yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2011年度三校交流会開催の条

2011-11-29 21:27:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 11月27日は恒例の三校交流会であった。

 三重大学と奈良女子大学、京都府立大学の考古学研究室の学生が集まってその一年の研究成果を報告しあう行事である。今年は京都府立大学で開催され、以下のような報告があった。

1 奈良女子大学 院生 「古墳出現期大和・河内と吉備・山陰の地域間交流~土器を中心に~」

2 三重大学 院生 「伊賀国における焼塩の生産・流通・消費における一考察」

3 京都府立大学 院生 「古墳時代後期の武装とその意義-大須二子塚古墳出土甲冑セット・副葬状況の解明を中心として-」

いずれも院生の報告なので、例年よりしまった内容であったが、課題も多く見受けられた。

 第一報告は大和・河内に搬入された土器を通してみた古墳時代初期の地域間交流がテーマであった。近年、纏向遺跡に関する研究が進んでおり、その延長線上に位置づけるものなのだろうが、少々掘り下げに疑問を抱く内容であった。「土器を中心に」とわざわざ副題が付いている割にはその土器の分析が従来の分析のままであり、新しい分析成果や新しい型式編年など資料に基づく分析ではなかったために地域間交流の中身がありきたりのものになってしまっていた。昨年度、伊勢湾西岸中央部地域の土器の再検討を通して、纏向遺跡と「東海」地方との関係を再検討した報告があったが、その内容の方が新しいデーターを用いて分析していただけに興味深かった。


 第二報告は三重大学の院生のもので、私はこの間何度も聞いているので、ほかの学生の反応に興味があったのだが、ああまり芳しい反応はなかった。伊賀という限られて地域の研究であったために意見を表明しづらかったのかもしれない。ただ、報告後、府立大学のH先生から個別に意見をお伺いすることができ、「伊賀と塩と東大寺の関係が証明できればいい論文になりますね」という「評価」を頂いた。もっともこの間この点に腐心し続けているので、なかなか展望は見えていたいのだが、少なくとも限られた遺跡の限られた時期の遺物の動きに関する報告で、まとまって当たり前とは思うが、可能性のあることは認めても良さそうである。もう一踏ん張り、がんばってほしい。


 第三報告はさすがドクター3年の院生の報告だけあって、極めて緻密で、実物に即して実物の再検討から導きだされた結論だけに説得力のあるものだった。明らかにされた事実の持つ意味はとても大きいと思う。ただ、今回は中間報告だったのか、表題の「武装とその意義」についてはほとんど触れられなかった。分析結果の持つ意味はとても大きいと思うので、怯むことなく、導き出された事実が古墳時代後期の武具埋葬の意味(思想的背景)について語ってほしく思った。先生の指導があるようだし、これからきちんとまとめて世に出ることだろう。発表の仕方もとても手際よく、大いに期待したい。


 久しぶりに若い研究者の卵達から刺激をもらい、その後の懇親会では彼らの後輩達から今の研究状況について語ってもらうことができた。来年は奈良女子大学での開催である。おそらくこれが私の三校交流会最後の研究会である。是非いい発表をお願いしたい。


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北畠館跡第35次調査の条

2011-11-28 21:57:49 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 26日は北畠館跡の調査現場の視察だった。
 11時からの委員会で今年度の概要が示され、午後発掘現場を見学した。

 調査は津市教育委員会のKさんが担当ということで、楽しみにしていった。6カ所に試掘溝が開けられていて、その内の二カ所から遺構が検出されたという。

 一カ所は以前(第30次)調査で見つかった東西に延びる石列の南側の対応部分だという。それによると5.4m(18尺)離れたところから石列が出たのでこの幅が道幅だという。石列の間は凹んでいて、狭い調査にも関わらず結構な量の遺物が出たという。日本の場合、雨がよく降る気候なので、道路は周りより高くしておかないとたちまち雨水の通り道となりぬかるみと化す.ましてや北畠館跡は東西から山が迫る傾斜地である。ちょっとした雨でもひとたまりもない。

 「変わった「道路」だな-」というのが第一印象だった。

 本当に道なのだろうか?

