yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

前期最後の「授業」津高等学校出前授業の条

2009-07-31 08:41:32 | 三重大学考古学研究室情報
 我が校でも出前授業を!とお思いの方は
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 7月31日は2009年度前期の最後の日である。
 金曜日の試験が実施されているのだが、私は三重県立津高等学校へ「出前授業」(高校では大学模擬授業と呼ぶ)に出かける。



 ここのところ毎年のように津高校からは呼ばれて話しをする。夏休み前に、一年生に進学への動機付けを図ろうとする企画らしく、とても熱心に聞いてくれる。特に気持ちいいのが、毎年二年生が先生方の対応をするようになっているらしく、応接室での事前打ち合わせや、お茶の提供など、テキパキと進めてくれる。

 以前、三重県下のある高等学校へやはり「出前授業」へ出かけたところ、企画自体が「業者」に丸投げされていて、説明から対応まで全て業者がやるという学校だった。「業者」自体は訓練されていて、別に悪い対応ではないのだが、所詮余所者である。トイレの場所を聞いても、予定外の機械の確認などをしても場所が判らず右往左往。ところが先生方も委託事業という意識があるのか、全く関心なく、いろいろ質問しても知らん顔!



 なんぼ大学が大学の宣伝も兼ねて(無償で協力して)いるからと言って、それはないやろう!!と腹が立ったことがある。高校側にしてみれば県教委か校長かがやるかってな負担であって、わしゃ知らん!なのかも知れないが、協力している我々はそれなりに真面目にやっているつもりなのだ。大学のためならば、と積極的に手を挙げて出かけているつもりなのである。それが、受け手でこれではなんだか虚しくなる。



 最近はほぼ全員が「出前授業候補授業」をホームページに掲げ、高校からのお呼びを待つというスタイルになり、それなりに定着し、積極的な高等学校では毎年必ず開催するようになってきた。ただ残念なことに、候補授業の半分くらいしか利用がなく、お忙しい先生は一年に何回もお出かけになるが、そうでない先生もいらっしゃる。折角多彩な授業が提供されるようになっているのだから、もったいないのである。



 我々としても高等学校の時からきちんと動機づけされた学生が来ることが一番望ましいのであって、稀に出前授業がきっかけでその分野に進学したと聞くととても嬉しいのである。

 今日のお題は「ローマ時代の地中海世界~ポンペイ・ビブロス・テイールの都市遺跡~」である。勿論、私の専門は日本の古代宮都研究であるが、近年その比較対照として東アジアのみならず、西アジアやヨーロッパの都市遺跡を扱っているので、こんな内容になったのである。
 授業の主旨としては次のような観点から高校生に歴史や考古学に興味を抱いてもらえるような授業にしたいと思っている。
 ・ なぜ日本考古学が地中海なのか
 ・ 比較史の視点を大切に!:世界に視線を及ぼす
 ・ 同時代を比較する中で現在の日本がどの様にしてできてきたのかを考える契機とする:紀元前1000年から紀元後200年 = 弥生時代の日本と世界
 ・ 同機能を比較:港湾都市の施設(都市構造)・立地に見る共通点や相違点
 ・ 歴史を現代社会に活かす



 果たしてどんな反応があるのか、楽しみである。



勿論一番伝えたいことは「平和だからこそ歴史学を学び、その教訓を活かすことができるんだ」ということである。平和の尊さをきちんと伝えようと思っている。

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明日から夏休みである。今年から四年生全員に毎日携帯からその日の卒論状況を報告させることにした。私も彼らに倣って、この夏休みは毎日書くことを義務づけようと思っている。その分少し内容が薄く、短くなるかも知れませんが、どうぞよろしく。 

久留倍遺跡学術調査最終年度調査状況-1 巨大な抜き取り穴の条

2009-07-29 23:12:59 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 やっぱり久留倍遺跡は面白い!!!!と思ったら、
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 昨日には四日市市の史跡久留倍遺跡(私はどうも久留倍官衙遺跡という名前には抵抗感が強く、この名前を使わせてもらう)の学術調査現場で、委員会があり、現在調査中の遺跡について検討会が開かれた。
 


 久留倍遺跡について発見当初はとても残念な公開状況であったが、その後厳しい批判を展開したところ逆に積極的に公開されるようになった。とてもいいことだと思う。税金を投入した現場でありながら、発掘調査状況を一部の気に入った人間にしか見せない、教えないという信じられない前近代的な秘密主義を採る地方自治体がある。その逆だからとても有り難いのである。

 今回は久留倍遺跡第1期官衙とされる東向き政庁建物群の西に並び立つ総柱建物の再確認調査の検討である。私は最近この第1期官衙建物群を「朝明駅家」と推定している。建物群の立地、施設の配置(東向き)、構造(今回調査対象となった背後の総柱建物の存在など)などからそう考えているのである。

 当初からこれらの施設は政庁に伴うものとされてきたが、その真偽の程を確かめるための精細調査の検討である(私は建物の方向性、配置、性質から見て何ら疑う余地はないと考えてきたが、そうでない人もいたらしい)。これまでが表面的な調査に過ぎなかったから、きちんと問題意識を持って掘ることはとてもいいことなので、関心を持って報告を聞いた。

 しかし、やはり図面上の説明と現場での確認というのは恐ろしいくらい異なるものだと実感した。後から思うと、雨がよくぞ少し遅れて降ってきてくれたことよ!冷や汗ものだった。

 室内の説明では確認の対象となった建物は一度建て替えがあり、ほぼ同じ位置で同じ規模の同じ性格の施設が建設されたことが判明したというのである。図面は見事に色分けされ、何の問題も抱かせないくらいに完璧にその変遷が示されていた。いつも丁寧な発掘調査をしている教育委員会の調査担当者なので、そうした目で図面を見ていた。




 この間の他の地区での再調査でも2~3回の建て替えのある施設もあることが判明していたので、なるほどここもか、と一同納得していた。ただ気になったのは、普通は建て替えるとどうしてもその規模や、微妙な柱位置がずれるものである。ところが一応そうしたものがずれないで図示してある。えらく変わった建て替えだな-、というのが印象だった。説明が進む内に雨が強くなって来たので少しでも現場を見てもらおうということで、急遽傘をさして現場に出た。

 久しぶりに見るその総柱建物の柱跡は巨大だった。図面を採った段階から確認のため堀方などが少し段堀されてより判りやすくなっていた。そして面白いものである、図面で見るのとは大違い、二期ある内の最初の堀方というのがイメージ以上に大きいのである。そしてここで疑問が!

