yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

イタリア比較都市研究-6 チボリ・ハドリアヌスの別荘の条

2011-04-19 10:24:27 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 4日目、2011年3月22日(火)にはローマ郊外約30キロの所にあるハドリアヌスの別荘とチボリの丘にある噴水のある別荘を訪れた。今回はその前半のハドリアヌスの別荘をご紹介する。
 ハドリアヌスと言えば大半を国外で過ごし、現在の西ヨーロッパの範囲を定めたと言ってもいい皇帝である。かつて3回にわたってイギリスの城壁探査を行ったがその最初の二回を費やしたThe Hadrian's Wallの築造者でもある。そんな彼が別荘でゆっくりすることなどあったのだろうかと思ったら、やはりそうだったらしく、この別荘を使用したのは数年に過ぎなかったという。

 この日はガイドのKNさんがいてくれたので安心であった。バス(160番)に乗って約20分、地下鉄Ponte Mammolo駅へ。そこで長距離バスに乗り換えて10時前に別荘跡に着いた。AD118年に着工され、完成したのは133年であったというハドリアヌス皇帝の別荘である。日本人は余り見かけなかったが、2~3組の元気そうな若者達のグループにあった。入館料はどこも高く日本円にすると1000円近くする。



 遺跡を入って直ぐのところに模型を展示した部屋がある。これである程度のイメージを抱いて遺跡を見学することができる。



 「玄関」と和訳した施設の入り口をに入ると、細い長方形の池が眼前に広がる。これ自身は復元らしいが、この場所からローマが一望できるという。



 釣り堀も兼ねていたというこの池のある空間の奥に広がるのが競技場らしい。



 こんな円形劇場もあるらしいのだが、時間の都合で見ることはできなかった。それにしてもローマ人というのは本当に円形劇場と風呂が好きだな!!と今回も再認識した。





 競技場の横の神殿跡。



 正面にクローバーのように半円を三つ並べた変わった形の神殿の正面である。



 ここが玄関そのものだというのだが、も一つピンとこなかった。



 やはりあった!!大きな浴場跡!大きな方が男性用、小さな方が女性用というのだが、どこが堺かよく判らなかった。ここは後でじっくり見学した。

 ちょっと長くなりそうなのでトイレへ。



 とにかくイタリアは落書きが酷く、その上ゴミをそこら中に散らかすので汚い限りなのだが、トイレは比較的きれいなのである。そして驚くことに男性用とありながら小便器のないところが圧倒的に多いのである。



 皇帝の夏の食堂と呼ばれる施設である。細長い池が真ん中にあり、両側には大理石の柱に囲まれた様々なデザインの彫刻が置かれている。







 池のつきあたりに位置する2-3階とおもわれる建物の横から上まで登ることができ、この美しい施設を上から見ることができる。



 これを進むと軍団兵士の宿舎を横目に見て、再び浴場(の裏)にでる。







 想定復原図である。イタリアのほとんどの遺跡でこうした復原図と現状写真を重ねて示す図録が売られている。1000円くらいである。

 大浴場の温浴場や冷浴場である(最も豪華で室内の両側に浴槽が置かれていた)



 ついでその隣に運動場があり、釣り堀もあったらしくまわりには地下通路まで設けられていた。



 さらに冬の宮殿跡を訪れ、黄金の広場(PIAZZA D’ORD)へ。



 桜花形の建物遺跡からはティヴォリ(山の中腹にある町)を見渡すことができる。とても景色のいい空間である。

 さらに進むと、皇帝の私的に使用していた浴場(床暖房室や図書室も附属していた)。







「海の劇場」という、建築構造は劇場型を呈したは皇帝個人が思索に耽るときに使うという空間である。

 となりには「哲学の間(sala dei filosofi)」が附属している。

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イタリア比較都市研究-2 ローマの港オステア・アンテイカ遺跡を歩くの条

2011-04-04 06:44:37 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 
 20日(日)からいよいよ遺跡踏査です。初日は案内の日本人の方にお願いしてローマ近郊のオステイアにあるローマ時代の港湾遺跡を見学しました。世界帝国となったローマにはこの港へ物資が集中したようです。残念ながら港そのものはまだ発掘調査されておらず、詳細は不明だそうですが、陸揚げされた物資を保管する倉庫群や商人達の町、浴場、神殿などが所狭しと並んでいる様子は圧巻でした。ローマがなぜあれだけの大帝国になったのか、その秘密を探るヒントがこの遺跡に隠されています。

 

 ローマ郊外のオステアまで電車を乗り継いで約30分。



 オステアとローマ時代の立地



通路の両側には早速大規模な倉庫群が登場する。



 道には見事な轍跡が認められた。



 ローマ人と浴場は切っても切れない関係にある。



 実はこの遺跡も15m以上の砂で埋まっていたのである。だからとても残りがよい。

 

 サウナ風呂?



