動局とした藤原町下平の測点。途中猟銃の音が響き渡りみんなドキッツ熊でも出るのかしらと不安な様子。猟銃ってすごい音がすることを初めて知った。)

 問題が発生している田辺城にポイントを打つことになりそうだ。でも、担当者が教え子達で、彼らが基本的に遺跡をいかに残すかという私が伝えてきたつもりのことを実践してくれているのでとても心強い。

 折角、久留倍遺跡の保存運動を一生懸命やっても、義務仕事としてやる学生と、そのことの意味を真剣に理解し、卒業後もその意志を失わない学生がいる。いなべ市のような、こんな卒業生がいてくれるととても嬉しいし、心強い。



(新しい点も旧大安町役場の裏に打った。何となく初々しい気分!やはり新しい技術の習得は嬉しいね。)

 明日は北勢町の端の端、田辺城で測量だ。かつて保存運動をやったが担当者の無関心、無責任で簡単に破壊された上野遺跡とも関係の深い田辺城を調査できるというのはとても嬉しい、それもこちらは遺すことを前提に調査をするというのだからこれほど嬉しいことはない。

田辺城も面白そうだねと思ったらもよろしく


新たな情報掲示板開始!!の条

2008-02-14 05:02:29 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
東アジア面白そうだな、と思ったらよろしくお願いします。

またまたこんなことを始めました。そんな暇があるんやったら内の原稿書きんさいよ!とぼやかれる御仁もいらっしゃるかとは存じますが、そこは大目に。これも「 し ご と」なんですから。

http://eastasiagis.cocolog-nifty.com/

名付けて「East Asia GIS」私の科研費「GISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究」の情報掲示板です。まだ1号しか書いていませんが、これからヴェトナム情報はこちらに集中的に掲載しますのでお楽しみに。特に2月21日から3月21日までハノイで行う発掘調査情報の最新ニュースはこちらから流します。使ったブログサイトがココログなので、ちょっと使い勝手が違うのですが、できるだけ多くの写真を入れて流しますね。お楽しみに!


(これが12月に現地で撮った写真dす。ワクワク!)
そんなこんなで間もなく出国。とてもとても忙しく、心身共に疲れ切っています。下手するとそんな私にもっと大変な「事務」が降ってかかりそうだったのですが、学部に巣くう鬼さん達のお陰でそこから逃避することができました。知性も理性も失って大学という空間はどこへ飛んでいくんですかね?

前からそうとは思っていましたが、ここまで墜ちるとは・・・、悲しさを超えて呆れています。これで綺麗さっぱり大学のことは忘れて研究に専念できます。後の4年間はとにかく必死でこの科研費の調査で東アジアを比較研究します。私の最後の研究テーマの総仕上げです。


(この図のD3という地区を掘ります。ご期待下さい)

PBLセミナー展示会「実践!博物館学芸員」オープン!!の条

2008-02-13 03:30:04 | 三重大学考古学研究室情報
PBLセミナーの学生さん頑張れよと思ったらよろしくお願いします。


(これが旧三重高等農林学校の迎賓館であった三翠会館です。なかなか趣のある建物です。内部には高等農林時代のいろいろな資料が展示されています。こちらも見ものですが、あまり公開はしていないようです。)
 PBLセミナーという実践型教育の一つとして今年の後期には「実践!博物館学芸員」という授業を行った。その成果として今日から三翠会館(国登録文化財)の多目的ホールをお借りして展示会を開催している。


(十二単の展示は大変です。でもなんとかお借りし展示することができました。斎宮の皆様有り難うございました。感謝です!!)



 1・2年生を対象とした共通教育では、これまで、いわゆる教養教育として、概論中心の講義形式授業が行われてきた。その他では外国語を2カ国語習得させるのが普通で、このスタイルはほとんど戦後変わっていないと言える。


(1班の展示は解説風。でもなかなか読み応えはあるよ。)

 しかしその外国語でも例えば英語はTOECが導入され、600点を取れば共通教育での授業が免除される仕組みになるなど、実践型の教育が採用されている。もちろん第2外国語でもネーテイブが重視され、外人教官がかなりの数採用されるようになりつつある。


(桃太郎伝説の分布状況祖示す日本地図)
 理系では、基礎的数学や物理学の教育が遅れているとかで、そちらの方面からの強化が実施され、医系ではより実践的な課題を与え、その問題を解決させながら対処方法を獲得するPBLセミナー形式の授業が重点的に実施されている。



(鬼瓦は亀山市教育委員会からお借りすることができた。桃太郎の鬼と鬼瓦の鬼がどう関係するのかは会場でお確かめ下し。ちなみに右側の瓦の紋様は何故か桃なのです。)

 私も、学芸員や発掘調査技師、専門的内容を重視される公務員では、こうした方式の授業を導入し、明確な目的意識を持った学生の育成が大切だと思っている。


(十二単のリカちゃん人形の作成にもとても苦労していましたよ。ちゃんと布を買ってきて作ったんですよ。これ!)