 二時期ある内の後の時期に掘られたという堀方が消えているのである。



(手前の大きな隅丸方形の部分が奥に見えるやや黄色みを帯びた堀方の抜き取り穴である。これだけの穴ということは元の柱が巨大であったとしかいいようがない。柱は推定50センチ近くあったと見ていいだろう)

 「エエッツ?」

 担当者もとても正直に「何故か判らなくなってきたんですよ」と仰る。

 しかし、一度は書いた図面である。確かに最初はこう見えたのだというのである。一同優しいので、

 「うーん、だとすると今はこんな感じなのかな-」等と、できるだけ担当者の意見を活かせて解釈しようとする。

 しかし、上で見えていたものが見えなくなることはよくあるが、下で見えるものが上で見えたものより大きくなるということはよほどのことがない限りない。こんな言い方は失礼かも知れないが、ある時に二時期ある!と思った瞬間いずれも二時期なければならないとし、検出状況を予断した結果、微妙な色の違いを二時期にしてしまったのではないか?ふとそう疑った。



 一つの堀方を見ている時は何とか説明が付いた当初の解釈も二つ三つとなるとなかなか説明が付かなくなってきた。そこで思い切って、

 「二時期目というのは同じ行為の埋め方の違いであって、これらは建物を抜き取った巨大な抜き取り穴に過ぎないのではないか」

と提案してみた。そうなるとこの建物の柱は相当大きなものになる。堀方が1.5mくらいある大きなものであることは間違いなく、抜き取りもそれに匹敵するくらい巨大なものである。すると柱は50センチ近くあった可能性が出てくる。まるで平城京の掘立柱建物の抜き取りを見ているようだ。地方ではほとんど見ることのできない大きさだ。しかし地方にもこれだけ大きな柱がないとはいいきれない。

 そうした目で見てみると全部同じように見えてくる。不思議なものだ。

 一同の意見も一致しだした。大急ぎでまだ段下げしていない柱の検出状況も確認した。



 「間違いない!!」

 雨が本降りになってきたので、やむなく室内に引き上げて図面を再確認した。検出状況のスライドも見た。全員の意見が

 「ほぼ間違いないだろう.後は、一部を断ち割ってみて断面でそれを確認すればいいだろう」ということで一致した。

 やはり自分の目で現場を見ること、どんなに信頼できる人の調査でも、見落としがないか念を入れること、この大切さを実感した日となった。逆に言うと、とかく「指導委員会」というのは結果だけを報告し、「えらい」先生方にお墨付きをもらうだけというのが一般的だ。確認のしようもない段階で見せられることもしばしばである。それに比べて四日市の姿勢はとても立派だ。全員の先生方に都合を付けてもらって、都合の付かない先生には別の日を用意して、とにかく念には念を入れて調査成果の共有化を図る。どんな見落としもないように、先生方の意見の違いは違いできちんと記録して、できるだけ両者納得のいく方法で確認をする。こういう姿勢だ。当然と言えば当然だが、そうしないで見せもしない調査があるのは前述の通りだが、見せても確認のしようもないのも現実だ。

 まだ勿論最終決定はしていない。立ち割の結果別の意見もまた出てくるかも知れない。それらも確認させるという。さらに報告書の作成のために図面の検討会や遺構の評価のための会議も設定するという。

 きっといい報告書ができるに違いない。そしてその後に待っている遺跡の整備も素晴らしいものになることを願っている。

 いつも繰り返すが、遺跡の発掘調査は発掘途中から、多くの専門家(自分と意見の合う専門家だけではなく批判的な専門家にも勿論)にできるだけ公開すること!!これを原則にすべきであることを今回再認識した。


考古学は単なるロマン追究の学問ではない!!ロマンなどに浸っている間に世界を破滅に向かわせようとする輩の策動が渦巻いている。断固として核兵器を廃絶するための運動を展開しよう!そのための第一歩として、

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4冊目の書籍『大阪国際児童文学館蔵書解題』の条

2009-07-28 00:00:00 | yaasan随想
『大阪国際児童文学館蔵書解題』読んでみようかなと思ったら、
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 頂いた書籍でご紹介するのを保留していたもう一冊が

鳥越信著『大阪国際児童文学館蔵書解題』(大阪国際児童文学館を育てる会 2008年12月4日)

である。いよいよ山中も考古学から作家へ転向か?!と喜ばれる御仁もいらっしゃるかも知れないが、とてもとても私の文才では作家は無理だとよく判っておりますので、そのご心配は無用です。(笑)

この一冊は私の親友夫妻の妻の方から頂いた書籍である。彼ら夫妻とはもう40年の付き合いになる。特に彼女には私は、大学卒業に際し、ひとかたならぬお世話になったので今でも頭が上がらないのである。私の卒論の半分近くは彼女に清書してもらったものだ。当時勿論ワープロなるものはなし、手書きのペン字で原稿用紙に清書して提出するのが当然の規則であった。そして大半の学生は2週間程前に先生に見てもらった上で生協に出して製本してもらったらしい。そんなことなどできるゆとりのあるはずもない私は締め切り日まで必死で原稿を書き殴っていた。一度書いた下書きにあれこれ書き込みを入れて何とか形にしようと試みていたのである。しかし、どう考えても清書する時間がない!!別に5年行った大学をもう一年延ばしてもどうということはなかったのだ.勿論就職が決まっているわけでもなく、その年に卒業論文を出すことの最大のメリットは、たとえ半期分でも授業料がいらなくなること。大学の研究室に顔を出してみんなから白い目で見られることがなくなること。この二つくらいであった。前者にしても当時の学費が年間12000円半期だと6000円だから、いくらバイト代が安い当時でも4日も働けば半期分くらいは出るのである。

 しかし何故かとにかく締め切りに間に合わせようと私も周りも必死になった。そこで史学科の後輩でもあり、友人の彼女でもあった彼女に頼むことになったのである。3日くらい徹夜してもらったのではないだろうか。当日何とかでっち上げた卒論をバインダーの付いたクリアーファイルに鋏んで研究室に持っていった。

 勿論受け取っていただいた先生は開いた口が塞がらなかったに違いない。前代未聞、卒論がバインダークリップで提出されたのである。

 「君これ、後で製本するんだろ?」
 「エエッツ!?そんなんせんとあかんのですか?お金もないし、これだといけませんか?」

 こんな会話があったかどうか、もう定かには覚えていないが、先生方が呆れておられたことだけは事実だろう。後年、必要に迫られて成績証明を取り寄せる羽目になり、始めて見た卒論の評価が「良」だった。当時卒論は「優」が普通だからこれは異例中の異例、先生方の怒りが伝わってくる評価だった。

 その彼女がいつしか大阪に住み、大阪府の図書館の仕事をするようになり、時々夫婦揃って飲んだりして未だに付き合いが深い。そんな二人に、先日『大森俊輔追悼文集 羽化登仙』を送った。僕の大学時代の友人40数人に送ったのだが、みんなから沢山の反応があって、とても嬉しかった。勿論彼女からも熱いメッセージと共にこの本が送られてきたのである。



 著者は早稲田大学を卒業後、岩波書店に勤務し、その間母校でも教鞭を執った。この間、早稲田童話会の名で『少年文学の旗の下に』を発表するなど、児童文学に傾注し、12万冊余にも昇る児童文学書・関係資料を収集した鳥越信氏である。1979年これらを一括して大阪府に寄贈し、これを核にしてできたのが現在の大阪国際児童文学館であった。緑豊かな万博公園内に設けられた文学館は多くの府民・子どもたちに愛され、親しまれてきた。

 ところがである。昨年二月に就任した大阪府の橋下知事は、財政赤字の解消を旗印に、徹底した予算削減を命じた。特にその矢面に立たされたのが、文化・芸術機関・施設であった。府立博物館(資料館)の削減・統合や補助金カットであった。大阪児童文学館も目を付けられ、大阪府立図書館へ併合するとの案が出されたのである。

