yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

百済調査―2 百済駄句集の条

2009-03-10 20:00:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-3 その他

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百済の印象を駄句にまとめました 


141 百済女 凍錦江へ 消えた日を
(くだらびと こおりきんこうへ きえたひを)
20090226-03041週間韓国の百済を中心に遺跡調査にいってきました。後半の二日間は氷点下の日もあり、雪まで降るというなかなかの風情でしたが、その中で生まれた句集です。この句は百済滅亡のその時、敵軍からの辱めを避けて、身を投げたといわれる百済女官達の思いを偲び、現地で詠んだものです。


142 武寧王 栄華の跡に 枯れ葉舞う
(ぶねいおう えいがのあとに かれはまう)
20090228 武寧王陵には寒風が吹いていました。博物館には武寧王陵の様々な復元品が陵内の様子を伝えていた。



143 弥勒寺に 春日輝く 黄金舎利
(みろくじに はるひかがやく こがねしゃり)
20090227 弥勒寺からは今年の正月に塔心礎から黄金の舎利容器などが出土したそうです。とても珍しく、貴重な石塔の由来を記した金板も見付かり、古代史を書き換える大発見となりました。これは公開施設の二階から見ることのできる石塔初層と心礎の様子です。





144 春休み 弥勒寺を見る 声元気
(はるやすみ みろくじをみる こえげんき)
20090227 前回もそうだったが、韓国の遺跡には子供達の声が響き渡っている。今回も解体中の石塔が公開されており、沢山の親子連れが訪れていた。



 弥勒寺の直ぐ近く、王宮里遺跡の石塔からも貴重な舎利が発見されている。

145 凍り付く 南江へ入りし 妓生を
(こおりつく なんこうへいりし きいせんを)
20090227 晋州城にて、壬辰倭乱の秘話を聞いて。秀吉による文禄・慶長の役―韓国では壬申の倭乱―では日本の武将達と闘うために老若男女を問わず多くの人々が秘策を練った。ここ晋州城では、論介という妓生が武将達を酒に酔わせ、指揮官を魅惑して自らの命を道ずれに南江に身を投げたという。

                                          


146  論介が 入りし水は 今凍り
(のんげが いりしみずは いまこおり)
20090227 妓生論介が晋州城を陥落させた武将と主に南郊へ身を投じた秘話



147  壬辰の 倭乱に散った 妓生に
(じんしんの わらんにちった きーせんに)
20090227 秀吉による朝鮮侵略は多くの悲劇を生みました。いつの時代も、異民族の侵攻が多くの死を生みだし、悲劇となります。本当に無益なことです。レバノンでもそうでした。 


148  石塁の 続く岩間に ツクシの芽
(せきるいの つづくいわまに つくしのめ)
20090227 蛟龍山城を訪れて



149  南原の 邑城が屋根に 春風が
(なんげんの ゆうじょうがやねに しゅんぷうが)
20090227 南原邑城・新羅五京の跡を見学して




(東固城に残る長大な東西棟の建物)


150   寒風に 宴の酔いが 吹く扶餘夜
(かんぷうに うたげのよいが ふくふよや)
20090228 朴淳発先生の開いて下さった宴は深夜2時過ぎにまで及んだ。足下をふらつかせながら扶餘の市場をコートの襟を立てながら歩いた。



151  陵山窯 斜面の先に 新芽見て
(りょうざんよう しゃめんのさきに しんめみて)
20090301 発掘途中の陵山寺西斜面柱より発見された窯を見て


152  雪かむる 公山城の 今静か
(ゆきかむる こうさんじょうの いましずか)
20090302 前日からの雪で真っ白になった熊津時代の百済の都・公山城をみて



153  清州が 復原炉に 小雪舞う 
 (せいしゅうが ふくげんろに こゆきまう)
20090303 清州国立博物館の裏庭に復原された精錬炉を見学したときに炉跡には残雪が舞っていた。



