『延喜式』、もうちょっと勉強しろよ!と思ったらよろしく
昨日は定例の『延喜式』研究会の日であった。現在中巻の中務省式を読んでいる。
昨日は私の発表だったのだが、この間の余りの忙しさに全くの中味のないものになってしまった。遠路参加してもらった人には申し訳なかった。(そんなわけでぎりぎりまで準備をしていて結局母のところにも行けなかった。情けない!!)
発表の条文は『延喜式 中 』(集英社)の36条詔書式から46条宮人位記条までの11条分であった。詔書式など考古学ではほとんど無縁な世界かも知れないが、次の37条慰労詔書式などは日本列島の王が新羅や渤海国を蕃国と見なして出す国書のスタイルであり、これから行うベトナムでの発掘調査においても必ず出てくる各国々の王権の中国や周辺諸国に対する王の姿勢がいかなるものであったかを比較する上で大事な条文であると知った。特に興味深かったのは慰労詔書結語の書式が次のように変遷するという『延喜式 中 』(集英社)の指摘だった。
・ 天平勝宝年間 「指宣往意」
・ 天平宝字年間 「遣書」
・ 延暦年間 「略此遣書」
それぞれ唐の書式の変化に応じて日本でも変わるのだという。そこでピン?と来たのが最後の項目である。
そう!言うまでもなく延暦年間にも変更があるというやつである。
最近は吉川真司さんという強力なライバル(ライバルにもしてもらえないかも知れないが・・・)のお陰で、「光仁・桓武朝変換点説」が劣勢で、昨秋の歴博で行われた「長岡京遷都展」でも展示代表者には、テーマにすら取り上げてもらえなかった(とても悲しかった!)。何とかフォーラムでは永井さんや朧谷先生の応援のお陰で、少しは持ち直したが、どうも平安京研究者は長岡京変換点説というのは気にくわないらしい。
だから、これまで以上に様々な資料を当たって、やはり「光仁・桓武朝変換点説」を再構築しなければならないという危機意識を持っているのである(中には学問的レベルにも達していない妄想まで学術雑誌や単行本に流布しだしている始末。黙っているとこれを信じる人が出るのかと思うと、放置できない状況に達している問題もある。いずれこの問題については詳細に述べるつもりであるが・・・。)。
そんな時で喰わした新しい資料である。もちろん私が不勉強で知らなかっただけなのであるが。『延喜式』のこんな所にも「変換点」のヒントが隠れているなんて、とても嬉しかった。だから細々と続いている『延喜式』研究会だが、やめられないのである。
もちろん今回は全くこれらに関する論文を読んでもいないので、注釈書が指摘している根拠や、そもそもが、延暦年間といっても長岡京期なのか平安京期なのかも全く確認もしない上での思いつきである。
しかし、どんな批判にさらされようが、今のところ、正鵠を得た批判に出会っているとは言い難い現状では、これをさらに補強することのできる新たな資料との遭遇である。補強材料は多いに越したことはない。
これは調べてみる価値がある!!(まだこの発想は原稿の下書きにも書き込んでいないものなので誰も使わないでね! 誰がこんなガサネタ使うもんか!??(笑))
実はこれ以外の条文の中でも、もう一つ重要な問題に気付いたのだけれど、これは今度の考古宅研究会東海例会でのミニシンポでのネタに取っておこうと思うのでここではまた後日!(イヤ、そんなにもったいぶるもんでもないんですよ、単に私が勉強不足なだけなんですから。後で笑わないでね。(笑))
というわけで、『延喜式』!とても面白いですね。
ところが一つ寂しい、でもとても嬉しいニュースが一つ。(どっちやねん!?)
一緒に勉強している三重大学の私のところを卒業した後、K旧帝国大学大学院博士課程のN先生のところで古代史を勉強しているAさんの就職が決まったのだという。
東海地方の中核政令指定都市N市の職員だという。さすが!
本当は歴史関係の職場に行きたかったのだろうが、採用予定もなく、やむなく一般職での採用だという。N先生の反応も「決まってしもうたか?!」と言うから、同じ思いに違いない。
今時、K旧帝国大学大学院博士課程を出ても、研究者への道はほとんど閉ざされている。採用がないのだからどうしようもない。世の中効率、効率で効率の上がらない歴史なんて不要!というのが日本の支配者のお考えのようだから、大学の関係講座がどんどん減っている。そんな状況ではよほどの資産家の子弟でもない限り、職が決まるまで無職でいて、研究を続けることは困難だ。一端時間が取れる職場に身を置いて、時間を見つけて本当にやりたければ、その中ででも研究をやればいい、と思う。
「ま、また時代が変わって、私達の職場が拡大しないとも限らない。その時までじっと、勉強をし続ければいいことだ」と、いうには言うのだが・・・。後は本人の自覚次第だ。
実際のところ、彼女が誘ってきてくれたもう一人の参加者K旧帝国大学のNゼミのSさんは、国家公務員からの転大学院組だという。Aさんも職場でしっかりお金を貯めて、また大学院に入り直せばいいと思う。
研究会が終わってささやかなお祝いの食事をして別れた。
これでまた会員が一人減ってしまった。誰か参加しませんか?
