yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

20080930卒業おめでとう!! 大森俊輔晴れて卒業式

2008-09-30 22:40:30 | 三重大学考古学研究室情報
今日は三重大学考古学研究室にとってとても大事な日になった。

 大森君、おめでとう!! 


(学位記)
           就学の証
           
                  大森俊輔殿

 あなたは平成17年4月に本学人文学部文化学科に入学され学生の範たる就学姿勢にて学業に専心努力され卒業に値する極めて優秀な成績を修められるとともに誠実な品行で他の人々の範となられました。
 本学はあなたを忘れずあなたと共に生きた証としてここに就学の証を送ります。
  平成20年9月30日
      三重大学人文学部長  櫻谷勝美
      三重大学長      豊田長康


(就学の証)
 お世辞ではなく配られた前期の成績を見てみると、驚くべき事に単位を落とすこともなく受講した全ての単位を取り、大半を優とした大森の就学態度はまさにこの証書に示されたように学生の範たるものだった。

 人文学部長を初め、学部事務の方々の暖かい御配慮で本日、9月卒業生の卒業式にあわせて就学の証授与式が行われた。


(遺影と共にご両親にお出でいただいた)
 平日でご勤務もおありであったにも関わらず、早朝からご両親にお出で頂き、遺影と共に証書を受け取って頂いた。

 おめでとう!!


(学部長からは心暖まるお言葉をいただいた)


(有り難うございました)
 もうあれから3ヶ月余が過ぎてしまった。フッツ、と直ぐ横に彼が立っていて、ちょっと皮肉っぽい一言を発するシーンを思い出す。
 今朝も、同級生のOK君が研究室で一人卒論の勉強をしていると、何か足りないものを感じ、

 「アッ、そうか、大森・・・・」

こんな感じである。

 「先生、もういいよ、僕はあっちで楽しんでるから・・・」そんな言葉が聞こえてきそうな研究室だ。

 明日からは新学期。前期の「辛いこと」全てを忘れて、

 さあ、一から出直そう。そして、新しい暦の一頁をめくることにしよう。
 



何でこんなに忙しいのか?判らない!!日頃そんなにサボっているつもりはないのだけれど・・・・

2008-09-29 00:47:20 | yaasan随想
 ブログを更新している暇があるのなら・・・・といわれるのを覚悟で 



(嫌なことばかりでもないんですよ。つい先日こんな楽しいプレゼントが届きました。今年卒業して現在静岡の実家にいる?卒業生が還暦の祝い?だと言って送ってくれました。判りますこれ?「坪井さん」と言って、ツボを押さえる道具だそうです。こんなメッセージも添えられていました。
「素敵なお誕生日でありますように・・・(音楽付き) そろそろ年相応に若干枯れることをオススメします体壊さないように気を付けて下さいね2008年9月20日OY 
個性豊かな学生だっただけに?とてもとても嬉しかったです。試験受かるといいのにね!!応援してるよ。 ちなみに左側の袋は温泉心地という入浴剤のようです。要するに家に帰って風呂に入れという意味のようです。フフフ ???最近私はほとんど毎日風呂に入っていますよ!!・・・----当たり前か?)


毎日毎日自室で、研究室で、自宅で、出張先の電車の中で、毎日毎日何かをやり続けているのに『忙しい』の元の山は一向に減らない。

もちろん、かつてのように寝食を忘れ、睡眠時間をすり減らしてまでやっているわけではない。もうそんな体力はなくなってしまったから。

それなりに睡眠をとり、休憩し、ボーーっとすることも度々

だから『山』が小さくならないのだろうか?

