yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

台湾中央研究院-6(最終回) 居延漢簡を実見して思いついたことの条

2010-08-31 07:06:36 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 台湾から無事帰国しました。
 ここ数回(1年以内)には我が家の誰が国外へ行こうとも飛行機が墜ちなくなりホッとしています。最初の事故が私が初めて海外へ行ったときに起こったソ連のミグ戦闘機による大韓航空機撃墜事故、その後、日航のジャンボジェット事件の時も、アメリカでの9.11の時も誰かが海外に行っていたのです。そして最後の飛行機事故が2007年8月の那覇空港で着陸に失敗して乗客乗員が脱出して飛行機が炎上したという中華航空機事故です>あれから3年、今回乗ったのが中華航空機でしたからこれで「山中家の呪い」は解けたのかも知れません。

 さて一週間の長いようで短い台湾中央研究院での調査が無事終わり一応の成果の整理をしておかなければなりません。

 一日30点と限られた資料の実見で、さらに毎日実測や記録のノルマがあるわけですから,大した成果が上げられないのはやむを得ません。全部見ても木簡は120点しか見られないわけですから、にわか勉強の私にこれまで20年以上の蓄積のある東洋史の方々を超えられる成果のあるはずがないのですが、封検木簡について私が個人的に気付いたことを整理しておきたいと思います。

①匣の形状が多様であるにもかかわらず、その寸法に1寸という規格性があること

②匣の製作技法に規格性があり、鋸と刀子や鑿状工具を使って成形することが判明したこと。

③使用道具が多様であること。

④「文書木簡」製作技法にキリオリ技法を確認することができたこと。

⑤これによって、従来言われてきたような木簡の製作者と記載者が全く別とはいえなくなったこと。木簡製作者と記載者にはそれなりの関係を確認することができ、一括性の高い居延漢簡の内容と製作技法を丹念に分析すればその実態を解明できること。

⑥木簡を「定規」としての転用した複数の例を確認することができたこと。

⑦封検木簡の形状は実に多様であるが、これは物品の送り元(内地であるものがかなりある)との相関関係を示している可能性が高いこと。

⑧木簡以外に様々な「遺物」(火錐や袋)が存在し、日本の古代研究に貴重な資料を提供すること。

おそらく既に知られていたことばかりだと思うのですが、短い期間に私にとっては新たな発想の原点を獲得することができた貴重な1週間となりました。感謝!です。

こんないい機会を作って頂いた同僚のTT先生、そして団長のMA 先生には重ねて御礼申し上げたく思います。

なお、最後に新たに確認された資料の一つに舞錐式の火錐がありました。火錐とその先端部の火杵が残っていたのですが、観察してみたものの、舞錐だと残るはずの紐の摩擦痕は明瞭には認められませんでした。あまり使用してなかったものかと感じました。

以下はこれまでに公表されている封検木簡のいくつかのタイプです。一応分類案は考えてみてあるのですが、それらはまたみなさんが検討なさるでしょう。

匣が二つあるタイプです。匣以外の部分(篦と仮称しておきます)がこれは長方形ですが、次のような裾広がりのものもあります。また匣が下に付いているもの(文章が上に来るものと下に来るもの)もあります。



裾広がりの篦部を持つものです。送り元の個性を反映していそうです。



裾の広がりも先のもののように大きく広がるタイプとこの様にあまり広がらないタイプがあります。




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台湾中央研究院-4 淡水の十三行遺跡博物館へ行ってきましたの条

2010-08-27 08:03:36 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 昨日は中央研究院の関係で実測はお休み。そのおかげで台湾北部のメイン河川である淡水の河口部にある十三行遺跡の資料を展示する博物館へ行くことができました。

 中央研究院からタクシーで最寄りの中山駅まで、そこから地下鉄に乗って終点淡水まで約1時間の移動でした。





 淡水は台湾の東側にある山脈から流れ来る水を集めて北端の東シナ海に流れ込む台北随一の大河です。この河口部にから発見されたのが十三行遺跡です。今から1800年前から500年前までの台湾原住民の構築した遺跡だとされていますが、もっと古い資料群もあるようです。台湾史など全く知らない私にはとても興味深い遺跡なので、ワクワクしながら参りました。

 まず移動に使った地下鉄の美しく、駅構内の案内が判りやすく、とても使いやすい構造になっていることに感激しました。そして、もっと驚き素晴らしい!と思ったことが地下鉄内(他の公共機関も)飲食禁止なのです。そして、こんなの当たり前のことなのでしょうが、若者達はあまり席に座らず、座っていても老人などが来ると直ぐに席を替わることです。

 私達の参加者の一人はナナナント、杖を持った老人にまで席を譲られようとして驚き、もちろんご辞退させて頂いたのですが、国民全体にこうした弱者への配慮が行き届いている点はどこぞの国の悲しい現実とは大違い、なんとかならんのですかね、あの日本の若者の優先座席を占有する態度!!

 と言うわけでとても気持ちのいい旅をして淡水駅へ。





 淡水の町は港町といった感じでとても風情がありました。



 淡水駅の少し手前には「関渡」と言う土地があり、現在もここに大きな橋が架かっています。かつての渡河地点だったようです。

 案内はもちろん団長のMA先生。おかげで手際よく近道を通り、淡水を渡る船着き場へ行き、渡航して、バスなどを乗り継いで博物館へ。船上から見る淡水の光景も絶品でした。

 淡水から小型の船で淡水川を渡ります。





 この川の先、海との接点、クレーンの林立しているところが遺跡です。悲しいかな今から40年程前に発見され調査が開始されましたが、公共工事(下水処理場?)のためにほとんどが破壊されてしまい、その罪滅ぼしに建てられたのが博物館です。これで台湾北部の原住民の貴重な交流の歴史は闇へと葬り去られてしまいました。所詮台湾は中国の一部であって元々この地で暮らした人々の歴史にはこの当時、さほど関心がなかったようです。今はむしろ逆に台湾史が盛んで、中国史は下火になっているそうです。これも政争の一端でしょうか。



 霊峰・観音山





 遺跡上空の航空写真



 最近流行の遺跡調査風景。こんなジオラマを作るお金があるのなら、報告書を出して欲しいし、遺跡を現地で公開して欲しいのだが、それは最早叶わぬ願い。悲しい!!世界中一緒ですな。



 土器を模した給水塔??