 世の常として、財政が厳しくなったときに一番に縮小されるのが文化関係予算である。つまり世の一般的理解として、「文化は贅沢」なのであろう。しかし、現代社会において「文化」なしに日常生活を送っている人間はどれくらいいるというのであろうか。我が研究室の学生を見ていても音楽は欠かせないらしい。レポートの原稿を打ちながら、パソコンから音楽を流す学生。ヘッドフォンが離せない学生。恐らく彼らにとっては三食の飯と同じくらいの価値が音楽にはあるに違いない。電車の中で音楽を聴きながら本を読んでいる若者。休日になると家族で出かける人。つまり飯(経済)だけが人間生活ではない時代にとっくの昔に入っている。
 音楽も、本も、遊園地も、博物館も、ウオーキングも、いまや人間生活には欠かせない文化なのである。しかし為政者達は道路を造ることよりも、府庁の庁舎を建て替えることよりも真っ先に文化予算を削減する。
 私達の世界でも、橋下知事によって、大阪府立の考古関係資料館(博物館)の再編統合が打ち出されている。ある施設は民間に売却せよとまでいわれた。佐原真さんによって、「博物館を判りやすくしよう!」とのかけ声で設立された弥生博がその攻撃の対象とされた。とても恥ずかしいことだ。
 勿論私は、今の博物館・資料館が十分市民にその成果を還元しているとは思っていない。市民の中に入っていって具体的に、丁寧に、判りやすく歴史が語られているかというと、大いに疑問を持つ。しかし、それは考古学関係者の当面の課題であって、だからといって為政者が直ちに廃止するものではない。要するに為政者達はポーズとして「贅沢」な経費を削減しましたよと主張するためにこうした文化予算を削るに過ぎない。
 大阪国際児童文学館にしてもそうだろう。

 「府立図書館にまとめて管理すればいいじゃないか。児童文学だけサービスしなくったって中央図書館に借りに来ればいいじゃないか。」

これが彼らの論理であろう。しかし、そうなったとたん、司書は削減され、子どもの相手などしてくれる司書はいなくなる。巨大な図書館へ子どもたちが気楽に入って本を借りることなど不可能だろう。或いは、中央図書館の立場から廃棄されてしまう図書もあるに違いない。子どもたちに未来のない為政など失格以外の何物でもない。

 そんな厳しい闘いの中、友人がこの本を送ってきてくれたのである。各2頁に82冊の貴重な児童書が写真入りで紹介されている。本書は、表題とは違って(ちょっとタイトルが硬いよね、残念!僕なら『明治大正の子どもたちと児童文学』とか、つけるんだけどね。)、児童書の歴史を辿ることのできるとても貴重な内容となっている。1200円。大阪国際児童文学館を育てる会電話・fax06-6387-2683 に連絡するといい。



 核武装を主張する人は児童が文学に親しむよりも、戦争に向けての道徳教育を徹底し、鉄砲玉として突撃する精神を養うことを求めている。将来を担う子どものためにも、

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考古学研究会東海例会<第13回例会>案内の条

2009-07-26 08:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
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  考古学研究会東海例会<第13回例会>

テーマ「庭園風景と考古学」 



1. 趣 旨

 考古学が直面する課題のひとつに、研究や調査成果を如何に日常的な生活のなかに融合できるかというテーマがある。これまでにも考古学は、発掘調査や史跡整備という行為において、人々の関心を引き寄せながら蓄積してきた実績もある。
東海例会では、これまでにも例会テーマに「史跡整備」や「風景」を取り上げ、「まちづくり」へと結実できる可能性を模索してきた。今回の例会では、多くの人々に観賞されかつ観光や日常のなかで親しまれている「庭園」を取り上げ、「庭園」の分野に対する近年の考古学の貢献と今後の関与の可能性を探りたい。

2. 期  日   2009年8月1日(土)12時45分~17時45分

3. 場  所   名古屋大学 文学研究科237講義室 

4. 報告内容
 12:45~13:00   開会と趣旨説明
 13:00~13:30  「江馬氏下館跡の庭園遺構と整備」大平愛子(飛騨市教育委員会)
 13:30~14:00  「多気北畠氏城館跡と庭園」熊崎 司(津市教育委員会)
 14:00~14:30  「大知波峠廃寺跡にみる庭園遺構と山林寺院」
                     後藤建一(湖西市教育委員)
 14:30~14:45   休憩
 14:45~15:30  「庭園研究と考古学」小野健吉(奈良文化財研究所)
 15:30~16:15  「浄土庭園 平等院の系譜」溝口正人(名古屋市立大学)
 16:15~16:30   休憩
 16:30~17:30   座談会    
 17:30~17:45   次回案内と閉会
 18:00~      懇親会

           問い合わせ先:〒464-8601名古屋市千種区不老町
           名古屋大学大学院文学研究科 考古学研究室
            E-mail: kajiwara@lit.nagoya-u.ac.jp


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 第14回例会は2010年2月6日(土)三重県担当で、
  「伊勢神宮の考古学」(仮題)ですよ。

 会場は三重大学人文学部を予定しております。日程は決まっていますので予め予定を入れておいて下さいね。

  

前期の授業が終わっての条

2009-07-24 13:51:57 | yaasan随想
 暑いですね。夏ばてに気を付けてお互いに研究に、調査に、社会活動に頑張りましょうね。
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 今日は金曜日なのに水曜日の授業をやった。
 昨日は木曜日なのに月曜日の授業のために本来の私の授業はなし。そして一昨日は水曜日の授業を水曜日に(当たり前か!)。

 何でこんな訳のわからんことをやるんかいと言いたくなる。

 一日おいてまた同じ種類の授業を聞かされる学生が可哀相なのである。ところがこの授業一時間目の一般教養授業なのに結構出席率がいいのである。工学部や生物資源学部の学生が結構多い。中でも目立つのが生物資源学部の学生で、とても熱心なのである(これは以前からそうだ。時には人文学部文化学科の学生よりも熱心でよく勉強している)。にもかかわらず出席率が高いのである。一時間目の授業など、選んだことすらない私には奇跡としか思えないのである。

 さて、前期は
 (A) 教養(今は共通教育という) 
 日本史1:考古学入門

 考古学に関する最新の話題を取り上げてそれを解説しながら考古学の魅力を語る、というキャッチフレーズの授業である。

 もう11年目の授業だが、勿論毎年いろいろな最新考古学情報が入ってくるので11×15=161種類の最新発掘調査成果を取り上げて話しをしたことになる(厳密にはここのところ一回目の授業が同じ[トイレの考古学]だから完全に異なるわけではない)。

