yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

『延喜式』研究会のことなどの条

2008-01-29 15:14:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
『延喜式』、もうちょっと勉強しろよ!と思ったらよろしく

 昨日は定例の『延喜式』研究会の日であった。現在中巻の中務省式を読んでいる。
昨日は私の発表だったのだが、この間の余りの忙しさに全くの中味のないものになってしまった。遠路参加してもらった人には申し訳なかった。(そんなわけでぎりぎりまで準備をしていて結局母のところにも行けなかった。情けない!!)

 発表の条文は『延喜式 中 』(集英社)の36条詔書式から46条宮人位記条までの11条分であった。詔書式など考古学ではほとんど無縁な世界かも知れないが、次の37条慰労詔書式などは日本列島の王が新羅や渤海国を蕃国と見なして出す国書のスタイルであり、これから行うベトナムでの発掘調査においても必ず出てくる各国々の王権の中国や周辺諸国に対する王の姿勢がいかなるものであったかを比較する上で大事な条文であると知った。特に興味深かったのは慰労詔書結語の書式が次のように変遷するという『延喜式 中 』(集英社)の指摘だった。
 ・ 天平勝宝年間  「指宣往意」
 ・ 天平宝字年間  「遣書」
 ・ 延暦年間    「略此遣書」
それぞれ唐の書式の変化に応じて日本でも変わるのだという。そこでピン?と来たのが最後の項目である。

 そう!言うまでもなく延暦年間にも変更があるというやつである。

 最近は吉川真司さんという強力なライバル(ライバルにもしてもらえないかも知れないが・・・)のお陰で、「光仁・桓武朝変換点説」が劣勢で、昨秋の歴博で行われた「長岡京遷都展」でも展示代表者には、テーマにすら取り上げてもらえなかった(とても悲しかった!)。何とかフォーラムでは永井さんや朧谷先生の応援のお陰で、少しは持ち直したが、どうも平安京研究者は長岡京変換点説というのは気にくわないらしい。

 だから、これまで以上に様々な資料を当たって、やはり「光仁・桓武朝変換点説」を再構築しなければならないという危機意識を持っているのである(中には学問的レベルにも達していない妄想まで学術雑誌や単行本に流布しだしている始末。黙っているとこれを信じる人が出るのかと思うと、放置できない状況に達している問題もある。いずれこの問題については詳細に述べるつもりであるが・・・。)。

 そんな時で喰わした新しい資料である。もちろん私が不勉強で知らなかっただけなのであるが。『延喜式』のこんな所にも「変換点」のヒントが隠れているなんて、とても嬉しかった。だから細々と続いている『延喜式』研究会だが、やめられないのである。

 もちろん今回は全くこれらに関する論文を読んでもいないので、注釈書が指摘している根拠や、そもそもが、延暦年間といっても長岡京期なのか平安京期なのかも全く確認もしない上での思いつきである。
 しかし、どんな批判にさらされようが、今のところ、正鵠を得た批判に出会っているとは言い難い現状では、これをさらに補強することのできる新たな資料との遭遇である。補強材料は多いに越したことはない。

 これは調べてみる価値がある!!(まだこの発想は原稿の下書きにも書き込んでいないものなので誰も使わないでね! 誰がこんなガサネタ使うもんか!??(笑))

 実はこれ以外の条文の中でも、もう一つ重要な問題に気付いたのだけれど、これは今度の考古宅研究会東海例会でのミニシンポでのネタに取っておこうと思うのでここではまた後日!(イヤ、そんなにもったいぶるもんでもないんですよ、単に私が勉強不足なだけなんですから。後で笑わないでね。(笑))

 というわけで、『延喜式』!とても面白いですね。

 ところが一つ寂しい、でもとても嬉しいニュースが一つ。(どっちやねん!?)

 一緒に勉強している三重大学の私のところを卒業した後、K旧帝国大学大学院博士課程のN先生のところで古代史を勉強しているAさんの就職が決まったのだという。

 東海地方の中核政令指定都市N市の職員だという。さすが!

 本当は歴史関係の職場に行きたかったのだろうが、採用予定もなく、やむなく一般職での採用だという。N先生の反応も「決まってしもうたか?!」と言うから、同じ思いに違いない。

 今時、K旧帝国大学大学院博士課程を出ても、研究者への道はほとんど閉ざされている。採用がないのだからどうしようもない。世の中効率、効率で効率の上がらない歴史なんて不要!というのが日本の支配者のお考えのようだから、大学の関係講座がどんどん減っている。そんな状況ではよほどの資産家の子弟でもない限り、職が決まるまで無職でいて、研究を続けることは困難だ。一端時間が取れる職場に身を置いて、時間を見つけて本当にやりたければ、その中ででも研究をやればいい、と思う。

 「ま、また時代が変わって、私達の職場が拡大しないとも限らない。その時までじっと、勉強をし続ければいいことだ」と、いうには言うのだが・・・。後は本人の自覚次第だ。

 実際のところ、彼女が誘ってきてくれたもう一人の参加者K旧帝国大学のNゼミのSさんは、国家公務員からの転大学院組だという。Aさんも職場でしっかりお金を貯めて、また大学院に入り直せばいいと思う。

 研究会が終わってささやかなお祝いの食事をして別れた。

 これでまた会員が一人減ってしまった。誰か参加しませんか?

 毎月第2/4週の月曜日午後7時からJR長岡京駅直ぐ南横の長岡京市立生涯学習センター4階の会議室でやっています。
 

 私も参加しようかなと思ったら是非ご一報を!!よろしくお願いします。

母の入院の条

2008-01-28 02:17:56 | yaasan随想
母は強し!きっと元気になるよと思ったら・・・・

私の母は子年である。つまり私とは二回り離れている。
1924年、大正13年の生まれだから甲子の年である。授業で干支を話すときにいつも使うのが甲子園球場である。母と同じ年に球場はできた。

だからとても便利である。忘れようがないからである。干支で困ったときはこうした有名な事象の年を覚えておけば大体復原できる。672年壬申の乱などもその典型である。

つまり今年の7月で84歳になる。80歳になる頃まではとても元気で、毎年のように海外に出かけていた。とは言っても彼女はミルク系統の食べ物が駄目なので、行くところは中国近辺に限られていた。それも大体案内人も限られていて、大阪のある旅行者が主催し、そこでお願いする先生方と一緒に行くことがほとんどであった。

特に大阪市から帝塚山学院へ行かれた中尾芳治先生とはとても懇意で、明るい性格から直ぐに図々しくも「お友達」になって、あらぬ事をなんでも喋ってしまうらしく、何時しか我が家の「秘密」は中尾先生に筒抜けになっていたらしい(私はそんなことはつゆ知らず中尾さんと接していた(笑))。

そんな母もさすがに80の声を聞く頃からあちこちが痛み出し、余り長距離を歩くことができなくなってきた。それまでよく出かけていた彦根の簡保にも出かけなくなり、たいてい医者と家を行ったり来たりの日常だった。

それでも最近は週に二度のデーケアーが楽しみになっていたらしく、その日は待ち遠しそうに早くから準備していたと聞く。

そんな母にとってショックだったのは昨年春の伯母の死だったようだ。

私の父の姉に当たる伯母は96歳で突然亡くなった。とても96歳とは思えない元気な伯母で、私の母と彦根の簡保に行くことが数少ない娯楽であったらしい。
伯母は若くしてご主人を亡くし、とても苦労して家族を支え、まさに女手一つでいろんなことをやったらしい。とても商才のある人で、
「彼女が男だったら・・・・」
と、親戚中の者がいつも言っていたのを覚えている。

祖父つまり彼女の父は戦前、幅広く友禅染を手がけて大もうけしていたらしい。不幸だったのは跡継ぎがいなかったことである。いや子供は12人もいたのだからいくらでも跡は継がせられたのだが、商才のある男の子がいなかったのである。長男・次男はインテリで二人とも学校の先生だったし、三男は早くに養子に出してしまい、期待していた末っ子が戦死してしまうと言う誤算続きだったため、戦後、店は急速にしぼみ、暖簾分けをして止めてしまったのである。もし伯母が・・・というのはここから来ている。

伯母は何を思ったのか40年以上前になろうか、突然お好み焼き屋さんをやり出した。
五条大宮を100mほど西へ行ったバス停の前に今もそのお店はある。午後2時頃から始めて朝6時までやるというのが大当たりで、店はいつも長蛇の列であった。私も学生時代京都にやってくる友人を連れては開店前のお店でただで思い切り食べさせてもらっていた。

近所の伯母さんのアルバイトと家族が手伝って営業は進められていた。母も時々手伝いに行かされて、小遣い稼ぎをしていた。私達にとっても母が持ち帰るお好み焼きや焼きそばは大いなるご馳走だった。

そんな母に突然起こった不幸が父の死だった。私が二年も浪人してやっと大学に入ったその年の暮れに突然亡くなった。今なら明らかに医療事故で訴えることができた「事件」だった。まだ49歳だった。妹はまだ小学生、女で一人で3人の子供を育てなければならない。そこで助けてくれたのが伯母と伯父(母の兄)だった。二人がいなかったら我が家族は崩壊していたに違いない。

とは言っても、母にとっては毎晩毎晩、お好み焼き屋さんの店先で、深夜働くことはとても苦しいものだったに違いない。特に問題は息子!即ち私の将来であったろう。折角入った大学の授業にも出ないで、フラフラしている。まだ4年も学校へ行かさねばならない。そんな不安を抱えながらの毎日であったに違いない。そんな彼女に追い打ちをかけたのがまたまた医者の誤診だった。

腹に腫瘍があるから切れという。驚いて親戚やら友人やらから血液を集めて輸血に備え、腸の手術をした。とんでもない誤診だった。今ならこれまた病院から賠償金が取れるくらい、信じられないミスだった。以来彼女は薬が手放せなくなった。何かあるとお腹に来るのである、下痢、嘔吐、便秘、これが日常茶飯事となった。それでも持ち前のパワーで平然とした顔でそれを乗り越えてきた。

それがここへ来て、急激に弱りだした。やはりきっかけは嘔吐であった。いつものことなので直ぐに帰って来るものだと思っていたがとうとう4ヶ月が過ぎようとしている。ほとんど寝たきりである。点滴だけで4ヶ月だから最近はほとんど反応すらしない。眠り続けているのである。

点滴だから嘔吐もなく、下痢も便秘もないから身体はどこも悪くなさそうなのである。だから、
「食べ物を食べさせてやったらいけませんか?」、と尋ねるのだが、医者は誤嚥を恐れて認めてくれない。

その代わり最近になって、胃に小さな穴を空けて外に出し、直接胃の中へ栄養素?を流し込む処置をして、これで対処するという。その成果があったのか、今日は少し反応があったと言うが、明日はどうだろう?