 こんなにきちんと発掘しているのに、報告書は??



 保存できなかったことについてはかなり厳しく批判するビデオが流されていたが・・・。



 内部は子供を意識したとても判りやすい展示が心がけられていた。



 土器はやはり女性が作る!!



 年代の表記がない(見落とした?)のだが何となく弥生土器のような土器群が展示されていた。





 絵画土器や土偶なども多数!!



 宋銭に混じって開元通寶も出土しているようだ。製鉄遺跡もあるというのだが・・。



 屋上からはかつて遺跡のあったところが一望できるのだが・・・。



 わずか1時間弱の短い見学だったが、複雑な思いを抱いて次なる目的地故宮博物院へ。途中関渡大橋を渡る。



 士林駅から故宮へ。

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台湾中央研究院-3 久しぶりの実測そしてマンゴウかき氷の条

2010-08-25 09:11:01 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 昨日は何年ぶりだろうか、木簡の実測をやった。
 目が見えないにもかかわらず、木簡の保護と言うこともあって部屋は薄暗く、目盛りを見るのが大変!!そんなことで、たった一本の封検を実測するのに2時間もかかってしまった。情けない!!

 とはいうもののいろいろな封検木簡を観察することによって、その作り方や規則性、形態の相違による構造の相違など、それなりに新しい情報を得ることができた。封泥を押す「匣」と呼ばれる部分は大きさが整っているのだ。ほぼ2.5センチ前後である。これは封泥に捺す印の大きさが一寸=2.3㎝と決まっているからだそうだが、二段のものは上の段が少し大きい。これは上と下とで機能が異なる可能性がある。或いは二段の匣を持つものには匣の先が三味線のばち状に裾広がりのものが多いのである。これは物を送ってきた地方の違いなのか、送ってきた役所の違いなのか、漢簡の内容のわからない私にはさっぱり見当が付かないのだが、きっと相関関係があるに違いない。もっとじっくり集中的に見学できればいいのになーと改めて思った次第である。

 

 中央研究院



 改修中の考古学研究所



 昼食を取りに行く途中の消防署



 今日の昼飯。ワンタン麺。とっても美味しい!!



 他のメンバーのものも美味しいらしい。明日はこれかな。



 見事な餃子。ここの餃子は日本のように皮が薄くてとても美味しい!!



 帰りには果物屋さんで今朝の朝食の仕入れ。美味しかったよ。手前が今流行のドラゴンフルーツ。一個120円。さらにキウイとオレンジを買って300円でした。



 中央研究院の中の道観



 付属図書館はとても広大で、静か、さらにロビーでは企画展示が。今は貝の展示。



 とても親切な司書が解説を。



 夜は台湾タワーの近くで小籠包






 これまた美味しかった!!




 そしてSS先生お勧めのマンゴウかき氷!!!



 もちろんグー!!なのだが、夜くうにはちと冷たすぎたかも。




 もちろんSS先生がどれかおわかりですよね。

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台湾中央研究院-2 河西回廊情報伝達網の一端を考えるの条

2010-08-24 08:00:05 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 今日から実測です。

 これが木簡実測新兵器??です。



 早速いろいろ不具合が起こっており、改良しなければならないのですが・・・。

 果たしてうまくできるかどうか?

 でもやはり現物を見るといろいろなことが判ります。

 これは現物にあった小さな小さな傷跡です。



 24.2と言う数字の上に2ミリほどの直線が見えませんか?これに意味がありそうなんです。現物調査の楽しさの一つです。



 さてこれから何が判ったと思いますか?これは封検と言って物品などが開封された場合それが解るように(開封されないように)粘土を貼り付け印を捺す中国独特の木簡です。このへこんだ部分を「匣」とよびます。これの造り方が判ったのです!!万歳!!

 木簡をじっと見ていると疲れます。初めての台湾での昼食に出かけました。



 団長のMA先生のお薦め餃子やさんのラーメンを食べに行きました。ちょっと酸味がきついのは私には微妙ですが、胡椒がたっぷり入っていて、この暑さにはいい感じでした。

食後に東大のSS先生に案内頂いて周りを散策しました。道教寺院が一杯あるというのです。



信仰の町とでも言うのでしょうか。






 丘の上の寺院にはいろいろな「神」が祭られていました。しかし基本は道教のようです・・・?

とても見晴らしがよく、台湾一のタワー500数十㍍という塔がよく見えました。



さらにもう一つの道教寺院に参りました。ここでは興味深いことに、磚仏ならぬ磚道士が壁に貼り付けてありました。








 最期に見つけた合わせ文字。何と読むのでしょうか?
 何を願っているかは判りますね。

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台湾中央研究院-1 なぜか台湾に来ていますの条

2010-08-23 09:37:44 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 台湾中央研究院所蔵資料調査のために昨日から台北にいます。
 初めての台湾でとても緊張していましたが、事前のみなさん方からの情報通り、とても過ごしやすいところです。もちろん暑いのは暑いのですが、日本があの暑さですから、こちらの人に日本は35度ですというとびっくりされていました。

 初日は中央研究院の構内を今回の研究に誘って頂いた同僚のTTさんや東大のSSさんに御案内頂きました。
 この研究院は蒋介石が大陸から持ち出した様々な遺産を研究・保管するために設けた研究機関らしく、広大な敷地(ほぼ日本の大学くらいの敷地があります)に文系・理系の研究機関が軒を並べています。中国の社会科学院の元の機関だったようで、ロシアなら科学アカデミーと言ったところでしょうか。

 今日から院内の歴史語学研究所で居延漢簡等を調査しますが、それぞれ中国本土にあった貴重な歴史遺産、例えばこの研究所では殷虚の膨大な遺産を所蔵・研究しています。

 まず今日はこの研究院の基礎を築いた胡適先生の足跡を訪ね歩きました。

 

 台北空港です。とてもオープンな空港で驚きました。



 市内にはどんどんと高速道路網が建設されていっています。ここでも車社会が拡大しています。



 中央研究院附属のホテルです。どうして日本の研究所や大学にはこうした施設がないのですかね。恥ずかしい!!