 レバノンTyreでの踏査の経験がとても役に立った。比較すると実に興味深い!!

 





 地下に張り巡らされた水道管(鉛管だそうだ)。



 浴場の階段



 

 半円形の円形劇場も備わっている。



 



 大規模なパンやさんもある。



この先が港である。



 店屋の並ぶ道路沿いには一階が店、二階が住居となったところもある。





3時頃までオステアで過ごした後、ローマ市内に戻り、著名なカラッカラ浴場を見学しました。

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イタリア比較都市研究-1ローマ・テヴェレ川の辺へ着くの条

2011-04-03 03:15:14 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 新年度が始まっても東北地方の惨状を見ているととても新たな気持ち、というわけにも行かない今日この頃である。久しぶりの書き込みなのだが、この間の行動をまとめてアップしていくことにする。

 それも、人が苦しんでいるときのイタリア旅行記である。お許し下さい。

 実は、下記のような日程でイタリアへ都市比較研究のための踏査に行って来たのです。震災直後で、息子も福島へ派遣され、あまりいい気分ではありませんでした。辞退も考え、相談したのですが、直接の被害がない状態で辞退をすると、年度末ですので、予算執行に問題が生じ、主催者にご迷惑がかかるということで、ぎりぎりの18日に決断し、行くことにしました。

 そんなことですので、ブログの更新も、予告もせずに行っておりました。到着当初はネット環境もよかったのですが、その後不通になり現地からレポートすることができませんでした。このため、あちこちからメールや電話が入り、いろいろご迷惑をおかけいたしました.深くお詫び申しあげます。 
 東北で苦しんでおられる方々には申し訳ないのでが、とても充実した13日間でした。おおよその旅程は以下の通りです。

 19日(土) 関西空港発14時10分のアリタリア航空AZ793便にてローマフィウミチーノレオナルドダビンチ空港に向け出発。時差8時間のため到着は当日の19時05分予定。約13時間の長旅である。
 20日(日) カラカラ浴場&オスティア遺跡
 21日(月) ローマ市内に点在する主に南部の城壁跡を踏査。
 22日(火) ティボリに所在するハドリアヌスの別荘跡と1550年にイッボリト・デステ枢機卿が修道院を改築して別荘とした庭を見学。建築家ビッリ・リゴリオが、テイボリ川の水を引き込んで造ったという噴水庭園を踏査。
 23日(水) ローマ市内の著名な遺跡、コロッセオ、フォロ・ロマーノとパラティーノの丘、パンテオン、フォロ・トライアーノ、マッシモ宮博物館等踏査。
 24日(木) アッピア街道・カタコンベを踏査
 25日(金) ローマ市内の北部に残る城壁を踏査。ほぼ城壁を一周する。
 26日(土) ローマ市内の補足踏査。フォロロマーノ、ローマ時代の市場跡、コロッセオ外周を踏査。
 27日(日) 11時のユーロスターでナポリへ移動。約1時間の列車の旅。午後 エルコラーノ(ヘルクラネウム)遺跡踏査。
 28日(月) ナポリ市内地下ローマ遺跡の踏査。午後 ナポリ考古博物館の遺物調査。
 29日(火) ポンペイ遺跡を終日踏査。(10時~16時)
 30日 (水)  11時発ナポリ空港から国内線を乗り継いでローマフェウミチーノ空港へ。14時55分発関西空港行きのAZ792便にて帰国。
 31日(木)  9時30分到着予定。

 おおよそこんな予定での出発であった。直前まで科研費の報告書作りや様々な書類作成やらで、結局いつもの通り、なんの事前勉強もせずのぶっつけ本番の旅となった。折角大量の資料をスキャンし、ダウンロードできるようにして頂いていたY大学のHY先生には本当に申し訳ない次第であった。メンバーはいつもの通りのHY先生に加えて同大学のMP先生の三人であった。当初は東北地方のY大学のAM先生もご参加の予定であったが、直接の被害はなかったものの、流石に東北途方からは参加しにくいとのことで、直前のキャンセルとなった。