 今日は、先日行ってきた奈文研の「蘇我入鹿邸宅?」を素材に考古学とは結局どんな学問なのかを,前期のまとめを兼ねて話した。

 最近はどの授業でも、毎回A4一枚に罫線を引いた紙を渡し、感想や質問を書かせ(ミニレポート的に提出させ)ている。今年のこの科目は私の授業にしては受講生が多く、85人もいたので、喰いつきがどうか心配だったが、とても反応がよくて授業がやりやすかった。
 そのミニレポートを採点しているが、3極分解する。毎回びっしり書いてくれる学生(これが三分の一。文化学科と生物資源学部の学生が多い。)、可もなく不可もなく、無難にまとめる学生(これが三分の一)と、文字を書くことそのものがいやなのだろうか?一言(せいぜい数行のありきたりのこと)しか書かない学生(残り三分の一。もちろん某学部の学生が圧倒的。困ったもんだ。)である。それにしても教育学部の学生はこの11年間でほとんど取らない。危険授業にでも指定されているのだろうか?(笑)。きっと何か必修授業と重なっているのだろう。

 後二者の学生はたいてい寝ているか、黙って内職しているので授業はやりやすい(私學だとこの手の学生がひそひそ話をするから困る)。
 実際の学生による例の授業評価は知らないが、自己満足している。今日も授業が終わって一年生が「発掘調査に参加したい」と言ってやってきた。早速若狭の現場を紹介することにした。

 そもそもが「学生評価」などという下らないものにお金(1000万円は下らないだろう)をかけるくらいなら、こんな感じで毎回学生に書かせれば学生自身のためにもなるし、こちらもいろんな事を気付かされる。これならタダなのである。同じことをFD担当の先生に申し入れたのだが、何の反応もなく無視されてしまった。悲しかった。FD担当教官をFDする授業をやればいいのに・・・(笑)。

 そんな中で一番乗りがよかったのが、割り箸を用いた木簡解読実験授業だった。昨年末の木簡学会での和歌木簡の研究成果を話題として取り上げたのである。目的は木簡とは何か、木簡の解読がいかに難しいか,でもそれなりに面白いんだと言うことを判ってもらうためのものだった。

 「和歌」を読んで割り箸に書いた上で、それを二つに割って、隣の人と交換し、何と書いてあるか読み解きなさい。

というのが授業での指示だった。

 最初は「エエッツ!和歌てなんなん?何書くのん」と大騒ぎしていた学生が、その内集中しだした。静かになったのである。
 
 最後に割り箸をもう一度交換し、実際は何と書いてあったかを確認させ、いつも通り感想などを書かせて提出させたのである。ところが、驚くべきことに、この和歌??川柳!!?がなかなかの力作揃いで、いい歌が沢山歌われていたのである。
 
 三重大生、見直したぞ!!


 (B) 学部の授業

 1) 考古学・文化財学概論 

 まさに考古学の概論なのだが、博物館学学芸員資格の必要単位ともなっているので、博物館を頭に入れながら考古学の概論を講義するというものである。
 概論というのはどの先生に聞いてもやりづらいらしい。基本的に毎年そんなに基本が変わるわけでもないからどうしても似通った授業になる。何とか工夫しようといろいろ手を替え品を替えいじくるととんでもないことになる。いつも四苦八苦している。少しでも昨年より変わった、いい授業を!と思うのだがなかなかうまくいかない。
 今年も遺物を触らせてみたり、学生間で討論させてみたりするのだが、どうもううまくいかない。いつもこの授業が憂鬱である。学生もシラーとして聞いていて、元気がない。学部に進学する予定の二年生が受けるのだが、どうも今の教育体制では二年生をいかにその気にさせるかが難しく、悩みの種なのである。あまりいい評価はできそうにない。いい方法があったら教えて下さい。

 2) 日本考古学特講 

 日本考古学に関する研究成果を前・後期連続で話しをする講義形式の授業である。今年は20人余しか受講していないので、割とこじんまりとしていて、なおかつとても皆さん熱心なので、授業はしやすい。
 もっとも今年は初めて長岡京と平安京をテーマにした後期都城論なので、こちらも興に乗ればなんぼでも話が飛び出すというもので、自分の研究成果の確認にもなるし、新たな発見もすることができる。前期は何とか合格点はもらえそうである。
 そんな中で長岡京見学会を6月にやったところ3人(しか来なかった!!)の学生が参加してくれた。参加した学生の毎日の感想文はとても生きがよくて、見学会の成果が随所に出てくる。もっと来てくれればよかったのに、今の学生は土日はクラブで忙しいのである。でも何人かは考古学に来てくれそうなので一安心である。

 3) 演習(日本考古学実技演習・日本考古学演習・日本歴史総合演習)

 3年生対象の前二者と4年生対象が一つ、合計三コマの授業がある。こちらもいつも通りであるが、今年は特に三年生の頑張りが目立つ。逆に四年生がこれまた二極分解しつつあり、落ちこぼれそうな連中を支えるのが必死である。この夏休みが勝負なんだからと、昨日も全員に発破をかけたのだが・・・、果たして効果があるのやら・・・???。ま、最後は自己責任なんだから、こちらがどうあがいても駄目なものは駄目なので、せめていいものを目指している学生をよりいいものに導くことが大事かも。

 皆さん!!資料だよ!!資料!これをきちんと集めていけば何かが見えてくるからね。根気よく、ただひたすら報告書を繰って、テーマに関する資料を拾いまくる。それも、その資料だけじゃ駄目なんだよ。資料を出した遺跡を丁寧に分析するんだよ。
 
 と毎回口が酸っぱくなるくらい言うんだけどね・・・。

 それに比べて三年生の積極的なこと!!8月から二週間神奈川県で行われる某研究機関の発掘調査に参加するし、その後帰ってから、福井県美浜町の発掘調査に参加するしで、とても元気がいい。演習の発表も既に四年生を越えている。何じゃこの落差は??ようわからん!
 この子等が全員文化財関係の仕事に就けばいいのになーと思うのだが・・・。

 (C) 大学院の授業

 1) 日本古代史料論特講 

 『続日本紀』宝亀元年条から読んでいる。受講している院生はたった一人しかいないのでもったいないのだが、学部生に来いと言っても来ない。
 これがまたなかなか面白くて、全然進まない。宝亀元年といっても10月までは神護景雲四年であるから光仁王権成立前夜に大半を費やした。道鏡政権絶頂期に突然訪れた称徳天皇の死。目まぐるしく替わる王権内部の構造。そうか、政権交代とはこんなものかと実に現在と重なって見えるのである。

 じっくりと一言一言丁寧に神護景雲四年条を読むのは初めてなので、実に新鮮である。そんな中でどうも腑に落ちないのが称徳の死である。『続日本紀』の書き方も、どうもぎくしゃくしている。奥歯に物の挟まったようなと言うべきか、何か裏にあるのではない,がと勘ぐりたくなるような。そんな雰囲気が伝わってくるのである。昨日も光仁即位の条以下をやったが、宝亀改元の宣命に出てくる文章がどうも気に食わない。文献研究者から見れば笑われるかも知れないが、なんだかいやらしいのである。考古資料で何とか裏付けられないものか、一度じっくり由義宮の資料を分析してみたくなった。後期に向けての新たな課題である。

 2) 日本考古学特講 

 斎宮論をやった。大伯(来)皇女以下の斎王の再検討と彼女たちの斎宮の実態解明である。
 ここでは、斎宮がいつできたのか、いつ伊勢神宮が成立したのかを考古資料から探った。まだ結論は出ていないが、なかなか面白い成果が得られつつある。文献史学者から見れば笑われそうなことだが、これまでほとんど、考古学からは挑戦したこともないテーマである。それだけに新鮮で、なかなか面白い成果が生まれつつある。その成果の一部を先週の伊勢湾・熊野地域研究センターの研究会で報告したのだが、諸先生からぼろくそに言われた。ハハハハ!