 蒋介石は台湾移動後いち早くこうした文化・研究施設を建設したそうです。どっかの政治家とえらい違いますな~。





 これが今日我々がこれから行くところの歴史語学研究所です。



 椰子並木がこの研究所のメイン道路です。



 コンビニもありますよ!



 ノーベル賞を受賞した方のお墓だそうです。



 胡適先生のお墓です。著名な先生を蒋介石はアメリカから呼び寄せたそうです。



 胡適先生の眠る丘から研究院が見渡せます。



 今回は中央研究院の院士、邢義田先生の御配慮で見学できます。日本で言うところの学士院会員です。

 さて、これから調査開始です。極めて真面目な、終日研究所の研究室で調査です。

 台湾いいところですよ!是非中央研究院にも行って見て下さい。水・土には各研究所附属展示施設が見学できます。行ってみようかなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ
 

 

中国江南の踏査-6 紀南城を歩くの条

2010-08-19 12:00:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 今回の一つの目標である楚国の都紀南城を写真で紹介します。
 見ても判るとおり江南地域の豊かな穂がよく判るのですが、逆にどこを見ても緑の絨毯で識別が困難かも知れません。微妙な陰影に気をつけてご覧下さい。

 まず前回にも使った紀南城の全体図です。
 基本的に南城壁から北西東城壁と歩き、その後城内の建物基壇を探しに入りました。



 案内頂いた荊州市発掘部門の責任者と参加メンバーです。



 南城壁です。



南東から全体を見ています。



最初に登った狼煙台とされる南門前の高まりです。



城壁の高さを感じて下さい。



南外堀です。



南城壁の中央に開いているとされる水門を探しに行きます。



なんだかベトナムのコーロア城を思い出します。南の都に共通性があるのかも知れませんね。



振り返ると南門取り付き部が見えました。



ちょっと一服!もちろんタバコを吸うのはS氏とK氏だけですよ!!



堀と南城壁



内堀跡かとも言われる城壁に沿って延びる畑の部分。



広大な水田地帯の内部



いつも最後部の私とHH氏 なぜか判ります?



ほらここでもね!!



あまりに沢山なのでこの辺で一休み。この続きは次回。
なお、この後休憩に入るとみなさんぐったり!特に最後部の・・・・。

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中国江南の踏査-5 紀南城内に設けられた漢代の鳳凰山漢墓群とその遺体の条

2010-08-18 05:30:28 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 春秋戦国時代に楚の国の都の置かれたのが荊州でした。
 同行した妹尾達彦さんのお話によると、近代に入り中国へ列強が進出するに伴い、大型船が海外から押し寄せた。ところがそれらは武漢までしか遡れず、列強はかつての小都市武漢に次々と関係機関を置いた。その結果歴代の中心都市荊州は一気に寂れ今日に至っているのだと。なるほど、ここにも近代の欧米列強による中国侵略の影が及んでいたのである。



 この図の右下が鳳凰山漢墓の地だという。紀南城自体は周囲2キロに及ぶ広大な遺跡である。



 南城壁の一部



 南城壁に沿って設けられた大規模な堀


 
 この丘の向こう側を中心に漢墓群があったらしい。


 さて、その荊州が楚の都であったことを示す遺跡が紀南城であると言われる。諸説があるようだが、一応その説に従っておく。紀南城の紹介は次回に回すとして、その紀南城が廃絶した後の漢代にその南東部の丘を利用して墓域が形成された。これが鳳凰山漢墓群である。
 
 その168号墓からは奇跡が発見されている。2000年以上前の男性の遺体が腐ることなくそのまま発見されたのである。内臓も脳も、もちろん皮膚も痛むことなく棺に収められたまま見付かったのである。その奇跡を引き起こしたのが謎の水だという。埋葬に用いられていた漢方薬が地下から偶然湧き出した水に溶け出しこれがホルマリンのような役割を果たしたのだという説が強いようだが、仮にそうだとすると、この遺体はかなり寒い冬に埋葬されたことになろう。でないと、夏ならば遺体は数日で腐敗はじめるに違いないからである。そうでないならば、或いはその効力を知って予め溶液を入れて埋納したことも想定しなければならない。しかしそれにしてもそのためには発見されるまで存在した水が供給され続けられなければならない。予め井戸の上に棺を設けるなどの対応が必要なのだが・・・。


 ま、とにかくその遺体をご覧あれ。







 遺体の「解剖」が行われた。



 全身像










以下は副装品の一部です。









漆器の国だけあって多種多様な漆器が埋納されていたらしい。





 棺



荊州市博物館、とても興味深い博物館ですよ。時間が無くて十分見ることができませんでしたが。もう一度行きたいところです。

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中国江南の踏査-4~長沙銅官窯を歩く写真編~の条

2010-08-15 08:08:38 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 8月3日に現地から文章だけをアップした長沙銅官窯。
今回は写真でご紹介することにする。



このお兄ちゃんが案内してやるというのだが・・・。丘の仲にある細い道を何度もくねくね行ったり来たり迷いに迷って、途中、民家で尋ねたりしながら、やっとの事で辿り着いた。結局このお兄ちゃんは人に聞いて判ったようなものなのだが。





やっと辿り着いた遺跡なのだが、この地を管理している地元の管理人が、上の許可がないと開けられないという。そこでUさんの人間関係が最大限に生きた。あちこち電話がつながって待つこと30分。ようやく開場となった。









窯の保存施設へ向かう道には無造作に灰原の資料なのだろうか道に埋め込まれていた。







巨大な登り窯が保存されていた。





丁寧な解説板もあり、地元は熱心なようなのだが、ほとんど人には知られていないようだ。だから一々上に通さないと開けてくれないのである。





発掘調査も日常的にされいるらしい。



一郭には粘土採掘坑もあり保存されていた。

 