 19日(土)出発時の関西空港は大変な人出でした。特に中国行きの飛行機は中国人で超満員の様子でした。アリタリア航空の飛行機で約13時間。イタリアとの時差は8時間です(ただし、3月27日からは夏時間が始まるということで少々混乱もしました)。同じ19日の夕刻に無事到着し、迎えのアシスタントの案内でホテルへ。47ホテルという比較的新しい、遺跡にとても近い近代的なホテルでした。夕食も採らずに、9時過ぎには就寝しました。



 ホテルの部屋のベランダから



 ホテルから見えるヴェスタ神殿



 ホテル前の古跡庁



 とっても素敵な町並みの中に溶け込んだホテルでした。


 しばらくこのシリーズを続けます。

 ただし、明日は名古屋古代史部会での我が学生二人を含む中部地方の学生の卒論発表会なので、お休みします。あしからず。

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レバノン第二次調査-1 本当のアルバスサイトの姿の条

2010-09-06 00:14:23 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
レバノンへ調査にきています。
アルバスサイト、シティーサイト、ラマリサイトを精度の高いGPS,で測っています.既に1500点取りました!測量するとなると慎重に観察します.
その結果、新しい事実が、次々と判明してきます。

まず第一が、復元の問題です.
かなり整備に携わったものの主観が入り、創作されています.この部分を慎重に取り除かないと時期の混在した、本来あるはずの無いものを測ることになります。
そんな作業を繰り返しながら、わかってきたことの一つが、ローマ時代水道橋の配置の規格性などです。これだけの大都市を建設するのですから、設計図があったことは当然です.測量によってその一端が明らかになりつつあります.

第二に、様々な施設の細部が判明してきました!例えば、今日は、戦車競技のチームであるブルーチームの控え室の構造の一端を知ることができました.中央にある八角形の施設は、風呂の炊口と連動し、全体が、風呂として使われていたことがよくわかりました.

ネット環境が良くないので、細かいことは帰国後にしますが、とにかく面白いです。

ただしクタクタです。木陰は涼しいのですが、ひなたの暑さはなみではありません!

あといちにち最後の力を振り絞って、最高の成果とともに、帰ります.
とにかく面白い!

またね!

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第2次レバノン報告-5 ANJARの魅力の条

2010-03-19 10:54:32 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 2月28日には、念願のバールベックへ行った。昨年は雪のために行けなかったので初めての訪問である。


 ベイルート-テイールが80キロ、テイール-アンジャルが80キロ、アンジャル-バールベックが40キロ、バールベック-ベイルートが50キロバールベック往復が約六時間の長旅だった。シリアの首都ダマスカスまでアンジャルからわずか40キロ足らずだという。

 途中1200mの高原を超えていくので、雪が心配だったが、悪い予感が大的中!道が最高峰に達した時には一面雪景色に変わっていた。まさかレバノンで雪景色が見られるとは思っていなかつたのでとても感動的だった。



 雪景色に変わった!



 パレスチナ人とレバノン人の混血という運転手は片言の英語しかわかりませんが、とても気さくないい人でした。



 途中この辺りで最も古いという教会に立ち寄りました。既に土砂降りでした。

 Anjar(アンジャル・アンジェル)は661年から750年まで栄えたイスラム王国最初の王朝ウマイヤ朝の頃設けられた保養地であり、交易地であり、宿泊所といった性格の町です。7世紀後半とも8世紀初めとも言われますがどちらが正しいのか手元の資料ではも一つ判りませんが、いずれにしろ日本で言えば天武天皇から文武天皇の頃奈良時代開始の頃にできた町のようです。
 町は南北にやや長い長方形で、周りを城壁で囲われ、その各辺の中央に門が設けられていました。



 北門を出るとバールベック方向、南門はパレスチナ、西門はベイルート、東門はダマスカスに通じていたといいます。

 南東のブロックが宮殿とモスク、北東が離宮の生活空間で風呂が附属していた。そして南西区が居住区で、商人達が住んでいたようだ。北西も基本は居住区のようだが、一角には葡萄酒工場が見付かっている。



 アンジャルには東西南北に直行する道路がありますが、これはその南北路です。



 南北路に沿って並ぶアーチです。アーケードのようなものでしょうか。





 それぞれの道路に沿って商店が軒を並べていたそうです。これは南北路に沿って並ぶ商店の入口です。



 商店の内部です。



 お風呂の焚き口とその前の部屋の床面です。奥に見えるアーチ状のものが竈のようです。ここからスチームが出てきます。



 もちろん雨でしたので大変でした!!とても寒くて!