 ま、そう簡単に伊勢神宮史を否定はできませんよね。でもこの手の文献史料はとてもとても怪しい!この間の研究史も99.9%は文献学者の研究である。これでは片手落ちである。偏っている。なぜ考古学は伊勢神宮をやらなかったのか?こんないいテーマを放置して置いてくれたお蔭でまたまたおもしろ資料を手に入れることができた。この成果は最終的には広瀬さん達と始まった歴博の共同研究でまとめる予定である。

 結論は簡単である。斎宮はもちろんのこと、伊勢神宮が彼の地に成立するのはとてもとても新しいということである。今提供されている考古資料を総ざらいしてみれば直ぐにこの結論は導きだされる。
 これだけではなく、当該王権は伊勢に神祇の中核地域としての位置づけだけを求めたのではないことも見えてきた。常に仏教との関係を視野に入れながら神祇制度を整備してきたのである。

 最近勝山清次先生から『中世伊勢神宮成立史の研究』(塙書房)を頂いた。表題に関する御高論をまとめられたものだが、私にとってはとても有り難い御高著である。この中に収められている東寺川合庄の戯作文書を巡るご研究(「東寺領伊勢国川合・大国荘とその文書-平安前・中期の文書の真偽をめぐって-」)は以前から著名で、先の朧谷先生の古希記念論集でも引用させていただいたが、その他の御高論をこれからじっくり勉強させていただいて、伊勢神宮に対する「予断」がいつ形成されたのかについても検討していこうと思っている。

 もっとも当日の参加者の厳しい批判は,伊勢神宮と仏教との関係に言及した論点に集中した。私の論理がまだまだ不十分だからではあるが、これまで「伊勢神宮寺」の成立と展開からのみ検討されてきた伊勢と仏教との関係が、考古資料を通して別の側面からも分析可能で有ることが判ってきたことはこの授業を準備する中での大きな成果である。

 以上が前期の私の仕事であった。
 ところで毎年年度初めに日本考古学協会から調査が来る。以上のような実施科目を教えろいうものである。会員でもない私が協力する義務はないが、ま、そこは大人になって、何か役に立つのなら、と思って協力する。

 ところがである。ここ10年間、調査後にお礼の紙切れが一枚来ることは来るのだが、一体これが何に使われたのか、何の役に立ったのか全く説明がない。きっと会員には成果が示されるのだろうが、私にはそれが見えない。だから会員になれ!と言う声が平安京検非違使町辺りから聞こえてきそうだが、

 「アッッカンベー、だもんね。ま、こうなったら意地ですな。」

とにかく権威の象徴たるこの存在、鼻持ちならないのである。きっとそのせいなんでしょうね。調査だけしておいて、何も言ってこないのは。もっともあの程度の調査では何も分かりはしないけど。

 とにかくここのところ伊勢が面白くて面白くて。何でもっと早くやっておかないのだ!と自省ばかりしているのである。10年経って、ようやく土地勘も生まれて伊勢の住人らしくなったからかも知れない。(笑)

 いろいろ山田博士に怒られ、原稿がなかなか書けない情けない前半であったが、何とかそれをクリアーして少し元気が出てきた今日この頃である。
 そこで博士をお誘いしてこれまでのお詫びと今後の決意をお伝えしようと、

 「飲みに行きませんか?」

とお誘い申しあげたのに、

  「原稿が忙しい!!」(君のように期限を守らないで飲んだくれている人間とは付き合えない!?その通りでございます。博士のこの見事な姿勢を皆さん見習いたまえ!でないと一年間にこれだけ沢山の論文は書けませんぞ。)

と、冷たく拒否をされたのである。これで二度目である。アー悲しい!!仕方がない、これから一人寂しく近鉄特急の中で缶ビールを飲みながら、大学の仕事をしつつ京都に帰ることにするのである。 

 しかし、これだけは言っておかないといけない。鬼共が人々の遠慮深い「お願い」にも関わらず、居直ってヒロシマで「核武装」集会を実行すると宣言しているのである。
 この驕った非人間的な集団が、ヒロシマに沢山の人を動員する財力がどこから来ているのかは知らないが、あまりに日本人の知性を馬鹿にしている。
 この非人間的な集会を、全世界の人間らしい人間が、冷静に、彼らの行為こそ、彼らが日常的に非難する「北朝鮮」と同じだ!!と語り続け、この様な集まりを二度と開く気になれないよう、きちんと非核の意味を伝えていかなければならないだろう。
 そして粛々と

 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!ではないか。
 そう考える人は
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4冊の研究書の条

2009-07-21 02:28:52 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 どの本も面白そうだね。読んでみようかなと思ったら、こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 先週京都に帰ると4冊の全く分野もスタイルも著者も異なる内容の濃い書籍が届いていた。





(上:原爆投下直後の「中国軍管区司令部防空作戦室」中・下:被爆施設として保存されている施設内部。予め原爆資料館に見学を依頼すると見ることができる。作戦室から外を見た女子生徒の気持ちはどんなであったろうか。想像するだけで悲しい。)

 その1冊は先週の金曜日に突如研究室を訪れてくれた親友・北海道埋文センターの西田茂さんから頂いた書籍だ。

 
札幌市観光文化局文化部文化財課編『旧北部軍管区司令部防空作戦室記録保存調査報告書』(市政等資料番号01-K-4-08-1314 2008年12月)


 まだ全部を読み終えていないのだが、彼の解説(彼も報告書作成の協力者で、本文の大半は奥様の手になると言う)によると、戦前北海道(札幌)、東京、名古屋、大阪、広島、福岡(札幌以外は全て各城の中.他にソウルにもあったらしい。)に、厚さ80センチのコンクリートで二重に固めた地下要塞があったという。ここでは各軍管区司令部からの情報がやりとりされ、戦況が逐一報告、確認されていたのだ。

 そして、驚くべきことに(いや軍としては当然だったのかも知れないが)、広島城内にあったこの作戦室から、原爆投下直後に学徒動員の女子通信隊として地下情報室に勤務していた比治山高女生徒の数名が生存し、その中の一人が

「新型爆弾により、広島の街は壊滅しました」

と、福岡市の西部軍管区司令部と広島県福山市にあった連隊本部に第一報を連絡しているのである(68頁表)。

 或いは、軍は原爆投下を十二分に予想し、その場合の連絡体制も構築していたのではなかろうか。学徒動員の女子生徒達は勿論そんなことが起ころうとは知るよしもなかった。

 今も広島城内に残るこの施設は、まさに核武装を目論む人達の非人間性を象徴する施設なのである。自分達だけは逃れることのできる核シェルターを用意し、国民をその犠牲にして平然としていられる鬼!
 