 そこで、標記のような授業を開講しているのであるが、今回11人の学生が受講し半年間にわたり準備を行ってきた。もちろん、二年生以降に博物館学芸員の資格を取るための授業が組まれており、その中でも同様の実践的なプログラムがあるほか、実際に博物館で実習する博物館学実習もあります。だから1年生でそんなこと・・・、と思われるかも知れませんが、今の大学生の多くは必ずしも明確な意識を持って大学に入ってきているわけではありません。偏差値で高校の先生から
「あなたはここしか入れない」とか、
「ここならいける」と言われて入ってきた学生がとても多いのです。


(このヴィデオ撮影には血と涙の物語!!なんと言ってもこのDVD を作成するのに北海道の妹まで動員した学生がいるくらいなんです。妹さん有り難う!!)

 実際今私の授業を受けている学生の大半もそうです。そんな学生を早期に動機付けし、彼らの本当に興味を持てる授業を構築し、提供することがとても大事だと思っているのです。だから授業をすることの負担はあるのですが、敢えてそれを我慢して行っているのです。本来なら授業の終了しているこの時期に展示会をやるのもそのためです。


(文字の並ぶ展示風景)
 2班に分けてやらせた展示は見事にタイプの異なるものになりました。
 1班は「新・桃太郎伝説~あなたの知らない桃太郎~」というタイトルで、中世末期から登場する桃太郎のお話を題材にした展示です。お話しの展示ですから当然文字が多くなります。展示会場にも文字が溢れています。
 でも、ヴィデオや巨大な日本地図もあります。今回の授業には生物資源学部の学生も3人受講していますので、理系のセンスもそれなりに入っています。私にもとても刺激になります。ただとても残念なのは、彼らが学芸員資格を取ることができないらしいのです。もっともっと授業を公開したり、あるいは理系でも学芸員資格の取れる授業を開講すればいいのにと思いました。


(展示パンフレットもできましたよ!とてもいい内容ですよ!?)
 2班は、「平安貴族の表と裏・十二単に隠された真実~女房は見た~」と題するとてもカラフルで行動的な展示です。まさに会場は2班によってモノクロとカラーの世界かのような違いを見せています。
 こちらの展示のメインはなんと言っても斎宮歴史博物館からお借りした十二単です。なにせ借用交渉からとても苦労し、何度も斎宮に足を運び指導を受けて、学生達は泣きそうになりながら借りだしてきたものが中央にドカーンと鎮座しています。パンフレットも会場もカラフルです。そして、事前に十二単を試着にも行き、また我が家から着物12枚を持ち出してきて、これを着てその重さを体験したりもしました。そんな姿をビデオに収録し会場で流しています。ヴィジュアルな展示も心がけているのです。
 但し、平安貴族の表と裏がきちんと調べられているかどうかは皆さんがご覧になってご判断下ればと思います。たった9日間の展示で19日までです。土日もやっています。大学の正門を入ると正面に5階建てのビルが建っています。これが本部です。その本部の裏。向かって左奥に三翠会館はあります。9時から16時まで開けています。
 
 覗いてみてやって、ご意見を言っていただければ学生達はとても喜ぶと思います。

 今回の展示を通して、最も強く残念に思ったことは、大学内に博物館がないことです。博物館があれば簡単に展示会もセットできるのに、無いものですから、会場探しから、展示ケース運びやら演示台作り等々全てを一からやらないといけないことなのです。それはそれで学生の勉強にはなるのですが、しかし、言ってみれば社会的にはあまり実践的に必要のない苦労をして疲れさせるだけなのです。


(十二単、じっくりご覧あれ)
 こんなことで苦労するくらいなら他にもっと資料を調べたり、借用交渉をして苦労する方がよっぽどましだと思うのです。ま、今回の展示はそういうことを訴えるためのものでもあります。見学下さった方々からの強い要望も大学当局に届けたいと思います。是非お力をお貸し下さい。

一度見に行ってみようかなと思ったらもよろしく

雪の壬申の乱ウオークの条

2008-02-09 22:14:43 | 久留倍遺跡を考える会
雪の三井寺、素敵!と思ったらよろしくお願いします。

大雪でした!


(大雪の園城寺南門前にて)
四日市を出たのが8:00。この頃は小雨といった感じだったのです。ところが亀山辺りで小雪に変わり、竜王では雪に変わり、名神では次第に雪が激しく降ってきました。草津のパーキングエリアに着く頃にはもう本降りで一面真っ白な銀世界でした。

事務局の間に動揺が走りました?どうしよう?!帰れるかな?


(鈴鹿峠通過が16時。間もなく凍結するかなというところでなんとかセーフでした)
これだけ降ると帰りの鈴鹿峠が心配なのです。私の方は遺跡の方が心配で、全部回れるかな?と案じていました。そして最初の訪問地が三井寺。とは言っても三井寺そのものではなくて、三井寺前の食事をする場所。早い目の昼ご飯を食べ終わった頃にはもう既に10㎝以上積もっていました。

でも私にしてみれば何度も来たことのある場所。こんな絶好のチャンスはありません。足下に気をつけながら、あちこちの写真を撮りまくりました。


(博物館前の坂もこの通り。でもこれもまたいい経験かも??)
普通ならそのまま歩いていくのですが、誰かこけて骨折でもされると困るので、バスで隣の博物館まで移動しました。そこで大津市教育委員会の吉水さんと合流。なんと彼の自宅は南滋賀廃寺の近くで、歩いてきたとのこと。申し訳ない。