いつになったら自分のしたいことができるのだろうか?
きっと死ぬまでできないのだろう。

ただ、今年、『山』が小さくならない原因のひとつにヴェトナムでのとっても嫌な思いが重く重く私の心の負担になっていることだけは間違いない。『学問研究』(本当の研究ではきっとないのだろうが)に携わっている人間の醜さを嫌と言うほど思い知らされて、どうしてこんな人間と関わったのだろうかという後悔の念が、重く重く私の行動力にブレーキを掛けている。

無視すれば済むことなのだが、悔しくて悔しくて、そのことがブレーキの原因だ。

そして国内でもとてもよく似た人間の醜さを突きつけられて、それを訴える術が判らなくてこれまた心の負担になる。

救いは、学問とは無関係な人々の爽やかな言動。人間らしい付き合い。



(心理学の研究成果?によれば4歳というのは人間となる歳だそうです。人間らしくなったばかりの息子の息子が書いてくれた60歳になったyaasanの姿だそうです(こんなお化けみたいな顔してるかな?・・・(笑)。額に入れてくれたのでちょっとピンぼけだが原画はもっとはっきりしている。ちなみに周りの絵は彼が最近凝っている恐竜達である。縁に沿って丸い物がいくつも並んでいるが、これまた彼の最近のお気に入り、恐竜の「ウンチ」だそうな(笑)。あらゆる人間にこんな時期があったんだがナ・・・・)

さ、そんな愚痴をこぼす暇があるのなら、『山』を少しでも小さくしよう。

ブログが更新されないと『病気が再発した』との噂が広がるらしい。

 身体はとても元気ですよ・・・!  

実験スライドショー 初ちゃんさんの初級講座 の条

2008-09-19 17:23:27 | yaasan随想
 スライドショーが出来るなんて素晴らしい!と思ったらよろしくね 


果たしてうまくいくのか?よく判らないのですが、一度挑戦してみます。

これは先日(といってももう1ヶ月以上経った)「広島還暦大集会」の後、遙か遠く鎌倉から駆けつけてくれたKさんが、年寄り2人の案内で「兵どもが夢の跡」広島大学のかつての所在地千田町キャンパスを訪れたときのものです。


(理学部の建物。文学部もこれとよく似ていた。この右側に建っていた。)
都会の一等地に草ぼうぼうの空間がひっそりたたずむ風景は、日本のバブルの悲しい爪痕として何とも悲しい姿をさらしてくれています。

今一度ヒロシマ市内に学生の元気な「声」を聞きたくなります。

スライドショー ←ここをクリックするとスライドショーが始まるはず!!

うまくいくのかしら??

うまく行ったように思うのですが・・・いかがですか?

写真が余り学問的じゃなくてごめんなさい!
でもこれが私の原点なんです。
この写真の「ハゲ頭」のおじさん(ごめんなさい!許して下さい!僕も最近は上から写されると変わりません)こそ我が広島大学文学部の教祖様??!

それにしても何とももったいない!無駄な空間ですね。もう一度あのぼろでもいい木造校舎を建てて文学部らしい講義を聴きたいですね。

そして後半はその日、2008年8月3日の原爆公園、原爆ドーム、そしてその向こうに今日から始まる中日との死闘を受けて立つ広島球場。

そうこれが見納め。

かつてこの球場で随分稼がせてもらった。その頃はとても弱かったカープ!!
ボール拾いのバイトで入った阪神戦で、3塁側のダッグアウトを通ると、そこには当時相撲部屋と言われた阪神の蒼々たるメンバー

江夏、遠井、田淵がふんぞり返って座っていた。

1軍の試合前だったろうか?よく覚えていないのだが、2軍の練習があって、達川がキャッチャーで座っていた。ところがポロポロと球を後ろにそらすもんだから

観戦していたファンが

「おどりゃーどこに目ー付けとんじゃ!!そんなことで一軍に上がれるわけがね-」とすごい形相で怒っていたのがとても印象的だった。

その球場も最後の今年、私の希望的予想では3位に潜り込んだカープがCSシリーズで逆転で2位に転落した憔悴しきった阪神に勝ち、その勢いで、有頂天になっている原巨人をコテンパンに打ちのめし優勝し、日本シリーズへ。

日本シリーズでは、これまたCSを制したオリックスとローカルな闘いで、広島と神戸だけが盛り上がるZZZ!! そして何十年ぶり?にカープが日本一に!!

