yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

主張  高松塚古墳調査委員会の条

2006-04-28 12:55:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 高松塚古墳の保守点検中に生じた事故の公表をめぐって、批判がおき、高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会座長の渡辺明義氏が辞任を表明し、事故の原因などを調査する調査委員会が作られ、石沢良昭・上智大学長以下、河上邦彦・神戸山手大教授、川村恒明・神奈川県立外語短大学長、高鳥浩介・国立医薬品食品衛生研究所衛生微生物部長、永井順国・女子美術大教授が委員に任命されたという。
 委員の人選に当たっては文化庁OB等の官僚を排除するという方針が予め文部科学大臣から出され、その意向に添って委員が選ばれたという。果たして今回の委員が適役かどうかはいろいろ議論もあるところだろうが、ひとまずこの間の高松塚をめぐるゴタゴタの暗部の一つが整理されたと考えるべきだろう。
 高松塚古墳の壁画をどのように維持していくべきかについては極めて困難な問題が横たわっているように思う。今日の既定路線である解体して室内保管する問題も、本当にそうしなければ壁画の保持が困難なのかどうかの資料が、ほとんど私達の前に提示されないだけに、意見の述べようがないのが現実である。
 基本的に古墳を解体することに私は反対であるが、しかし伝えられるように現状ではカビが蔓延し壁画を損なうというのなら仕方がないとも思うのである。ところが今回の事態を見ていると、高松塚古墳の壁画を今日のような状態にしたのは「人間」なのではないかという疑念が浮かび上がってくる。無責任の誹りを免れないかも知れないが、これ以上「人間」の手を加えない方がよほどいいのではないかと思えてくるのである。
 だれもが責任を負わないために(特に官僚は「責任」という言葉をもっとも嫌う)、秘密裏に保存方針を決定したことの付けがここに来て出てきているのではなかろうか。責任をとらなくていいようなシステムにしておくからその本当の原因がきちんと分析されず、ミスがミスを生んでいったように思うのである。
 もう一方、あれほど「恒久的保存設備」と豪語されたシステムがわずか30余年で機能を麻痺させた根本的な原因が、機械神話、理系保存科学者達の「過信」にあるように思えるのである。元々機械で維持することなど無理があったのではないだろうか。高松塚古墳の壁画は少なくとも人間の手で開けられるまで1300年近く現状(以上)に維持されてきたのである。キトラ古墳を見ても同じである。ひょっとすると、盗掘がおこなわれたときにはもっと素晴らしい状態で残っていたのかもしれない。要するに、自然に馴染んだものを無理矢理に人間の手で「同じ」状態に維持しようとしたことに問題があったのである(実は木簡なども発見当初が最も状態が良く、日が経つにつれて墨が薄くなるという事実がある)。発掘調査後にそのまま基の状態(に近く)戻しておくべきだったのではなかろうか。だとすると今更遅いのかも知れないが、自然に帰すのが一番のようにも思える。
 どちらにしろ、高松塚発見当時の設備の設置にしても、ごく一部の人々の意見によって決定されたことが最大の問題ではなかったかと思うのである。当時の委員が誰か存じ上げないが、恐らく文化庁の官僚や奈良文化財研究所を中心とした研究者なのだろう。今更その方々の責任を問うつもりは全くない。しかし、もっとオープンに意見を聞き、議論をした上で結論を出しておけば、その後に問題が起こっても議論に加わった全員が再度新しい事態を分析し直して対策を練ることができるはずだし、苦い経験を後世に生かすことができたように思うのである。例えば、カビが生えたことを直ぐに報告し、何故当初の予想とは反した事態に陥ったのかを、オープンに議論しておけば、今回の事態は少なくとも防げたのではないかと思うのである。

 実は以前、こんな話を聞いたことがある。
 「ねつ造事件で誰も責任をとろうとしないのはどうしてなの?」
 「誰かが責任をとると芋づる式にその当時の官僚に責任が及び、文化庁を足がかり に出世コースを歩んでいるキャリアに傷が付くから!」と。
今回の事態と実に多くの点で重なる話である。渡辺座長が辞意を漏らしても直ぐには辞められない事情もここにあるのではないだろうか。
 しかしどう考えても特別史籍を損傷させたり、史跡指定遺跡の根拠がねつ造資料であったとしたら、それぞれの事態が起こった時の関係者・責任者は当然責任をとるべきであろう。それが社会の常識というものである。常識が通用しないのは、官僚という非常識な存在が「委員会」の中枢にいるからに他ならない。
 では官僚を排除(したとは言えないが)したはずの今回の調査委員会は責任ある結論を出すことができるのだろうか。将来に責任の持てる保存を進めるためには、事故の原因や調査公表の事情を調べるだけではなく、解体保存の方針決定の全資料を公表し、国民全体を巻き込んだ討論の場を設定すべきだと思うのだがいかがであろう。議論の論点や論理をきちんと公表しておけば、後世の事態を前代に立ち返って検証し、新たな方策を打ち出すことができるはずだ。日本考古学界には二つの巨大学会が存在する。両組織から代表者を出して共同でシンポジウムを開催し、議論するという方法もあろう。いつまでも「偉い先生」にお頼りするほど日本考古学は未熟なのだろうか?

 近年地方への権限委譲が叫ばれながら、考古学の世界では、逆に厳しい地方統制が進んでいるように思えてならない。特に権限を委譲された都道府県が、ある時は文化庁の威を借り、ある時は自らの権力で、市町村を監視下に置こうとする動向である。いずれも学問とは無縁な行政権力を利用した強制や指導である。私はこれもまた、無責任体制を生み出す温床であると考えている。特に問題なのは様々な遺跡の調査や保存・活用のために立ち上げられる「指導委員会」の存在である。
 自らの方針に異論を挟まない学者を取り込んだ責任転嫁の組織を作っておいて、都合のいい時には自らの成果に、都合の悪い時には委員会の責任に転嫁するシステムである。委員となる学者も学者であるが、姑息なことを考える官僚(と化した「発掘調査技師」も近年増加している)の存在こそ問題である。遺跡の調査がきちんと行われているか否かは考古学という学問の基本的資料が正確に提供されているかどうかを評価する極めて重要な問題である。史跡指定された遺跡が国民に活用されているかどうかも「指定」の意義を問う物差しにもなる。しかし現実には官僚が責任を転嫁するための装置と化し、官僚が思うままに調査を動かし、官僚の息のかかった「業者」に任せるための道具として利用されている場合が多々あるのである(もちろんそうでない都道府県、委員会もあるのだが・・・)。
 高松塚だけではなく、全国の「指導委員会」からも、「偉い先生」と官僚の排除を今こそ強く求めたい。