 湘江の中流、望城県に設けられた長沙銅官窯はその名「銅官窯」から官窯のように思っていたが、長沙も銅官もいずれも地名だという。もっとも銅官という地名は意味深で、長沙銅官窯の製品のあの独特の色は胎土にあるわけで、元々鉱物資源の豊かな地域であったことによるのでは無かろうか。その地の利を活かして湘江の水運とうまく連動して開窯されたらしい。それにしても揚子江のこんなに奥まった地からハルバル日本へ,あの長岡京の港として設けられた山崎津までやってきているのです。どういういきさつで,どんな径路で運ばれてきたのだろうか。それを思うだけでワクワクする遺跡だった。

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 灼熱 湘江銅官 千里の旅

 炎天の 銅官窯から 山崎を

 炎暑路に 埋め込まれたる 長沙が器

 炎昼の 登り窯にて 誰作る 

 銅官窯 玉の汗落つ 湘江の風  

中国江南の踏査-3~長沙銅官窯を歩く~の条

2010-08-03 07:45:22 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
昨日は初めて長沙銅官窯へ行ってきました。

歴史時代の考古学をやる人間にとってはとても有名な遺跡なのですが、その他の分野ではあまり知られていないらしく、今回の予定には入っていませんでした。たまたま長沙での時間が余ったので、団長に提案してみました。遺跡の場所の詳細も、時間がいくらかかるかも判らないので、どうなるかひやひやものでしたが、副団長?のMaさんのとても丁寧な御配慮で行くことが出来ました。

大感謝!!

というのは彼の大学時代の同級生が車を自らのものも含めて手配してくれたのです。市内から約45分。望城県というその地に行ってびっくり。今でも陶土が採れるらしく、あちこちで窯が開かれ、瓦などが焼かれていたのです。

そんな村の一角でとある若者に、長沙銅官窯の場所を尋ねると、連れて行ってやるというのです。バイクで先導する彼に付いていくこと20分ほど、村の中の道を行ったり来たり、着いた!と思ったらそこは農家の門口?おばちゃんが出てきて若者をたしなめている。どうも道を間違えたらしい。再びUターンして目的地をめざすこと5分ほど、やっとその地について若者もホッと!

ところが、施設を管理する担当者が言うには上の許可がないと開けられないという。そこで再び大活躍するのが同級生、あれこれとツテを伝って上司に連絡を取り、やっとの事で解錠!!

巨大な長沙銅官窯の登り窯を目の前にして一同大感激。特にいっしょに旅しているK市のAさん、O市のS3と3人は大喜び。

直ぐ隣では発掘調査中?の窯がもう一基。これは撮影禁止なので紹介できないが公開中のものは帰国後に写真をアップします。

なんと言ってもこの窯址の場所へ行くのに、村人ですらほとんど知らないところでしたから、迷路のような道をくるくる回りやっと着くことが出来ました。本当にMaさんとそのお友達のご厚意のおかげでした。

今広州の空港にいます。これから北京経由で広州から帰国します。

詳しくは帰国後に。短い今夏の中国江南の旅はこれでおしまいです。しかし、馬王堆漢墓、荊州鳳凰山M168号墓、楚の国の都とされる紀南城、長沙銅官窯等々、とても収穫の多い、1週間でした。

ではみなさん 再見

帰国後は直ぐにオープンキャンパスの仕事が待っています。そしてそれが終わったら久しぶりに86ヒロシマへ行ってきます。

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中国江南の踏査1の条

2010-07-29 07:47:28 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
ただ今中国武漢におります。

昨日関空から上海に飛び、そのまま武漢へ移動し、これから荊州へ向かいます。

ドジなことに一つのデジカメの充電器を忘れてきたらしく、今回は片肺飛行です。でも行くところの数が限られているので何とかなるでしょう。

もう出発なので、今夜ネットにつながれば書き込みます。

と、慌ててフロントへいったら誰もいない!?
おかしいな?
置いてかれたのかしら!?まさか!

と思ってよくよく考えると7時集合と思い込んでいたのが、8時集合だった!
慌ててまた部屋に戻り、コーヒーを入れ、これを書き込んでいる内に今度は本当の集合時間!ではいってきま~す。

今日は 荊州博物館の見学、荊州城跡・紀南城跡の踏査
であります。またね。

3日に広州から帰りますが、その後、4日オープンキャンパス、5・6久しぶりにヒロシマに参加します。

7日は待望の壬申の乱ウオーク!!

平城京遷都1300年の会場を中心に案内します。バス3台で、古代衣装も着ながらの散策を予定しています。まだ少し席がありますから、特に衣装を着てのウオーキングをお求めの方は是非参加下さい。参加希望者は私にメールくださいね。

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ではまた今夜。

周防国で東アジア宮都を勉強するの条

2010-01-12 19:38:18 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
「東アジア諸国における都城及び都城制の比較を通じてみた日本古代宮都の通時的研究第7回研究会」と言うとても長いタイトルの研究会が、9・10日の二日間、山口大学人文学部であった。

 今回は中国から社会科学院の劉振東さんをお迎えしての漢代長安城の報告と、中国近世の宋・元・明・清代の都城(複都)に関する文献研究者からの報告であった。いずれも内容の濃い、充実した報告であった。



 報告内容の詳細はいずれ刊行される図書によって知ることができるだろうが、ここでは報告の主旨とは直接関係しない、トピック的に知ることのできた内容の一部をご紹介しよう。

 漢の長安城については何度(4度?)か現地を訪れ、その様相を見学してきたのだが、今回は直接調査を担当されている研究者からの報告ということで、内容も豊かで、大変興味深かった。特に調査成果から見た城内の利用の実態は調査担当者ならではの発掘調査成果に基づく実証性の高いものであった。特に長安城が秦代の離宮から成立していく過程や、そうした中で城内に居住する人々の階層がどの様に変化するのか、城内の諸施設がどの様に建設されていくのか、これまでの研究史の中で指摘されていた城内の構造が発掘調査によっていかに変わったのか等、これまでに知ることのできなかった具体的なものであった。近年、長安城の設計については黄暁芬さんによる中軸線や五方基壇の確認、子午谷との関係など、歴史地理学的手法からの研究が進められ、新しい提案がなされているところである。これに対し、劉さんの報告はそうした現地形などからする研究とは一線を画した、発掘調査という生の資料からの分析であっただけに、信頼性の高いものとなった。惜しむらくは出席予定だった黄暁芬さんが急遽欠席となり、お二人の間での論争が聞けなかった点であろうか。