 これが東西路だったかな?



 葡萄を搾った石臼。



バールベックに近くなった所に展開する石切場、その場に切り出せずに残った強大な石材



 レバノン国内では石灰質の石には事欠かないようであちこちにこうした石切場が存在する。



 ここまで切ったのに!!という感じかな。

 さてこれからいよいよバールベック!続きは次回

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第2次レバノン報告-4 シテイーサイトでの詳細検討の条

2010-03-10 17:00:44 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 第1日目〔25日〕の午後はTyre世界遺産の中心、シテイーサイトの調査である。
 シテイーサイトとはローマ時代からビザンチン時代にかけての港湾都市の跡を言う。この町の機能は大きく分けて4つあることが発見されている施設から判る。
 第1が港湾としての港と道路
 第2が公共機関としての議場
 第3が商業スペースとしての六角建物
 第4が風呂や闘技場の娯楽施設
その他同時存在なのかどうかがはっきりしないが、ガラス工房や墓地も展開しているらしいのでほぼ都市の要件を満たしているのである。それそれの施設の詳細な時期は明確ではないが,2世紀前後以降のものであろうか。もちろん下層にはフェニキア時代の遺構もあると思われるのだが、その実態は判っていない。
 


 ギリシャ語の碑文を研究する広島大学大学院後期の奥山君の説明を受けるみなさん。


 私たちが調査対象としているのがこの都市機能の中軸を担っていたと思える道路遺構である。これを正確に測り、主な施設の方向をチェックすることによって、遺構の方向性から同時期施設を抽出できるのではないかと考えるのである。そうすればある時期のシテイーサイトの都市計画が再現できるだろう。先に紹介した戦車競技場(ヒッポロドーム)についてもローマ時代からビザンチン時代まで使用され続けたらしいのだが、附属施設の路面の飾り方などはいろいろ考えさせられるものがある。こうした課題も測量によってそれなりの基礎資料を獲得し今後の研究に備えることができると思うのである。

 シテイーサイトそのものは半世紀近く前の発掘調査によって出現し、一定の整備が行われて現在に至っているのであるが、残念ながらその全容を示す図面などの資料は公表されておらず、詳細については知る術がない。

 そこで、道路と側溝のような時期や規模が明確な施設を測り、その規則性の原点を明示しようと考えたのが今回の現地踏査(準備調査)である。もちろん前回紹介したアルバスサイトの道路遺構も同様にして計測し、Tyre全体の都市計画の有無を明らかにしようと考えているのである。さらに将来的にはこうした作業によって計測した世界座標の原点を使って未公表の発掘資料と結合させ、Tyre遺跡群の絶対的な位置表示と世界的な視野での都市モデル比較を行得ればその意義も小さくなかろうというものである。
 もう一つ、今回の泉先生の科研によるラマリ遺跡の発掘調査成果によっては、墓域と都市との空間的な関係を明示することも可能になりそうである。
 そのラマリで時間の都合でまだ完掘出来ていない状況での作業であったが、わたしたちの3DVR復元のための基礎作業を情報科学芸術大学院大学の鈴木さんとやることが出来た。現地調査官のナーデル氏には、その一部を紹介することが出来大いに関心を持って頂いた。調査後は埋め戻され、見ることができない地下墓を3D VR表現によって再現することの意義はこの地でも高く評価されたと言えよう。
 そんなシテイーサイトでの調査の一面を写真で紹介しておこう。



 この道跡がローマ時代のものであることは路面に敷かれている敷石の大きさや平面形、摩滅の状況、石材のあり方などから間違いなさそうである。この両側には側溝が附属しており、その高低差などを検討することによって排水計画を再現することが可能なことは日本の都城での私の研究でも明かである。第一級の対象遺構である。