 今私には、四日市市の久留倍遺跡の整備が当面の課題として横たわっている。全国の史跡整備地の惨憺たる状況を見るにつけ、責任ある整備はどうすればいいのかを考えないといけないのである。教育委員会でもそうした事態を憂慮して、市民からの整備案を募集しようという意向を持っているという。しかしこれも「市民」という名を借りているだけで、中味の議論に責任を持とうという姿勢ではない。
 私は、委員会で秘密に議論するのではなく、「久留倍遺跡フォーラム」等を開催し、市民の前で議論すべきと考えるのである。議論を共有することによって、市民にも責任を持ってもらうことができるはずだ。責任の押し付け合いではなく、きちんと責任の所在をはっきりさせて物事を決定していく、このことこそ日本社会の全ての場面において求められていることではないかと考えるのである。

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近況報告 考古学研究会の条

2006-04-24 01:08:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 金曜日は風邪でダウン!丸一日寝ていたのに夜になっても治らず、果たして土曜日の考古学研究会に出られるのかと心配していたのだが、朝になってなんとか持ち直し、8時の新幹線で岡山に向かった。9時半に着き悠々間に合ったのだが、誰も来ない会議室で待つこと二時間。やらなければならない仕事もあったので、没頭していたら11時頃に人が集まり始める。
 「???」 会議は11時半だったのかしら?
 ところが集まりだしたメンバーに聞いてみると別の会議が別のところであったらしい。本当は私もそこへでなければいけなかったのだが、誰も場所を教えてくれないので、結果としてサボったことに。アーアせっかく時間通りに行っていたのに・・・。どうも最近こんなことが多すぎる!惚けてるのかしら!・・・。それでもなんとかその後の会議をこなし、第1日目の研究発表を聞く。

 今年は彼の有名な四国のTB大学のO氏とB庁のN氏のコーディネートで「流通・交換の諸相」がテーマ。O氏の主旨説明は相変わらず難解で私にはその半分も理解できず。不安なままに研究報告を聞くことになった。

 第1日目は久住猛雄さんの「「博多湾貿易」の成立と解体―古墳時代初頭前後の対外交易機構―」と高田寛太さんの「5・6世紀の日朝交渉と地域社会」という二本の研究発表他があった。第2日目には梶原義実さんや瀬川拓郎さんの古代伊勢をめぐる瓦当文様に関する研究や古代北海道の狩猟採集社会の転換に関する研究成果の報告があり、是非聞きたかったのだが、日曜日に妹の七回忌があるためやむなく第1日目の二本を聞いて京都へ戻った。

 久住さんの報告は専門外の私にはただ聞いているだけだったが、少し気になったのは(岡山大学の松木さんの質問にあった通り)、土器の多い少ないを報告者の「感覚」で集計し、表に示している点であった。もちろん数字で示したからといって、それが「実証的」であるとは限らないのだが、せっかくの報告であるだけに、◎、○、△は量的な基準を設けた方が説得力があったように感じた。もちろん内容そのものを批評する能力は私にはなし!論文になってからゆっくり考えることに・・・。

 高田さんの報告もまた、韓国の最新の調査成果や研究成果をふんだんに取り入れた、これまた、私にはただ聞いてうなずくだけの発表であったが、報告の最後にまとめられていた「児島屯倉」については大変興味を抱くことができた。
 即ち高田氏は八幡大塚2号墳を分析して、百済系垂飾付耳飾と「児島屯倉」との関係を蘇我氏との関係のみから評価するのではなく、前代以来の吉備地域と百済との関係を考慮して評価すべきだというのである。つまり、いわゆる吉備の反乱や児島屯倉の設置を契機として、同古墳の被葬者などが、倭王権の傘下に入りそこで自らの政治的地位を確保したと解釈するのである。

 屯倉の経営に在地豪族がいかなる関係を維持していたのかについてはかならずしも十分な研究があるわけではない。吉備地域に置かれた児島屯倉や白猪屯倉の実態がいかなるものかは文献史料からはほとんど明らかではない。そうした中で、百済系耳飾りを素材に上記のような見解を述べることは極めて重要なことと考えられる。ただもう一つの仮説として、在地豪族側が王権側に自らの意志で入るのではなく、王権側の強い働きかけによって、屯倉管理者として取り込まれ、中間管理者的な役割を担わされたという考え方も可能なのではないかと思った。もちろんこうした解釈の違いは「屯倉」の捉え方の違いに起因しており、在地勢力の影響を評価する高田氏の立場と中央の強力な経営を想定する私の考え方とで仮説が異なるのは当然のことではある。

 白猪屯倉や児島屯倉に強い関心を抱いている近年の私であるだけに本当は最後の討論まで残り、この解釈について深めてみたかったのだが、果たせなかった。また奈良にでも赴いた時にご教示頂くことにしよう。いずれにしろ久しぶりに頭の刺激になる研究成果を伺うことができた。翌日の梶原さんの報告も、特に重圏紋の受容をどのように評価されたのか(レジュメでは触れられておられないので)大変興味深かったのだが、これも果たせず残念だった。
 私見ではやはり聖武天皇の伊勢行幸との関係が大きな意味を持っていると考えている。聖武の宿泊した川口関(河口頓宮)、鈴鹿関(赤坂頓宮)からは聖武朝難波宮との関係の深い重圏文軒瓦が出土しているからである。軒瓦の「流通」の中で、宮都との同笵関係の瓦の移動には極めて政治的な動向が影響しているという山埼氏などの指摘を忘れることはできない。

 実は以前にもご紹介した鈴鹿関関係遺構の本格的な調査研究が本年度から亀山市史を中心にスタートすることになった。これまでに関関係の資料として、多くの瓦がある。軒瓦は少ないが、重圏紋があることを忘れるわけにはいかない。それだけに梶原さんの見解を聞きたかったのだが、これも後日ご本人に直接伺うことにしよう。

 今日は無事妹の七回忌を済ませ、風邪もようやく落ち着いてきて、ブログを書く元気が出たところである。それにしても相変わらず山田博士の美食には困ったものである。間もなく痛風の痛みが再発すること間違いない!本当に知らないからね。今度痛みが出ても同情はしませんからね!!