吉水さんと合流し後、博物館の展示コーナーで解説を頂いた後、いよいよ雪の現地へ。


(展示と現状写真とのギャップに参加者一同驚き!)
まずは内裏南門跡地へ。
予想通り復原柱の頭には綺麗な綿帽子が・・・。真っ白な中に浮かぶ内裏南門上のお宅もまたいきなもなのでした。

続いて内裏正殿跡へ。
この頃になると雪の犠牲者もちらほら。

もう皆さんずぶ濡れになりながら近江神宮の駐車場へ。ここで吉水さんとお別れ、有り難うございました。


(お疲れ様!本当に皆さん熱心ですものね。)
この後は渋滞だらけの大津市内をなんとか抜け出し帰路へ、鈴鹿峠もまだ凍るには至らず、なんとか通過。四日市の手間で大渋滞に巻き込まれたものの何とか予定通り帰着。皆さんホッと胸をなで下ろしたものでありました。


(雪の内裏正殿跡)
電車で江戸橋に着いたのが19時過ぎ。学生に夕食をご馳走してお別れ。お疲れ様でした。有り難う!また来週も頼むね。

なんと3周続けてのイベント。来週は「久留倍官衙遺跡と朝明郡刊行記念フォーラム」

11時集合で13時から私の講演で幕開け。
何を喋るのかまだなんにも決めてない。ウーン


(雪雪雪の壬申の乱ウオークでした。きっと戦勝者大海人皇子側の伊勢から来たから大友皇子の御霊が怒ったに違いありません。)

ヴェトナムの話しでもするかな?!

「朝明から安南都護府へ~大仏造立と龍門の石窟~」

 私達は何気なく食事に際し手を合わせ、当たり前のようにお寺巡りに心を洗われた気分になり、そして普通に漢字を読み書きしている。東アジア世界を繋ぐ仏教と漢字。これほど偉大な存在はない。1000年以上昔からこの二つの道具立てが当たり前のようにアジアを繋いでいたのである。大矢知の皆さんに世界と繋がる久留倍遺跡の力に触れてもらおうと思う。


(とにかくお疲れ様でした。有り難うございました。)

来週のフォーラムも行くよという方はもよろしくね

超多忙な毎日、でも斎宮現説宣伝の条

2008-02-09 00:49:30 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
斎宮の現説、雪でも行くぞ!と決めたらよろしくお願いします。


(斎宮第153次発掘調査地。これらは平安時代の建物らしい)
 とても信じれないくらい忙しい!!
 いつ心臓が止まっても不思議がないくらい忙しい!!!
 でも僕の心臓には鋼が生えているらしく、止まる気配などみじんもない(我が父系は心臓病の血筋なのだが、幸か不幸か、私は母方らしく、その気は全くないのである ハハ、残念でした)。

 今朝は朝6時起床。ちなみに昨夜はとても早く寝たのです。午前2時には夢の中。ある本の校正を急がねばと、ベットに入ってから思い出し、ベットの中で再び校正をやり出したのだが、さすがにその頃ばたん!目覚ましが鳴るまで熟睡しましたよ。

 そんな訳で朝一番の仕事は間もなく出る本、広瀬和雄編『支配の古代史』(学生社)の論文「律令国家と海部-海浜部小国・人給制度にみる日本古代律令支配の特質-」の最終校正と討論原稿の校正。校了!投函。やった!!どんな下手くそ原稿でもできあがるとホッとしますね。丁度一年前、この原稿の元となる研究報告やら年度末の報告書やらで煮詰まっていて、そのことが原因で血小板が無くなったのですが、もう一年かと思うと共に、そのことが原稿になったのだ!という感慨も甦ってきて、喜びが倍増しています。優しく待って下さった広瀬さんに感謝です。

 それが終わると直ぐに事務仕事を一つ。昨年歴博を舞台に実施した『長岡京遷都』展についてはかつて御報告したことがあるが、実はこれには後日談がある。
 私の貧乏人根性が頭をもたげて、展示を見学しているときにふと思ったのが、この展示会で使ったパネル類を再利用できないか?ということだった。

 私達が向日市文化資料館を造ったのが今から24年前。この間何度も展示のリニューアルを訴えたのだが、今いる学芸員は長岡京には全く興味がない(古文書しか扱わない)!とても偏った職員、私はこういう方を学芸員とは呼ばない!!とても悲しい!実はそうだから、せっかくの歴博の展示会も巡回できなかったのです。それならば、せめてこのパネル類でももらって、お金も使わずに、リニューアルでもしたらと提案したのですが、どうも「長岡京」は向日市にとってゴミらしく、これまた拒否!

 それならばもっと貧乏な三重大学でせめてこれを授業に使って学生達の教材に利用できないものかと考えた次第なのです。大体いつも思うんですよね、
 あちこちの資料館、博物館で、この頃とても立派な展示会が開かれるんです。でもどんなにすごい展示会でも100万人来ることは滅多にない。せいぜい数万人が多い方!今回も歴博としては久しぶりに2万人を超えたと担当者は大喜びだったようだから、その辺りが相場なんでしょう。つまり、全国民のたったの0.02%足らずが見たに過ぎないんです。そりゃそうですもんね、千葉まで行くだけで往復3万円はかかる。泊まったりしてたらへタすりゃ4万円はかかる。遠方の人はなかなか行きませんよね。でも今の向日市長はわざわざ行ったらしいですよね。立派!(でもその人が職員を異動させられないというのも不思議ですね・・・税金の無駄遣いと言われても仕方がないくらい不思議ですよね。研究者気取り!て言うんですよね。寂しい!!)