入院したその日までとても元気だっただけにこの頃の状態はとても我慢ができない。可愛そうで見ていられない。ただ生きているだけと言ったところだ。この頃友人と話していて話題になるのは〔老人介護〕である。みんな苦労している。でも母の場合はなんだか訳のわからないうちに寝さされて、そのままなのである。痴呆でもなければ難病でもない。ただひたすら点滴のせいで眠っているのである。このまま脳が退化して元気になっても植物人間と言うことにならないだろうか、そんな心配ばかりがよぎる。
食べられさえすればきっとまた元気になるに違いない。なんと言っても根性の人である。精神力は人一倍強い!!何とか意識と体力を回復させてやりたい。

何もしてやれなかった一番親不孝者の私こそ、母にせめて一度くらいは親孝行をさせてやらせてはくれないだろうか。そんな寂しい思いの新年である。

母さん元気になって!と願って・・・・お願いします

プレドニンの副作用の条

2008-01-24 17:03:05 | yaasan随想
再びプレドニンとはご愁傷様と思ったらよろしくお願いします。


プレドニンの副作用

と検索エンジンにかけると大量の情報があることが解る。それくらい世の中にはプレドニン、即ちステロイド(副腎皮質ホルモン)の投薬を受け、その副作用に悩んでいる人が多いと言うことであろう。先日もある研究会の新年宴会でメンバーの一人が長くステロイドを使っていて、使わなくなったとたんに姿形が変形したと仰っていた。

恐ろしい薬であるが、これがないと治療できない難病の増えていることも事実のようである。

私も昨年6月に発病し約4ヶ月間の長期にわたって大量のプレドニンを服用してきた。

10月末に服用を止め、ホッとしていた矢先の12月になって、職場で受けた健康診断の結果が帰って来て、直ぐに病院に行けと言う。なんじゃこれ?

定期健康診断なんかで何が解るんじゃ!と高をくくっていたが、書いてある中味が、以前と似ているので仕方なく大学病院に行った。即座に先生がこれは困ったなーと嘆く。以前から喘息の治療でお世話になっていた先生なのでその診察の素早さはよく知っていたのだが、今回も即決だ。

「プレドニンをまた飲まないといけませんなー」

「ハー?!!」

前回と同じように症状は何も出ていないのである。咳が出るわけでも痰が絡むわけでも、熱があるわけでもない。検査をしても細菌性も、癌性もなにもないという。器質化肺炎という体質から来るものらしいというのである。

さらに問題は例の血小板がまた減り始めているという。直ぐに危険水域ではないのだが、要注意だという。

体重×0.5mg=35mgで結局プレドニンをまたまた7錠から飲み始めることになってしまった。ほぼ一ヶ月になる。こうなると前回は余り表だった副作用がなかった私の身体が変調し始めた。きっと副作用に耐えきれなくなったのだろう。
 前回までの副作用はこうだ。
 ① 額に脂肪がにじみ出してくる。石鹸で顔を洗っても直ぐに額は脂だらけになるのである。
 ② ムーンフェースになる。但し前回にはさほど目立たなかった。
 ③ バッファロウ肩になる。首の後にまるで格闘技家のような脂肪の塊ができるのである。
 ④ お通じが変になる。不定期になって量も少しづつしか出ない。
 ⑤ 目が見えにくくなりつつある。元々緑内障だからこれは極めて危険な兆候である。眼科にも罹っているが、今のところ急激な変化はないという。そんなわけで車を廃車することになったのである。
 ⑥ 髪の毛が薄くなったこと。元々ジャン!と言う口の悪い友人もいるが、明らかに薬の前後で急激に磯野波平さん状態に近付いている。


こんな所だろうか。内部からのものではないので、とりあえず余り気にすることはなかったのである。

ところが今回、既に新しい症状が見え始めている。
 ①腎臓から出血すること
 ②鼻血がでやすくなったこと
 ③眠くならないこと
 ④精神的な不安定が出始めたこと
 ⑤時々胃が痛むこと
 ⑥一番気になるのが、時々手の先が痺れることだ。それも変な痺れ方をする。突然手の先が腫れたような感じになって、しばらくすると消えるのである。

さすがに我が若き肉体??!もこの強力な毒薬のために崩壊しつつあるのかも知れない(笑)。何事もバランスというのが大切だが、肉体のバランスが一度崩れ出すと坂道を転げ出すように崩れるような気がする。まさに還暦とはそういうことなのだろう。

どうも、プレドニンの副作用はその投薬を受けた人物の体調、病歴、体力、様々な個人的状況で出方が異なるようだ。それだけに、こうした情報を流しておくことも大事ではないかと思い、東アジアとは全く関係ないのだが、書き込むことにした。

もちろん心配してくれる方もいらっしゃるでしょうが、大丈夫ですからね。私はぴんぴんしていますよ。お医者さんも協力的で、
「ヴェトナム?ウン!ホント?」
「あなたね、鳥インフルエンザだけは駄目よ!これに罹ったら死ぬよ!だから、暑くてもマスク、うがい、これだけは守ってね。そしたら行かしてあげる」だって。

と言うわけで、2月21日からの渡越もOK!!

日本から高性能のマスクを1ヶ月分仕入れて持っていくことだけがちょっと普通ではない発掘調査と相成ったわけであります。万歳万歳!!何が?

皆さんも、バランスですよ、バランスね(お前には言われとうないという御仁もおうかろうが・・・)。プレドニンから一刻も早く開放されるために、努力することを誓います。

そうそう肝心なことを書き忘れるところでした。
恐ろしい薬のお陰?で早くも肺の影は消え、血小板ももう元に戻ってしまったのです。後は再びゆっくりゆっくりプレドニンの量を減らし、自らの副腎が自らのバランスでホルモンの供給を開始することを待つだけなんです。
このどれだけ早くゼロに持っていって、再び症状が出ないようにするかがポイントなんです。気長にお付き合いする覚悟を決めないといけませんね。それまでに副作用が本格化しないことを祈るだけですわ。神のみぞ知るですな。

プレドニンから解放されるといいねと思ったらよろしくね

完徹の条

2008-01-22 16:20:53 | yaasan随想
考古学研究会東海例会も楽じゃないねと思ったらよろしくお願いします。


(若かりし頃の初ちゃんさんが毎日食べて育った源氏巻)
ここのところ完徹、即ち完全徹夜が続く。

もちろんさすがに完徹を二日、三日と続けるほどの体力はもう今の私にはないので、一日おきに完徹状態である。

とても、眠い!!(当然じゃろ、身体のことを考えんさいよ-なぜか広島弁で声が聞こえてくる。)

その第1の原因が、2月2・3日に開催する「第10回考古学研究会東海例会 古代東海と奈良時代王権」の資料集の編集にあったことは言うまでもない。

もちろん、実に見事に皆さん方時間を厳守下さって、誰一人として期限を過ぎる人はいなかった。しかし、実情はこの設定した日がぎりぎりの崖っぷち、これから一日でも遅れると資料集ができないということなのである。

事実、先ほど印刷屋さんに原稿ができたので取りに来て欲しい、印刷完了は月末だしね、と念を押すと、

「エエツそんなん、無理やわ!」と言われた。驚いた。
「約束通りやんか!何で?」と尋ねると、
「今めっちゃ忙しんや。特に製本屋さんは私の方では何ともならん」という。
そ、そんな・・・である。
大した儲けにもならない仕事を頼んでいるのである。だから強気には言えない。もちろん相手も僕の事情をよく知ってのことだ。それがこう言うんだからこれはただごとではない。

しかし、2月2日に揃っていなければ研究会はできない。(どうしよう、土器土器、ドキドキ遊んでいる場合か)

「まさか31日に三重までもってこいなんて言わんやろな・・・・当然取りに来てくれるわな!!」「ハイ、解りました・・伺います・・・」(蚊の泣くような小さな声)

と言うわけで、何とかピンチ脱出。でもそのお陰で、京都から印刷物を運んでこなければならない仕事がまた増えた。車を運転しているときはいいのだが、今はもう車もない。また誰かに頼まなければならない。アー大変。


(これが食べられる~申し込みはこちらのホームページのオンラインショップに間もなくアップされますヨ~日が来るとは!?感激、でもうまく品切れになる前に注文できるかな、心配。)

それにしても資料集は立派なのができました。A4版1頁400字詰め5枚×162頁(810枚分)、立派な一冊の本である。もちろん中味も素晴らしい、今度は発表にドキドキである。とても嬉しい悲鳴であった。だから完徹も何とかできるのである。

しかし、まだ少し宿題が残っている。今から直ぐに調べて修正しなければならない。まだまだ寝させてもらえそうにない。早く楽になりたい!!

外は天気が悪くなってきた。今夜は雪かも知れない。後一踏ん張りしたらゆっくり休めるかも知れないが・・・?