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近況報告  授業と現場と資料館と風邪との条

2006-04-20 05:23:10 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 いずこも同じ新年度の開始と共に日常生活が忙しくなってきた。まだ授業は2回目に入ったばかりで助走段階だが、今年からいろいろな新しい試みをしなければならないので結構その準備に四苦八苦している。

 例えば今全国の大学を席巻しているPBLチュートリアルという聞き慣れない横文字が私達の日常を圧迫している。「問題解決型授業」をやれとうるさいのである。考古学では「基礎技術」が不可欠だから、技術習得のための「実技演習」などがこれに当たるので、看板を付け替えるだけなのだが、やりたくない教官はそうした私の態度が「迎合」と見えるらしく、もちろん哲学など「問題解決」などあり得ない学問分野では、そもそもこうした教授方法は無視される。結果、三重大学人文学部は何もしようとしていないということになる。何もしないとそのうち財政的締め付けが始まり、気が付けば学部がなくなっていたと言うことも十分あり得る状況である。

 私はやれるところがやって、「看板の付け替え」でも、やっている姿を見せればいじゃないかと思うのだが、誰かが目立つのを嫌う(しかし自分は目立ちたい)人々は突出する者の足を引っ張るのに必死なのである。こんなことでは学部の先が見えているのだが、そのことも自分たちさえ生き残れば(普通なら生き残れないのだが、そこは醜い政治家達、結構姑息な手段を用意している。)いいようだ。

それはさておき、1年生を対象とした半期の授業(オリエンテーションセミナー)で次のような授業をやることになった。

「Open!『三重大学考古資料館』~初代学芸員への道~」
[主旨]三重大学には先輩達が野山を駆けめぐり集めた土器や真夏の鈴鹿や真冬の安濃で発掘調査により掘り出した膨大な出土遺物が保管されています。しかし、残念なことにそれらを整理・研究し、展示する機会もスペースもなかったために薄暗い倉庫の中に眠ったままになっています。もったいないことこの上ありません。そこで皆さんと一緒にミニ博物館「建設」に取り組みます。
[授業計画]
 第1回 4月18日  主旨説明
 第2回 4月25日  第1回クラス別授業:①博物館学芸員とは何かを学ぶ。
 第3回 5月2日   第2回クラス別授業:②身近な遺跡や博物館を見学。
 第4回 5月9日   第3回クラス別授業:③倉庫に眠る資料を調査、選択。
 第5回 5月16日  第4回クラス別授業:④選択した資料を調査。
 第6回 5月23日  図書館オリエンテーション
 第7回 5月30日  人文学部文化学科履修オリエンテーション
 第8回 6月10~11日 合宿研修(第5回クラス別授業:⑤合宿近くの遺跡や博     物館を見学し、資料の展示方法を討議。) 
 第9回 6月13日  第6回クラス別授業:⑥討議を踏まえて展示準備。
 第10回 6月20日  第7回クラス別授業:⑦展示具に必要な材料を調達。
 第11回 6月27日  第8回クラス別授業:⑧展示解説の文章や図、イラスト     を作成し、⑨展示解説の図録を作成。
 第12回 7月4日   第9回クラス別授業:⑩資料や説明文を準備した展示具     で『資料館』に飾り付け。
 第13回 7月11日  第10回クラス別授業:⑪キャラクターを作って宣伝にも     行きましょう!⑫学長も招待してOPEN!です。
 第14回 7月18日  合同発表会

一緒に「建設」しませんか。

 1年生100余人の内の四分の一ほどの学生が希望を出してきた。30人を超えるとしんどいな、と思っていたので、手頃な数だと思っていたら、他のところが少ないから人数調整をすると言うことになり、結局引き抜かれて19人でやることになった。希望通りにやらせればいいのにここでも横並びの発想である。

 さてこの『資料館』もちろん今はない架空のものである。しかし、以前から大学に必要なものだと主張し何度も設置を画策してきたのであるが、横槍が一杯飛んできて実現していない代物である。そこで、授業の一環としてやるのならさすがに問題もないだろうと考え、計画したのである。

 大学と言うところはいろんな空間を贅沢に使っている。だから展示ケースの一つや二つどこに置こうが邪魔なところはほとんどない。ところがここでも縦割り行政である。一々○○学部にお伺いを立てなければならないのである。ある時は学長のリーダーシップが言われながら肝心のところで発揮されないのが現実である。まだ最終結論は出ていないが、決まれば大いに刺激的な展示をし、その必要性をアピールするつもりである。

 ところがこれと平行して昨年の発掘調査の残務整理が残っているのである。授業の合間を縫って、現場に駆けつけ、やり残した調査をする、とって返して授業の準備をする。こんなことを繰り返す内についうたた寝をして風邪をひいてしまった。春風邪は結構きつい。鼻はズルズル、頭は痛いし、寒気はする。冷や汗をかくので風呂にも入らないともたない。そんなこんなで、少々へばり気味の1週間がようやく過ぎようとしている。まだ今朝の授業の資料が完成していない。歎いてばかりでは何も前に進まない。人間はたくさんの命を食べて生きているのだからその分頑張らないと行けないらしい、

 風邪に打ち勝ち、H大学に負けない資料館を造るぞ!!(ほとんど空元気)

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近況報告 情報の渦の条

2006-04-17 12:04:18 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(二尊院の桜ももう散ったかも知れない。叔母の長く暮らした北野天満宮の境内も梅が終わって、今は静かな春を迎えているに違いない。90歳とはとても見えない美しい死に顔に少し心が和んだ。まさに大往生の生涯だった。)

 父の姉で山中家の三女に当たる叔母が先週末に亡くなった。長く闘病生活をしていたので、最近は会ったことはないのだが、先日病院を替ったと言うから少しはよくなったのかと思っていた矢先の死であった。これで父の兄弟姉妹も後二人しか存命してないことになるらしい。12人もの兄弟姉妹がいたという(真相は十分に伝わっていないので正確なことは分かっていない)ので、男の子は次々と養子に出され、父とすぐ上の兄と末っ子の弟だけが山中を継いだのだが、弟は戦死、兄は42歳で病死、父もまた49歳で病死。養子に行った叔父達が一番長生きをしている。もっとも養子に入った叔父もその後その家に子供さんができて立場が悪くなったとか・・・。世の中うまく行かないものである。葬儀で久しぶりに会った従兄弟達ももう70近い者もいるらしい。みんなええおっさんやおばはんになっていた(もちろんかく言う私も!)。既に従兄弟も三人癌でなくなっている。明らかに時代が変わりつつある。そんな感慨を憶えさせる1週間であった。

 さて、ここ数カ月、メール、電話、郵便、ファックスなどのあらゆる「情報」をみるのが怖くて仕方がない!特にメールは差出人や表題を見るだけで本文を見るのが恐ろしくて・・・。
 その結果、生まれて初めて原稿を流してしまった。情けない!!電話の留守番電話という最近ではかなり原始的な情報伝達方法があるのだが、ある出版社の編集者からの電話をとらなかったために、「もう結構です!」という恐ろしいファックスが突然流れてきて、「おわ」になってしまった。悲しい!!
 でも、言い訳をしておくと、このファックスが流れる前に私は「今日から原稿を書き始めています。後1週間だけ待ってください。」とファックスしたばかりなんですよね。おまけに、他の編集者が怒る様な状況で、この原稿が一番最新の依頼なんですよ。半年程前に依頼されたばかりで・・・。ちょっとばかり悔しい思いをした1週間でもあった。

 それにしても、迷惑メールに始まって世の中に情報の溢れ返っていること !最近は郵便すら見るのが憂鬱で仕方がない。そんな中で暮らす若者はこれらをいかに処理しているのだろうか?
 と言いながら私はシャープゼロ3を使い始めたところである。ブログの原稿もこれで書こうとしたのだが、どうも、小さなキーボードではなかなか進まない。結局書き始めた原稿を転送してようやくこの原稿が日の目を見たところである。

 情報が怖い一方で、情報からの遮断もまた恐ろしいと言う今日この頃である。
 その結果何が起こるかというと、古い情報(資料も)をみる時間がどんどん減っていくのである。いざ原稿を書こうとするとき、情報が中途半端で、整理が間に合わず、混沌としてしまうのである。結果、思いつきや皮相な考察にとどまった「原稿」ができ上がる。ブログの原稿は書けても論文が書けない所以である。アー恥ずかしい!。

 しかしそうばかりも言っていられない。間もなく連休である。何が何でも溜まった原稿を書かねば!