154 風納の 土城を包む 風緩く
 (ふうのうの どじょうをつつむ かぜぬるく)
20090304 ソウル漢城時代の王宮跡?風納土城にて


155  海苔一杯 卒業旅行は ヴィトンらし
(のりいっぱい そつぎょうりょこうは う゛ぃとんらし)
20090304 ソウルインチョン空港にて出会った日本の女子学生と私。海苔を抱えてうろちょろする私の姿は彼女らにはとても滑稽に見えたに違いありません。でも、ヴィトンの鞄に一体彼女たちは何を詰めて帰るのでしょうかね?ま、単なる年寄りのひがみかも知れませんがね。




156  中央博 圧倒の展示 学生は
 (ちゅうおうはく あっとうのてんじ がくせいは)
20090304 韓国国立中央博物館の素晴らしい展示だが、訪れる人に日本の学生が見当たらず少し寂しくなりました。




 日本人で遺跡に行くのは老人達、でも韓国の子供は元気いっぱいに遺跡を走り回りメモをとる。これでは文化力で勝てません!! 

百済調査-1 百済都城跡及び関連遺跡の調査の条

2009-03-05 12:59:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-3 その他
長かった3週間がやっと終わりました。疲れました!!「武寧王 栄華の跡に 枯れ葉舞う」 
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 次のような日程で百済を中心に韓国の西側を釜山から北上してソウルまで調査の旅に出かけてきました。しばらくダイジェストをご紹介します。

 2月26日(木) 関空朝9時→釜山11時
 釜山空港→陝川双冊(玉田古墳群・城山土城)→晋州(慶尚大学校博物館)

 


(玉田古墳群と城山土城は隣同士にあります。古墳群からは土城がとてもよく見えます。一説によれば朝鮮半島南部にあった「多羅」の中心部ではないかと言うことです。まだまだ実体は不明ですが、今後の研究の進展が待たれます。)

 2月27日(金)
 晋州→南原(南原邑城・蛟龍山城)→任実(全北文化財研究院)→全州(国立全州博物館)



(豊臣秀吉の朝鮮侵略時に抵抗の場となった晋州城の南門です)



(南原邑城は新羅の「複都制」である五京「小京」の一つだとされています。北城壁の一部が残されているだけで「京内」については全く手が付けられていません。残念です。)

 2月28日(土)
 全州→益山(王宮里遺跡・帝釈寺址・弥勒寺址・弥勒寺址遺物展示館)→扶餘


(王宮里遺跡東城壁。翌日の朴先生との懇談でその構造が判明した。)



(弥勒寺からは今年の1月に西塔の心礎から大量の舎利具が発見され、金製の舎利容器や舎利埋納者や塔建立者に関する情報が詰まっていることが判明し、史実を書き換えることになったそうです。その速報写真展が附属博物館で開催されていました。素晴らしい逸品でした!!)



(相変わらず子供達で一杯の弥勒寺石塔解体修理現場の公開施設。韓国の情報公開のすばらしさを日本も見倣いたいものだ。)


 3月1日(日)
 扶餘(宮南池・軍守里寺址・扶蘇山城・定林寺址一定林寺址展示館・国立扶餘博物館・陵山里古墳群・陵寺一東羅城)


(扶餘王宮の東羅城の整備状況)




(前日弥勒寺で段差を踏み違えて転倒し右足膝を強打しました。そのため扶蘇山城に上るのはとても厳しかったのですが、皆さんの足を引っ張る訳にもいきませんので頑張って歩きました。その後に訪れた陵寺古墳群の西側から見付かった陵寺の?瓦の窯跡はなかなか興味深い構造や立地をしていました。)


 3月2日(月)レ
 扶餘(王興寺址・扶餘文化財研究所)→公州(公州大学校百済文化研究所・宋山里古墳群・武寧王陵)



(王興寺址は調査中断中でシートに覆われていました。残念!) 
 

 (武寧王陵の発掘時の写真)
 3月3日(火)
 公州(大通寺址・公山城・附属山城・国立公州博物館)→清州(午岩山城一国
 立清州博物館)

(昨夜来の雪で真っ白になった大通寺や公山城の一角を歩きました。少々疲れました!!)