『古代東海と奈良時代王権』目次
第Ⅰ部 聖武王権と東国行幸
基調報告   榎村寛之(斎宮歴史博物館)「古代行幸論―特に伊勢・志摩地域との関わりから―」
研究報告-1  天野三恵子(京都大学・院)「聖武伊勢行幸論」
研究報告-2  山中 章(三重大学)「古代頓宮の基本構造~聖武伊勢行幸頓資料を素材に~」
調査報告   大崎哲人(滋賀県文化財保護協会)「粟津頓宮跡の発掘調査」
コメント 山田邦和(同志社女子大学)「聖武・天武両天皇の首都構想」
誌上参加 仁藤智子「聖武天皇伊勢行幸論へむけて」

第Ⅱ部 古代王権と三関
基調報告   舘野和己(奈良女子大学)「三関論」
研究報告-1  永田英明(東北大学)「奈良時代の王権と三關」
研究報告-2  木本雅康(長崎外国語大学)「歴史地理学からみた三関と交通路-鈴鹿関を中心に-」
研究報告-3  村居喜道(名古屋大学・院)「古代伊勢国の瓦生産と供給―軒瓦製作技法による考察―」
調査報告   森川幸雄(亀山市教育委員会)「鈴鹿関跡の発掘調査」
コメント 鈴木拓也(近畿大学) 「鈴鹿関の軍事的機能と視覚的機能―東北城柵との比較から―」
誌上参加 山中 章「考古資料からみた関の機能~三関モデルの構築~」(別刷)

こんな構成なのだが、実費を考えると1500円くらいは集めないと困るのだが、・・・

皆さん、営業にも貢献して下さいね。

もう1冊『久留倍遺跡と朝明郡』も先ほど会の皆さんと最終確認をして校了した。124頁フルカラー、朝明郡の全てが解るとても内容の濃い冊子の完成である。

私はこの会の皆さんの活動こそ、和島誠一賞もんだと確信している。

そして、もう一冊!これができれば今年の私の原稿仕事は終わりである(いえいえ未だまだありますよね。最後の一冊がどれかって?内緒!!(笑))。

『古代東海と奈良時代王権』楽しみだね、と思ったらもよろしく

そんな時、ちょっと甘いものが食べたいな、と三松堂さんのホームページを覗くと、ナナナント、こんな記事がアップされていたではないか。ワクワク

注目!

いちごの大福通信

いちごの大福、オンラインショップで販売できないために、色々な方にご迷惑をお掛けしております

■ shiozyの介護生活 <ややこしい15日>

■ Free & Easy Life

■ yaaさんの宮都研究 「文化創生学科」を造りたいの条

いちごの仕入れを一人の農家の方から仕入れているため、数に限があること。乳化剤などの食品添加物を入れていないため、温かいお餅でいちごを包むので、結果的にいちごが傷みやすいことなどがあって、オンラインでの販売を見合わせていました。

ただ、やはり要望が多いため、何とかオンラインでの販売を開始しようと、担当者が今頑張っているところです。

痛みやすいというのは、いちごの大福のみ、クール宅急便で送る、という事で、何とかクリアできそうです。

なぜ、いちごのみクールで送るのか。

これは、他のものと一緒には配送できないからなんですが、最中などと一緒に送る場合、冷やされた最中が常温に戻ると、汗をかいて最中の種が濡れてしまうのです。なので、いちごのみをクール宅急便で配送する、ということになってしまうんです。他のものを一緒に頼みたい方は、申し訳ございません。

あとは、数の問題なのですが、これも何とかなりそうですね。

実は、山口県阿東町地福の農家さんに加えて、今日から津和野のいちご農家の方が当店にいちごを仕入れてくれることになりました。


(阿東町農家さん生産のイチゴ!)
こちらの方が作るいちごも、大変品質の良い、「さちのか」です。これで、品質が落ちることなく、大福の数が増やせそうです。ただ、数が増えるといっても、そんなに一気に大量には、増やせないので、オンライン販売も、個数限定になると思います。

色々とご不便をお掛けして、大変申し訳ございません。何卒、宜しくお願い申し上げます。

オンラインでの販売を開始しましたら、またこちらのブログででも、お知らせいたしますね。


売り切れゴメン!!もよろしくね

センター試験と卵かけご飯の条

2008-01-19 23:39:50 | yaasan随想
熱々卵かけご飯に文句言うな!と思ったらよろしくお願いします。

たった今夕食を済ませたところだ。
一般的には遅いのだが、私には普通かちょっと遅いくらいである。

熱々の炊きたてホクホク白ご飯に卵かけ、サンマの蒲焼きとネギ仕込みのみそ汁。
超和風食事が完了し、コーヒーに入ったところであある。とにかく寸暇を惜しんで仕事をしなければならないので、コーヒータイムがブログたいむである。



(フルカラー130頁自分で言うのも何だが、結構良くできたと思う1冊700円は安すぎるよね)

なぜ熱々ご飯かというと、外は受験生で溢れているからである。食べに行くところがない上に、皆さんが受験に挑戦中に外を歩くのも少し気が引けるのである。なんて言ったって、超過保護な現代の受験生は全く誰もいない建物のエレベーターの音まで気になるのか、使用禁止なのである。

だから今日と明日は階段をえっさえっさと上がらなければならないし、トイレに行くにもそっと行かないといけないのである。
もちろん今はもう誰もいないのだから堂々と歩いてもいいのだが、明日に向けてまだ緊張感の残る大学を歩く気になど全くならないのである。

と言うわけで、以前から家から持ってきていた新米を三合炊きの小さな炊飯器で炊いて卵をかけて食べるのである。

「うまい!!」
「最高!」をなぜか心の中で大声で叫びながら、食べ終わったのである。

それにしても虚しい二日間である。昔山谷で立ちん坊、今はセンターで立ちん坊なのである。さっきのニュースによると30秒早く試験を終わらせたために再試験をやるとか。

「フーン?!」だ。

昔なら始め!で始めて止め!で終わる。要するに声の聞こえる範囲にみんな居たから全く平等だったのである。でもこの頃は減ったとはいえ56万人?だったっけ、こんなにたくさんの人を相手に試験なんかするからいかんのよね。どんなにうまくやったって綺麗な平等なんて有りはしない。みんなみんな止めるべきよ!

入りたいとこへ行かせてやればいいジャン。

そうすれば大学だって本気で授業するようになると思うよ。
みんな東大や京大に行くって?ま、二三年は行くかもね。でもそのうち駄目と解れば行かなくなるよ。どこが面白いかで行かせればいいジャン。


(久留倍遺跡の全てが語られています!!)

なんだか卵かけご飯が美味しかった割には愚痴に聞こえますな。



(僕は全体の3分の1程度の第1部を書きました。疲れました!)


要するにやけくそ気味なんです。これだけいろんな仕事をしていると頭がごちゃごちゃ。さっき旅費の計算をしてたかと思うと、次は校正、その次は人の原稿を点検して印刷、すると突然学生が来たりして卒論モード、その次は原稿。そしてまた印刷。さらに今度の研究会の準備。とまた併行してヴェトナム調査の書類作り・・・・俺は聖徳太子かも知れないと。時々錯覚を起こす(ウソ)。

そろそろコーヒーもなくなってきたので、終わりにしよう。

真面目な話し、間もなく後二人の原稿が来ればできあがる第10回考古学研究会東海例会資料集「古代東海と奈良時代王権」、自分で言うのも何ですが、なかなかいいですね。皆さんとてもきちんとしてくださって、ほぼ約束も守っていただいて、ナナナント120頁を越す大作ができつつあるんです。発表がとても楽しみになってきました。
ちなみに確定したプログラムをもう一度ご紹介しておこう。

会場は広いので飛び入りでも構いませんよ。駐車場もいっぱいありますから、何台来ても大丈夫ですよ。但しお昼は近くにコンビニとかがないから自分で用意してきてくださいね。

そうそう、先ほど校了した『久留倍遺跡と朝明郡』久留倍遺跡を考える会発行も当日完成してるので買うことができますよ。楽しみにしていて下さい。

では、明日居眠りするわけにも行かないから今日は4時には寝ないとね。それまで後4時間半。最後の追い込みに入ります。

それにしても明日9時から18時までずっと立ちん坊、悲しい!!昔は交替で座れたのに、この頃は座るのも、トイレに行くのも不自由!こんなの文科省のいじめじゃないの!まともに座れるのは昼飯時だけ。アー虚しい!!

考古学研究会、面白そうだなと思ったら、よろしく

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第10回考古学研究会東海例会
開催要項
(1) テーマ 「古代東海と奈良時代王権」
(2) 主旨  古代の東海地方には、『日本書紀』や『続日本紀』・『萬葉集』などの多くの文献史料に、壬申の乱や聖武天皇関東行幸に関する詳細な史料が残されているほか、交通・流通・軍事の要となる三関が設置され、その立地や成立の政治的背景などについてさまざまな研究成果が発表されてきた。更に近年、鈴鹿関跡における初めての発掘調査、聖武天皇伊勢行幸地に関する調査研究が積み重ねられ、考古学からの新たな資料や研究成果も提示されつつある。そこで、考古学、文献史学、歴史地理学など多分野から、古代東海地方を中心とした王権の動向を素材に、奈良時代王権の特質について、最新の研究成果を提示、議論することにした。
(3) 開催概要(発表タイトルなどはいずれも仮題です)
1 日時  2008年2月2日(土)・3日(日)
2 会場 三重大学共通教育190番教室
3 研究報告・討論
 第1日(2日) 12:45~18:15
  開会挨拶 12:45~12:50 考古学研究会東海例会代表 中井正幸
  主旨説明 12:50~13:05  山中 章(三重大学) 
  第1テーマ:「聖武王権と東国行幸」
(1) 基調報告  13:10~14:10 榎村寛之(斎宮歴史博物館)「古代行幸論―特に伊勢・志摩地域との関わりから―」
(2) 研究報告-1 14:15~15:00 天野三恵子(京都大学・院)「聖武伊勢行幸論」
(3) 研究報告-2 15:15~16:15 山中 章(三重大学)「考古学からみた頓宮・行宮・離宮論」
(4) 調査報告  16:20~17:05 大崎哲人(滋賀県文化財保護協会)「粟津頓宮跡の発掘調査」
(5) ミニシンポ 17:15~18:15 「文献・考古資料からみた聖武東国行幸」司会山中 章 
コメント 山田邦和(同志社女子大学)「聖武・天武両天皇の首都構想」
  誌上参加 仁藤智子「日本古代の行幸」
 第2日(3日) 9:30~15:30
  第2テーマ:「古代王権と三関」
(1) 基調報告  9:30~10:30 舘野和己(奈良女子大学)「三関論」
(2) 研究報告-1 10:40~11:25 永田英明(東北大学)「奈良時代の王権と三關」
(3) 研究報告-2 11:25~12:10 木本雅康(長崎外国語大学)「東海道・東山道論」
(4) 研究報告-3 13:00~13:30 村居喜道(名古屋大学・院)「古代伊勢国の瓦生産と供給―軒瓦製作技法による考察―」奈良時代の王権と三関
(5) 調査報告  13:30~14:15 森川幸雄(亀山市教育委員会)「鈴鹿関跡の発掘調査」
(6) ミニシンポ 14:25~15:25 「文献・考古資料からみた三関」司会山中 章 
  コメント 鈴木拓也(近畿大学) 「鈴鹿関の軍事的機能と視覚的機能―東北城柵との比較から―」
誌上参加 山中 章「三関モデルにみる日本古代関の機能」
閉会の挨拶 15:25~15:30 次期開催地代表
4 情報交換会
 2日(土) 18:30~20:30 生協2階パセオ 会費4000円
5 連絡先 
〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 山中 章Tel/Fax 059-231-9148
e-mail yaa@human.mie-u.ac.jp