 ちなみに山田博士張りに一週間を書き上げてみた。博士の仕事ぶりに驚愕する。その上静岡だの、京都市内だのと、講義の合間を縫って、講演(公園にも)に出かける。すごい!!但し問題は、講演後のビールとラーメンである。博士のお身体を心配して申し上げるが、この組み合わせはあなたの寿命を短くする!!学会のためと申しても聞き分けないだろうから、「二人の子供達」(マックとクイール)のため、是非おひかえ下され!!
 ちなみに私は酒は宴会の時だけ、ラーメンはよほど食べたくなった時(2週間に1回くらい。昔食べたインスタントはほとんど食べなくなった!!)だけ!子供も成長して独立した私ですらこの健康への配慮、博士はもっとご自愛下され。

 私の1週間
 月曜日:京都のKB大学で非常勤1コマ。1ヶ月に2回定例の研究会。
 火曜日:勤務校で授業3コマ
 水曜日:勤務校で授業2コマ(大学院を含む)1ヶ月に2回定例の会議。
 木曜日:勤務校で授業3コマ
 金曜日~日曜日:研究タイム?原稿(元寇!)の日!!
 他に冬に集中講義を1箇所。今年は苦痛でならなかった東海地方の某大学二カ所の非常勤を断ったのでかなり精神的に楽!!(ま、これでも旧国立大学では一生懸命「仕事」をしている方なんですよ、お許しあれ・・・)

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分布調査報告-最終版 いなべのシンボルタワーの条

2006-04-16 01:45:48 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(東方向にはうっすらと南北に長い丘陵が見える。恐らく知多半島であろう。)

 苦労に苦労を重ねたいなべ市の分布調査の2005年度踏査が3月末にようやく終了した。あれから2週間が過ぎようとしている。当初節々が痛かった身体もお陰で随分絞れ、少々のことでは息切れしなくなった。分布調査一番の成果?である。毎日10キロ以上を歩いたお陰で懸案のシェープアップに成功しのである。かなり多くのズボンが復活したのである。一時念願の65キロ台に復活!!何年ぶりのことであろうか・・・。

(山の切れている辺りが日本で最初に木簡が出土した柚井遺跡である)

 分布調査終了後もやり残した発掘調査の追加調査があり、春休みはほぼ屋外で費やされてしまった。結局室内ではまとまった研究が進まず、なーんにもできなかった春休みであった。とうとうとある出版者の編集者は怒り狂って、「原稿の件はなかったことに」と無粋なファックスを送りつけてきた。初体験でショック!!この調子だと(というのはこの出版社の仕事が一番新しい依頼!それでも急ぐと言うから原稿に取りかかり一部の項目を書きかけていたのに・・・)他の出版社も切られるかもという不安がよぎる・・・!あーどうしよう!ブログを書いている暇はないよと陰の声。それにしても、私が悪いには違いないのだが、ようやく書き始めたことをお知らせしたその日に断りの手紙を入れるのはどうなんですかね・・・。ちょっと、悲しかったですよ!

それもこれも、一番の原因がニックキ「分布」!これさえなければ韓国にも行けたし、原稿の山も今頃三つは消えていたはず。

そんな恨みの分布調査だが、どうしても書いておかないといけないことがある。それがいなべのシンボルタワー。旧員弁町内を歩くとどこからでも見えると有名なタワーである。それ以外にもあちこちの下水のマンホールの蓋に刻まれており、イヤでも脳裏に焼き付けられる。いかにも成金趣味の町長が発想した(ゴメン!成金は不適切かも・・・、ウーン、無教養な、田舎もんの・・・ええ言葉が思いつかん!)無粋な施設である。現在のいなべ市役所の西方の丘の上に建っている。その近くに遺跡があるというので仕方なくタワーのある公園に行ってみることにする。
「分布調査するよりもこの公園を作る前に発掘すればよかったのに・・・!」
そんな思いがするくらいとてもいい立地にタワーは建てられていた。本当にひょっとしたら古墳群でもあったのじゃないかと疑いたくなる。

五重塔でもなく多宝塔でもなく、ストゥーパでもなく何とも異様なコンクリート造りのタワーは中に階段が付いていてあがることができる。気乗りがしないまま階段を上がって最上階に着くと地上から10mくらいはあるのだろうか、一気に視界が広がった。なんとタワーから伊勢国内はもちろん、伊勢湾の東岸知多半島まで見通せるのである。遙か南海上に小さな三角形の島が見える。
「まさか!神島??・・・」
何とも絶景であった。もう少し晴れていたら伊勢湾が鮮明に見えたに違いない。次の機会には望遠鏡を忘れないでおこう、と思った。
思わず360度のパノラマ写真を撮った。それがこれである。
北東部の山裾には多度神社があるはずだ。これを起点に視界を西から北西方向に向けると、藤原岳から鈴鹿山脈が巨大な壁として立ちはだかり、勇壮な光景が展開する。もしこの地に古墳を造ったなら、伊勢全体を見渡すことができる絶景の地であった、そういえば、以前ご紹介した岡古墳はこの丘の北の丘陵端に位置している。伊勢国北部で在地豪族を監視する役割を課せられた人物のお墓であろうか。員弁郡が猪名部氏と深い関係にあることはよく知られているが、彼等が配された背景にもこうした員弁郡が持つ地理的条件が大いに関係しているのかも知れないと思った。

(岡3号墳の羨道部)


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近況報告 贅沢な花見〈夜〉の条

2006-04-11 15:21:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 既に山田博士が紹介されているのだが、夜は10年会の花見であった。


(似合ってる?似合ってない!博士と嵐山の夜桜。貴重なお花を折ってはいけませんよ!!)
 