 報告の中でさらりと流されたある事例があった。以前から少し興味を抱いて調べているものなので詳細について質問してみた。
 
 漢代長安城から風呂が発見されたというのである。

 初耳だった。中国の風呂と言えば華清池から発見された楊貴妃と玄宗皇帝の風呂であろう。あのような優美な浴槽が発見されたわけではなく、湯を溜める施設?とその周りに磚を敷き詰めた遺構からなっていたという。写真だけだったので余り詳しくは判らなかったが、説明によると、京都府向日市の宝菩提院廃寺のようにその場で湯を沸かす施設ではなく、どこかから湯を運んできて溜めるタイプのものだという。それにしても漢代の長安城の内部に風呂があったというのは、私にとっては大いなる驚きであった。それも、湯を溜めておくタイプと言うから驚きだった。場合によっては中国古代では皇帝クラスは普通に湯船に入って身体を浄めていた可能性も出てきたのである (もちろん湯を浴びるための湯溜であることも十分考えられるが)。私にとってはとても新鮮な事例だった。

 そのついでに質問したのが、
 「トイレは発見されていないのですか?」
というものだった。
 残念ながら今のところ長安城からの発見はないが、漢代の墳墓から発見されることがあるのでその構造は判るという。
 「エッツ!?ミニチュアですか?」
 「いえ、実物です!」
 「???」
一同きょとんとしてしまった。
 「お墓に実物のトイレですか???」
 「はい、写真がありますよ」
エエッツ、是非是非見せて下さい!!」
ナナナント、かなりのクラスの墓には実物大のトイレが備え付けられているというのだ。
 そしてそれは現代の中国のトイレと同じ、低い壁があるだけの囲いのないトイレだった。思わず万歳しそうになった。
 いいことを教えてもらった。これから中国の墳墓を調べてトイレを収集してみよう!!
 これが第一のクサイ成果?であった。(笑)

 次の報告は長野高等工業専門学校の久保田和男さんからの五代十国から宋代にかけての複都制に関する報告であった。とくに興味深かったのが陪都(西都洛陽と首都開封との関係であった。
 中でも引き込まれてしまったのが、高等学校の世界史の授業の頃から超苦手だった、五代十国時代の五代国(後梁907-923、後唐923-936、後晋936-946、後漢947-950、後周951-960)に関する報告であった。その都が複数おかれ、どの様に変遷するかというとても内容の濃いものであった(五代の国々の都が何処に置かれたかも知らなければ、複都制をとっていた可能性があることなど全く知らなかった。-おそらく東洋史では常識なんでしょうね(汗)-)。その中で、私が気になった点が、『周礼』考工記と都の形状との関係だった。結論のみを記せば、この時期の都は『周礼』を意識してはいるらしいのだが、実態は全く合致していないということであった。日本の新城の解釈に度々引用される『周礼』であるが、本場中国ではほとんど実態がないことがここでも確認できたのである。大きな収穫であった。益々、新城が「十条十坊」であり、『周礼』考工記によって建設されたとする仮説に疑念の深まることとなった。とても嬉しかった。


開封宮城の午門

 次いで東北大学の渡辺健哉さんから、蒙古の都である上都と大都についての興味深い報告があった。
 クビライの時代、皇帝は季節に応じて上都(現在の内モンゴルドロンノールの北西)と大都(現在の北京)を往き来するのが常だったという。大都は大都会のど真ん中にあり、大規模な発掘調査が困難で、報告事例もないので、一方の都である上都について分析したものであった。上都が都としてどの様な機能を持っていたのかということが詳細に論じられた。

 上都はかつて5年前に訪問した地であり、その内容はとても懐かしいものであった。現地に赴いた人も多かっただけに、この都がどの様な機能を持っていたかについては意見が噴出した。一時的な宮殿なのか、恒久的な都なのか、定住する「都市民」はいたのかいなかったのか、いたとしたらどこに住んでいたのか等々、我々には貴重な文献からの研究発表だっただけに議論は尽きなかった。その可否について私に判断する能力はないが、全く異なる視点から、あの平原の一角になぜクビライは方格の城壁で囲われた「都」を築いたのか?であった。現地に行けばわかることだが、内部にはこれまでの研究史で発表されているように宮殿施設を彷彿させる基壇状の高まりをできる。城壁や城門は見事に残っており、その偉容は見るものを圧倒したに違いない。それだけにこれが見せかけだけの空間のようにも感じられるのである。常置された空間に皇帝が定期的に移動し、その地に外交を求めて諸外国使節が訪れる以上、その地を「首都」と見ることは当然の様に思われるのだが、それにしては人気の感じられなかったのは私だけの感覚であろうか。

 もう一つ驚いたのは、中都の建設がわずか数年だけで、おそらく途中で放棄されたのだろうということだった。現地を訪れた時、とてもよく残っていた地割などから、相当の機能を有した都であると思い込んでいただけに意外な答えに驚いたのは私だけではなかったろう。考えさせられた。


 中都の南面門闕



 中都に残る塔の一つ。

 さらにこの後、元・明の都城についての報告があったのだが、私は夕方からの名古屋での会議のために中座せざるを得なかった。とても残念だった。いつもながら、この研究会では多くのことを学び、刺激をもらって山口を後にした。


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南京・鳳陽・開封報告-10 最終回開封探索+αの条

2009-10-07 16:23:37 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
 授業も始まって、そろそろお尻に火が付きかけていますので、少し端折りますが、これで「南京・鳳陽・開封報告」は一応終了致します。長らくのご拝聴有り難うございました。少し真面目に書いたので少々疲れました。本当は8月洛陽編(前半部分)がまだ残っているのですが、今しばらくしてから報告します。

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 やっとスライドショウのやり方を思い出しましたので、今回は主な写真はスライドショーでお楽しみ下さい。(ここをクリックすると写真が出てきます。その左上にある「スライドショー」というのをクリックすると始まります。)