(これとは別に専門家の論考を集めた第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』の編集中なんです。こちらも130頁を超える大作となりました。ちょっと経費がかかりすぎるかな?皆さんカンパしてね)

「文化創生学科」を造りたいの条

2008-01-17 17:28:25 | yaasan随想
大学教育も半端じゃないと思ったらよろしくお願いします。


(別に私は三松堂の親戚でも関係者でももちろん宣伝を頼まれているわけでも何でもないんですが、とても感じがいいんです!!お菓子も、店員さんも、発送されて来る包装・梱包の仕方までもが・・・。こんなお店(文化)を造りたいんです)

 ここのところ研究室に籠もりきりなので文化財関係話題がない。と言うより、あと半月に迫った考古学研究会東海例会第10回大会に向けて、これからレジュメ集の編集やら会場の準備が待っているから、そのための雑用を次々とこなしていると言ったところだ。

 だから、私的な情報が多いのだが、今日我が子が1年ぶりに日本へ帰ってくる。正確には9月に通訳のため4・5日に日本にいたことはあるのだが、慌ただしく帰って行ったので、やはり一年ぶりと言うことか。一番待ち望んでいるのは、日常雑務を手伝ってもらえると、虎視眈々と狙っている我妻だろう。そして最も喜ぶのが、この一年間ほったらかしの我が家の猫たちに違いない(断っておくが私は大の猫嫌い!今の猫はもう12年近く我が家にいるので、さすがに、かつてほどの嫌悪感は無いのだが、先日も餌をやろうとするとなぜか引っかかれて、長く傷が消えなかった。昔なら「猫虐待」に走っていたのだが、娘の顔がちらつくからそれもできない。お互いに?ストレスはたまるばかりだ。

 さて帰ってきた娘がその後どうするのか?本人も家族も誰も判っていない。しかし、これで一応大学は終わり。いよいよ社会人である。フリーターというわけにも行かないだろうからどこかへ就職しなければならないのだが・・・。中国語が話せるからと言って、特に変わった仕事があるわけではないし、北京オリンピックのボランテアでもしようかとおもったらしいのだが、北京の空気の余りの悪さにそれも断念。

 今時の若者ですなー(他人事みたい(笑))

 そんな中、明後日からセンター試験が始まる。また新しい学生が選ばれてくるわけである。来年度はどんな学生と会えるのか楽しみなのだが、受け入れる大学がどうもおかしい。

 昨日も延々二時間の会議をしたのだが、学部の将来をどの様に考えているのか、若い先生方に全くその積極的な姿が見えないのである。組織なんて関係ねー、と言った感じか。自分さえいいところへ行って、自由に研究できればそれでいいんだという感じがしてならなかった。そんなことで日本の学問、文化は維持できるのだろうか。もちろん学問は個人がやるものだ。個人の能力が秀でていなければ意味がない。しかし、それとて社会が有ってこそ意味をなすのであって、社会から遊離した学問は学問とは言わない。果たしてそれが解って仰っているのだろうかと思わざるを得ない発言が相次いだ。悲しい。年寄りが心配してどうするんや?と声が聞こえてきそうだが、でも心配でならない。

 私はこんな意見を表明した。
 新しく「文化創生学科」を立ち上げて(名前が堅苦しいかもネ・・・お許しあれ)地域社会に入って各地域固有の文化を掘り起こし、これを世界へ発信する人材を輩出する学科の創設である。

 だからといって別にこれはこれまでにも自然の形でやってきたことなのである。文科省が盛んに「どんな人材をどの様な教育をしてどこへ輩出するのか明確に答えよ」と言うからその実績に沿ってお答えしているだけなのである。

 過去10年間に私が関係した学生は60人に上る。もちろん私立大学に比べれば各段に少ない数字である。但し、少数精鋭を謳う国立大学としては多い方である(考古学関係では平均的なところであろうか)。その中の16人が歴史、考古学、博物館、市役所に勤め、4人が大学院博士課程に進学して、二人が修士で勉強している予備軍である。この就職冬の時代にあってはかなりいい成績ではないかと自負している。

 そして何よりもそうして就職した学生達がそれなりに活躍してくれていることである。彼らこそ、これから地域の核になって、地域文化創生の先導者として活躍する(しなければならない)人々である。今地球は大量生産大量消費のツケが回ってきて、もう一度地域地域の個性有る社会の復活を遂げなければならない事態に陥りつつある。世界遺産ブームも、一方では巨大資本の観光資源の利用という側面はあるにしても、その様な利用がいずれ行き詰まることは目に見えている。
 今一度地域固有の文化、自然、歴史、社会を見直し、その中から地球環境に優しい自立的、循環的社会の構築が求められている。

 その担い手として、実践的経験を積んだ学芸員、司書、発掘調査技師、古文書解読技術獲得者は貴重な人材である。これまで以上に実践的経験を早くから積ませ、基礎能力を確立した上で社会に送り出そうというのである。もちろん社会でのフィールドワークがベースになるわけで、地域のニーズから離れることはあり得ない。

 この「ニーズ」と言う言葉が先生方はお嫌いのようで、私達はなんかの役に立つために学問しているのではない。深い教養を培うためにやっているんだと仰るのである。もちろんそのことはよく判るのである。何でもかんでも功利主義、実利主義を狙う現代社会に反発し、原理原則をきちんと学ぶ学生を育てたいという思いはよく判るのである。しかし、実際はそれは言葉の上での理想に過ぎず、今の学生は必ずしもそれを真には受け取っていないのである。結局3年生の終わりには就職活動に没頭し、学問の事など全く念頭にない生活に入り、内定をもらった頃には形だけの卒論を書く時間しか残っていないのである。

 それなら、彼らを最初からきちんとした目的に沿って教育し、外に出すと明言することがそんなに悪い事とも思えないのである。と言うのも、民間へ就職した学生の3割近くが1年以内にその会社を辞め、多くが公務員試験に挑戦し、受かっていくという実態があるのである。それなら最初からこれを目指して、その職業においてこんな仕事を担うために大学で勉強してみないか?と言ってみるのも悪くないと思うのだがどうだろう。

 私は地域固有の文化は世界と繋がっていると思う。

 最近あることをきっかけに島根県津和野にある三松堂という和菓子やさんを知った。まずお菓子が美味しい!!のである。これが第一条件である。当然。先日ベトナムにもお土産に持っていった。

 このお店の若社長?が始めたのだろうか?いきさつはよく知らないが実にうまくインターネットを使って、活動をしている。それだけなら特に珍しくはないのだろうが、一つ一つの品々が心がこもっているのである。つまり技術や思想や文化が詰まったお菓子が季節毎に作られ、販売されているのである。恐らくこれが津和野という町の持っている伝統と歴史の文化力ではないかと思うのである。そして若社長という人材がこれを掘り起こし、菓子に心を込めて発信したと理解した(実は今我が研究室所属の学生にこのお店を勧めている。お菓子作りが大好きだという男子学生で、時々いろんなケーキを作ってきてみんなに振る舞ってくれる。)。

(イチゴ大好き人間にとってはたまらないしな、イチゴ大福、食べたいなー内の学生是非採用してくださいね。ホントいい子ですよ。ホントは考古学させたいんですが、でもいいジャンね、考古学の素養のあるお菓子屋の従業員。かれからどんな発想が生まれるかかワクワクしません?!これが文化だと僕は思うんです!!!)


 そうしたモノが世界中で作られ、交流することが人間の人間らしい交流を生みだし、戦争を放棄する心の形成になると私は思うのである。

 個を大切にしつつ繋がりを深める教育の場として三重大学に「文化創生学科」を造りたく思っているのですが、どう思われます?

 文化創生学科面白いねと思ったらよろしく

卒論の時期がやってきたの条

2008-01-16 02:49:08 | 三重大学考古学研究室情報
卒論頑張ってね!と思ったらよろしくお願いします。

 毎年恒例の?卒業論文の締め切り日が迫ってきた。四年生達は年末からほとんど隠りっきりなのでそろそろ疲労もピークに達しつつある。

 そんな彼らの格好の餌が私である。隙あらば相談と襲いかかってくる。そろそろ仕上げの時期なのだが、未だに論旨不明瞭な学生、結論が見えない学生がいるのだから困ったものだ。
 しかし、それでも400字詰め原稿用紙60枚分近い日本語を書き並べるのだから、恐らく彼らにとって生涯で最も希有な経験をしている時期だと思う。

 だから私も決していやいや相手をしているわけではなく、それなりに真剣に文章を読み、論旨のおかしいところを直し、文章の展開の仕方を指導し、時には叱り、時にはおだててあと6日と迫った卒論を少しでもいいものに仕立ててやろうと協力するのである。

 疲れる!!