 今鬼達の先祖達が、冷徹な目で建設させた「核シェルター」の実態が本報告書には克明に記されている。是非札幌市に資料請求して読んで頂きたい。また本ブログでも適宜詳細にご紹介していくつもりである。



 次の1冊ははるかUSAロサンゼルスからのもので、

 
Donald McCallum『The Four Great Temples』(University of Hawai'i Press)

である。8年程前にアメリカの東西両海岸の主要大学(東海岸:コロンビア、コーネル、プリンストン大学、西海岸:カリフォルニア州立大学、南カリフォルニア大学)を訪れた時にUCLAでお世話になったマッカラム先生からのものだった。先生にはご自宅まで御案内いただき、ご家族と美味しいお茶を頂き、行きつけの寿司屋に連れて行ってもらったことを今でも鮮明に思い出すことができる。その後京都にもお出でになり、日本料理をご一緒させていただいた。そんなことで覚えていただいていたのであろうか。出版されたばかりの御著書を頂くことができた。
(マッカラム先生の工夫された表紙の写真) 



(Donald McCallum『The Four Great Temples』(University of Hawai'i Press)表紙)
 英語の苦手な私にはその序文をようやく読み終えた(読み飛ばした!!斜めに見て判ったつもりになった)ところであり、まだ内容については全く理解できていないのだが、後掲する本書の紹介文にもあるとおり、恐らく世界で初めての、飛鳥時代の日本古代寺院に関する英語で著された研究書であろう。実は今、南カリフォルニア大学のPiggott先生の手で、日本古代史・考古学の成果を英語で出版しようという計画が持ち上がり準備中である。その先を行く素晴らしい著作である。






(吉備池廃寺・百済大寺の地形図)

〈本書カバーに記された紹介文の和訳-悪訳-〉

 日本史のどの時代も7世紀史にはかなわない。 この時期は、仏教が日本で初めて開花した時期であり、飛鳥寺、百済大寺、川原寺、および薬師寺(それらは古代の文献では「四大寺」と呼ばれた)が造られた時期であった。
この様な歴史的重要性にもかかわらず、四大寺の建造物は西洋では文学によってわずかに紹介されただけだった。現在それらの寺々は遺跡として残っているだけなので、注目は、同じ時期に美しく、とてもよく保存されていた法隆寺に注がれていた。
 ドナルド・マッカラムは本書で、日本の仏教と仏教寺院の歴史の中に、正当に四大寺を位置づけようとした。そこで、飛鳥-藤原地域における過去数10年間の発掘調査による考古学上の発見を彼自身の研究の基礎に設定する。四大寺の内の三寺については既に考古学的に十分研究されてきたが、最近、百済大寺(日本における最初の国家寺院であり、文献史料によってもよく知られている寺)が発見された。九層の塔を中心とし、伽藍配置は中国や韓国の雄大な国家寺院と関係しているといわれる。吉備池において1997年から2001年の間に行われた発掘調査によって、その地が百済大寺の跡であると推定された。塔基壇(それは巨大な塔の基壇として相応しい規模だった)は、遺跡の中に大変よく残っており、原資料の信頼性を高めるものでもあった。
 これらの成果によって、日本では、早い段階で、仏教建築に意識改革のなされたことを知ることができた。
 『四大寺』はこれらの発掘調査の最新成果を基礎に英語で著された最新の研究書である。マッカラムは、四大寺を詳細に分析するに当たって、歴史的図像資料をいかに示すかに工夫を凝らした。遺物や遺構などのレイアウト、タイトル、記号等をよく考えて示した結果、読者は自ずと氏の示す四大寺の変遷に導かれることになる。
 この書籍の鍵となる特色は、膨大な歴史諸課題(これまでに解決を妨げてきた課題)を分析するに不可欠な考古資料と文献史料を、実にうまく混交して示した点にある。本書の焦点が寺院に置かれていることは言うまでもないが、より幅広く、研究の背後にある宗教や政治の展開についても論じた。中国や韓国の国家寺院のデータを統合する努力をした結果、しばしば単一宗教という語句でもって議論されてきた日本の他の部分にも、異文化がもたらされていることを喝破してみせた。
 
 本書『Four Temples(四大寺院)』は、基本的に日本古代の仏教寺院の定説を覆した、多才で見事な研究成果である。本書が、日本の、アジアの歴史分野のみならず芸術史、仏教研究者の間に、相当の議論を呼び起こすことは間違いない。

 Donald F McCallumはカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校教授で、日本の伝統芸能の歴史を研究している。

〈原文〉
 Few periods in Japanese History are more fascinating than the sevence century. This was the period when Buddhism experenced its initial flowering in the country and the time when Asukadera,Kudara Odera,Kawaradcera,and Yakushiji (the “Foue Great Temples”as they were called in ancient text)were built.
Despite their enormous historical importamce,these structures have received only limited attention in Western literature, primarily because they are now ruins, Focus has been placed instead on Horyuuji , a beautifully preserved structure ,but not a key temple of the period.
Donald McCallum seeks in this volume to restore the four great temples to their proper place in the history of Japanese Buddhism and Buddhist architecture,
Extraordinary archaeological discoveries in the past few decades in the Asuka-Fujiwara area provide the basis for the monumental task McCallum has set for himself.
Three of the temples have been studied archaeologically ,but one , Kudara Odera (the first royal temple in Japan), has until recently been known only through textual references – primarily those mentoning its nine-story pagoda , a format closely linked to the grandiose royal temples of China and Korea.
A series of digd carried out between 1997 and 2001 at Kibi Pond yielded what are thought to be the remains of Kudara Odera. .
A platform, the appropriate size for a large pagoda ,had been uncovered at the site, indicating the reliability of the textual sources.
These results have necessitated a rethinking of early Buddhist architecture in Japan.
The Four Great Temples gives the first detailed account in the English language of these excavatons.
In his detailed analyses of each of the four temples, McCallum considers historiographical issues , settings and layouts , foundations , titles , relics , and icons and allows readers to follow their chronological evolution.
A key feature is the interweaving of archaeological and documentary data to clarify numerous historical problems that have until now resisted plausible solutions.
Although the focus is on temples the book looks at broader politocal and religious developments that serve as a context for the study. It further makes an effort to unify data on great royal temples in China, Korea. And other parts of Japan , thereby providing cross-cultural insights into a matter that has frequently been discussed only in terms of a single region.
The Four Temples is a masterful , multifaceted stidy that will fundamentally alter and enrich current understanding of Japan’s ancient Buddhist temples . It is sure to generate considerable discussion among to scholars in the fields of Japanese and Asian history , art history , and Buddhist studies .
DONALD F . MCCALLUM is professor of Japanese art history at the University of California , Los Angeles.