 開封では現在見える城壁や門などの大半の施設は清朝のものだそうです。この地は度々洪水に襲われて古い施設が水没し、砂に埋もれます。その上にまた施設を建てるものですから古いものはどんどん地下に埋没します。宋代のものは3m近く下にあるそうです。

 そんなわけで、このスライドショーに出てくる施設の大半は新しいものばかりです。このため研究も文献史学が中心でした。しかし、最近は河南省の文物局を中心にして積極的な発掘調査が実施され、随分新しい状況が判ってきました。そうしたものを別のスライドショーでもお知らせ致します。同様の操作でご覧下さい。
 なお、来年3月から新鄭門を中心とした地域で大規模な発掘調査を実施するそうです。できれば見学に行ってみたいものです。



内城北門の安遠門



 宋代の皇城と宮城



 午門



 馬道(清代)



 新鄭門(西面南門)調査予定地
 
 そして最後の移動、北京へ。ところがここで小さな事件が・・・。可哀相なMさん,何と鄭州で二日も足止めされた挙げ句バスで10数時間もかかって済南へ帰ったとか。(もっともあまりに沢山の可愛いことツーショットを撮った天罰との陰の声も(笑))

20090924
南京・鳳陽・開封報告-12 開封-鄭州空港-北京移動の条

実質的な踏査は昨日で終わり。今日と明日は移動のための段取りである。
鄭州空港からの飛行機が9時55分なので、8時前に着くには開封-鄭州約一時間余りだから、用心深く6時半に出発することになる。

ゆとりで着くはずだったのだが、途中で運転手が空港方面の道を間違えて北京方向に向かっていることにM先生が気付いて、ナナナント、高速道路を500m余り逆走!!途中大型トラックが何台も来て生きた心地がしなかった。それにしても不親切な道路標示にいいかげんなナビ!これだから中国は困るのである。

何とか無事に着き、飛行機の手続きも順調に済んで、一人済南へ向かうM先生とさようなら!をして無事北京へ、と思いきやこの後思いもしない展開が・・・。
M先生の飛行機は元々午後2時過ぎに出る予定だった。だから彼は空港で七時間も時間を潰さないといけないのである。これだけでも大変だったのに、我々が北京について夕食に出かけようかという時になって、電話がかかってきた。
「飛行機が飛ばないのです」
「??」
「悪天候で向こうからの飛行機がやってこないらしいのです。いつ飛ぶか判らない、ひょっとしたら飛ばないかも・・・。?」
という訳で我々が北京ダックに舌鼓を売っている頃、彼は鄭州空港でひたすら飛行機の飛ぶのを待ち続け、結局、空港のホテルに泊まったとか。その後の知らせで彼の飛行機はなぜ来なかったかというと、故障してどこぞの飛行場で立ち往生していたらしい。
気の毒というほかない。
北京経由組は無事到着。仙台、関空方面にこの日のうちに帰る3人も無事出国手続きを済ませ、帰国した。

20090925 早朝4時起きで出発

長かったこの夏の中国探査の旅も今日で終わりである。
昨夜はいろいろなたまった仕事をやるために結局2時半まで寝ることができず、4時起きだから一時間半しか寝ていない。なぜこんなに早く起きなければならないかというと、私たちに語学力がないからである。中国語のできる3人の飛行機が7時半発なのだ。空港までの車の移動が長く見積もって一時間二時間前までに空港に入ろうとすると5時半には入らないといけない。すると4時半出発ということなので4時には起きないといけないという計算だ。実際は5時出発で6時には空港に着いて3人はスムースに出国した。

ところがである我々の飛行機の出発時間は9時前後である。つまり空港で3時間もを潰さないといけないのである。それでも3人ならば暇つぶしにお喋りでもすればいいか、と思っていたら、ナナナント、二人の飛行機は大連経由なので、大連で出国手続きをするらしい。結局6時から誰もいない出発ゲート前で鞄を抱えながら居眠りをする羽目に。寒いわ、眠いわ、退屈だわ、三重苦の中で何とか一時間を過ごした頃、ようやく免税店などが開きだして、散歩。しかし、目的のモンブランの店がない。結局歩き疲れただけで時間が過ぎた。

そして今は飛行機。とても寒くて寝られず、食事の頃にやっと毛布をゲット。後一時間足らずで関空。やっと日本の美味しいご飯が食べられる!!さて何を食べるかな?やはりうどん!かな。
12日間のお付き合い有り難うございました。間もなく授業が始まる。よく考えてみると授業をやるのも後5期だ。13年間の総括に向かってボチボチまとめにかかろうかな。

                              以上です。

 フーッツ疲れた!!

でももちろん オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求め真の世界平和を!!


 昨日の新型プロフィール、プロ級の元漫画家志望さんからも大好評を得ました。やりましたねOEさん。もちろん彼女からも早速メールが来て、近日中に秋バージョンを作ってくれるそうです。乞うご期待!!

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南京・鳳陽・開封報告-8 明中都鼓楼・皇陵・円丘を歩くの条

2009-09-30 11:15:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
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 鳳陽はとても充実していたので、19日の午後についても紹介することにする。
中都を予定通り縦断した後、午後からは周辺の施設を見学することにした。
南東部に鼓楼がありよく残っている。南西部に鐘楼があったのだがこれは残念なことに同じ事情で破壊された。鼓楼は鳳陽県の現在の町の中心部に所在し、その広場は市民の憩いの場となっている。鼓楼に昇ると市内を一望することができる。一説にはこの鼓楼を中心にして坊墻のような区画があるかに記されているが、今回はそれらを探索するゆとりはなかった。


 鼓楼から車で20分ほど、さらに南、外城の外に父母の墓である皇陵がある。先の祖陵が高祖以来曾祖父祖父母を祀ったのに対し、ここでは両親達を祀ることになる。朱元璋は8人兄妹の末っ子であったようだが、両親も兄姉の多くも病気や飢えで亡くしたと伝えられている。皇陵碑によれば、父母や兄を葬るにも棺桶を買う金もなく、やむなく次兄と遺骸を山中に運んだとされている。もちろん正確な墓など分かりはしないのだろうが、朱元璋が明帝国を興し、皇帝になってからこの地に陵として建設したのである。皇帝陵自体は参道に石像を置く全国のそれと大差はないのだが、貧民から身を起こし皇帝にまでなった人物の祖先への思いを読み取るに相応しい大規模な陵墓であった。