 そんな中で今年は考古学でありながら考古資料をほとんど使わない近世の鉱山に関する卒論を書いている学生がいる。一年程前に紹介したことのある治田銀銅山に関する論文である。旧北勢町に所在した治田銀銅山については京都大学の小葉田先生の専論があり、新たに述べることはないかと想っていたのだが、意外にもその経営方法や採掘の姿、運搬径路など新しい解釈が生まれたのである。

 本当は現地をもっともっと歩いて、間歩や鉱脈の跡、鉱滓の収集などをやりたいのだが、彼女の関心は余り物には向かないらしい。よくそんなので考古学に来たなと不思議におもうのだが、マ、これが地方大学の現実である。

 それでもまだ国立大学では卒論があるからいいのだが、近年私立大学では卒論を科さないところが増えているという。もちろん、国立大学での卒論の質の低下は目を覆うばかりなのだが、書かさないよりはましである。こんな教育をしていて、本当に日本の将来がまともに立ちゆくのだろうか。とても心配だ。

 今回の卒論で、治田銀銅山の鉱物が治田峠を越えて近江に入り、中山道から東海道を経て大津・山科から伏見に運ばれたことが明確になった。特に面白いのが馬に乗せる荷が全て3の倍数になっていることである。つまり馬の背中に振り分けて乗せ、山越えの難所を運ばせたのである。

 石見銀山でも取られた陸路を運ぶという、貴重な鉱物資源ならではの扱いがここに見て取れるのである。

 ところで、治田銀銅山の銀や銅は開発当初、豊臣秀頼の正室千姫の経済的基盤として与えられたものであった。言うまでもなく千姫は家康の孫、二代将軍秀忠の娘にして、信長の血まで引くという数奇な運命を辿った人物である。だからこそ彼女は大阪夏の陣に際し助け出されたに違いない。まさに戦国時代を象徴する女性であった。

 その彼女が桑名藩主本多忠刻の正室となった事が、治田銀銅山の開発を促し、江戸初期の産出量の多さが、鉱山経営の幕府直轄を促したのである。当初は石見銀山に匹敵するほどの産出量であった治田も、千姫が出家し、経済的基盤の保証が不必要になった頃から産出量が急激に減少し、幕府直轄が停止された。山師の請負制になると山間に小規模な間歩が掘削され、細々と採鉱が維持されるのである。しかし、伏見への荷のあり方を見るとそれなりに活動は維持され続けたようで、毎日のように少しずづ銅が運び出されている姿を見ることができる。

 現地に行けばかつての精錬場の一角を見ることができるし、これに附属する建物も確認できる。いつの日か発掘調査し、石見銀山と共に世界遺産に追加登録されることを願っている。そうすれば伊勢にはまた新しい世界遺産が増えることになるのである。世界遺産学科の素地は十分に揃っているのである。

 学生達の拙い卒業研究が、将来の三重大学の可能性を示してくれた。しかし、これを受け入れるべき教官の意識がとてもこれに応えられる状況ではない。従来通りの、自分達の殻に閉じこもった学問??に固執する人々の余りに多いこと。

 悲劇である。

治田銀銅山も世界遺産に!と思ったらもよろしく

神童から凡人への道の条

2008-01-15 04:44:06 | yaasan随想
このまま神童だといいのにねと思ったらよろしくお願いします。
年末のニュースで、チンパンジーの子供の記憶力が東大生のそれを上回るという記事が載っていた。瞬間的に画面に現れる数字を記憶し即座に番号順にボタンを押すという所作のテストだ。もちろん私ならチンパンジーに負けるのは仕方がないにしても、若者が負けるとは・・・、と思ったものである。
しかし、正月以来京都の家にいることが多く、3歳と4ヶ月余の息子の息子の面倒を見さされている内に面白いことに気付いた。
「ひいき目ではなくこの頃の子供というのはみんな神童でいいんじゃないか!」と。
もちろん将来彼が神童のままでいるとまでは思っていないのである。あくまでここ数年の間だけのことである。2歳頃までせいぜい単語を並べていたに過ぎない幼児が、3歳を前にして突然文章を喋り出し、今や普通に大人と会話するのである。ここ数ヶ月は、恐竜に凝っていて、毎日のように恐竜図鑑を持ち出し、やれここを読め、それこれは何だと質問攻めに逢うのである。
 お陰で?トリケラトプスだの、ティラノザウルスだの、ステゴザウルスだの、ブラキオザウルスだの舌を噛みそうな名前の恐竜を覚えさせられる羽目になった。彼はもっとたくさん知っているらしいのだが、私が理解できない(覚えきれない)だけなのだ。
 文字も知らない彼らが一体どうやってこの複雑な名前を覚えるのだろうか?きっと音が頼りに違いない。我々は音をそのまま覚えるのは苦手だ。音に何か意味を持たせたり、形を持たせないことにはとても覚えられない。だからステゴザウルスは→捨て子と覚える、等である。ところが彼らは音を十分に識別し、それで覚えているらしい。そういえば彼らは意味もよく判らないはずのいろんな歌を平気で歌う。NHKの教育テレビでは英語で話そうという番組があるが、それをいつも視ている彼は、犬は?→ドッグ、猫は?キャット、1は?ワンとスラスラ答えるのである。
 予断と偏見が無い新鮮な脳みそにはこんな音が脳にしみこむようにして記憶されていくのだろう。ところがこれが文章に変換される時にはどんな劇的な変化が起こるのだろうか?英会話も英作文も大の苦手な私には全く想像も付かないのだが、毎日毎日聞いている「言葉」のルールをそれとなく理解するのだろうか。それとも文法を理解する能力がある日突然できるのだろうか?とにかくとてつもない地殻変動が脳の中で起こるに違いない。
 さらに最近の彼の興味は「文語り作り」なのである。
 「昔々ある所に・・・」で始まるお話しを適当にいろんな形で創作して話す内に、彼の自作の物語が語られ出したのである。先日などはお話しの中に突然「栗山」が飛び出してきてびっくりした。それといのも、目の前に息子が買ってきた天津甘栗があったかららしい。甘栗と栗山がどんな発想で結びつくのかさっぱりわからないが、きっと何処かで断片的に抱えていた情報が面前の栗を視て即座に反応したのだろう。さらに面白いことに、彼が創作を話すときには声のトーンも、訛りも変わるのである。普通は京都弁なのに、突然標準語臭くなるのである。きっと保育園の先生方の話し口調を真似ているのだろう。
 今彼は様々な創作に燃えている。そんな意欲を摘み取らないように、忙しいにも関わらず相手をする羽目になって史まった。

 そんな彼も知っている恐竜絶滅の背景は、余りに劇的だ。今地球環境が悪化し、氷河が溶け、森林が燃え、海が死に絶えていく姿がオーバーラップする。このままでは彼らが成人する頃まで地球がまともに存在するか怪しくなってきた。これまで、子供の未来は前途洋々たるものだと信じられてきた。しかし、このままだと、アメリカナイズされた、資本主義国家の資源の無駄遣いが、地球環境をさらに悪化させるのは間違いない。
 そして、中国の登小平が改革開放路線を打ち出した時から、見えていたことなのである。今更、資本主義へ誘った中国やロシアを、基に戻そうとしても戻るはずがない。止めることは、指導者の失政・失脚を意味するからである。
 
 しかし中国やロシアだけが問題なのではない。日本もまた、この美しい国土を破壊し尽くし、汚しきってもなお開発を止めようとしない連中が牛耳っている。洞爺湖サミットなんてちゃんちゃらおかしいや!相変わらず懲りない連中が、開発、効率的儲けにうつつを抜かし、国土を疲弊させているのである。

 そんな地球の未来に希望があるのだろうか。この神童達が神童のままでいられなくてもいいのだが、せめて凡人となってもこの地球が暮らすに相応しい星であることを願わずにはいられない。
 そのためには経済中心主義を断ち切らねばならない。
 「効率」的に作り出された膨大なムダが、世界を覆っている。
 徹底した合理化で生み出された不必要な物品が膨大に造り続けられている。
 私達考古学を学ぶものにとって、今ほど人類が歩んできた歴史を振り返り、その反省の上に立って地球規模で将来計画を立てなければならない時期はない。

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真冬の斑鳩の里の思ひ出の条

2008-01-13 22:16:37 | yaasan随想
真冬の法隆寺とは粋だねと思ったらよろしくお願いします。
 
 今からちょうど40年昔、浪人中の私は、間もなく試験だというのに、急に思い立って、真冬の法隆寺を訪れたことがある。恐らく試験から逃避したかったのだろう。
 京都から自転車に乗って、4時間ほどかかって行った。だーれもいなかった。
 シーンとしていた。切れるような寒さの中で、塔・金堂・東院と巡った。金堂の中はとびきり寒く凍りそうだった。でもその寒さが身を引き締め、荘厳な世界をさらに厳粛なものにしてくれた。
 私には以前紹介したことがある伯父のところに従姉妹が三人いた。一人はもう20年も前に癌でなくなって今は二人しか残っていない。その従姉妹達も小学校の3年生までは京都にいた。そこが私の本籍地で、一時一緒に住んでいたことがある。小学校も私と同い年の従姉妹とは同じクラスだった。私の父の兄だから本家筋になる。その伯父が勤務先の奈良女子大に近いということで、中京の家を売って、生駒に移ったのだが、その直後に伯父が亡くなった。以来、私は休みごとに自転車を走らせてはその従姉妹の家に遊びに行った。だから自転車で生駒まで行くことはなんにも苦にならなかったのである。

 だから、思い立って、法隆寺に行った。どうして法隆寺だったのか今はもうよく覚えていない。歴史の勉強の中でふと気になったのかも知れない。

 とてもとても印象的だった。今、毎週のように飛鳥や奈良を通りながら、なかなかそこで降りることができない。何ともゆとりのない生活だ。受験生だったときですら、貴重な時間を割いて法隆寺を訪ねることができたというのに、どうして今の私は行けないのだろうか?悲しくなる。

 そういえば同じ年の3月だった。一期校の試験が済んだ後、また今年も駄目か!?と思ったのか、あるいはもうこれで受験も終わりだと思ったのか、東大寺のお水取りにも行った。夕方から東大寺を歩き回り、松明の荒行が進む頃二月堂に入り、何処かの信徒さんの部屋であの焦げ臭い臭いをかぎながら、朝までその部屋でうずくまっていたことがある。
 まだ松明の臭いの残る朝の二月堂もまたとてもすがすがしい風景だった。朝靄の中二月堂の階段を下りながら、生駒の従姉妹の家へ自転車を走らせた。

 もちろん、伯母も、従姉妹も、そしてその頃まだ元気だった祖父も驚いていた。早朝に突然現れた甥に何が起こったのかと訝った。

 私は平気で、お水取りに行ってきたと言った。

 そのまま一晩泊めてもらって、明くる日京都へ帰った。

 そんな浮世離れした世界をもう一度味わうことはできないのだろうか。いや、是非味わってみたい。

 フッツと、飛鳥の駅に降り立って、誰もいない遺跡を見ることができれば・・・。

 なぜか突然そんなことを思い出した。

青春の思い出も時には語りたくなるちょっぴり悲しくも、こそばがゆくもある



永井さんからの手紙の条

2008-01-13 01:37:23 | yaasan随想
永井さん有り難うございます、と思ったらよろしくお願いします。

 今朝、永井路子さんから速達でお便りが届いた。待ちに待った原稿の到着である。
 昨年末より、久留倍遺跡を考える会の皆さん達と『久留倍遺跡と二人の天皇』と題する冊子を作っていることは折に触れて書いてきた。
 その巻頭を飾るメッセージを作家の永井路子さんにお願いしていたのだ。お約束は10日だった。たった1日遅れただけだった。私も含めた研究者の原稿の遅れなどからするととても「遅れた」などとは言えない締め切り厳守の有り難い原稿だった。
 でもほんの少し不安に思っていたことは事実だった。なぜなら永井さんはお願いしたらほとんど期日を超えられることはないからだ。

 そんな思いで封を切った。

 びっくりした。

 「昨年末に手術をしました」とあるのである。

 エエッツ?!