 だから、巡回展というのが考えられるようになったんですよね、文化庁が主導する日本列島展なんてその最たるもんですよね。
 そのついでに以前から考えているのが使用済み燃料ならぬ使用済みパネルの再利用なんです。どうせゴミとなって有害物質を出すくらいなら学校に上げるとか、他の市町村に寄付するとかすればどんなに有効かと思っているんです。実際に、僕たちが資料館の学芸員だった頃はそういう活動をして学校に喜んでもらっていたんですが・・・・。

 ということで、歴博に頼んだんです。

 パネル下さい!!と

 と、ところが、ここからがまたまた難題なんです。
 はい、どうぞ、と行かないところがお上の施設なんですね。そのままだったら何にもせずにゴミ!なんですよ。だからゴミとして出す日はいつですか?と。その日にゴミ捨て場で待ってますから、と(笑)。

 まず再利用する許可が必要だということになったんです。確かに相手さんは歴博に使用を認めたことはあっても別の機関が利用することは予想していませんものね。

 うん!確かに。

 そう言わざるを得ませんよね。それからしばらくは許可をもらう機関の住所調べに始まって(残念ながら住所は教えてくれないんですよね、もちろん確かにそんなことまでやってられんという気持ちはよう判るんですがね、・・・・)、電話番号やら担当者やらこれだけで何日かかったことやら。もちろんだーれも手伝ってはくれませんから依頼状から何まで全部自分でやるんですよね。

 やっと出しても、そうは簡単に返事は来ませんよね。何せ相手は天下の東大寺やら延暦寺やら奈良博やら・・・、1ヶ月と踏んでたんですが、それくらいはかかりましたね。この間、遅い!とお叱りを受けるし、もう、また病気になるんじゃないかと思ったくらいですよ。でもようやく、今朝になってやっと最後の機関からファックスが届いて、何とか全部承諾下さった。

 ホッとしました。これで二つ目の仕事完了。

 そして9時半。肉体労働の始まり。

 1年生を相手にやっている授業に「PBLセミナー 実践!博物館学芸員」というのがある。一年生の段階から興味のある学生を集めて学芸員の仕事を一から十まで実践させようというものだ。どうも今の日本の学芸員制度というのはおかしんです!まともな学芸員教育も受けていない中途半端な学者気取りの者が自分の専門らしきものばかりに凝って、自分の趣味で活動する。採用した方も採用した方で、最初の内は金も出すが、そのうち、金も出さない代わりに口もだんさくなって、妖怪の済む空間に変身する。そんなところが余りに多い!!

 先の向日市文化資料館の今の学芸員などはその最たるものだが、でもこれが特別でもないところが、これまた日本の日本たるところなんですよね。あちこちに似たような学芸員もどきが一杯いるんです。ホント、税金の無駄遣いですよ。だからもっとまともな学芸員を育てたいんですよ。まともな学芸員を育てたいというのが僕の一つの夢なんです。そこで、こんなのを企画したのですが、これまたとても大変。その大変さを実感したのが昨日からの展示準備。

 展示会場は国登録文化財(建造物)三重大学旧高等農林学校時代のゲストハウス。これはなかなかいい施設ですよ。でも生物資源学部の管理で、同じ大学でも人文が借りるのは初めてとか。そこでいろいろ手続きがあって、なんとか借りれて、・・・。今日から設営なんです。

 遙か離れた講堂からホワイトボードを借りて、整理室からケースを運び、あるところから机を運ぶ予定が断られ、とにかく午前中はもう一人の学生とフル活動。ぐったり。遅い目の飯を食べて直ぐに斎宮へ。十二単を借りに上がる。同乗の女子学生は暢気なものだが、ちゃんと恥をかかずに借りれるかどうか・・・。そんな不安を持ちながら予定通り斎宮へ、いつきのみや体験館で借りる。なんとかその場をこなし帰ろうとすると、そこに偶然、斎宮歴史博物館の発掘担当のOさんが顔を出す。

 ナナナント明日現説だという。そんな情報も来ないのか?と少しがっかりしながらも、偶然のチャンスを生かさない手はない。直ぐに現場を訪れる。

 Oさんもわざわざシートをめくってくれて臨時見学。とても立派な庇付き建物を発見の様子。昨年もこのブロック(柳原地区)で区画のど真ん中から4面庇の建物が二棟も見つかっているという。博物館ではこれらを斎宮寮の中枢部と考えているようだ。その中心建物の南西部から見つかったのが今回の建物らしい。
 北と南と東に庇を持つ特異な構造の建物。東側が広場だったのだろうか。そうすると官衙的でもあるが、余りに庇付きが多いのにびっくり。斎宮寮だからだろうか。それともここが他の機能なのだろうか。私は前からこの東隣が斎宮寮の中枢部ではないかと考えているので、この庇付き建物群を斎宮寮などの官衙的施設と見るのにはあまり賛成できないのだが・・・。