 この後、期待の円丘へ。その遺存度の高さにびっくり!!
 円丘は直径238mの巨大な土壇で、周りには堀が掘られている。この土を壇に用いたのであろうか。村人達の話しによれば壇上には大きな石が埋没しているらしく、開墾時に発見して掘り起こそうとしたが、大きすぎて起こせずそのままにしたという。壇上の施設に関する礎石であろうか。
 壇には正確に東西南北に4本の陸橋が設けられており、これを用いて儀式の出入り用通路としたことが推測できる。この様な素晴らしい遺跡が調査もされず放置されていることがとても残念で、日本で調査できないものか?と団長に詰め寄られたが、今の中国政府は、外国の調査を基本的に認めていないので、無理だと説明した。せめて測量調査でもさせてくれれば役に立つ→と思ったのだ・・・・。




 大龍興寺:中都建設断念の後その建物の一部を利用して立てられた寺だという。ただしその位置もかつてとは変わっているという説もある。



 大龍興寺の現在の本殿。もちろんここでもお線香を上げさせて頂き、朧谷先生、、安藤さん、山田博士夫人のご快癒を願った!!



 再建中の塔



 鼓楼の正面観




 鼓楼の現在の建物




 鼓楼上から町の中心部を眺める。ここの広場は鳳陽の人々の休日のたまり場のようだ。



 鼓楼の建物は資料室になっていて、ちゃんと解説員もいる。その一角には玉座があり、服装を着けて座ることもできる(有料)。



 そしてこんな若い解説員がいて、ナナナント日本語を話す。南京ならいざ知らず、鳳陽に来る日本人はよほどの専門家くらいであろう。もちろんM先生は直ぐにツーショットをおねだりする。彼女の名字が変わっていて、「章」と言うから驚きである。



 ついで明皇陵へ。もちろんここでも60歳以上は半額!!





 朱元璋系図

 そしてここでは有料の解説員が付いてきたので、もちろんツーショットしたのだが、M先生、少々ご不満のようなのでカット!



 今回の調査で気付いたことはとても花が少ないということです。公園などに人工的に置いてあるのは別にして、自然に咲く花の少ないこと!!何故なんですかね。ところでこの花何の花?久しぶりなので撮っては見たものの・・・。



 皇陵の墳丘



 ついで中都外郭城の南南東に所在する円丘へ。とにかくその遺存度の高いことに驚きました。建設中止後も円丘ではお祀りを度々したというので、大事にされていたのでしょうか、この後に訪ねた方丘と共にとてもよく遺構として残っている。



 図面を見た時はほんまかいな?と疑っていたのだが、実際に歩いてみてびっくり!!どうも以前に来た連中もここまでは気付かなかったらしい。大収穫であった。それにしてもこの堀を利用して稲を栽培しているところが鳳陽らしいところであろうか。



 円丘周囲の堀を利用して栽培されている稲。



 図面に見える陸橋部。



 一部は堀のままになっていて、家鴨や鴨が泳いでいる。



 突然の闖入者に大騒ぎの村人達。とても親しみ深く、この遺跡が大切にされているその背景がよく判った。

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 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!

南京・鳳陽・開封報告-7 明中都を歩き、圧倒されるの条

2009-09-29 20:23:46 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
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20090919は、

 初めての鳳陽である。日本の研究者仲間に言っても「それどこ?」と大抵不思議な反応が返ってくる。かくいう私もつい最近までよく知らなかった。今回の団長の黒衣であるHさんに以前、一緒に行こう!と誘われたことがあるのだが、その時は都合が合わず行けなかった。ところが今回はそんな噂を聞きつけた私がお願いして連れて行ってもらったものだ。


 


 だがしかし、着くまではどんなところなのかからきし想像も付かなかった。

 鳳陽の第一歩は禁垣(きんえん)の西城門・西安門跡とその外堀跡だった。この禁垣というのが鳳陽独特の言い回しであって、なかなか一般的な禁苑(きんえん)と紛らわしくて混乱してしまう。同行した仲間でさえ度々頭が混乱してしばらくはよく判らないまま遺跡の見学を進めていた。一般的な使い方からするとどうも皇城の城壁をこう言うらしい。禁垣の城壁は文化大革命までは良好に残っていたらしいが、完全に撤去されてしまい、今は道路と化している。禁垣の西側(外側)には大きな堀が南北に掘られているが、西側だけで終わっているという。これもわずか6年ほどで建設の断念が決められた中都の特徴なのであろう。



 
 禁垣外の堀跡



 破壊されてしまった城壁跡(禁垣)の道路

 この後宮城(大内と書く史料もある)の西門である西華門へ向かった。これはとてもよく残っていて、その上に上がることも可能であった。3本の門道もよく遺されており、前面には南北に幅80m、深さ6mという大規模な護城河が設けられている。城壁の高さは10m近くあり基底幅もそれに近い大規模なものである。全て磚で出来ているとの説明もあったが、俄には信じ難い。城壁に登ると城内が一望でき特に宮城の中軸線上に設けられた自然の山を利用して軸線に合わせて積み上げられたという万歳山をよく眺望することができた。風水思想に添って様々な施設が人工的に配置された可能性を実感させた。



 西華門から北に延びる城壁と護城河




 

 西華門



 西華門内から西華門から北に延びる城壁を見る



 向こうの山が万歳山



 西華門上から東に向かって城内に延びる道路を見る



 西華門から北に延びる城壁

 西華門上から南に城壁を歩くことになり、南西隅の角楼から午門付近まで辿った。たった6年で造られたとは思えない程大規模な城壁と護城河を眼下に見ながら秋の涼しい風に吹かれて城壁を進んだ。特に角角に設けられた角楼は、文革前の写真によれば南唐隅の角楼にあったという6層の塔を設けるに相応しい大規模なものであった。