 「昨年末?確かお会いしたのは2007年11月18日。その時はお元気だった。・・・・?まさか一昨年のことなのかな・・・?」

 それも狭心症のためのカテーテルを入れる手術。

 「エエッツ!」

 まだ病院に通っていらっしゃるという。
 でも目の前には原稿がある。
 「ど、どういうこと?」
 「まさか病床で・・・・」

 しかし出版まであと3週間を切っている。とにかく急いでワープロに打たなければ。心臓がバクバク打つのを感じながら、大急ぎで原稿の電算化をした。そして、恐る恐るご自宅にお電話をかけた。
 永井さんが出られた!

 やはりこの年末のことだったというのだ。

 もう何と申し上げていいのやら、とにかく、「本当に申し訳ありません!そんな大変なときに、私達のためにお原稿を頂き!本当に申し訳ありません」
何度も何度もお詫び申し上げた。

 でも、とてもとても嬉しかったのは、ご主人の黒板伸夫先生が、
 「これは書いて差し上げたら」と仰ってくださったという事を聞いたときだった。
 先生はいつも永井さんとご一緒の時にはご遠慮がちにお側にお付きになっていらっしゃる。でも、そのお優しい眼は常に永井さんに向けられ、もし我妻が躓くことでもあろうなら直ぐに我が身を投げ出して救おうというそんなお心が伝わるくらい「集中」してお側にいらっしゃるのである。時にお食事をご一緒させていただいても、じっと彼女の話に聞き入りながら、じっとその眼をご覧になっているのである。それくらい黒板先生は永井さんの全てにお気を遣っていらっしゃるのである。

 その黒板先生が、手術なさったばかりの永井さんに
 「10日までなら何とかなるでしょう」とお声かけられたという。

 これほど嬉しいお言葉はない。もし事前にわかっていたなら、
 「済みません、大変なときにお願いをしてしまって。私共の原稿はもう結構です。」と申し上げたに違いない。私達の原稿のためにお身体がさらに悪くなられたのでは、お詫びのしようがない。 他のいくつかの原稿はお断りになったとも聞く。

 そんな永井さんが書いて下さった宝物の原稿は額に入れて飾っておくつもりだ。そのさわりを少し。

特別寄稿

 歴史の跫音を聞きながら

                         永井路子

 皇子とそのきさきを囲むようにして足早に駆け抜けて行く騎馬隊。そして、ときには、やや荘重に威厳を湛えて過ぎて行く一群。天武・聖武両天皇の歴史の跫音です。
 それに重ねて、いま、力強く歴史を確かめようとしている足音。あるいは好奇心を溢れさせたロマン探求派のさざめき。
 久留倍遺跡を思うとき、私の耳にはさまざまの響きが伝わってきます。歩くこと、歴史を感じること、そして感動すること。それが真に歴史を読むことであり、その思いが、かつての歴史の跫音をよみがえらせ、久留倍官衙遺跡を国史跡に指定させた原動力ではないか、と思っています。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 本当に有り難うございました。

 2月2日には完成します。ご希望の方は下記までお申し込み下さい。
 〒514-8507 津市栗真町屋町1577 三重大学人文学部 Tel/Fax 059-231-9148
 三重大学人文学部考古学研究室 山中章

 冊子そのものはA4版フルカラー100頁余の豪華版だ。1冊700円の予定です(安すぎるから1000円でもいいのに・・・、と言うのですが、久留倍遺跡の皆様は、市民の方々の応援でできた本ですからと、原価で販売される予定だ。郵送料がまだ不明なのだが、何とか300円以内で留めたい。是非お申し込みいただければと思う。



(2004年7月19日、うだるような暑さの久留倍遺跡の現場へ、ご夫妻と同志社女子大学教授朧谷寿先生の三人でお越し下さった。周辺の遺跡にも御案内したが、これは志氏神社古墳での一コマ。右から朧谷先生、永井さん、黒板先生、筆者)

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山田博士の祟りの条

2008-01-09 23:09:05 | yaasan随想
山田一族の祟り怖いねと思ったらよろしくお願いします。

 年初からの山田博士の不吉な行動がとうとう形を取って現れ始めました。
 大学のランが繋がらなくなったのです。
 学生の話によると正月が開けしばらくといいますから丁度博士が藤森に現れた頃です。仕方なく、私の隣にいらっしゃる山田雄司博士のところでプリンターをお借りしたり、ランの状態を確認させてもらっている内に判明したのは、どうも今回の祟りは山田雄司博士のなせる技のようなのです。

 博士は最近吉川弘文館から『跋扈する怨霊』なる不吉な御著書を出版なさり、あちこちから引っ張りだこの状態です。それくらい怨霊の威力が強いのです。どうも、もう一人の山田博士が藤森神社にお参りしたのも本物の怨霊博士山田雄司博士の影響によるもののようなのです。

 その山田邦和博士を馬鹿にしたものだから雄司博士の祟り神がお怒りになったらしいのです。その仕返しに私のランを切断し、ネットが繋がらないようにされたようです。穴恐ろしや・・・。

 というわけで折角昨日帰っても今日の午前中までどうしようもなく、なかなかまともな思考ができなかったのです。その上、今日は最悪の教授会。本当にこのままではどっかの起業家連中が言っているように国立大学文化系なんて半分以下にされる!

 僕はどうせ無くなるまでに定年だからいいですよ。でも若い人達はどうするつもりなんですかね。いざとなったらどっかに行けばいいと思っているんですかね。もちろん山田雄司博士は放っておいても何処かから引き抜きに来るはず。でも他の人は大丈夫なんだろうか?人事ながら心配になる。だって、あんまり本を書いたとも聞かないし、学会で有名でもなさそうだし・・・。生首は切らんだろうとでも思っているんですかね。

 いっそのこと強力な山田雄司博士の念力でみんなにやる気の精を吹きかけてもらおうかしら。それとも・・・・!

 というわけで嫌な教授会では一波乱あったけれど、マ、何とか切り抜けて、比較的早くに終わり。その後新年会だったけれどもちろん僕はパス!!だって、ランの修理があったので。とは言っても自分で直せるわけが無く、担当の超親切な先生に二時間もかけて直してもらった。有り難うございました。これで学生に降りかかった災難は除去されました。見たか!やはり正義は勝つ?!?

 そんなこんなでブログを書き始めたのだが、ここで最後の祟り。やっと書いてアップ、というところで接続が切れて、一からやり直し。結局最初の原稿とは全く異なる内容に。なにせ昨日の夜からほとんどずっとこの一角に居るもんだから外の情報に疎い。だから絵もない。そこで昨夜買ってきた新聞をアップ。読めればいいのにね。


(中日新聞は私の説明を理解していただいたようで石垣(築地塀の基礎)をメインにして記事を書いてくださった様です。電話で30分ほど話しましたから成果がありました。有り難うございました。)


(毎日新聞の方は、話しているときからどうも腑に落ちない様子で、何度も鋳型に戻ろうとなさっていました。予想通り、結局市の発表通りの内容でした。残念!!)

やっぱり新聞だけは中日だ?!と思ったらもよろしくね

多気北畠氏遺跡報道発表の条

2008-01-08 18:24:07 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
ミニ京都北畠だよねと思ったらよろしくお願いします。


(多気北畠遺跡で発見された様々な石組み遺構。井戸状のもの有り、方形にまとめられて水路の付くもの有り、礎石状の巨大なもの有りと多彩だ。)

 正式には1月11日からなのだが、僕の今年の仕事始めは今日からだ。
 皆さんの年賀状に書いてあることは無理すんな!が圧倒的で、本当に有り難いことなのだが、そうは言われてもいろいろなところからいろいろなことを頼まれると応えざるを得ない。
 先日もある知人が電話してきて、
「仕事を減らしてゆったりして生きるか、短く生きるかやけど・・・」といわれ、つい、後者と答えたが、実際はそう思っているわけでもない。もちろん出来るだけ長生きして楽しみたいとは思うのだが、今の世の中あんまり楽しいことが少なすぎる。こちらが何かに関わって嫌がらせをされるのならそれもマ、仕方がないかと思えるのだが、何もしていないのに相手から進んで攻撃されると、さすがにこちらも頭に来る。そんなことが余りに多すぎて、楽しく生きていけないのである(ああいう嫌がらせをする人たちのハートというのはどうなっているんですかね。とても頑丈なのでしょうね。私には真似が出来ない!)。

 もちろん大学の「仕事」も同じ。一生懸命新しいことに挑戦しようとする先生の足を引っ張って自分達と同じ低見に引っ張ってこようとする人が余りに多すぎる。やっかみで嫌がらせをされるのだからたまったもんではない。

 だから、せめてわざわざ頼んできていただける仕事は、楽しいに違いないので、これには応えようと頑張るだけなんです。そうすると今の私の能力を超えてしまうので、身体が持たなくなるようです。
 そうすると「しゃない!」といつもの口癖がでるんです。