 港に附属する都市部の道だというのだが・・・どうもこの列柱は怪しいのである。



 その証拠がこれ。列柱と道路に附属する側溝の方向が合わず、列柱の土台は一部溝に重なっているのである。復元時のミスか、あるいは発掘時からこうだったのか、謎である。Tyre を象徴する遺構群なのだが、ここにも復元の怖さがある。イタリアやフランスが復元整備に入っているらしいのだが、大丈夫なのかしらと不安になる。



 さらに今回の基礎調査でこの道路と交差する溝があることも確認できた、溝は路面を横切っており、その路面部分は暗渠になっており、石の置き方が他と異なるのである。ただし石の形などは他と変わらないので、最初からこの地に溝が横切ることを知って道路が造られていることも判った。きっとこの暗渠の中に遺物があるだろうからそれがこの道路の埋没時期を表すはずで、興味深いのだが・・・。ま、そんなことまでさせてはくれないだろうな。







 そしてもう一つがこのようなモザイクを路面に持つ港から直結する道である。ただしどうもよく判らないのはこの道がとても高いのである。その上、側溝がないのである。本当にこの道路は同時期に成立していたのだろうかという基本的な疑問がわいてくる。ほんの少し道路の端を掘らせてもらえばすぐわかることなのだが・・・。



 港からの道路面から南の議場と言われる施設を見ることができる。この列柱の方向と道路の方向などが建物と道路との時期を考えるヒントになるはずだ。そしてこの左手奥に大浴場が展開している。大浴場についてはこの間見学したイングランドやスコットランドに残されたローマ時代の風呂と合わせてまとめて紹介することにする。今回の基礎調査では他にAnjarやベイルートの風呂跡も見学できた。そのお蔭で随分風呂の情報が増えたのである。紹介はもう少し後になるがご期待願いたい。



 港からの道部分から都市部の道方向を見る。人が歩いているのは現代の遺跡への進入路で古代のものではない。



 港からの道に直行して多数のこうした貯水槽?が並置されている。この施設の方向も大事だろう。



 実はこの貯水槽へ水を導いてくるのがアルバスサイトの道路に並行して走るアクアライン(水道橋)であるという。そしてこの水道の水はこの遺跡で分岐されるのだというのだが、この「分岐遺跡」へは中に入れないので実態がよく判らないのである。



 草ぼうぼうで内部がよく見えない「分岐遺跡」



 貯水施設は競技場と言われる施設の内部にも認められ、この競技?場が水とも関係があるらしいのである。



 競技?場の観覧席


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第2次レバノン報告ー3 アルバスサイトのヒッポロドーム御案内の条

2010-03-09 08:54:23 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 とりあえず今回は写真集をお楽しみ下さい。
まずはローマからビザンチンの時代に遺跡の残るアルーバスサイトへ。遺跡の東半分にはビザンチン時代に形成された墓域が、西半分にはローマ時代の都市遺跡が残されている。
私達の目的は、このローマ時代の都市部分の道路遺構を中心とした都市の軸線を測量し、地中海沿岸の都市の設計図を再現することにある。
まずは東の墓域から見学を始める。




 初日は先ずアルバスサイトへ



 象徴的な門跡



 ほとんどの石棺が破壊されている。



 二段の埋葬室を持つお墓 



今回のメンバーです。もっともお一人は写真嫌いなのでここにはいません。(笑)



ヒッポロドームは南北500m東西200m程の大規模なものである。



 まずはヒッポロドーム(戦車競技場)へ



 今回は前回余り回れなかったドーム南端の観覧席を中心に見学



 観覧席の階段



 ドーム観覧席の下部



 観覧席の上で飲むコーラはとても美味しかった!もちろんゴミは持ち帰りましたよ。



 ドーム下部の通路?



 下部のアーチを利用してお店もあったらしい。甲子園球場の売店を思い起こした。



 ブルーチームの部屋であることを示す。



 ブルーチームの憩いの場?トイレ?もう少し何とかならないのかな-と思ってしまう世界遺産の現状。




 初夏の臭いのするヒッポロドームだったのだが・・・、この後雨が!