 人間が米粒くらいに見える大きな角楼



 角楼コーナー部の堀の曲がり方



 羊もお散歩



 はるか向こうに午門が・・・

 午門近くまで進んでこの後はいろいろ問題があるらしいので省略。午門を遠目に眺めてもとにかく壮大!!それも650年程前のものがそのまま残っているのだから驚きである。



 午門中央門道



 午門の壮大な規模



 午門の前を現在の農道が真っ直ぐ北に延びている。その農道を200mほど進むと急に道が坂になってくる。これが奉天門跡だという。その頂点に立つと然り!!東西にその高まりが延びているのである。

 再び坂を下って300mほど進むと大きな土台が眼前に迫ってくる。奉天殿跡である。日本で言えば大極殿跡と言うべきところである。雑草が生えていて全景をうまく治めることはできないが、現地を歩くとその広大な基壇の跡を確認することができる。



 奉天殿跡

 さらに北に進むと途中に井戸跡があり、日本で言うところの内裏の中の井戸とでも言うべきものであろうか。井戸から100mほど北に進むとそこが宮城の北門玄武門跡である。両側に8m程の大きな土壇が残っている。今回は歩かなかったが、先の西華門から北に進み北西の角楼から東に折れればここに来るはずである。これも文革で破壊されたのであろうか。玄武門の直ぐ外側(北側)には西華門から続く護城河が雄大にその跡を遺している。とにかくこれだけの遺跡がつい最近までほぼ完全に残っていただけに文革での愚行が悲しくてならない。太平洋戦争の愚行によって全国に遺されていた近世城郭の大半を消失させてしまったのと全く同じである。



 玄武門跡



 北城壁に添った護城河



 龍模様の浮き彫りされた礎石





 東華門跡に立つ文物碑。ここはつい40年程前まで完璧に残っていたという。残念!!



 今はなき東華門を通行する村民

 中都の中枢部を堪能し尽くして午後の調査地に向かった。中都研究なくして宮都研究なしと言えるほど素晴らしい遺跡であった。必ずもう一度戻ってきたいものである。その頃にはいろいろな制約がなくなっていることを願い、世界中の知恵でこの遺跡を調査、保護したいものだと強く思った。



 後に誕生パーテーの会場となる鴨屋さん。

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そして

 オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!今こそ世界平和の道を!!

南京・鳳陽・開封報告-6 南京から鳳陽へ、途中祖陵を訪ねての条

2009-09-28 19:51:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
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 わざわざ運転手の提案で7時出発としたのに来ない!!皆さん苛苛!!

 南京から鳳陽へは車で4時間ほどの道のりだ。ただし予定にはなかった明祖陵を訪れることにしたので、かなり時間を取られることになり、またまた車の会社との間でトラブルが。8月といい、9月といい、やはり現代中国の人間との間の「契約」は文書にしてきちんとしておかないといけないことを実感した。これまでのような「人間関係」はもう通用しない社会になってしまったようだ。これも経済大国の悪しき影響であろうか。またまたM先生の登場で何とか調整を済ませ祖陵へ。彼なくして今回の調査はあり得なかった!感謝感謝!!



 淮河を渡るといよいよ黄河流域へと近づいていく。、中国北部となる。



 ようやく見つけた祖陵の入口。

 祖陵の博物館について珍騒動が!!

 60歳以上の「老人」は入場料が半額になるというのである。結構高額の入場料だったので、皆さんには感謝されたのだが、私としては複雑な心境であった。(この後拝観料を取られる施設に行くたびにパスポートを出す羽目に!それにしても日本ではこんな制度はないような気がするが・・・政権交代したことだし、お願いしてみるかな!)



 上が一般の入場券、下がおじいさん用の特別チケット!アー悲し-。

 さて祖陵は余り知られていない。鳳陽の南にある皇陵はそれなりに知られているらしい(何も知らない今回の運転手も知っていた)のだが、祖陵はほとんど知る人もいないらしい。これもトラブルの一因だった。朱元璋の曾祖父や祖父母他の一族の遺品を集めて陵としたものである。1680年の黄河の大洪水によって一度水没したのだがその後六十年ほどして再び地上に姿を現したという。



祖陵の説明



 祖陵附属資料館の正面観。最近の中国の博物館はとても綺麗で、いろいろな工夫をするようになってきた。これもオリンピック効果であろうか。かつての日本の変化が東京オリンピックにあったことは間違いないが、ここ中国でもそれを実感できる。






菱の実はあっさりしたリンゴのような味がした。



 櫛の使い方実演!

 その参道を歩く途中にお土産物やさんがあった。ま、どこにでもあるものなのだが、なにせ参観者など全くいない施設。こんな所で店を出していてどうすんの?という感じだった。その一角でおばあさんが菱の実を置いていた。珍しいので覗くと、売りつけるわけでもなく食べろという。なかなかあっさりした美味しいものだった。ついでに土産物屋さんを覗くとこんな田舎にしては結構整った顔立ちの若い女性が店をやっていた。櫛が山積みされていたのでいくらだというと結構安い。それで学生の土産にしようということになり、まとめ買いをした。



 もちろん、M先生が見逃すはずがない。すかざすツーショット。



祖陵の石像群



修理中の金水橋。今時アーチはこの様に造ると判った。



水面に少し顔を出しているアーチ部が玄室の入口。

そんな寄り道をしていたもので、陵の方は駆け足で見て回った。一度は水没したものの、明代には壮大な規模の陵墓だったという。貧民出身の朱元璋にしてみれば、自分を生んでくれたご先祖様がいかに大切だったかがよく判る。そんなこんなで祖陵を見学していよいよ鳳陽へ向かう。

ナナナント、鳳陽の名物は日本から持ち込まれた??ザリガニだという。
実は4年程前に来た時に南京で知らずに食べた。大してうまいとは思わなかったので今回は全く手を付けなかったが、聞くところによると南京から週末には沢山の人が食べに来るとか・・・。物好きな・・・!



かなり唐辛子と油で煮詰めてあるので、病気の心配はないのだが、・・・前回のこともあり、遠慮した。

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現実味を帯びてきた!! オバマ大統領のヒロシマ,ナガサキ訪問を求めよう!!
そして核兵器廃絶の第一歩を踏み出そう。