 2月9日つまり今日!10時から現地説明会ですぞ。明日は雪だとか。ロマンチックですよ。雪の斎宮なんて。写真を撮るだけでも素敵!是非行ってあげて下さい。

 私は何年も前から決まっている壬申の乱ウオークの第10回目なんです。記念の会なので初めて大津京に行きます。無事車が着けるかが心配なんですが、こちらも雪の大津京なんて、粋ですよね。

 そんなこんなで16時に斎宮を出て大学へ。あ、そうそう、大学では公用車があるんですが、あらかじめ登録しておかないと運転できないんです。だから運転手付きの車で行ってたんです。これは楽ちんでした。

 17時に大学へ。早速残っていた学生達と展示の準備。とにかく一年前は高校生。そんな子供達相手に初めての展示会ですからもう大変。ま、それでもなんとか形は整いつつある。会場もさすがに伝統的建造物、とても感じがいい部屋です。展示には期待せずに、指定建物を見学に来るつもりで足を運んでみませんか。

2008年2月12日午後オープン!

PBLセミナーA「実践!博物館学芸員」公開発表展示会

新米学芸員奮闘記!
2008年2月12日午後オープン!
 展示のメインは斎宮歴史博物館からとても苦労してお借りしてきた十二単!!と実践女子大学所蔵の「桃太郎」  中味は秘密! 新米学芸員が丁寧にご説明申し上げます。


(何故かこんな桃をデザインしたかわらも出る。)

 展示の形ができて生協で学生達と飯!

 部屋に帰るとまたまた宿題が山積み、それを片付けつつこれを書いていると日が変わった。

 以上今日の私の一日でした。アー長!


学生の奮闘記も楽しみだねと思ったらもよろしく

「慰労詔書」に桓武朝の画期をみるの条

2008-02-05 09:50:06 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 慰労詔書を勉強してみなくては、と思ったら よろしくお願いします。

 『延喜式』もっと勉強しろ!という激励を受けて??早速慰労詔書の研究状況を確認しました。本当にお恥ずかしい限りですが、あるはあるは山ほどあることが解りました。そしてもっとお恥ずかしいことに自分でその論文の載る雑誌を持っていたのであります。

『延喜式研究第10号』(延喜式研究会1995年3月15日)であります。

 丸山裕美子「慰労詔書・論事勅書の受容について」という論文がありました。済みません丸山さん。いかに日頃勉強していないか、雑誌を取っていても積ん読だけかが露呈しました。

 早速読みました。するとその引用に中野高行「慰労詔書の「結語」の変遷について」(『史学』55-11985年)という、そのものズバリの論文のあることが解りました。『延喜式』の注釈書はここから来ているのだろうと想像しました。これから大学の図書館に行ってこの論文もコピーしてこようと思っています。

 と、ここまで書いて、1月30日に図書館に行きました。『史学』55号があるかどうか不安だったのですが、あちこち探すこと15分。ありました。早速コピーして読みました。

 中野氏の論考によると、次のようにまとめられている。
① 慰労詔書の書式には「結語」に注目すると二つの変節点を有していること。
 第一変節点:天平宝字年間→中国化強化の時期
 第二変節点:延暦年間→書式の確立期=慰労詔書が対蕃国外交意思伝達機能文書として確立

② 日本の慰労詔書式の確立過程に中国の慰労制書の書式がいかなる役割を果たしたのか。
 → 極めて濃厚な影響を日本の書式形成に与えた。
 → 慶雲期である成立期のみならず中国的修正を加えた天平宝字年間も、中国の制書式に強い影響をうけていた。

③ 日本の慰労詔書式がいかなる経緯で受容されたのか。
 第一案:中国からもらった文書により経験的に書式を知った。
 第二案:中国の慰労制書式を何らかの形で入手し、その内容を理解した人間が定めた。
 →山田英雄氏の研究により明らかにされた国書基本構造が、熟知されて表現されていることを大きな理由として第二案を筆者は採用する。
 →おそらく具体的には「帰化人・遣隋・遣唐留学生」などが書式解説書などをもたらした結果だと言うのである。

 これを読んで一安心した。
 どうも中野さんも、他の研究者も書式の成立過程やその変遷上で第一の画期となった天平宝字年間には興味をお持ちだが、確立したと評価される延暦期にはあまり関心をお持ちでないらしいと言うことだ。要するにこの時期以降書式が確立して平安時代を通じて用いられ続けたという事実関係を追認しているだけなのである。

 これは有り難い?!

 つけいる隙はあるぞ!と思わず手を打った。

 もちろん書式の変換点の第1期が天平宝字年間であるというのは強敵(いえいえ、敵などと失礼なことを申しました。私等蚊がブンブンですから・・・)吉川さんの主張するとおりのいわゆる四字元号期であり、延暦期なんて「フン!」という感じではアルのだが、私にとっては大いに有り難い史料である。

 なぜ?