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第2次レバノン報告-2 今回もエミレーツ航空でドバイ経由ベイルートへの条

2010-03-08 17:50:01 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 今回もレバノンへはエミレーツ航空を利用した。
 トルコ航空を利用すれば乗り継ぎの関係でイスタンブールで一泊できるという話しもあったんだが、荷物の件やら手配の関係で断念した。



 エミレーツの座席画面

 そこでおなじみの超大型ハブ空港のドバイ空港でトランジット。日本で羽田がどうの成田がどうのと言っているのがホント笑い話のように聞こえるくらい超大規模空港。もちろん24時間空港。だって、世界中の飛行機が集まるのだもの24時間動いてなければ乗り継ぎできない。それに比べて関空は主発時間の23時にはもうお店が閉まってしまうと言う体たらく。これじゃ、飛行機はやって来ませんわな。橋下に言わせるまでもなく、伊丹も神戸もさっさと廃止して関空にもう5本くらい滑走路を造って24時間動かすか、住民の健康なんか無視してもいいというなら伊丹や神戸に滑走路を増設して24時間動かせばいい。そんなこと出来るはずもないのにごちゃごちゃ言うところが今の日本の限界かな。



 220番搭乗口で待つこと1時間半。でももちろん無線ランが無料で張られている。夜中の3時でも空港内は人でごった返している。



 なにせ前回は一人でこの空港に着いて端から端まで歩いたものだから冷や汗が出た。



 例のドバイの塔が遙か遠くに見えるはずなのだが・・・??

 2時間のトランジットも苦にならず、スタバのコーヒーを飲み、ネットでメールを確認しながら時間を過ごすとあっという間に乗り継ぎ時間となった。



 この時まではレバノンは晴れていたのである!!ところが・・・。

 そしてベイルートへ。これがまた小さな空港。これが首都の空港とは思えない。しかし警備は厳重を極める。ま、当然ではあるが。



 レバノン考古庁隣にある国立博物館

 今回はベイルートでも問題は0。皆さん少々お疲れの顔つきではあったがそのままレバノン文化省考古庁へ。今回の調査について長官などと話しをした後隣の博物館で全体像をつかんでもらう。私は前回見ているので、見落としたものの写真を撮ったり、本を買ったりで時間をつぶす。それにしても博物館の本は高い!!英語版が少ない(もちろん日本語なんてあるわけない)。



 前回は見落としていた建物の外、トイレの近くにあった石棺。これもTyreのものかな?

 そして今回は時間がないのでそのままシドン経由でTyreへ。

 失敗したのは、シドンで買うはずのオリーブ石鹸を英語の意味誤解で、後回しにしたため結局買えなかったこと。もう少し英語会話を練習しないとね!!今回の実感でした。

 さて明日から本格的に遺跡案内を開始しますよ。

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第2次レバノン報告-1 ブログ廃止の危機!!と思われたかも知れませんがの条

2010-03-08 02:56:12 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 2月22日以来の更新です。2週間ぶりの復活です。

 ハイ、ご想像の通り、2月24日~3月4日まで、レバノンでの調査に行って参りました。

 レバノン共和国Tyreの都市遺跡、アルバスサイト、シテイーサイト、そして墓域ラマリサイトの測量のための基礎調査に出かけておりました。今回は測量の専門家も交え6人の体制で出かけました。毎日がとても充実していたのと、現地のネット事情が今一つだったためにレポートを送ることが出来ませんでした。そこでこれからしばらく断続的にアップしていきます。

 残念だったのは新雨男!の出現によって、大事な行程の大半が雨に祟られてしまったために目的のかなりの部分が不十分に終わったことです。

 誰だ新雨男とは?

 済みません私です。



 土砂降りのバールベックで執念の写真撮影を続ける橋本さん!!さすがの彼も諦めた大雨。

 皆さんの指摘によると去年からだ!!といわれました。本人は全く自覚がないのですが、実は去年もある世界遺産の見学を予定したのに、大雪で道路が閉鎖され行けなかったというのである。そう言えば今回も訪ねたフェニキア時代以来の古跡Byblosは昨年も今年も大雨で十分に見ることができなかった。

 新ではなく、私はれっきとした

 真の雨男

だったのである。

 その真の雨男の10日間の軌跡をこれからしばらく紹介することにする。ただし、帰国早々溜まりに溜まった原稿の催促が何本も飛んできたのでこれまた途切れ途切れのレポートになることをお許し頂きたい。

 レポ-トン第1回は虐殺の村です。



 ラマリサイトの発掘現場。

 帰国前日の3月2日、私たちは午前中ラマリ遺跡での発掘調査に参加し、どんどん広がり全く新しい型式になっていくらしい2世紀前後の墓の全容解明にあたった。とはいっても私は単なる一輪車の土運びにあたっただけで、陣頭指揮を執ったのは私のたくましい後輩辻村純代さんであった。その詳細はいずれ担当者から公表されることだろうが、Tyreの歴史に新しい1ページが加わったことだけは間違いなかろう。公表が楽しみ!!