 博士は不思議なメンバーだと書いているがそんなことはない。京都に住まいし、古代の都を研究する仲間がたまたま10歳ずつ年が離れていることに気付き、ある頃から何となく10年会と名乗るようになったのである。ところがメンバーの一人、もっとも若いAさんが不治の病に倒れ、メンバーが途方に暮れていたところ、その当人が、「何をメソメソしている!私こそ少ない命を一生懸命生きるんだから、しっかりしなさい!」と逆に励まされ、治療の一段落した昨年の春からお花見やら、お月見やらと季節の変わり目に集まって宴を催すことになったのである。不思議なことに、その頃から彼女はどんどんよくなって、とても「不治の病」を煩っている人とは思えないほど元気なのである。もちろん彼女の死ぬほどの苦しみの中から見つけたいろんな治療法や対処法は以前にも紹介したことがある。まだまだ先は油断できないことはお互いに分かっている。それでももう既に宣告の年月を過ぎてしまっている。だから!とてもとても嬉しいお花見なのである。


(嵯峨天皇皇女有智子内親王墓はひっそりとたたずんでいた。)
 
 嵐山が今回のお花見の地であった。彼女の毎日の犬の散歩コースだという阪急嵐山駅周辺を出発し、渡月橋を渡って、京料理の老舗「吉兆」の前から亀山公園へ、途中あのゲームで世界中の子供達を毒した任天堂の寄付でできたという「時雨殿」に寄って一くさり遊んだ(これがなかなか面白い施設だった!後日報告しよう)。
再び亀山公園に入り、角倉了以像の前から 落柿舎、二尊院、有智子内親王墓、去来墓、化野念仏寺とゆったりとした気分で散策した。渡月橋当たりの喧噪はもうどこにもなく、夕闇迫る化野は神秘的でさえあった。

(化野の道は全て舗装されていたが、夕闇迫る人気のない念仏寺周辺は素敵だった!)

 40年前、高等学校卒業の記念にと、友人二人と自転車で、山科から訪れた時の鄙びた光景は消え、少し綺麗になりすぎた嵐山であったが、齢を重ねたこの日の散策もまた格別であった。特に普通に歩いている彼女の後ろ姿を見ていると、夢ではないかと心配になるほど優雅でゆったりとした「花見」の一時であった。

(亀山公園の櫻も今日の雨で半分になったかも・・・、でも葉桜もまた素敵!!)


 その後の宴は山田博士の報告に精しい。上下、うん十歳もの年齢差を越えて、どうしてこれだけ楽しいのか、お互いに不思議に思いながら、夜の更けるのを恨めしく思った一日であった。
 来年はどこで?
いやいや今年の紅葉はどこにしようか?
気の早い私達は次の楽しみに向かって出発していた。

(テキーラと博士・・・オウ!なかなか様にナットルじゃん。ピューピュー格好いい!!)


(それにしても山田博士の「静香」好きは相当なものですな!みんなびっくり!こんなこと言ったら全国の静香ファンにしかられるかも知れないが、そんなに美人かねー・・・・?ま、タデ食う虫も好きずきだから・・・あゴメン!タデと一緒にしてはいけませんね。)

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近況報告  贅沢な花見〈昼〉の条

2006-04-11 14:17:34 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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(紫宸殿前の左近の櫻)

 4月8日はお釈迦様の誕生日である。もちろん私は信心深い仏教徒ではない!ただこの日には格別の?思い入れがある。とは言っても実に他愛のない話である。
 37年前に49歳で亡くなった私の父が4月になると言うことばが
「俺はお釈迦様より一日早く生まれたから偉いんだ!」
であった。要するに8日に生まれなかった口惜しさから出た口上に過ぎないのだが、子供心に妙な感動があって、頭の中から消えないのである。だから未だに父親の誕生日を憶えているのである。

(月華門から日華門を望む。人だかりの方向が紫宸殿。)


 そんな私的な感情の交じる8日に御所の一般公開に行った。
 古代宮都を研究する者としては毎年行っていても不思議はないのであるが、何故かいつもこの時期にはいろんな仕事が重なって、行くことができなかった。実は初めての一般公開であった。中立売御門からはいるのが近道なのだが、京都御所の櫻なぞ見たことがないので、下立売御門から入り、砂利道をゴソゴソいわせながら、今回の入り口に指定されている宜秋門に向かった。土曜日の午後、櫻は満開!予想されたことではあるが入場のために並ぶ長蛇の列が出口になっている清所門まで続いていた。

 時勢のせいかここでも入り口で鞄のチェックが行われる。このため列はなかなか進まない。私なんぞ、そんなことがあるとは知らないから、リュックサックに一杯荷物を詰めて持っていたので、「怪しい!」と思われたのか、中までじっくり見られてしまい、後ろの列の人々の冷たい視線を感じた(日本一?文化財を大切にする人なのに!)。

(紫宸殿西半分。どうして日本の皇宮警察はあんなに無粋な格好をしているんだろう?イギリスバッキンガム宮殿の衛兵のように伝統的服装で警備に当たれば見学者達も多いに満足するだろうに・・・。それに、春と秋とか言わずにもっと普通に公開すればいいのに!堅いよね、まだまだ!)


 何とかはいるとさすがに内裏内閣は広い。あれだけいた人々がどこに消えたのかと思うほど閑散として見える。でも私には好都合である。何しろこの際デジカメで写真を撮りまくろうというのが今回の第一目的だから。以前にも紫宸殿の写真は撮りに来たことがあるのだが、昔のスライド写真である。もう色も褪せてきて、とても使い物にならない。人々のいない、近づきもしない施設に近寄っては写真を撮りまくった。監視カメラの担当者はきっと「怪しい!」と思ったに違いない。
 車寄、月華門、建礼門、承明門、建春門を経て、日華門から中に入り紫宸殿を見た後、小御所、学問所、御常御殿、内庭を経て、御三間から枝垂れ桜を横目に清所門から外に出た。

(本当に驚いた、この鎰こそ初めて古代の鎰を実感させてくれた物であった。)


 中でも感動的だった?のは、紫宸殿の東に廊下で繋がる宜陽殿の扉に付いていた鎰であった。長さ30㎝はあろうかという巨大な鎰が少し錆びてピンク色をしていた。
 もう20年ほど前になろうか、長岡京で金銅製の鎰が出土したことがある。正倉院にもないほど精巧な魚子模様で飾った海老錠の胴体部分である。以来、鎰の資料には目がなく、外国に行っても、建物なぞそっちのけで扉や調度の鎰ばかりを撮りまくっている。ここでも「怪しい奴!」なのである。その鎰への関心のきっかけを作って下さったのが建築史の大家・故福山敏男先生であった。

(左下隅の木簡が鎰の一式を請求したもの。長岡京左京三条二坊八町出土木簡『長岡京木簡一』より)