 私は桓武朝はその後の日本の国境を確立するに大いなる役割を果たした時期だと考えているからである。その際に外交文書がいかに大きな役割を果たすかは言うまでもない。特に渤海や新羅に対する意識は強烈であったろう。それ故、慰労詔書なる国書のスタイルを確立しなければならなかったのである。だからこそ積極的に書式の形成を模索したのではなかろうか。

 では誰がその書式をもたらせたのであろうか。

 中野さんの論文によれば、宝亀三(772)年二月二八日の慰労詔書の「結語」に初めて新しい表現である「指此示懐」が登場し、宝亀八(777)年五月二十三日の書式は欠けていて判らず、同十一年の詔書で初めて「遣書指不多及」と「遣書」の語が登場し、次いで、延暦十五(796)年五月十七日詔書でその後の書式の基礎になる「略此遣書」の文言が出現するというのである。

 こんなにうまくいっていいんだろうかと思うくらい見事に私の想定と一致していたのである。

 即ち、私は桓武天皇は皇太子(山部親王)であった光仁朝に既に基本政策の決定に深く関与していたと考えているのだが、その山部親王が、宝亀八(777)年に中国へ王朝として初めての遣唐使を派遣するのである。
 東野治之さんの有名な論考によれば、この遣唐使こそ、桓武王権の新政策を演出するために、様々な装置の将来を命じたものだというのである。大学寮の伊予部宅守を派遣し、第一に、皇帝のあるべき姿を述べた『春秋』の新たな注釈書「穀梁伝」や「公羊伝」を持ち帰らせ、新しい『皇帝(天皇)』像を形成しようとしたことであり、第二に、中国語の習得を命じ、中国語を公用語として本格的に習得させようとしたことだ、というのである。

 宝亀十一年にその書式の萌芽が認められるというのは実にうまく符合する。そして実際にはこの年、光仁・桓武朝の第二次遣唐使が中国へ向け新たな船を出しているのである。この2度の遣唐使が将来した新たな文書形式を下に実際に作られ、残っているのが、延暦十五年の慰労詔書だったのではなかろうか。いうまでもなく『続日本紀』は延暦十年までしか記録せず、その後を記録した『日本後紀』は多くが失われており、具体的な史料を欠いている。
 私は、考古学的にみて、光仁・桓武朝に大きな変換点があると以前から主張しているのだが、まさに慰労詔書の書式形成においても、同様の画期を認めることができるのである。特にこの文書がその後の国書つまり外交文書として確立するものであるだけに、その持つ意味はとてつもなく大きいと考えるのである。

 東北蝦夷戦争を経て北の国境を確定し、南方隼人を完全支配下に置くことによって班田を開始し、喜界島まで進出して南の国境確定した桓武王権は、外交文書においても最新の唐の書式に従って「蕃国」に対し国書を発行するという形式を整えるのである。

 吉川さんにはそんなこと「お見通し!」といわれるのは判っているのだが、私にとっては『延喜式』研究会のお陰で思わぬ史料に出会うことができた望外の喜びだったのである。

 これも執筆中の『桓武朝の考古学』にすべり込ませなければと思った次第である。

 研究会直前の忙しい時期に(実際追い込まれると他のことをしたくなるというのが人間心理だが)こんなことを考えていたのである。とても直ぐにはアップできる状態ではなかったので、考古学研究会が終わった今、ちょっと話題として書き込んだ。

 
『延喜式』研究会、面白そうだなと思ったら・・・参加してみませんか?!よろしく!!

第10回考古学研究会東海例会が終わったの条

2008-02-04 17:29:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
東海例会お疲れ様!と思ったらよろしくお願いします。

 2月2・3日の二日間に亘って行った考古学研究会東海例会が終わった。


(初めての190番教室でしたが、少し前の方が寒いのが難点でしたがとてもいい感じでした。また使おう!ッと)
 延べ130人の参加者が南は宮崎、北は群馬、西は島根からの参加を得て無事終わった。

 遠路お出で頂いた皆様、また近隣でも雪の中をお出で頂きました皆様、有り難うございました。特に御報告いただきました10人の先生方には心から御礼申し上げます。


(最前線の研究者の方々にお出で頂きとても緊張しました。学生曰く、「引用文献の先生が並んでる!」(笑)とても充実した二日間でした。学生達もとてもよく動いてくれ、皆さんから高い評価を得ました。こんなことが社会に出てから役に立てばいいですね。)

 先に申しましたとおり内容の濃いレジュメ集(A4版160頁)もできあがり、三重に来て10年間、いろいろな場で調査し、暖めて参りました成果をまとめることができたように思います。これも一重にご協力いただきました皆さん方のお陰と心から御礼申し上げます。


(そしてこれがレジュメ集。A4版160頁 送料とも千円 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148までお申し込み下さいね。)
成果はこれから少しずつ具体化してくるものと思われますが、取り急ぎ当日の報告のご紹介をしておきます。
第1日目2月2日(土)
 第1テーマ:「聖武王権と東国行幸」
 (1)基調報告  13:10~14:10 榎村寛之(斎宮歴史博物館)「古代行幸論―特に伊勢・志摩地域との関わりから―」
 倭姫命伝承の成立過程を当時の天皇行幸観から読み解いた上で、聖武天皇伊勢行幸時にひときわ目立っている河口頓宮での和遅野遊猟の意味について考察した。聖武行幸に関して『続日本紀』には一人の在地有力者の褒賞記事がある。外少初位上一志君埃古麻呂が一挙に外従五位下に昇叙されるのである。この様な地方有力首長層への叙位こそ、行幸の持つもう一つの大きな目的であったというのである。

和遅野遊猟には当然在地の人間でなければ果たし得ない案内が不可欠である。そうした役割を課すことによって、王権との繋がりを実体的に保持させるとすると、日本の王権の持つ特異な性格をこの点でも見出すことができるのかもしれない、と感じた。