ヒロシマの新球場には来年チャンピオンフラッグがたなびき、巨費を投じても勝てなかった巨人のナベツネや原は首になる!!

とても楽しいドラマを期待しているのですが・・・。そのヒロシマ球場で間もなく世紀の一戦が始まる(原爆ドームの向こうに見えるのが広島球場の照明灯ですよ!!)。


(現在カープが1点リードされています。皆さん応援下さい。ドームの右側の四角いのが広島球場のカクテル光線。)

ではご堪能あれ!!ご教示頂いた初ちゃんさん、有り難うございました。自戒は貴女の嫌いな土まみれの世界をスライドショーします。乞うご期待!(してないって)

 カープ頑張れ!!  

そうそう忘れてました。最後の写真が広電の最新車両。
僕らの頃はあちこちの市電で廃車になったのがゾロゾロ。今は豊かになったのかえらく綺麗な最新型。ちょっと興ざめかも。

1 かつての正門前 2 西門の表札 3 西門を入って直ぐのところ?かつての本部?前のメタセコイア 4 教育学部辺りから放送大学 5 被爆建物として残された理学部  6 今は亡き・泣き?文学部 7・8 兵どもが夢の跡 9 西門のプラタナス 10 かつての教育学部の一部と大学会館の辺りが放送大学 11~ 今年の原爆公園と原爆ドーム 最後 最新の広電  でした。


最後の報告書と二つの想い出の条

2008-09-05 19:22:45 | yaasan随想
 最後よければ全てよしなんだけれどね・・・ 

 最後の報告書には一杯想い出が詰まっている!

と書きながら、その具体的中身を書かなかったので、今日はその想い出の一端をご紹介しておこう。

 想い出その一

 上幸さんの現場には3代目のお茶大の女子学生が来てくれていた。その中の一人が以前ご紹介した 千葉県市川市にあるW女子大学の先生になった OYさんだった。

 前回現場で発見された礎石建物については詳しく述べたが、実は、この調査はとても難しい調査だった。現地表下10cmくらいのところで直ぐに長岡京期の遺構面に達するのである。だからそれまで建っていた木造の建物の基礎でさえ、遺構面をかなり破壊していたものと思われるのである。

 礎石建物と言っても長岡京で礎石が残っていた例はほとんどない。わずかに大蔵と推定している施設に自然石の礎石が残っていたくらいである。大半は根石と呼ばれる礎石の基礎固めの石の跡が出てくるだけなのである。

 さらにこの現場では、その後の削平によって、その根石すら多くが失われ、何となくあちこちに塊がありそうに見えるだけなのである。とても検出が難しい遺構であった。そんな現場なので、毎日やることは丁寧に地表面を削ること、出てきた小石も見逃さずに図面に入れていくことだった。厳寒の2月の現場で図面ばかり採ることほど辛いものはない。

 だから彼女たちのやった作業は大半がガリかけと図面書きであった。いろいろなものが出てくるものと期待していた彼女たちはがっかりしたに違いない。そこを何とか、周辺の遺跡を案内したり、その意義を説明したり、興味を抱き続けてもらえるようになだめすかして??(笑)現場に出てもらったのだ。その中で一番喜んだのが、上幸さんのご主人や男子学生だったのではないだろうか(失礼!!もちろん私も楽しかったですよ(笑))。なんと言っても普通は70過ぎたお爺さんしか現場には居ないのに、この時に限って明るい女性の声が現場に響き渡ったからだ。

 そんな彼女たちに柱の跡に立ってもらって遺構の撮影をしたり、現説の手伝いをしてもらったり、長岡京の調査では珍しい明るい現場だった。その中心がOYさんだったのだ。あれから14年経ってようやく報告書が日の目を見ようとしている。