 ラマリサイトからシテイーサイト方向を見る。



 十字軍が築いた城塞

 久しぶりの土方にへろへろになった私はその午後予定通り、Tyre南方の丘の上にある十字軍(クルセダー)の築いた城塞(Tibnine城)を見学に行った。レバノン南部が全貌出来るその遺跡は、悲しいかなイズラエル国境に近く、常に攻撃の矢面に立たされてきたらしい。特に近年行われた空爆は全く卑劣なもので、レバノン人の歴史的証人であるこの城塞を徹底的に破壊したのである。



 橋本さんがこのトゲの犠牲に。3日経っても痛みが引かなかったと言うから恐ろしい。それにしてもレバノンにはサボテンがあるんだ!びっくり。ついでに言うとサソリもいるし、バナナも栽培されているから一般的には日本より少し温かいらしい。ただし私が行ったために雨で寒かった!!

 かつて明治政府は大名の象徴である城の破却を命じ、太平洋戦争に於いてアメリカ軍は日本人の志気を断つため、その象徴とも言える各地の名城を集中的に攻撃した。戦争が考古学や歴史学の敵である典型的事実である。イスラエルの目的が戦果とは無関係な爆撃を行うことで、レバノン人の志気を萎えさせようとしたのだろうことは想像に難くない。つい数年前、イスラム原理主義のタリバーンがバーミヤンの石像を破壊したのも同様の目的であろう。宗教戦争のより悲惨な側面である。



 イスラエル国境がこの山の頂だ。

 そんな遺跡を見た後訪れたのは国連軍が全面展開する国境に近い南部の町であった。1972年以来常にイスラエルの侵攻に晒されてきたこの地域には数え切れないくらいの虐殺の歴史が眠っていた。子供が、婦人が、老人が避難していた家屋は集中的に爆撃された。イスラエルに対する恐怖心を植え付けるための爆撃であろう。かつての日本軍がそうであったように、戦争は人間から良心のかけらも奪ってしまう。



 悲しい、悲しい、虐殺記念碑。この直ぐ横に既に「記念博物館」の建物は建っていた。

 そんな村には悲しい記念碑が建てられている。来年6月には「記念博物館」がオープンするという。攻撃したイスラエルの大半を構成するユダヤの人々はかつてヒットラーによるアウシュビッツの虐殺を経験した。しかし、その人々がパレスチナで、同じ虐殺を繰り返している。爆撃された家屋はそのまま残されていた。そしてそれを見学した私たちに老人が悲しい写真を手にして語りかけてきた。



 百余人の子供達や女性、老人が犠牲になった家屋跡。

 何人もの子どもたちの遺体、血まみれの婦人の姿。いつもいつも戦争の犠牲になるのはこういう人達である。私たち歴史学こそが人類の戦争の虚しさをもっともっと伝えていかなければならないことを実感した日であった。

 レバノンへ調査にいくことの意味は何か?

 戦争が豊かな国をいかに蝕んできたかを明示することだと改めて思った瞬間であった。これからしばらく、かつて決して豊かな国土ではないこの地にあって、交易という手段でもって、豊かで内容の濃い文化を維持してきたこの地の人々の残したものを少ずづつお伝えしていこうと思う。

 フェニキア、ローマ、ビザンチン、十字軍どの時代の遺跡も豊かな当地の歴史を伝えてくれる。一度訪れてみよう!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

レバノンレポート-4 Ramale Site の調査と考古総局の条

2009-03-01 00:00:00 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
ラマリの墓地群から見下ろすTyr市内は絶景でした。恐らくこの地に墓地を選んだ人々もこの景観が大いに影響したものと思われます。

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(Tyr市内はこの右手丘の下に広がっています。比高100mくらいでしょうか?なかなかの景色に沢山の墓地が設けられていました。)