毎月第2/4週の月曜日午後7時からJR長岡京駅直ぐ南横の長岡京市立生涯学習センター4階の会議室でやっています。
私も参加しようかなと思ったら是非ご一報を!!よろしくお願いします。
昨日は定例の『延喜式』研究会の日であった。現在中巻の中務省式を読んでいる。
昨日は私の発表だったのだが、この間の余りの忙しさに全くの中味のないものになってしまった。遠路参加してもらった人には申し訳なかった。(そんなわけでぎりぎりまで準備をしていて結局母のところにも行けなかった。情けない!!)
発表の条文は『延喜式 中 』(集英社)の36条詔書式から46条宮人位記条までの11条分であった。詔書式など考古学ではほとんど無縁な世界かも知れないが、次の37条慰労詔書式などは日本列島の王が新羅や渤海国を蕃国と見なして出す国書のスタイルであり、これから行うベトナムでの発掘調査においても必ず出てくる各国々の王権の中国や周辺諸国に対する王の姿勢がいかなるものであったかを比較する上で大事な条文であると知った。特に興味深かったのは慰労詔書結語の書式が次のように変遷するという『延喜式 中 』(集英社)の指摘だった。
・ 天平勝宝年間 「指宣往意」
・ 天平宝字年間 「遣書」
・ 延暦年間 「略此遣書」
それぞれ唐の書式の変化に応じて日本でも変わるのだという。そこでピン?と来たのが最後の項目である。
そう!言うまでもなく延暦年間にも変更があるというやつである。
最近は吉川真司さんという強力なライバル(ライバルにもしてもらえないかも知れないが・・・)のお陰で、「光仁・桓武朝変換点説」が劣勢で、昨秋の歴博で行われた「長岡京遷都展」でも展示代表者には、テーマにすら取り上げてもらえなかった(とても悲しかった!)。何とかフォーラムでは永井さんや朧谷先生の応援のお陰で、少しは持ち直したが、どうも平安京研究者は長岡京変換点説というのは気にくわないらしい。
だから、これまで以上に様々な資料を当たって、やはり「光仁・桓武朝変換点説」を再構築しなければならないという危機意識を持っているのである(中には学問的レベルにも達していない妄想まで学術雑誌や単行本に流布しだしている始末。黙っているとこれを信じる人が出るのかと思うと、放置できない状況に達している問題もある。いずれこの問題については詳細に述べるつもりであるが・・・。)。
そんな時で喰わした新しい資料である。もちろん私が不勉強で知らなかっただけなのであるが。『延喜式』のこんな所にも「変換点」のヒントが隠れているなんて、とても嬉しかった。だから細々と続いている『延喜式』研究会だが、やめられないのである。
もちろん今回は全くこれらに関する論文を読んでもいないので、注釈書が指摘している根拠や、そもそもが、延暦年間といっても長岡京期なのか平安京期なのかも全く確認もしない上での思いつきである。
しかし、どんな批判にさらされようが、今のところ、正鵠を得た批判に出会っているとは言い難い現状では、これをさらに補強することのできる新たな資料との遭遇である。補強材料は多いに越したことはない。
これは調べてみる価値がある!!(まだこの発想は原稿の下書きにも書き込んでいないものなので誰も使わないでね! 誰がこんなガサネタ使うもんか!??(笑))
実はこれ以外の条文の中でも、もう一つ重要な問題に気付いたのだけれど、これは今度の考古宅研究会東海例会でのミニシンポでのネタに取っておこうと思うのでここではまた後日!(イヤ、そんなにもったいぶるもんでもないんですよ、単に私が勉強不足なだけなんですから。後で笑わないでね。(笑))
というわけで、『延喜式』!とても面白いですね。
ところが一つ寂しい、でもとても嬉しいニュースが一つ。(どっちやねん!?)
一緒に勉強している三重大学の私のところを卒業した後、K旧帝国大学大学院博士課程のN先生のところで古代史を勉強しているAさんの就職が決まったのだという。
東海地方の中核政令指定都市N市の職員だという。さすが!
本当は歴史関係の職場に行きたかったのだろうが、採用予定もなく、やむなく一般職での採用だという。N先生の反応も「決まってしもうたか?!」と言うから、同じ思いに違いない。
今時、K旧帝国大学大学院博士課程を出ても、研究者への道はほとんど閉ざされている。採用がないのだからどうしようもない。世の中効率、効率で効率の上がらない歴史なんて不要!というのが日本の支配者のお考えのようだから、大学の関係講座がどんどん減っている。そんな状況ではよほどの資産家の子弟でもない限り、職が決まるまで無職でいて、研究を続けることは困難だ。一端時間が取れる職場に身を置いて、時間を見つけて本当にやりたければ、その中ででも研究をやればいい、と思う。
「ま、また時代が変わって、私達の職場が拡大しないとも限らない。その時までじっと、勉強をし続ければいいことだ」と、いうには言うのだが・・・。後は本人の自覚次第だ。
実際のところ、彼女が誘ってきてくれたもう一人の参加者K旧帝国大学のNゼミのSさんは、国家公務員からの転大学院組だという。Aさんも職場でしっかりお金を貯めて、また大学院に入り直せばいいと思う。
研究会が終わってささやかなお祝いの食事をして別れた。
これでまた会員が一人減ってしまった。誰か参加しませんか?
毎月第2/4週の月曜日午後7時からJR長岡京駅直ぐ南横の長岡京市立生涯学習センター4階の会議室でやっています。
私も参加しようかなと思ったら是非ご一報を!!よろしくお願いします。