 想い出その二 

 次いで思い出深いのが、勝山中学校の体育館建設の事前調査で発見された長岡京造営時の地鎮祭跡であった。その一つは先にもご紹介したように中学生相手に行った課外授業での一コマであったが、実は最後の最後にとんでもないハプニングが待っていた。

 それこそ今日で現場は終わり!断ち割などに最後のレベルを記入して引き上げようとしていた15時頃、突然雷が鳴り、もの凄い勢いで雨が降り出したのである。あっと言う間にトレンチは水没してしまった。ポンプなど今更手配も出来ない。だからといって翌日からは工事も始まる。
「・・・・」
仕方がない!裸足になり、雨の中を現場に飛び込んだ。手探り?で断ち割のところへスタッフを持っていきレベルを測ること30分ほど。

 そんな無様な姿を当時京都新聞の花形記者!?!○藤□里子さんに撮られてしまったのだ。その後十年会でも度々一緒に食事をする彼女にとってもとても印象深い現場であったらしい。

 まさかこの現場が私の長岡京最後の現場になろうとは思いもしなかった。

 なかなか平凡な人生は送らせてくれませんね 

 この他、市役所の直ぐ横でナーンニモ出なかった現場や、例の後になって遺物の紛失騒動の主人公になった森本町の現場など、想い出?の尽きない報告書となった。

長岡京研究再建-1  門闕と二条大路と南面官衙の条

2008-09-04 22:52:27 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 楽しかったあの頃の発掘調査・・・ 

最後の報告書には一杯想い出が詰まっている。

その一つが西向日駅の西口を出て少し南へ行ったところにある上幸さんのお店の建て替えに伴う発掘調査だった。

このお店はNHKのドラマにも登場したとても有名なお店です。
寿岳文章先生という著名な英文学者、シエークスピアや紙の研究でも知られる学者を取り上げたドラマで、高橋幸司が主役を演じてました。その娘さんで著名な社会学者章子さんも登場するのですが、この上幸さんに買い物に行ったりするシーンがあって、当時向日町中が盛り上がりました。もう30年近く前のことです。

実はこの上幸さんのお店は長岡宮第201次調査で発見された礎石建物の延長部に位置します。このため、店舗を改装されるときにお願いして計画地の全面に発掘調査のトレンチを設定させてもらったのです。


(当時の現説資料でもこんな感じでまるで朝堂のようだと話題で持ちきりでした。)

その結果推定通りに南北方向に延びる建物の大半を発見することが出来、長岡宮城の「朝堂院」の南に南北棟の礎石建物を配置する官衙区画があり、それが南北に2区画並ぶことが判明したのです。長岡宮には朝集堂院という朝堂院に付属する施設がありませんでしたので、それに変わるものかも知れないと考えられることもありました。また、長岡宮の建設の過程を考える上でもとても重要な意味を持つ施設であることも判明致しました。

それから20年余、いろいろな事情で報告書が遅れていたのがやっと日の目を見ることになったのですが、その間に新しい調査成果も出てきました。

「朝堂院」南門付設門闕の発見です。

実は上幸さんの敷地から発見された礎石建物は、近年発見されて話題になり、史跡にも追加指定された朝堂南門に取り付く門闕の直ぐ南に位置するのです。



(門闕の東側の基壇裾を示すのがこの溝です。目を正面に向けると家々が建っています。木造二階建ての建物の向こうにやや長く見える屋根が第201次調査のアパートの屋根です。)

門闕については「翔鸞楼」などと仮称されて、長岡宮建設時に初めて設けられた斬新な遺構だという評価が一人歩きしていますが、本当なんでしょうか?もしそうだとしたら、どうしてこの様な建物をすぐ前に持ってくるのでしょうか。私が門闕の発見のニュースを漏れ聞いて直ぐに抱いた疑問でした。