 (2)研究報告-1 14:15~15:00 天野三恵子(京都大学・院)「聖武伊勢行幸論」
 聖武天皇東国行幸の研究史的位置、背景、目的、その本質などについて資料を渉猟して詳細に分析した力作であった。特に独自の視点として、河口頓宮跡の発掘調査を経験した視点から、川口という空間の持つ意味を分析し、河口頓宮宿泊に込める聖武の意図を高く評価した。その結果、聖武の東国行幸が広嗣の乱に驚いて東へ逃避したなどという通説を痛烈に批判し、計画的で、壮大な計画の下に実行された行幸であったと主張した。

 榎村氏同様川口における一志君古麻呂への褒賞記事に注目し、在地首長層との関係強化という側面を強調する点は偶然とはいえ共通する。私はこの後の村居報告での伊勢国内における聖武朝の瓦の供給体制のあり方が大変参考になると思っている。即ち、和遅野遊猟だけではなく、考古学的資料で実証できるように、在地の造瓦体制を利用して頓宮の瓦を焼かせている点である(もちろん場合によっては鈴鹿関や川口の関という国家的施設の造営に在地首長層を動員することもあったと思われるが)。予め川口、一志に命令を下し(造伊勢国行宮司。それぞれ(川口関と一志郡が命令対象か)。聖武のために聖武の象徴である重圈文軒丸瓦を焼成させたと考えるのである。こちらの方が考古資料とも重なってより説得力が流と思われるのだがどうだろう。

(3) 研究報告-2 15:15~16:15 山中 章(三重大学)「古代頓宮の基本構造~聖武伊勢行幸頓資料を素材に~」
私の報告はこれまで見つかった伊勢国内の頓宮(推定)跡を整理し、二つのモデルを提示することにあった。第1モデルが関を利用した河口・赤坂頓宮タイプである。第2モデルが傾斜地を利用した朝明頓宮タイプである。もちろん発掘調査されいないその他の頓宮があるはずであるが、今はその一端すら想定できないので、とりあえずこの2タイプのあることを提示した。
2タイプに共通して言えることは衛禁律に規定された厳重な警備体制の必要性である。関には二日目の報告で詳細に論じられたように極めて厳重な防御態勢が敷かれていた。これを利用すれば大した造作もともなわず長期間滞在する施設を確保することは可能である。川口、鈴鹿、不破の滞在期間が東国行幸において長期であることもこれでうなずける。
頓宮の施設配置にも当然のことながら立地による制約があるものの、王の身辺警護は最も重要な課題である。これを容易にするためには伊勢国、美濃国に所在する関を利用すという発想は極めて合理的だと言える。鈴鹿関が発見され、三関の防備体制の強固さが実証された今の時点では、さらにこのことを強く主張することができるのではないかと思う。

 (3)調査報告  16:20~17:05 大崎哲人(滋賀県文化財保護協会)「粟津頓宮跡の発掘調査」
 膳所城下町遺跡を発掘調査された大崎氏よりその現場の詳細を報告いただいた。特にその後の発掘調査で明らかになった本遺跡の南に展開する関津遺跡の成果はとても興味深かった。聖武行幸を評価するとき忘れてはならないのは行幸ルートである。発見された田原道はそのルートとして意図的に設定された可能性も含めて、検討すべき課題であろう。
以前から気になるのが、次の時期に掘削されたという周りに出現する堀状遺構であるが、出土瓦が時期建物に伴うことが説明されたが、これらはあくまで堀状遺構の廃棄時の資料であって、建設の時期は一般的にも難しい野ではないかと思う。構造的にもこれがあるかないかでは禾津頓宮のイメージも随分異なるので、今少し検討が必要ではないかと思えた。


(会場の先生方からもご意見をいろいろお伺いしたかったのですが、とても時間がありませんでした。ごめんなさい。)


(4)ミニシンポ 17:15~18:15 「文献・考古資料からみた聖武東国行幸」司会山中 章 
コメント 山田邦和(同志社女子大学)「聖武・天武両天皇の首都構想」
  誌上参加 仁藤智子「聖武天皇行幸論へむけて」
 最後に報告者の間で議論するミニシンポを開いた。最初に山田邦和さんから聖武東国行幸の最終目標であった遷都についてコメントを頂いた。山田さんの説は、天武皇統を意識する聖武の当初から目指すのが難波遷都であったという点であった。

ミニシンポは当初から1時間しか取れなかったので無理は承知だったのだが、結果的にももう30分は欲しかった。
 討論の主軸として①聖武天皇の東国行幸とはどういう性格のものであったのか、②特に広嗣の乱との関係をどう評価するのか、③頓宮とはどんな構造をしていたのかなどについて議論した。また④山田提案の難波遷都の意味についても若干の討論をした。

 いずれも、聖武東国行幸の計画性を主張し、広嗣乱逃亡説など一笑に付された観がある。この点はとても強力なインパクトを与えられた。特にその中でも興味深かったのは、広嗣の乱勃発・収束予想説であった。広嗣を大宰府に追いやった時点である程度の反攻は様相指定いたのではないか、この機に乗じて一気に聖武の政権構想を実現するために行幸を計画していたのではないかというのである。
 この点に関しては天野氏が、川口という場所の特殊性も考慮すべきではないかと強調し、川口は平城京からの情報が正確に入りやすい空間であった。だからこの地を予め長期滞在場所として設定していたのだというのである。