 
 当然私が宜陽殿の鎰を見逃すはずがなかった。実はこれにはもう一つ感動話がくっついているのである。
 30年ほど前のことである。福山先生のご自宅(大山崎)へ木簡の釈読のことでお伺いしたことがある。『長岡京木簡一』に掲載されている太政官厨家の木簡の中に鎰とその関連用具である「打立」を借用する請求木簡があった。
「請中板屋鎰一具打立物有」
 この「打立」がなんなのか、そもそも、動詞なのか名詞なのかもよく分からず、大胆にも先生をお訪ねしたのである。若造の無知な質問でるにもかかわらず、優しい先生は直ぐに奥の書斎に入ると暫くして、60年程前のノートだといって、古びたノートを持ってこられた。しつこく質問する私にしびれを切らされたのか、おもむろに絵を描いて下さった。「打立」なるものがどんなものかを私に伝えるためである(この貴重な図はそのまま持ち帰り、トレースして『長岡京』ニュースに福山先生の玉稿と共に載せることができた)。実はその時に先生が「打立」(つまりこれは海老錠や南京錠などの鎰の棒の部分を通す器具なのである)にかかっている錠前の絵も見せて下さったのであるが、それがこの宜陽殿の扉の鎰とそっくりだったのである。ひょっとしたら同じものだったかも知れない。30年前の感動が蘇り、二倍になって心に響いた瞬間であった。そこに福山先生が立っておられ、あの甲高い声で説明して下さっているような錯覚さえ抱いたのである。

(美しいお庭も印象的だった。)

 すぐ前に見た左近の櫻のことなどすっかり忘れて、その後の見学も、調度や扉に鎰がかかっていないかばかりに気をとられて、結局櫻の印象の薄い初めての一般公開となった。今度は秋の一般公開である。これから毎年、できるだけ(鎰の?)見学に来よう!と心に決めて、夜のお花見の地へ向かった。

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雑感  人事異動の条

2006-04-06 05:14:46 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 年度末になるといろいろな人事異動が聞こえてくる。大学でも年度末の教授会で三人の先生方が転職や研究休職で挨拶に立たれた。中には「?」の付く転職もあるのだが、私のどうこうできる問題でもなさそうだった。
近年は定員削減という不思議な嵐の中で、先生が辞められると補充されないことが多いのが現実である。だから自らの将来だけを考えて転職すると、その講座や研究領域が三重大学から姿を消す可能性があるので、なかなか決意できないのが現実である。うかつに辞められないのである。
 
 周辺の市町村からもいろいろな異動が聞こえてくる。現在の市町村の置かれた状況から、たいていはあまり快くない異動である。特に近年は合併の影響で、文化財担当職員は減らされる一方である。何とかこれに歯止めがかけられないか、これも私に課せられた大きな仕事である。逆風を跳ね返し、学生の就職口を探す。これも大切な仕事だからである。

 私は23年近く全く異動することなく教育委員会の文化財担当を勤めた(もちろん細かな所属名称の移動はあったが)。だからあまり異動の実感が分からないのであるが、いつも思うのはどうして社会には異動があるのだろうかということだ。
 「同じところにいるとマンネリ化するから」?
 「妙な利権が生じるから」
等と言った声が聞こえてきそうだが、私達のような専門的技術が必要で、他に受け入れる部局のない場合には比較的異動が少ない。と言うことはあまりマンネリ化も関係ないのではないかと思いたくなる。事実、私が地方公務員から大学へ転職した時も、随分悩んだものだ。別に私の仕事がマンネリ化しているとも思えなかったし、嫌いでもなかった。課題は山積みで、まだまだいろいろな知恵を出しながら解決していかなければならない仕事がたくさんあったからだ。
 転職の最終的な判断の起点は、私がいることで「出世」できない部下や、新しい考えで行動できない人々に託してみてもいいのではないかという考えと、大学での「研究」であった。結果は8年後のそれぞれの状況が見事に証明していて、「正解ではなかった」である。不正解とも言えないし、なかなか採点は難しいのだが、少なくとも正解ではなかったと思える。しかし、それは今更後戻りできる問題でもないので、語らないことにしよう。

 残念なのは今聞こえてくる過去の職場(周辺)の「仲間達」の新年度である。嘱託を辞め(させられ)た者、突然、「発掘調査技師」から事務に異動させられた者、文化財とは無関係な職場に異動した者等々。いずれも「発掘調査技師」としての立場とは無関係な職場への異動である。異動後にその職場には補充もないという。しかし他の部局では、新採用の職員が二桁にも上り、曲がりなりにも後継者が補充されているらしいのである。いつの世も、不景気になれば文化が切り捨てられるのが日本の歴史とはいえ、あまりにも悲しい知らせばかりである。
 いずれも文化財は「仕事」がないのが原因らしい。しかし、本当は「仕事」は山ほどあるし、実際に「仕事」がなくても減員されない部署もある。仕事は自分で作る者なのだが・・・。
 要するに異動というのは、各社会の「中枢部」(と言われる部署)に於いては真剣でも、いずれも実に政治的、ご都合主義的なものであることが多いのである。かつては定年まで同じ学校にいた名物先生がいた。しかし今は、定年まで同じ「部署」にいるお荷物「職員」はいるが、名物はどの社会からも消えていっている。こんなことで日本の社会はいいのだろうか・・・。

 そんな中で、周辺から少し心の和む話も伝わってきた。私のよく知っている卒業生が「文化財担当になった」といって報告してきたのである。地方公務員であるから、異動でどこに行くかはそれこそ「上」の決めることであって、誰がどこに行くかは一部の上司しか知らないのである。だから文化財担当になっても不思議ではないのだが、わざわざ連絡してきてくれたことがとても嬉しかった。そこでは初めての文化財担当らしい。だから何も歴史がないのである。
 かつての私もそうであった。京都府下でも市町村では二人目、もちろんその市では初めての文化財担当であった。何もかもが一からの出発であった。
「どうしましょう?」と少し不安そうな声で聞いてくる。他学科の学生だから全くの畑違いである。でも歴史が大好きな学生であった。
「あなたが好きな歴史が今その町でどうなっているか、素直に見つめたらいいんじゃないの。」
「あなたの得意の分野を活かして文化財行政の基礎を作ったら。」
「好きなことを好きにやればいいよ!思う存分。あまり周囲のことは気にしないで!」
「お役に立てることがあればいくらでも応援するから!」
そんな言葉をかけて電話を切った。彼が文化財無風地帯に新しい息吹を吹き込んでくれたら・・・、そんな期待を抱かせる、少しだけ幸せな気持ちをお裾分けしてもらった一日だった。こんな素敵な人事異動で埋め尽くされる日が来ないものだろうか・・・。


London Report-番外編  イギリス珍道中・食生活の条

2006-04-03 22:44:39 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 今日は3月末まで続いた分布調査の打ち上げであった。焼き肉で乾杯!!といっても学生達は食うばっかり。日頃肉なんぞ食ったことがないのか?飲むよりも飯を食いながら肉に食らいついていた。わしゃ親じゃないんじゃケー!