門闕についてすでに二冊の「報告書」が出され、この門闕の画期的な側面が余り大した理由もなく示されていますが、ちょっと論理的でなく、あまりにマスコミ受けを狙いすぎた「報告書」ではないかと思います。残念ながら「報告書」には第201次調査の建物の分析もなく、門闕が長岡京の研究史を変えるかの如く書かれているのですが、その論拠は私にはよく判りません。

特に、鬼の首を取ったかのように問題視されているのが門闕と二条大路屯関係でした。長岡宮城の南面を通ると推定している二条大路の路面の「大半」を門闕が占め、「二条大路が機能しない」という評価です。特にこのことがこれまでの長岡宮城南面の造営過程の研究成果を完全に「否定する」ものだという「結論」まで出されているのです。自信たっぷりの文面ですが、本当でしょうか?まさかそんなものに翻弄される人もそうはいまいと鷹をくくっていると、結構それを信じている方も・・・。そこで少し反論を加えておくことにしました。

そもそもが、この門闕は本当に長岡京で初めて創出された施設なのでしょうか。その根拠とされているのが長岡京建設時の自然地形を入念に造成して構築したというその建設技術にあるそうです。礎石建物の基礎構造が手の込んだものである(この点も検証が必要だと私は思っているのですが)ことが、どうして長岡京で初めて建設された施設である事の根拠になるのでしょうか。これもまたとても感覚的です。

これまで長岡宮城中枢部で検出された遺構が難波宮のものを移建して設置されたものであることは出土瓦や遺構の比較から取られてきた成果です。ところが、報告では本遺構から大量の難波宮式軒瓦が出土しているにもかかわらず、このことについては何も触れられていません。
もちろん難波宮で門闕がこれまでの調査では発見されていないことは事実です。しかし、難波宮の当該位置は現在使用されている道路です。調査のしようがないのです。つまり比較が出来ないだけなんです。
難波宮で発見できなければ全て難波宮になかったと言えるのか?もちろんノーです。

出土瓦という有力な材料があるのに、どうして門闕は“桓武天皇の壮大な構想」の下に建設された施設”となるんでしょうか。これこそ主観的願望ではないでしょうか。

さらに、本当に二条大路は門闕によって機能不全に陥るくらい完全に塞がれていたのでしょうか。長岡京左・右京域で検出された二条大路の遺構の座標を調べてみると、門闕が占有するのは路面の2/3前後です。最低9mから最大18mまで空間は残されている可能性があります。これだけの通行空間があれば十分です。なぜなら、平城京の二条大路と東一坊大路の交差点には北から流れてきた水路が勢いよく流れていました。このため重要な道路である二条大路は路面を寸断されることになります.そこで平城京の為政者は橋を架けました。焼き物の欄干を備えたとても立派な橋です。しかし、その橋の幅は13.4m、推定路面の36%に過ぎないのです。こんなことも分析しないで、「大半」とは・・・。あるいは、私の言葉の感覚が間違っているのでしょうか。


(門闕から北を望むとこんな風景です。難波宮ではどうなんですかね・・・.塀の向こうが西第四朝堂です。)

そして問題になるのが、長岡宮第201次調査と284次調査で検出されたこの南北に延びる礎石建物なのです。私はこの建物は周辺の調査状況から長岡京の後期造営に伴って建設されたものだと評価しました。一般論として京域には寺院や離宮(以外に礎石建物が建設されることはほとんどないからです。もちろん平安宮にはこの位置に京内の官衙(穀倉院)がみられますが、長岡京の時期にはありませんのでこれに宛てることは出来ません。一体この施設は何かというのが大いに問題にされなければならないのです。
つまりそう簡単に宮城南面街区の変遷に関するこれまでの研究史を居呈することは出来ないのです。

仮にこの建物を宮城内の施設ということにしましょう。すると先の評価「桓武による荘厳化」は消えてなくなります。この官衙区画が門闕を邪魔するからです。門闕は単なる朝堂の飾りということにならざるをえないからです。それならば聖武の時に建設された可能性も十分に出てくるのです。

これまで何度も主張してきたことですが、前期の長岡宮の造営は、超特急で既成事実を作るために為されたものでした。永く続いた大和及び河内・摂津にあった王権の中心を山背に移す!これが第一目的なのです。
その桓武がもっとも必要としたことは、長岡の都に実質的機能を集中し、大和は摂津に都が移ることはないと言うことを実感させることだったのです。そんな時、新たに門闕を作る必要性が本当にあったのでしょうか。事はそう簡単ではないのです!!