 今日は地元の新聞に私のコメントが載ったと言って学生がわざわざメールしてきてくれました。有り難いことです。記者からの問い合わせは私にさせろと、委員会で稲本先生が仰ったので、資料でも届くのかと思っていたが、残念ながら記者発表の内容を知る材料は届かなかった。どうも新聞記者の電話での応答を聞いていると
「東海地方では初めて刀装具の鋳型が出た!」が発表のメイン内容だったらしい。
「エエッツ?やめて!古くさい手法でこんなに内容豊かな調査成果を矮小化しないで!!」
思わず叫びたくなった。



(これがその「東海初」の代物なんです。しかしネ・・・、考古学って宝探しじゃないんだから、いずれ出るに違いない-だって刀は山ほど造られ、使われていたことが明々白々。-ものの発見の順番がたまたま早かったからってどういう事でもないでしょう。)



(そしてこれが刀装具を造っていた人達の工房址?何だそうですが・・・そうかも知れないしそうでもないかも知れない。余りに柱も不揃いで、間隔もまばら、なんぼ何でもそんなええ加減な建物で造るのかな?と疑問に思った。これ、私だけじゃない。他の委員の先生の感想でもある。)
 そこで、先日の委員会でのやりとりを参考に、遺構の評価を丹念にお話ししたんだけれど、おそらく発掘調査成果を鳥瞰図にでも描いてあげないと今の新聞記者さんには理解するのが難しかったに違いない。
 いつの間にこんな話に矮小化されたんだ?今更東海地方で初めてなんて、どうでもいい事じゃないですか。もっと本質的な評価が立派にあるのに、これを説明できないようでは記者発表の意味がない。こんな忸怩たる思いを抱えながら何とか今回の調査成果をお話しした。


(現場では直行すると思われる二列の石組み遺構が認められた。当初これを東西道路と直行する南北道路の境だと考えたが、どうもそうではなさそうである。昨年の調査も含めて未だに推定されていた南北道路の痕跡がはっきりしないのである。これは新たな問題点なのだが、とりあえず東西道路が確定し、その周辺部が荘厳化されていたことが大事だと思う。)


(東西築地塀の基礎。基礎に石垣を構築し、その上に壁土を積み上げて表面を漆喰で飾る白壁があったものと思われる。)

 委員会でも申し上げたように(12月29日ブログ記事参照)今回の発見の大きな意義は、それこそ、日本全国が刮目すべき多気北畠遺跡群の優雅な姿の確認なのです。大袈裟に言えば、私はここに北畠はミニ京都を再現しようとしていたと見るのです。ただの伊勢国司ではない、王権と深いつながりを持っていた北畠氏のプライドをかけて、この地に憧れの都を再現しようとした。そう考えることの出来る材料が発見できたと思ったのです。
 東海地方初の刀装具なんて、一体どんな意味があるのだろうか?文化財に対して興味のない方もいるであろう新聞記者が食いついてくれやすそうな材料のみを提供して、理解していただくには相当の時間と労力、そして能力が必要な成果については避けてしまったとしか思えないのです。悲しい!!
 それによって、かえって、全国版に載ってもいい内容が小さな小さな三重版に貶められ(せいぜい東海版に載るだけ)、日本全国の人々が情報から阻害されるという重大なミスを犯す結果になるのです。私は何も誇大妄想を語っているつもりは毛頭ありません。なぜか三重県の人々は自分達の抱えている遺跡の評価を遠慮がちに語ろうとするのです。もちろん地域固有の遺跡が価値がないとは絶対に言うつもりはありません。しかし、地方において日本史全体に影響を与えることの出来る遺跡はそう多くはないのです。もしその様な遺跡(文化遺産)があればそれはそれなりに郷土の誇りになることは間違いないのです。だったらその様に評価すべき遺跡は調査者がきちんと評価してやらなければ誰も知ることができなくなるのではないでしょうか。それくらい調査担当者は大きな責務を負って、発掘調査しなければならないと思うのです。もちろん新聞記者の方々だって、垂れ流される情報を一方的に信じて、ハイそうですかと書くのでは単なる御用機関になるわけですから、たとえ文化財のように社会に大した影響がない話題(私は決してそうは思わないが)であっても、きちんと取材すべきとは思うのです。わざわざ電話をしてくださった中日新聞と毎日新聞(他の新聞社もしてくださったのかも知れないが私が大学にいなかったので連絡が付かなかったのかも知れない)の方は明らかに確認の取材をなさって下さったわけで、そのお陰で、判りにくかったであろう私の説明を何とか理解して、伝えてくださったのであるから有り難いことである。


(構造はこれ以上発掘調査できないとのことで不明だが、こんなにたくさんの石を集めてくる遺構なんてとても特殊!これが刀装具工人の使っていたものとはとても思えない!)

 やはり問題はつまらない迎合する情報を流した行政側にあるように思われる(もちろんこれとて、私は記者発表の席上にいたわけでもないので、実際の所は知らないので不確かな情報を元に批判すべきではないのだが、・・・)。
 要するに、今回の発見は北畠遺跡群のイメージを立体化させるに相応しいとてもとても重要な発見だったのです。そのことを今日ここで表明しておきたいのです。そして12日(土)13時30分から開かれる現地説明会へ行ってみてください。当日北畠神社へ13時集合だそうです。詳細は059-229-3251津市教育委員会文化課まで。

 今回の成果は、多気北畠氏遺跡が、朝倉氏という武士が造った一乗谷遺跡と対比する上で欠かせない遺跡であることを初めて発掘調査資料によって明らかにすることが出来た事例なのです。室町時代に、北陸の朝倉氏とは異なる形で伊勢の北畠氏が多気の地に壮麗なミニ京都を造った!これで十分ではないですか。
 その壮麗な姿は、館と菩提寺を結ぶ直線道沿いに、まるで京都の東福寺界隈を歩いているかのような錯覚を起こさせる白壁の塀が荘厳な雰囲気を醸しだし、西の政治的空間としての館跡と東の宗教的空間という対比を見事に演出して見せてくれているのである。恐らくその塀によって囲われた内部には文字の書かれた資料によって想定するに尼寺または尼を呼び寄せることのできた人物の屋敷が展開したのでは無かろうか。

 貴族趣味の町造りは周防の大内氏なども目指したものですが、北畠こそ、没落したとはいえ、王権との繋がりを意識しながら、地方において何とかその再興を願って町造りを行っていたと見ることができるのではないでしょうか。

 ミニ京都多気北畠、行ってみたいなと思ったらもよろしく

山口大学橋本科研「都城の諸施設」報告の条

2008-01-07 19:23:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 5日6日は山口大学の橋本義則さんの主催する科学研究費「東アジア諸国における都城及び都城制の比較を通じてみた日本古代宮都の通時的研究」による第3回研究会であった。今回のテーマは「都城内の諸施設」であった。

お正月早々お勉強とは偉いねと思ったらよろしくお願いします。
 

(朴先生との質疑応答。)
 まず東アジアにおける「坊墻制」(ぼうしょうせい)による都城の成立過程を来日中のソウル大学の朴漢済先生の「遊牧国家の城郭」と題した基調報告があり、「坊墻制」(日本で言うところの条坊を持った都城の成立)の起源が遊牧国家による半農半牧地域への進出、そして漢人社会での国家建設の過程にあったという壮大なスケールのお話を伺うことができた。

 朴先生の報告の中でとても印象に残ったのが、遊牧民が半農半牧地帯から漢人社会へ進出する過程での支配形態の変更の姿であった。
 部族国家を解体する過程で、各部族に富をもたらせていた商人や手工業者を一定の箇所に集め管理する事によって新たに形成された王権の財政基盤を確立するため、新たな政治的拠点に市が形成された。市には様々な手工業者が配置され、商品を生産させて、市で売らせ、その富を国家が掌握するシステムを確立した。その市を中心とした空間をより合理的に管理するために形成されたのが「坊墻」であった。坊墻は当初、経済的基盤確立のために形成されたが、解体した部族国家の長達を居住させる空間としても整備され、等級に応じて坊墻に差別が設けられた。この発展過程の延長上に隋唐長安・洛陽の坊墻制を備えた都城制が形成れるというのである。
 漢魏長安城からは生まれ得ない発想がここにあるという指摘は、これまで何でもかんでも漢人社会に原形を求め、思想的根拠を求めてきた日本の古代宮都研究者には大きな衝撃を与える発表であった。

 但し、以前から「藤原京」が十条十坊の方形を取り、その中心に宮城が配されて、『周礼』の思想に基ずくものだという主張に大反対の私にはとても都合のいい、判りやすい説であった。近年、『周礼』そのものの評価などから破綻の目立ってきた「藤原京」『周礼』モデル説ではあるが、この様なより本質的な議論(形態の類似などという表面的なものではない)が交わされることにより、停滞に停滞を重ねる日本の古代宮都研究に新たな刺激が与えられることを大歓迎したものである。

 初日は結局この朴先生の壮大な報告に議論が集中し、予定の3人の先生方の報告は全て翌日に回され、直ちに「フグ」に移った。


(美味しかった!こんなの毎日食ってたら勉強する気にもなれん罠・・・そんなことあるわけ無い!(笑))
 さすが本場に近い山口の「ふくすけ」のフグはとても美味しかった。特に意外だったのが、フグの白子焼き。癖もなくとてもさっぱりしていて大きな白子を丸かじり、最高!の声があちこちから上がった。
 フグのひれ酒も堪能!日頃は日本酒を飲まない僕も4杯も飲んでしまった。美味しかった!