 というわけで今日はまともな文章が書けそうもないので、「僕の親友の連れあい」の要望に応えて、イギリス珍道中食生活編をお届けする。もちろんあまり真剣に読まないで欲しい。
 「そんなの間違ってる!」とか「偏見です!」などという無粋なコメントは無しですよ!!あくまで初めてのイギリス珍道中の初老のおっさんのイギリス観ですから・・・。

(ロンドンウオール直ぐ横、-ロンドン塔近くの-インド人経営の回転寿司屋15ポンドで食い放題だった。但し店を出る時にそれを知った!だって、店にはかつての日本と同じで皿の種類毎に値段が書いてあるんだもの・・・・)

 言うまでもなくイギリスの食べ物はまずい!!
 よくもこんなもん食わされてイギリス人は文句も言わずに暮らしてるわ!と言いたい。何がまずいのか?滞在中ずっと考え、議論してきた。結論はこうだ、「素材が悪い」である。何故肉がまずいのか!?これは牛をほったらかしにしておくからだ。放牧してそこらの草を食わしているだけだから脂ののった美味しい肉ができないのである(と想像した)。
 僕はイギリスの肉が堅いと聞いていたからもちろんレアーを食べたが、友人はミデアムを頼んで「堅い堅い」を連発していた。しかし、堅いことに問題があるわけではなかったのである。肉そのものがまずいのである。
 但し、帰りの飛行機が偶然ビジネスクラスになり(理由はよくわからないが、私達の希望する席が空いていなかったので、空港の事務員さんが気を利かしてビジネスに回してくれたらしいのである。ラッキー!!これで僕は二度目。前回もアメリカ行きの時だったからとても楽だった。)、三度の食事を頂いたが、その肉のうまかったこと!!要するに金持ちはいい肉を食っているのである。日本でももちろん金持ちがいい肉を食っているのだろうが、私には松阪の○○金も△△銀も高いだけで美味しいとはとても思えないのである(少し見栄を張って書きました。ごめんなさい。私○○金へはまだ行ったことがありません。友人から聞いた話です)。つまり日本人は階級、階層の上下に無関係に一定のレベルの食事をしているが、イギリス人は食事にまで明らかな「階級」が存在するのである。

(私達が拠点にした?キングスクロス駅。この駅前に中華風ヌードル店があった。安いせいかたくさんの有色人種の人たちが列をなしていた。でもきしめん風麺は米で作ってあるのか、まずかった!)


 次にイギリスの食事は高い!!
 どんなに安い店を探しても、5ポンド=1100円はくだらないのである。
 ちなみにキングスクロス駅駅前のヌードル店のラーメンが(これまたちんけな味だったが)4.99ポンドだった。大英博物館のラウンジで売ってるサンドイッチですら飲み物と合わすと10ポンド近くになる!!私達が買った食べ物で一番安かったのは、スーパー?で買った0.6ポンドのビスケットだった。そして一番高かったのが、到着日にホテルで食べた夕食の60ポンド。
 
 そんな食費代に金を出すくらいなら本を買おうということで(本もべらぼうに高い)、食費を浮かす方法がこれ。
 朝ホテルのバイキングでたらふく食う(本当はパンの一つや二つ持って行きたかったのだがさすがにこれはできず)。その勢い?で昼は抜き!?ひたすら遺跡見学や博物館見学に費やす。そして思い切り腹を空かして夕方の7時頃まで我慢して、どうせまずくて高いイギリス料理を食うくらいなら、日本料やイタリア料理を食おうということで、夜は日、伊、中、韓で押し通したのである。但し、お断りしておくが、イギリスのそれぞれの料理も決して美味しくない。


(この日も昼飯は抜きだった。早めに食べた回転寿司はまずくはなかった。テムズ川の夜景はとても綺麗でロマンチックだった。但し一緒に歩いたのがH氏では・・・・?ピンク色にライトアップされているのがロンドンブリッジ)
 
 ではどれくらい飲んだか?って。
 これがそんなに飲まなかったのである。毎晩夕食にビール1本(350cc)は呑んだが、ワインは美味しくないので一度だけしか飲まなかった。ヨークで一度パブに入りかけたのだが、友人が恐れをなして結局中止!アーア!何で恐れたかって?カウンターで野郎どもが飲んでいて、その中にはいって、英語の不十分な我々が行ってからまれることを恐れたらしいのである(真相は不明)。でもってパブの経験も無し。何とも真面目な旅行であった。しかしそれにはふかーい訳が・・・。二人とも原稿に追われていたので、ホテルに帰ってから原稿を打っていたのである。私なんぞは自慢じゃないが、帰りの飛行機の中でまでパソコンをカチャカチャしていたのでビジネスクラスの美味しいワインを一杯しか飲まなかったのである(めっちゃ後悔!)。

(ユーモアたっぷりに解説してくれた車掌さん)

 結局ガイドブックの「最近のイギリス料理は改善!」というのが大嘘で、やはり「ホテルの朝食バイキングが一番!」「機内食の方が美味しい!」が正解でした。 それにしてもロンドンではたくさんの日本人学生と会ったが、どれだけ金を持っているのだろう?貧乏学生は安ホテルで朝食バイキングのパンを昼用に持ち帰り、夕食は日本から持参のチキンラーメンが正解ではないでしょうか。その分遺跡を一杯見ることをお薦めしまーす。全く参考にならない初老老人組の旅行記でした。ちなみにこれだけ苦労して節約し、それでも奮発して高いお土産を買っていったのに、うちの学生、約一人を除いて礼も言わないのです!二度と土産なんか買うもんか!!(アッカンベー)
 
 なお、汽車での旅行には日本で買っていった「BritRail」の4日間乗り放題がお得だと思います。2等席が日本円で23000円くらいかな。うまく乗り継げば、半額で済みますし、一々切符を買う手間が省けます。私達はこれで、ソールズベリー、ヨーク、ニューカッスル、ロンドンと回りました。週末は指定席をとった方がいいのですが、取り方が分からなかったので、空いている席に座っていて、人が来たら移動するを繰り返していました。するとここでも救世主!親切なお客さんが教えてくれました。自分が乗車した駅から予約してあるのに乗客がいない席はもう誰も乗ってこないと。どうも予約が安いから適当に予約しておいて、列車を変える乗客が多いらしいのです。ちなみにイギリスの列車の予約状況は、各座席に予約切符が挟んであって、切符に[Kingscross-Newcastle]などと書いてあるのです。もちろん目的地の駅との前後関係が分かれば、自分の到着駅以降の予約席は絶対安全なのです(でも悲しいかな、その地理が分からなかったのです)。