学問は議論する場ですから、いろいろな見解を述べ合うことに私は何の異論もありません。しかし、少なくとも異論を批判するときは対象となる見解を丁寧に論破しなければならないはずです。どの見解にも絶対はありませんから、その隙間をうまく突ければ議論は少し有利になるでしょう。すると批判された者がその批判者の論理をまた論破するために論文を書く。これの繰り返しなのです。ところが最近の「批判」は自分が正しい!!とばかり叫ぶ。どこかのスポーツ中継のアナウンサーのようでもあります。遺跡の調査が「劇場型」になってしまっていることの証拠でしょうか。悲しい!!

近年の長岡京に関する意見??はあまりに全体像のないその場しのぎものが多すぎると思います。考古学は発掘調査をすればそれでいいのではありません。調査成果をいかに歴史へと繋いでいくのか、これこそ求められているのです。調査をして新たな成果が出るのは当たり前です。その一つ一つは確実に何かの歴史事象の反映なのです。新しい事実が出ました!と言うだけなら考古学者はいりません。歴史として語らせて初めて考古学なのです。でなければ遺跡全部を掘るまで、いやきっと全部掘っても何にも言うことが出来ないはずです。

行政が発掘調査を主導して50年、行政の学問への政治的干渉が強まっています。気に食わない者には見せない、聞かない、言わせない。そしてその先兵として発掘調査技師が「活躍」する悲しい事態を何とかしなければなりません。長岡京研究の再建のために引き続きシリーズでもって述べていきたく思っています。


 でも今は「劇場型」調査による目立つことだけが優先されて・・・ 

最後の報告書の条

2008-09-01 01:38:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 やっと終わりましたか、これで綺麗さっぱりですね!! 



(この穴には格別の思い入れがあります。実はこの現場は中学校の中でした。調査をしながら中学校で○○授業たら言うのをやった時のことでした。うるさくてうるさくて、授業にならなかったのです。ほとんどが野球部の子供で、元々興味があったから取ったわけではなかったのです。だから騒ぎまくっていました。ある日、連中を現場に連れ出しました。そしてこれを掘らせたとたん、「シーン!!」と静まりかえり、黙々と穴を掘るのです。驚きました。)

 嫌な嫌な思いの一杯詰まった報告書がやっとさっき校了した。

 本当なら3年前に終わっていたはずだった。
 いや終われと命令された。受け取りようによっては脅迫めいてもいた。


(調査をしてからというもの中学生はとても素直になりました。現場では、それまでおっさんと言われていたのに、突然「先生!」と呼ばれるようになりました(笑) そのきっかけになったのがこの長岡宮造営のために執り行われた地鎮祭の跡の現場でした。これは柴垣を造るために打ち込まれた杭の跡です。)


 居丈だけに突然、「2005年7月末までに入稿しなければ貴方から原稿を書く権利を奪う」とまで言われて(文書で命じられて)、公務の最中、図面をひっくり返し、土器を見、日誌を調べ、写真を選び、キャプションを付け・・・、大急ぎで原稿を書いた。もちろん十分なはずがない。しかし、長岡京最後の私の現場を、掘ってもいない奴に「書かせる」訳にはいかない。それは調査報告ではなく破壊報告だから。

 ところが、いざ調べ始めると、報告対象調査の「遺物がない!」ことがわかったのです。

 信じられなかった。近年の遺物のランク分けによる保管の無責任化の波に乗って、某機関もすぐさま「いらない遺物」を永遠に見ることのできない某貯水タンクに放り込んだのです。その際どうも、どさくさ紛れに本調査対象遺物の一部がその中に入ってしまったらしいのです。