 特に気になるのは、対応する石列が北側の以前のものに比べてあまりに乱雑なことであった。もう少し調査範囲を拡げて確認してみては?と提案してみたが、どうも地主との関係で難しそうであった(試掘。トレンチ調査の問題点であろう)。もう一カ所からは想定された南北の区画施設は発見されず、代わって石組みの井戸が出たという。しかしこれも表面を出しただけで、中は掘れず、設置年代は不明のままという。結局6カ所ものトレンチを開けたのだが、はっきりと時期や性格を決められた遺構は皆無ということになった。

 昨年度の調査でも東西石組み遺構の延長線上にあると思われていた寺院跡が発見できなかった。ひょっとしたらこの東西の遺構は遺跡全体の排水をする溝かもしれない。この遺構より南から遺構が発見されにくい点もとても気になる。今回も唯一石組みの井戸が見つかっているのだが、これが時期がわからないのである。おまけに井戸と共伴してもいはずの建物跡がどうもはっきりしない。

 国の補助金を得ての計画的な発掘調査である。驚いたことに一応今年度で区切りをつけて報告書を刊行し、追加指定の基礎資料とするという。果たしてこれだけの調査でどんなことが言えるのだろうか。担当者泣かせである。試掘「調査」というのは当たれば拡張などの追加調査が可能でその後の「本調査」で全体像が見えるのかもしれないのだが、当たら(当てられ)ないと悲劇が起こる。

 「試掘範囲には評価すべき遺構や遺物がなかったので、試掘範囲には遺跡がなかった」という結論が出ることもよくあることなのである。

 もちろん北畠の調査ではこの素材を最大限に活かして国の史跡を勝ち取ろういう積極的な姿勢が示されているので心配はないのであるが、へたをするとこんな事態になりかねないこともしばしばである。

 実は今週末に愛知県埋蔵文化財センターで、「試掘調査・範囲確認調査の現状と課題」というテーマで愛知県の職員を対象に話をしなければならない。

 今更私からこんな話を聞いてどうするのか?という気もするだが、逆に今こそこの点を問い、発掘調査とは何かという原点に立ち返った議論が必要なのかもしれない。

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ブログ廃止の危機?!乗り越えられるか?平城京左京三条一坊一坪の調査コメントの条

2011-11-26 01:02:08 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 とうとう11月も終わりに近づいてきました。このまま一年が、ブログが終わるのかも・・・、と思っていたのですが、ほんの少し心のゆとりができたので書き始めてみることにします。

 先日第63回正倉院展に行ってきました。毎年恒例の研究室活動の一つです。私が三重に来て毎年やっている活動です。一度だけ都合が付かずに行けませんでしたが、ほぼ欠かさず行くことができています。

 3年生の学生はたいてい「初めて」が多いのですが、今年は奈良出身の学生がいて、彼女は子供の頃からご両親に連れられていっていたというから素晴らしい!!もっとも彼女、奈良でもトップクラスのN校の出身ですから、ご家族の文化に対する関心も高いのでしょうね(だから、彼女、こちらの企画を発表する前に「行ってきました!」ということで、研究室での見学会には不参加)。

 今年のメインは数多くの「布」ものでしょうか。

 同行した学生から

 「今年は何が一番よかったですか?この子ったら「ボロ布ばっかり」っていうんですよ!どう思います?恥ずかしい!!」

 こんな質問を受けて即座に答えたのが「東大寺山堺四至図と紅牙撥鏤尺」 

 確かに今年は布製品が多かったのは事実なのですが、「ボロ布」とは参った!ちなみに、今、京都文化博物館で「京の小袖-デザインにみる日本のエレガンス-」展をやっています。安土桃山時代から近代に至るまでの小袖を集めた展示ですが、これがなかなかおもしろい。12月11日(日)までやっていますから是非!!(もっともこの学生が見たら「ボロ着物」ばかりに見えるのかな?(笑))

 さて、正倉院展を見学後直ぐに向かったのが表記の発掘現場。例年ついでにどこかの遺跡を見に行くのだが、今年は運良く発掘現場を見ることができた。

 予め奈良文化財研究所に問い合わせると史料調査室のWさんが丁寧に現場の状況を教えてくれた。おまけにちゃんと現場にまで連絡を入れて下さっていたので、とても丁寧な説明を聞くことができた。