(汽車の中にはこんな停車駅のファイルが置いてあるのですが、混んでいる時には分からなかったのです。)

 もう一つ驚いたこと。列車の各座席にコンセントが着いているのです。さらに所々、向かい合った席に長いテーブルが着いていて、ここで仕事ができるのです。私達も汽車の中でビスケットをほおばりながら原稿を打っていました。イギリス人の乗客もたくさんの客がパソコンを持ってきていて、DVDを見て楽しんでいました。今朝の新聞によると今度の新型新幹線から座席の6割くらいにコンセントが付くと自慢していましたが、どうしてそんな中途半端な子とするんですかねー。全部に付けろよ!!なお、トイレは綺麗だし、車掌さんは親切でとてもユーモアがあって優しいですよ。もっと英語ができたら退屈しなかったろうに・・・。

(あれから早くも一ヶ月現実が始まろうとしている。もう一度この美しいヨークの流れを見に来たいものだ)

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London Report-4 美しき遺跡群の条

2006-04-03 12:04:30 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 イギリス探訪のもう一つの目的は遺跡の整備と活用のあり方を見て回ることであった。
 今回見学した遺跡はロンドンウオール、ストーンヘンジ(ソールズベリー)、ヨーク城、ハドリアヌスウオール(長城)(ニューカッスル)であった。

(遺跡と町が見事に調和するヨークの市街)

 まず何よりも驚いたことは、遺跡に塵一つ落ちていないことであった。決して大袈裟な言葉でないことは、これだけ回ってヨーク城城壁の一角に捨てられていたコーラのペットボトル一つだという事実からご理解頂けることだろう。管理が行き届いているのか、それとも訪問者のマナーがいいのか、恐らく両者相まっての現状なのであろう。これだけ美しいと、マナーの悪い日本の旅行者の「ポイ捨て」もさすがに勇気がいるのかも知れない。


(今回の旅で見つけた唯一と言っても過言ではない遺跡のゴミ)

 意外と盲点なのかも知れないが、遺跡を美しく維持することが旅行者を豊かな気持ちにさせ、再訪を決意させる、そんな効果もあるのかも知れない。日本の遺跡がゴミだらけ、ベンチは壊れ、トイレは汚れ、枯れ木が倒れ、枯れ葉が堆積して不気味な光景を呈し、とても近づき難い雰囲気であるのとは大違いである。私自身も、この美しさに魅せられて、もう一度イギリスを訪ねてみたいと思っている。
 さて遺跡の保護はどのようになされているのだろうか。

(ロンドン城の城壁がビルの谷間に遺されていた。この直ぐ横にあるインド人経営の回転寿司屋で夕食を食べた)

 何よりも驚いたのはロンドンの市内のあちこちにロンドン城の城壁が残されていることである。あるところではビルの裏に設けられた池の向こうに、ある場所ではビルとビルの谷間に、そしてビルの地下にも・・・。私達のような専門家でもなければなかなか探し出すのが困難なことは事実だが、保護されている遺跡の説明板の横には周辺に残されている城壁の位置が示されているので探し出すことは何とか可能である。
 こうした城壁があるということは当然その内部に各種階層の居住空間があるはず。遺跡の調査がどのようになされているのか知りたかったのだが、果たせなかった。わずかに、その一部であろう、中世の寺院跡が移設されて、とあるビルの玄関口に残されていた。ロンドンにおいても現状保存はなかなか難しいのだろうか。大都市部における広域遺跡の保存と活用の難しさを改めて感じた。


(ヨーク城の城壁は春から秋までなら歩いて回ることができる。ゆっくり歩いて半日のコースである。)

(土日ともなるとこんな人で溢れていた。)

 ところがイングランド中部の小都市、ヨークに行くと、町全体が城壁に囲まれて残されていた。ホテルや学校、博物館やその他の公共施設も大半が城壁の外に設けられて、高層建築といえばヨークシャー寺院のみといったところである。城内は週末になるとたくさんの観光客で溢れかえり、道は歩行者天国状態である。

(ヨークの町の象徴。しかしこれだけが美しいのではない!!)

 城壁の上部は通路になっているので、普通なら歩いて一周できるのだが、冬季に訪れた私達は残念ながら外からしか見て回ることができなかった。それでもほぼ全周を城壁の内部や外部から見て回ることができた。城壁の近くには住宅街が広がるのだが、これらが全て古風な煉瓦造りの二階建てに統一され、城壁との間に全くの違和感を与えないのである。もちろんこうした住宅街にもゴミ一つ落ちていない。
ヨークのヴァイキングが暮らした町が市内の中心部から発掘調査され、その一部を残し、10世紀中頃の町を復原的して公開しているのが先にご紹介したヨルビックヴァイキングセンターである。ここでは発掘調査した資料をそのまま保存し、さらに観光資源として再利用して伝統の保持に活用しているのである。会社組織で運営しているためか、少し入館料は高め(だいたいイギリスの物価は高すぎる!何せ地下鉄が最低で3ポンド=650円だから)だが、中に入ればそれなりに楽しめる。もっとも二度訪れる気になるかというと・・・・?である。私にはただの城壁に過ぎないのだが、本物(もちろん修復が繰り替え荒れているが)の持つ迫力の方が魅力的だった。

(礎石の並ぶ遺跡を見ていると日本のものと大差がない。どこが違うのだろうか?)

 最後に訪れたハドリアヌス長城の東端とその城塞跡はニューカッスル市内にあった。冬期でなければ、汽車やバスを利用して(いや、日本人ならイギリスは日本と同じ左側通行なので国際免許を取ってレンタカーという手もある)、長城を征服できたのだが残念ながら市内の遺跡しか見ることができなかった。
 圧巻は市内を流れるTyne川の北岸NorthShieldに残されたSegedunumの遺跡であった。城壁に取り付く城塞の内部には指揮官の執務した中心建物、兵舎、厩舎、風呂、倉庫などが整然と配置されていた。遺跡整備は日本とさほど変わらない。説明板も特に際だった違いはない。結局違いは見学者の質と量のようだ。展示室にいた解説員によると、年間数え切れないほどの子供達がやって来るという。どうして子供達がやってくるのかまでは聞くことができなかったが、恐らくロンドンと同じ工夫がなされているのであろう。

(残念ながら冬季休館中で入れなかったSouthshieldのRomanFortMuseamだったが、フェンスの外から垣間見た光景は圧巻だった。是非今度は開館中に中から見たいものだ。)


(Southshieldeの町は避暑地なのだろうか、訪れた時は悪戯小僧がたむろするだけの寂しい町だったが、遺跡からみた北海の光景は往時のローマ兵の気持ちを彷彿とさせてくれた。)

 イギリスの遺跡の保存と活用のキーワードは「美しさと子供達」にあるようだ。