 
 2冊目は、これで何冊目になるのだろうか、この10年足らずで10冊は下らないと思われる、東洋大学の森 公章さんから頂いた御著書である。

 
森 公章著『奈良貴族の時代史 長屋王家木簡と北宮王家』(講談社選書メチエ 444 2009年7月10日)



 


 勿論これまでに専論が数え切れないほどある森先生のその成果を一般書として判りやすく示されたもので、私たち考古屋にとっては欠かせない書となりそうである。一通り見させていただいても、沢山の図表が新たに入れられており、とても判りやすくなっている。是非図書館にも入れてもらって、学生に読ませてみようと思う。

 後一冊もとても重い書籍だが、もう遅いので、この紹介は次回にすることにする。

 皆さん、是非読んで下さいね。

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三宅一生さんの発言を聞いての条

2009-07-15 18:48:53 | yaasan随想


 今日の新聞各紙(電子版)は三宅一生さんの次のような発言記事を一斉に掲載した。

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  三宅一生さん、米紙に原爆体験寄稿 
     大統領演説が触発

               2009年7月15日11時49分


【ニューヨーク=田中光】世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が、14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、これまで多くを語ってこなかった自らの原爆体験に触れながら、オバマ米大統領に広島を訪れるよう呼びかけた。オバマ氏が「核兵器のない世界」を訴えた4月のプラハでの演説に触発されたという。

 寄稿によると、三宅さんは広島にいた7歳の時に閃光(せんこう)を目撃。黒い雲があがり、人々が逃げまどう光景が「今も目に浮かぶ」。母親は放射線を浴びて3年後に亡くなった。

 一方で「原爆を生き延びたデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌い、「いつも広島に関する質問は避けてきた」という。

 しかし、オバマ氏が「プラハ演説」で、単なる核の削減ではなく、廃絶に言及したことが「自分の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました」といい、「体験者の一人として個人的、そして倫理的な責任をかつてないほど感じるようになった」という。

 そして、8月6日に広島市である平和記念式にオバマ氏が参加すれば「核の脅威とは無縁の世界に向けた現実的で象徴的な一歩になる」と訴え、訪問を呼びかけた。

 三宅さんは、「ヒロシマの心」を表現している芸術家に贈られる「ヒロシマ賞」(広島市など主催、朝日新聞社共催)を90年に受賞している。

(20090715 asahi com)


  三宅一生さんが米紙に原爆体験
    米大統領に広島訪問促す


 【ニューヨーク14日共同】著名な服飾デザイナーの三宅一生さん(71)=広島市出身=が14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿、これまでの沈黙を破って幼年時代の原爆体験を明らかにした上で、オバマ大統領に広島訪問を促した。
 三宅さんはまず、今年4月にオバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」を訴えたのを機に、原爆の生存者として体験を語っていく「個人的かつ倫理的な責務」があると思うに至ったと寄稿の理由を説明した。
 広島に原爆が投下された1945年8月6日は7歳で「赤い閃光を放ち、直後に黒い雲が上がり、人々があらゆる方角に逃げ惑った」様子を目撃。目を閉じると、今でもその瞬間がありありと思い出されるとつづった。母親も被爆し、3年たたないうちに亡くなったという。
 三宅さんはその後、服飾デザインの道に進んだが、「原爆生存者のデザイナー」とのレッテルを張られるのが嫌で「ヒロシマ」に関する質問は避け続けてきたという。(共同通信)


 三宅一生さん、NYタイムズで被爆体験明かす

ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された三宅一生さんの寄稿=吉形祐司撮影
 【ニューヨーク支局】世界的デザイナー三宅一生さん(71)は14日の米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿し、7歳の時に広島で被爆した体験を明かした上で、「核兵器なき世界」を訴えたオバマ米大統領に広島訪問を呼びかけた。
 三宅さんはこの中で、原爆投下時の「真っ赤な閃光(せんこう)に続いて黒い雲があがり、人々が逃げまどう」風景が今も目に浮かぶと記した。「ほかのだれも体験すべきではないこと」だとして、その悲惨さを強調した。放射線を浴びた母は後に亡くなったという。
 これまで、被爆体験については、ほとんど語ってこなかったが、その理由について、「“原爆を生き延びたデザイナー”といったレッテルを張られたく なかった」と説明。原爆について尋ねられることも不快だったと述べ、忘れようと試みたこともあったと明かした。「破壊されてしまうものではなく、創造的 で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったと記した。
 だが、オバマ大統領の言葉が、「私の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました。今まで、話すことをためらっていたことだ」といい、核爆弾を生き延 びた1人として発言するよう「個人的、そして倫理的な責任」を感じるようになった。8月6日に広島で開かれる平和式典への大統領の出席を望み、核廃絶に向 けた「現実的で象徴的な一歩になる」と主張。日本が北朝鮮の核の脅威にさらされ、ほかの国でも核技術の移転が進むと報じられる中、「少しでも平和への希望 を生むためには、世界中の人たちがオバマ大統領と声を合わせなければならない」と訴えた。
 オバマ大統領は今年4月、訪問先のプラハで、核廃絶を希求する演説を行った。
(2009年7月15日03時11分 読売新聞)


 2009年8月6日に核武装を唱えるのではなく、声を大にして

 オバマ大統領のヒロシマ86,ナガサキ89訪問を求めよう!!

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 「86へ オバマを招き 核廃絶」
 企良

荒廃した広島大学文学部跡 まるで原爆投下後の広島大学のようだ。母校をこのように荒廃させたのも、核武装を願う人々の学生排除の論理からだと私には思える。


『 大森俊輔追悼文集 羽化登仙 』 その後の条

2009-07-12 14:02:40 | 三重大学考古学研究室情報
 僕の親友Shiozyがそのブログでこんな記事を載せてくれた。全文をそのまま転載させてもらった。彼こそ、大森俊輔が津和野の三松堂に行くことになった(なるはずだった)そのきっかけを作った人物であった。彼は今、脳梗塞で倒れた「妻のために生きる」と宣言し、献身的な介護生活を送っている。