 今回の発掘調査はK大学の科研によるもので、このラマリの地から発見されている墓地群の一つを調査することでした。残念なことに最初目指したものは墓地でないことが分かり、次いで調査対象としたものが、盗掘は受けていますが、墓の一部だと判ったものでした。



(既に発掘調査がなされ、保存措置が講じられている墓の状況です。壁画が残っていました)

 私は今回次年度以降にレバノンの地で測量可能な状況かどうかを確認するために参ったものですが、私が到着したときには発掘調査自体は終了しており、その詳細はよく判りませんでした。ただし、来年度の私たちの測量調査計画がどの様に実施可能なのか、何ができるのかなどを探るために現地を確認しました。



(こうしたいくつもの墓室が穿たれ、家族墓として利用されたそうです。これは日本の技術協力によって保存されたものだそうです。)

 その結果、これまでにみてきたTyrのローマ時代を中心とした都市遺跡とこの墓地群が大いに関係していることが分かり、その意義が判明しました。特に私自身が興味を抱いたのは、RamaleSiteが石材の切り出し場でもあることでした。ところがこれまでは残念なことにそのルートは全く分析されていませんでした。



(この様な石棺が納められる場合もありました。)



 CitySiteの道路遺構の測量と共にとても興味深い問題が手つかずのままに残っていることが判ったのです。こうした点を追求すれば東アジアと西アジアの「都市」空間の形成という大きなテーマに一定のヒントを与えてくれるように思います。これからしばらく準備をして実行に移せるか否か考えていきたく思っております。



(高速道路の建設計画の中で周辺遺跡の調査を行いこのお墓が見付かったそうです。道路は計画を変更して遺跡外に再検討中です。どこかの国とは大違いですね。悲しい!!)


(この先のビル群が現在の市内です)
百済の地に入って今日で4日目。ちょうど真ん中です。この記事は日本を出る前に予約投稿しておきました。またインターネットが不通になるといやなので・・・。百済情報はまた後日。 

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レバノンレポート-3 水辺の城塞シドンでの遺跡巡りの条

2009-02-27 00:00:00 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
時差惚けも治まらぬうちにしばらく百済へ行ってきます。それにしても都市形成にとって軸線となる道路がいかに重要か実感しました。
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136 スークにて 山盛りの蜜柑 いきいきと
(すーくにて やまもりのみかん いきいきと)
20090222 1週間が過ぎ日曜日がやってきた。テイールの北30キロほどのところにあるシドン方面の遺跡巡りに出かけた。その帰り、シドンの伝統的市場を見学した。肉、魚、野菜に果物あらゆる物資が豊かに山積みされていた。とても戦争の国とは思えなかった。
ほとんど迷路状態の市場の中をレバノン考古総局調査官の一人ナーデル氏が、スイスイと案内してくれる。現在町並みの環境整備が進行中で、世界遺産のこの建物群が少しリフレッシュして(あまり趣を変えないようにしながら)整えられつつある。その一角にある伝統的なアラビア式浴場の一角には古式に則ったオリーブオイルによる石鹸が製造販売されている。お土産に買って帰るとご婦人方には好評だと聞いた。1個200円くらいで日本の5分の1だとか。




137  岸壁に 打ち寄す白波 シドン城
(がんぺきに うちよすはくは しどんじょう)
20090222 シドン港に浮かぶお城はまさに幻想的な光景を醸し出していた。激しい波が打ち寄せ,城内には海がもたらす砂が堆積していた。圧巻の風景だった。古くからあった城を十字軍の時代に再利用して建設したのだとか言う。レバノンの諸都市が地中海と切っても切れない関係にあることを実感させる遺跡だった。










138  テルプラータ 眼下に迫る 春波の音
(てるぷらーた がんかにせまる しゅんはのね)
20090222 海岸縁の小さなテルに設けられた小さな村の跡に出かけた。打ち寄せる波の音を聞きながら当時の彼らの暮らしに思いを馳せた。私は漁村ではないかと思ったのだが、当時の最小行政単位の「都市」だという。





139  オリーブの 絞りし跡に 春雨寒
(おりーぶの しぼりしあとに しゅんうかん)
20090222 シドンからさらに北へ数十キロ、山間の丘に設けられた寺院の一角には葡萄酒やオリーブオイルを製造する工場が附属していた。葡萄を曳く臼やそれを貯蔵する地下倉庫、丘の斜面を縫う道路、とても興味深い遺跡だった。