 3月4日(水)
 清州→ソウル(風納土城・夢村土城・国立中央博物館)→仁川空港→関空20時

(前回の時にはまだ中央博物館は宮殿の直ぐ横にありました。今回新設なった博物館を初めて訪れました。巨大な空間に圧倒されました。時間が余りに少なくて、古代のほんの一部しか見ることができませんでした。)


 「弥勒寺に 春日輝く 黄金舎利」今回は冬場だったため残されている遺跡はよく見えたのですが、逆に発掘現場は3月半ばまで寒さのために中断中。よってあまり現場が見られなかったことが残念でした。
 


※ ところで海外調査中にこんなコメントが入っていました。私は基本的に匿名のこうしたものにはお答えしない方針なのですが、事実誤認があるようなのでその点だけは指摘しておきます。

 素朴な疑問さんからのコメント

 鈴鹿の関はまだ発掘調査の途中だと聞いてます。
正式に一般の人が見られるようになるにはまだまだ整備が必要だといわれたことがあります。
先生は調査のときに自分で撮った写真をこのブログで公開していますが 一般人の私達ではない公務員の大学の先生が特別に許可されて撮った写真を このようにブログにのせることは守秘義務に反していないのでしょうか?
私達一般人でも そこに行けば撮影できるのですか?
 調査研究に使う写真と個人のブログで公開できる写真は区別しなくてもいいものなのでしょうか?
 このコメントはきっと反映されないとおもいますが疑問に感じたので書きました

 私の考え方
 ①まず私は公務員ではありません。仮に公務員でも問題は限られていると思っていますが、事実は違います。
 ②私は基本的に現場の担当者に写真の撮影が可能か確認してからとっています。またブログに載せる可能性のあることも断ります。
 ③鈴鹿関の今回の調査についても同様です。もちろんこの情報がこのまま公表されないのであれば、私は駄目だと言われても公表したかも知れません。紹介されないで埋められることこそ大問題だからです。
 ④もし上記の様なご意見が通ることになれば貴重な発掘調査情報は行政によって管理され、都合のいいときだけ表に出されることになります。これは情報公開の原則からして問題です。特に発掘調査の場合は現場が埋められてしまえば、情報の多くが失われてしまいます。発掘現場の公開は、特に今回のように「学術調査」と称してなされる場合には不可欠です。もちろん正式な学術成果は調査担当者が決まりに従ってきちんと出せばいいことです。私たち研究者はそれを下に研究するだけです。しかし国民に現場を公開しなければ恐らくほとんどの国民は、自らの負担の一部が使われているにも関わらず、その様な調査がなされたことすら知らずに終わってしまいます。
 ⑤現場は公開するのが原則ですから、国民に見せることは当然です。もちろん国民が現場に行かれれば説明し、資料の一部を与えることは義務だと思っています。但し、調査の事情や対応の時間もあるでしょうから、近年では「現地説明会」の開催でまとめて公表することが当たり前になっています。今回はその開催も危ぶまれたので紹介しました。
 ⑥そもそも私はこのブログでできるだけ多くの私個人が得た情報を丁寧に紹介し、情報公開の一端を担うことを目的にしています。だから研究のために訪れた調査地や遺跡の紹介をしています。もちろん海外でも撮影については許可を得てから撮っています。海外でも、国内でも撮影後の紹介が問題の場合は、「公表は差し控えて下さい」と言われます。それに従っています。
 ⑦ご意見のような考えが認められると、新聞などの報道機関が現場情報を流すことも問題になりかねません。時々一部の新聞では「スッパ抜き」なるものが行われます。現場をやっている場合、この対応には苦慮します。しかし最終的には拒否できないと思っています。
 ⑧なお、最新のレバノンや百済の情報でも、「公表を遠慮下さい」と言われたものや言われなくともそうせざるを得ないと思ったものについては残念ですが公表していません。

 公務員とか民間人とか、そうした区別ではなく、こうした文化的情報はどんどん公表すべきというのが私の基本的考え方です。それに従ってできるだけ迅速に、多くの情報をこれからもお伝えしていこうと思っていますので,ご理解の程よろしくお願いします。  なお、こうしたご意見は間接的でも結構ですので、非匿名でお願い致します。