 それによると、
 1 現場は大きく二時期に分けることができ、古い方が平城遷都直後くらい、新しい方がこれを埋め立てて広場にした時期だという。

 2 平城京には珍しく、二時期目以降、廃都までずっと広場だというのである。場所は朱雀門のすぐ前、平安京では大学寮が置かれた場所である。「へーこんなところが広場ですか?おもしろいですね」そういえば平城京では大学寮の位置が異なっていて、この現場の南東部に推定されている(大学寮の役人が馬の捜索願を出している木簡が見つかっているからそのように推定されている)。ついでにいうと、平安京では大学寮の南に京職(左京職:都の東半分-左京を管理する役所)が置かれている。この調査地は平城京での京職の有力な比定地でもある。

 3 初期の段階の遺構がたくさんの鍛冶炉だという。大量の炭類に混じって、若干の鉄製品や鍛冶に関する遺物が出ているという。「これどう思います?」調査担当者Jさんの質問であった。
 私が直ぐに思い描いたのが長岡宮朝堂院西側の空閑地から発見した地鎮祭の遺構であった。1997年8月、私が長岡京で発掘した最後の現場であった。勝山中学校という市立の中学校の校庭の端に新たに建物を建てるというのでその事前調査に当たっていたものだった。とても不思議な現場で、まず最初に現れたのが拳大くらいの石の入った溝であった。「L]字形に巡る溝の中にはアトランダムに石が入っている。所々、石の欠けているところがあって、穴のようになっている。「何だろう?モグラの穴??」、不思議に思いながら、たまたま授業で見学に来ていた生徒に掘らしてみた。直径10センチ足らずの穴が次々と出てくる。穴は先の方がすぼまっているらしく、そのうち手スコでは掘れなくなった。杭列であった(その後の調査で方形に巡ることが判明)。最初は近代の耕作関係の遺構かと思ったが、掘るうちに杭列は溝の中に打ち込まれており、その溝の中からは長岡京期の遺物が出てくるので、当時のものとわかった。その後の研究でこれは長岡宮造営直前の地鎮祭の跡とわかった。とても珍しい遺構である。
 さらに興味深いことにこれらの施設が作られる前に造成が行われており、遷都直前まであった山背国乙訓郡衙の施設を解体して仮造成し、その造成面に鍛冶炉を築いているのである。

 奈良時代乙訓郡衙→仮造成→鍛冶炉→再造成→地鎮祭遺構→本格造成→朝堂院西側空閑地(おそらく道路)の形成

 こんな造作経過が見事に復元できたのである。平城京の現場を見てとっさに思い出したのがこの現場であった。この鍛冶炉は朝堂院など中枢施設建設のために必要な鉄製品を生産した施設と推定した。

 見学した発掘現場は朱雀門のすぐ前である。都の玄関に当たる朱雀門の建設のために現場で鉄釘や鎹、雨壺など建築用金属部材を生産し、作業が完了すると直ぐに埋め立てたのではなかろうか。こんな印象を残して現場を去った。後日なぜか新聞各社からコメントを求められ、その一部が記事になった。




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『風評被害』といっている間に日本列島に汚染は拡大し続けるの条

2011-11-03 01:09:13 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 ホントひどい話ですね。

 毎日新聞によれば、原発の検査そのものがやらせだというではありませんか。

 やらせで『安全神話』をまき散らし、『風評被害』で真実を隠し通す。

 その背後でうごめく利権屋が見え隠れする。

 こんなことで、子供の命が守れるはずがない。私たちは私たちの力で情報を集め、対処しなければならない時代になってしまった。

 『風評被害』の前に、既に大拡散してしまっている放射能から子供をいかにして守るのか、そこが一番の問題なのである。

 今私はある研究会で中国遼寧省や吉林省に所在する高句麗時代の遺跡を巡っています。明日夕刻帰国いたします。その成果については後日また報告いたしますが、やっと開けたメールを見て唖然。

 福島原発の2号機もおかしいというではないですか。なぜ彼らは福島原発すべての廃炉を宣言しないのでしょうか。その上で除染により出た放射の物質をこの近くに中間処理施設?を設ければ済むことではないのでしょうか。

 この措置が遅れれば遅れるほど放射のは拡散し、風評被害という言葉が平気で用いられればいられるほど、日本列島全体が汚染される日はそう遠くないと思えるのです。

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