 但し、あくまで ら し い !! なんだそうです。

 とても学問の基礎資料を扱う姿勢とは思えない。

 遺物はない、しかしその責任は取らない!そして原稿はわずか2週間で書けと言う。

 その報告書の一番重要な報告が、写真にも出てくる長岡宮城の地鎮祭の跡だったのです。他にも、近年発掘調査された朝堂前の門闕の解釈に大きな役割を果たすはずの礎石建物の調査もありました。

 しかし、まるで暴力団の脅迫だとしても、書かなければ権利を奪われるのです。仕方なく、書いた。

 それから2年、何の音沙汰もなく、校正の連絡もなく、こちらだって嫌なものを見たくもないからあえて「どうなっているの?」とも聞かなかった。

 ところが二年後のある日、突然、二日後までに校正して返せという手紙が来た。唖然、とした。どうしてそんなに時間の余裕があるのなら、私に原稿をたったの2週間で書けと命じたのか?一体この二年間は何だったのか?信じられなかった。

 これまでの経緯が説明されているわけでもなく、なぜ二年間放置されていたものがたった二日で校正して返さねばならないのか、わからなかった。

 だから総責任者に手紙を書いた。これは理不尽ではありませんか?と。

 事が表に出るのがいやだったのか、要するに私の報告書など出しても出さなくてもどうでもよかったのか、「ご自由に」と言うことになった。

 ところがその手紙に「遺物の紛失事件について」も問いただしたところ、ナナナント、1ヶ月ほどして連絡が来た。

 「遺物の一部が見付かりました」と。

やはり私の原稿などどうでもいいから遺物も真剣には探されなかったようだ。
当然、遺物の見付かった遺跡の原稿は全面的に書き直しだ。
 そもそもが、遺物の観察から始めなければならない。これまた公務の真っ最中に時間を見つけてはプレハブに行き、遺物を観察し、基礎資料を作った。

 ところがそろそろ原稿が出来ようかと言うときに、突発性血小板減少性紫斑病で入院する羽目になった。何が原因か知らないが、この頃集中した仕事によるストレスが引き金になっていることは想像に難くない。



(数ヶ月前に藤原京の大極殿近くで銭の入った壺が見付かり、これが藤原京造営時に行われた地鎮祭の跡だという報道がありました。私はそれを聞いて思わず吹き出しそうになりました。「そんな馬鹿な!」「なんぼ何でも都の地鎮祭はもっと盛大やろ!」と。その根拠がこれです。どでかい祭場を造って直ぐに埋めてその上に建物を建てるなんぞはスケールの大きさが違います。)

 一度切れた集中力を元に戻すのはこの歳になると並大抵のことではない。何度も何度も資料を持ち歩きながら、原稿に挑もうとしたのだが、果たせなかった。

 それがさっきやっと終わった!!書いてみればこれほどまでに時間をかける必要などなかったことがよく判るのだが、仕方がない。

 お蔭で人間の醜さを思い切り知ることができた。これほどまでに人間というのは残酷になれるのだと、思い知った。

 それもこれでおさらばだ!そう思って明日から次なる原稿に挑もうと思う。
2008年9月20日には出版するつもりだった『桓武朝の考古学』せめてその日までに入稿すべくこれから集中しようと思う。

 幸か不幸か、今年は海外に出かけることが出来なくなった。久しぶりに何もない夏休みだ。これこそ神の思し召しだろう。
やあさんよ!今年こそ原稿の山を築きなさい
という!!

 母や大森や叔母の亡霊が後押ししてくれそうだ。

 つまらない奴のつまらない嫌がらせなど忘れ去って、いい原稿を書き始めることにしよう。そして天国の彼らに恩返しすることにしよう。

 天国の皆さんが褒めてくれるような本が出来ればいいね