 頓宮の構造については残念ながら新しい意見をお聞きすることができなかったが、これも今後の課題と言うことであろうか。いずれにしろ、広嗣の乱による逃亡などという誠しやかに語り継がれてきた聖武の東国行幸が、ようやく歴史的に評価されるきっかけを作ることだけはできたのではないかと思った。

 そうした意味では、誌上参加に留まった仁藤智子氏から直接的に聖武の伊勢行幸、古代の天皇行幸の持つ意味をおうかがいし、ぐたいてきなこうこしりょうとつきあわせてどう評価できるのかお伺いしたかったが、果たせずとても残念だった。なかなか次の機会と言うこともないので、是非これを本にして世に問えればと思っている。

 まだ二日目があるのだが長くなるので一端ここで初日の報告とさせていただきます。二日目の報告はまた明日。乞うご期待!!

なお、資料集を1000円で販売しています是非お買い求め頂きたくお願い申し上げます。
申込先 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148 考古学研究会事務局 資料集希望としてご送金下さい。送料込みで1000円で販売しています。
なお、同時に刊行されました『久留倍官衙遺跡と朝明郡』も送料込みで1000円で販売いたしております上記三重大学考古学研究室へお申し込み下さい。


(もちろん久留倍遺跡の冊子も忘れないでね。送料共で1000円です。同じく〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148へ)

資料集・冊子共によろしくお願いします/b>

いちごの大福出たよーーの条

2008-02-01 01:25:29 | yaasan随想
1個220円!僕も、私も注文するぞ!と思ったらよろしくお願いします。

超お待ちかね、三松堂さんのいちごの大福のインターネット販売が始まったよーーー!


(ハイこれね!この断面の素敵なこと!ほれぼれ!!)

さっき京都へ帰ってきて、今朝着いたばかりの待望のいちごの大福を頂きました。

言うまでもない!大満足!!

餅といちご、これだけで僕はもうメロメロ。それと三松堂さんが作ってくれたのだから、いちごに餅?!鬼に金棒!!

何個でも食べたいのだが、どこかの秀子さんじゃないけれど周囲の目が怖くてとりあえず1個をパクリ!!

実は今朝はもう一つ素敵なお菓子をやはり三松堂さんから頂いた。

「龍鈴」

これがまた何とも言えない風味!まだ未発売の秘密の和菓子。

お土産にと、ある事情でお伺いした学生が頂いて帰ってきた。普通は、こんな贅沢なものを学生にはもったいないのだが、卒論も終わり甘いものも欲しいだろうからと、大盤振る舞い。和菓子なんぞ平素滅多に頂かない学生は大喜び。

今日は珍しくお客様が次々と来られたので、お出しするとまたまたこれが大好評。これどこのお菓子ですかと、皆さんが尋ねられる度に「かくかくしかじか・・・」

一日中笑いの絶えない研究室でした。

やはり、心のこもったものは美味しいね。

本当に有り難うございました。

皆さんも注文してみたら。一日30個しか作らないから直ぐ売り切れるけどね。

和菓子処 三松堂 さん 電話 0120-174-006 FAX 0120-174-0005
住所 島根県鹿足郡津和野町森村ハ19-5
HP  http://www.sanshodo.net/

いちごの大福 紹介


 
名称 いちごの大福
   
原材料 いちご、白豆、砂糖、餅粉、水あめ、澱粉
   
販売期間 1月15日~3月末まで
   

保存料添加物は使用していません。安心してお召し上がりください

日持ちが大変短くなっております。買ったその日に召し上がっていただきますよう、よろしくお願い申し上げます

いちごの大福の購入はこちらから

http://www.sanshodo.net/
 
 

■ いちごの大福ってどんなお菓子?

早春に収穫される、阿東町地福産のいちごを丸ごと白あんと餅で包みました。いちごの酸味と白あんのほのかな甘みが口の中で広がりますおなじみのお菓子ではありますがぜひ一度おためし下さい

■ 求肥について

求肥は、もち米の粉を練ってお餅状にした生地です。もち米の粉を練っているので、食感は餅に非常によく似ています。ただ、求肥はお餅よりも柔らかく、やさしい感触がします。当店では、この求肥に腰を与えるため、杵で付いたお餅を混ぜ込んでいます

■ 餅粉は近江産羽二重を使っています

粘りがあり、キメが細かく、餅に仕上げたとき滑らかな食感になります。 お餅にするには最高のもち米です

■ 白餡について

白餡の特徴は、なんといってもその味が淡白なところにあります。小豆餡に比べ、その味も香りもそれほど濃くはありません。それゆえ、他の物を一緒に包んだときに、餡自体が主張をせず、他の材料の味を引き立てます

■ どんな人が買うの?

日持ちがしないお菓子のため、 近隣の方しかお買い求めいただけないのが、残念です

■ いちごの大福はどこで買えますか?

いちごの大福は三松堂の津和野本店、菓心庵、益田店でお買い求めいただけます。ただし、販売期間が短く、個数も限定されますので、ご予約されることをお勧めします。

三松堂さん素敵!!と思ったらポチットね、もよろしくね