 そんなこんなで楽しい食事を頂いて翌6日は、中国の都城については魏晋洛陽城から南宋臨安城までを中央大学の妹尾達彦さん、その後の明清南京・北京を山形大学の新宮学さん、新羅慶州を滋賀県立大学の田中俊明さんにお話しいただいた。
 特に、妹尾達彦さんの五徳終始説に基づく王朝の交替、都城建設の変遷という解釈は、前日の朴先生の御報告と合わせてとても壮大で論理的で興味深いもので江あった。さらに、お得意の長安城の坊墻利用の実態を文献の詳細な分析からご紹介いただき、長安城東部の崇仁坊資聖寺に住んだ円仁の記録『日唐求法巡礼行記』の分析から行われた東市周辺の実態はまるでその地に生活するかのようなリアルさをもって解説された。日本の市周辺部における手工業者の集中と合わせて、市の形成を考える上で大いに検討すべき報告であった。

 本来なら彼らにこそ聞いていただきたかったのだが、事情でこれで外国史関係の方々は退席され、日本の研究者だけが残って日本古代都城の諸施設をみることになった。とても残念だった。改めて夏に一部を再現して残された報告をしてもらうことになった。私も今回の研究会で得られた成果を基に改めて日本の古代都城の諸施設のあり方について考えをまとめさせてもらうつもりである。

 正月早々とても有意義な研究会であった。橋本さん、有り難うございました。そして美味しいフグもね。

 停滞し、マンネリ化する日本古代宮都研究に小さな穴を開けるためにも、この研究会と私の科研費の研究会を大切にし、日本だけでは無く広く東アジア全体から分析できる視野の広い若き研究者を育てていきたく思っている。


(途中黄暁芬先生から最新の発掘情報についてもご紹介いただいた。)

 東アジア、面白いねと思ったらもよろしく

 

「東山初出勤」の条

2008-01-04 18:55:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
今日は朝から「初出勤」で忙しかった。
昨日の山田博士とは逆方向に京阪電車に乗って伏見稲荷ー鳥羽街道ー東福寺と「本町通り」沿いをはしごした。


(博士のように高尚な目的での遺跡・文化遺産のはしごではない。でも途中こんなのが普通にあるのが京都の良さ!!)

法性寺、行ってみたいなと思ったらポチッとねよろしくお願いします。

 何を隠そう、何もかくさん!
年末からもう一度プレドニンのお世話にならなければならない羽目に陥り、再び東山の麓に毎週通うことになったのである。もっとも今回もまた、特に痛くも痒くもなく、検査結果だけをみると大病のように聞こえるのだが、医者も患者もいたって暢気。唯一の心配は症状が消えてから先の副作用!
 いえいえ大層な副作用ではありあませんよ。

 宿敵山田博士のようなフサフサとした髪をもう二度と見せられなくなる副作用です。黒さではさほど負けていたんだけれど、量は完敗!!悔しい!(僕もあんなご挨拶がしてみたい)

 というわけで2箇所の病院をはしごしたということなんです。病院間が近いので、人で一杯の電車に乗るよりも歩いて行こう!と東山本町にある日赤へ行く途中に出会ったのがこれ。もちろん以前からこの地にあることが判っていたのだが、なぜか前は素通り。初めて写真を撮ることができた。



(「厄除け観音」とあるように、本尊にされている千住観音様は国宝!!やっぱり京都はこれだよね。だから東京や名古屋や○○なんて雅さが無いんだよね。)

 昨日博士が極秘で潜入した我がショバを祭る神社の建物が重文、そして何気なく旧道筋を歩くと国宝に出会える(拝観は予め予約しないと出来ないが)。
「ヨーッツ」と改めて声をかけたくなる京都!やっぱり死ぬまで京都ですわ。

 今日は時間がなかったので再来週にしようと思っているけれど、もちろんこの地は同じ藤原氏によって建立された東福寺の境内。秋は人で超満員だが、冬の人の少ない東福寺もまたおつ。今日も若い女性の二人組が山門を目指して歩いていた。
「オッツ、お二人はんなかなか判ったはるやん」と声をかけたくなるくらい嬉しかった。お稲荷さんへ金儲けのお願いをするくらいなら、こんな風情に時間をかける方がよっぽど人間らしいよね。今年も何千万円ものお賽銭があったとか、判らんね、何であんな狐に金投げるんか。


(その門前に何気なく建てられていたのがこの石碑。)

 そんなこんなしているうちにいつもの日赤。またまた血を抜かれて(これで何ccになったろうか、優に献血数回分は抜かれたなー。もう最近は注射にも慣れてしまった!)、ハイ血小板なんぼ(82000まーまーかな)。また来てねーと医者も気楽なもんで、「今年もよろしく!」だって(お稲荷さんに行ってきやはったんやろか? 笑)。

 法性寺は925年、摂政藤原忠平の建立になるお寺だが、これまた我が家とは縁が深い(もちろん我が一族は藤原氏ではありませんよ。ただの山の中からでてきた田舎もん)。単に近所がそうだというだけなんです。例の元号寺院の関連で、嘉祥寺・貞観寺(我が家!・・・この前うちの学生の家から小荷物が届いた。ナナナントその宛名に・・・僧坊町96-3藤原良房建立貞観寺跡と書いてあった。有名になった?ものだ(笑))に次いでその北に建てられたのが極楽寺。自説では、桓武天皇柏原陵の兆域の西側を選んで忠平の父基経が建立した寺である。その選地にまつわるエピソードがある。忠平幼少の頃、父と共にこの地を訪れた彼が「相応しい」と指さした所に建てられたというのである。ウーン、判っているね忠平君!その通り、ここは桓武さんの御陵の近くだからだよね。偉い!!

 もちろんご存じの方も多いだろうが、この極楽寺の荘園が旧長岡京域に残っている。向日市鶏冠井町極楽寺がその地であるが、実はこの地こそ、藤原冬嗣が天皇から下賜された長岡旧京の土地に相当することを随分以前に述べたことがある(拙稿「長岡京東北部の条坊と条里」(条里制研究会『空から見た古代遺跡と条里』82-83頁 1997年 東京))。

 何じゃかんじゃ言いながら、結局のところ桓武天皇に戻ってくるところがここ伏見の地の恐ろしいところである。

 またまた、年初から京都浸りになったすがすがしい気分の今日一日でした。
 明日から二日間山口へ行ってきます。橋本さんの科研の研究会での発表も待っています。これから大急ぎで資料の仕上げをします。
 
 たくさんの年賀状も頂きました。今年もよろしくお願いします。

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山田博士正月早々我が氏神・藤森神社襲撃の条

2008-01-04 02:53:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
山田博士のブログ『平安京閑話』を開けてびっくり!
ナナナント、本日(正確には1月3日昨日)、我が家の氏神様を突然襲撃なさったことが判ったのだ。

 山田博士恐るべしと思ったらよろしくお願いします。

 何のために博士が突然我が島に密かに潜入なさったのか?これには深いわけがあるに違いない。いかにも藤森神社の祭神を知らなかったふりをして(そんなはずがあるわけがない!)、何か深い魂胆があるに違いない。

 推理するに
 ① 藤森神社に呪いをかけて、私の大事な神様・崇道天皇(早良親王)を私から切り離し、長岡京が無くても平安京は最初から計画されていた都だという最近の愚かな説に乗り換えようとしている。
 ② 藤森神社に行くのが目的だったというのは真っ赤な嘘で、実は密かに、桓武天皇陵深草説の反論のための情報収集に現地潜入を図った。
 ③ 朧谷寿先生古希記念論集の原稿(平安京論)を一番に執筆させるために、進んでいると噂の山中の原稿を遅らせるための願をかけに行った。
 ④ 今年も商売繁盛を祈ってお稲荷さんに行こうとしたが、つい昨日の不摂生が祟って、寝過ごして、藤森まで行ってしまったのでその醜態を隠すために藤森神社にアリバイ的に寄った。

・・・・・ウーン、どれもありそうなものばかり。恐るべし博士。

 そういえば思い出した!昨年は正月二日に博士のお宅を襲撃して、新年早々、大事に取ってあった大吟醸を飲み干してしまった。何しに行ったのかというと・・・・、アッツそうそう、イラストレーターの使い方を教えてもらいに行ったのだった。あれが2007年のつまずきの始まりだった。博士んちの近くの清明神社を素通りし、お賽銭も上げずに無視したのが祟ったに違いない。いや、きっと予め仕組まれていたに違いない。

 今年はさらにそれを強固にするため、わざわざ敵地に乗り込んで敵の氏神様を手なずけに来たに違いない。
 論より証拠!博士がブログをアップしたとほぼ同じ頃、私は急に激しい腹痛に襲われて、トイレに駆け込み、それまで食べたおせち料理を全部出してしまったのだ。このため、折角、北京の我が娘とスカイプで楽しくお話ししていたのに話が中断し、結局娘に見捨てられてしまったのだ。
 さらに、実はこの前にブログを書いていたのだが、これをアップしたとたんに文章が消えてしまったのだ。いずれも博士の仕業に違いない!!!

 さて、もう少し冷静に考えてみよう。どうして博士は我が島を奇襲したのか?もっと深い訳があるに違いない。
 第一に思いつくのは、締め切りが迫ってきた朧谷先生の古希記念論集の原稿の遅れに気付き、山中の氏神様を買収して自分の原稿が早く進むように祈りに来たということだ。しかし、私の氏神様は何てったって、もし彼がいなかったら、平安京なんてこの世になかったという私にも博士にも欠かせない神様なのである。そんな神様が二人を天秤にかけるとは到底思えないのである。
 第二に考えられるのは、実は密かに原稿がどんどん進んでいて、誰よりも早く出して、突然
 「はよださんけー!何ボヤボヤしとるんや」
と催促するため。敵の氏神様を尊敬するふりをして油断させ、私の原稿の遅れるよう攪乱を図ったということだ。昨日・今日の箱根駅伝を見ていても(暇やなー?)、後500mでゴールという順大が棄権させられ、最終ランナー後2キロというところで、3位確定という東海大が棄権させられるなど、いずれもどこぞの大学の神様の仕業に違いない。まさに「油断大敵」ですぞ!
 第三に思いつくことはあまりないが、貞観寺跡という私の家そのものを襲撃しようとしたが、家が判らなくってスゴスゴと帰ってしまった、等が考えられるが・・・。

 いずれにしろどうも彼は朧谷先生の昨日のお声を拝聴して、何か思い立ったらしい。皆さん!油断召されぬように。突然催促が来るかも知れませんからね。もう一度確認しておきますよ。原稿執筆予定者は2008年5月の連休明けが締め切り厳守ですからね。
 どう見ても博士の原稿は着々と進んでいますよ。

 それにしても博士の頭は何であんなにフサフサしているんだ?!もし私があれと同じポーズを取ったら、ほとんど地肌しか写らないのだ(2008年1月1日の巻)。これまた私に衝撃を与えて葬り去ろうという魂胆に違いない!どうすればいいのか、この攻撃に?!

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