shiozyの介護生活
 
『博物館学各論前期レポート』 大森俊輔


正直に言って、学芸員をなめていた。

この授業をとるまで、漠然としかしらなかったもので、

倍率がものすごく高いとは聞いていたから、

学芸員になるまでは大変そうだ、としか思っていなく、

いったん学芸員になればいすにでも座ってコーヒーでも飲んで

のほほんとしてりゃいいんだろう、とまで思っていた。

学芸員になれればいいなと思った理由の大部分が、

楽そうだったから、である。

ものすごく失礼な話だ。


しかし、やはり世の中はそんなに甘くはなかったようで、

僕のだめなほうの理想は粉々である。

まさか学芸員にこれほど知られざる仕事があったとは。

普通に博物館に行ってぷらぷらしているだけでは気づきようもなかった。

これでは、時々道で見かける企画展の看板にケチをつける資格もないではないか。

誤算である。


とはいえ、だめなほうの誤算だけではない。うれしい誤算だってある。

つまりそれだけ学芸員というものはやりがいがあるということだ。

いすに座ってコーヒーを飲む毎日なんて五年もすれば飽きてしまうだろう。

早めに分かってよかったというべきか、

だめなほうの理想が粉々でもあまり残念な気がしない。

これはやはり、いいことである。


さて、そんな「やりがいのある」学芸員の仕事であるが、

博物館の管理というものがある、らしい。

常設展の展示物の展示構成、管理、保護、研究というものである。

本当にぶらぶら表からのぞいているだけでは気づかない。

表に展示されているものの何倍もの資料が博物館の裏側に隠されているなんて。

いや、それ以前に、何をどう展示するかを決めているのも学芸員だったなんて。

表に見せていませんでしたが、けっこう何回も驚いていたんです、授業のとき。


博物館にはいろんなコーナーがある。考古学、中世、現代・・・きりがない。

それぞれに専門の学芸員がいるのも、もちろん知らずに育ってきたのです。

とにかく、そのコーナーのレイアウトを考えるのも学芸員の仕事。

それどころか博物館そのものも時にはかんがえていくことがあるとも聞き、

学芸員の責任の大きさに戦慄したりもした。

しつこいようですが、

本当にコーヒーの砂糖の分量に戦々恐々している場合ではないのである。

つまり、学芸員の性格が直接に構成の仕方に出てしまうということで、

専門職でない、一般の人々にも分かりやすく展示しなくてはならない。

展示説明も学芸員の仕事だ。

何を伝えて何を伝えないかを考えていかなくてはならない。

学芸員は、専門職というより、総合職の側面が強い、らしい。


特別展、企画展を取り仕切るのも学芸員だ。

このことすら知らなかったが、だったら誰がやっていたと聞かれても困るのである。

学芸員が企画から何から、すべて考える。

学芸員の研究成果の発表の場であるという。腕が鳴るというものだ。

別の博物館から、モノをかりうけるということもある。

よそのものを、もちろん自分の博物館のものもだが、壊して返すわけにはいかないのだ。


あぁ、なんか知らなかったことばかりを列挙しているようだがそれはしようがないと思う。

ほとんどをこの授業で教わったことだからである。

しかし、学芸員の倍率の高さにだまされたかたちだ。

博物館法には学芸員が必要だと書かれているのになぜこうも需要がないのか。

学芸員になれるということは、並大抵ではないのだ。

皆さん、だてにコーヒーを飲んではいないのである。

------------------------------------------------


前振りとオチはプロ級である。

この技をもっていれば、どんなレポートも「優」だと思えるほどだ。

技巧以前に、文章に肩の荷を負っていないところがいい。

背伸びせず自然体で語る口調は、20代の若者とは思えない。

むしろ「老成の感」さえある。


山中教授が彼に考古学の後継を望み、

だが意に反して彼は和菓子職人の道を目指した。

もし、私と出会う機会があったとしたら、

私は私の後継、

すなわち「コピーライター」の道を彼に薦めたかもしれない。

授業のレポートを「エッセー風」に書けるのは、天性のものだと思うからだ。


最後に、『博物館学各論前期レポート2』の結びを紹介しておこう。


----------------------------

まず家から近いところ、それがこの企業博物館、というか美術館を選んだ理由である。

最近車の運転をしていないしちょうどいい距離ではないか、

帰りにケーキでも買って帰ろう、なんて思った。

都合よく学芸員に電話をしていくということも忘れて、

受付嬢に手間をかけさせ、正直お金もなく、要覧も買えなかった。

全く何やってんだか、といいつつも、しっかりとケーキは買っているのである。

----------------------------


向田邦子のエッセーの匂いがした。 といえば言いすぎだろうか。


大森俊輔22歳。






一度会っておきたかった人である。<合掌>


※ この大森俊輔の二つ(実際は3つのレポート)は三重大学で博物館学の非常勤講師をして下さっているSM博士に提出されたもので、博士の手元に大事に残されていたものを「大森俊輔追悼文集 羽化登仙」に紹介して頂いたものである。博士にも厚く御礼申し上げたい。

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『 大森俊輔追悼文集 羽化登仙 』少し残部があります。ご希望の方は私yaasanまでお申し付け下さい。このコメント欄にお名前・ご住所をお知らせ下さっても構いません。勿論それらは公開しません。

「生ましめんかな」の条

2009-07-11 23:57:40 | yaasan随想
 ブログでしか存知上げない「初ちゃんさん」の最新の記事に詩人栗原貞子の詩が掲載されている。何度読んでも涙無しに読み通すことのできない「人間として」の真の姿を詠んだ歌だ。


     生ましめんかな  栗原貞子       

 こわれたビルデングの地下室の夜であった。

       原子爆弾の負傷者達は

       ローソク一本ない暗い地下室を

       うずめていっぱいだった。

       生臭い血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。

       その中から不思議な声が聞こえて来た。

       「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。

       この地獄の底のような地下室で今、若い女が

       産気づいているのだ。

       マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。

       人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

       と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは

       さっきまでうめいていた重傷者だ。

       かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。

       かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ

       生ましめんかな

       生ましめんかな

       己が命捨つとも

   

    ※詩の中の地下室は広島市千田町の旧郵便局の地下室 (実体験での詩)

 千田町は広島大学の一角だ。
 この死と生を生み出したのが原爆だ。
 この事実を覆い隠し、「核武装」を唱える愚か者がいる。それも被爆地広島で、2009年8月6日に。狂気以外の何物でもない。

 街宣車に、ピストルの弾に恐れおののいていると、益々狂気が我が物顔に町中を練り歩くことになる。

 今こそ大声で叫ぼう!!

全世界から核兵器を無くそう!!と。

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「86に 人間として 生きる我」
「生ましめん がためと己れ 引き替えに」
「86の夜 地下にこだます 赤き命」
「鬼共が 86を汚す 2009」
 

「核兵器を地球上からなくし、二度と野蛮な戦争を繰り返させないために」の条

2009-07-11 01:17:11 | NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
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 核武装を主張する人々が、国民を歴史の事実から目をそらさせようと、様々な攻撃を仕掛けている。私たち歴史学を専門とし、歴史学を教える立場の者は、感情に流されることなく、事実を伝えると共に、過去の歴史の何処が「人間として」間違っていたのか、「人間として」交流するためには何が必要だったのか、何が問題であったのかを議論し、これからの日本国民が(もちろん世界の人々が)「人間として」存在し続けるには何をなせばいいのかを示していかなければならないと考えている。
 かつて日本が、朝鮮半島を、台湾を、中国を、そして東アジアの多くの国を軍事支配したことは覆い隠すことなどできない事実であり、そのことでもって殺され、辱めを受けた人間がいたことは隠しようのない事実である。「人間として」やるべきでなかったことである。そうした蛮行を繰り返さないために、なぜ「核武装」が必要なのか私には全く理解できない。
 
 「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は2009年7月7日、「開かれたNHKをめざす全国連絡会」とともに、4月5日に放送されたNHKスぺシャル「JAPAN デビュ-」第1回「アジアの“一等国”」に加えられている攻撃について、福地NHK会長に宛てた要望書を提出しました。
 
 要望書は、この番組がこれまで十分に伝えられてこなかった日清戦争後の日本による台湾統治の実態を豊富な資料と取材に基づいてリアルに描いた点を高く評価しています。そのうえで、要望書は、NHKが、この番組に対して一部国会議員やグループが仕掛けている攻撃にひるむことなく、放送の自由、自律を堅持していることを激励し、JAPAN デビューシリーズが今後も歴史の実相に迫る良質の番組を放送するよう求めています。


2009年7月7日

 NHK会長  
  福地茂雄 様
                 要   望   書
                     
                        NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
                                共同代表 醍醐 聰・湯山哲守

 貴職におかれましては、NHKが公共放送の中軸として、また健全なジャ-ナリズムとして発展することをめざして日々ご奮闘のことと拝察します。
 さて、さる4月5日放送のNHKスペシャル「JAPANデビュ-」第1回「アジアの“一等国”」が放送されました。その内容は日本が明治維新を経て近代国家をめざして国づくりする途上、欧米列強と競うあまり、自らもその列強の仲間入りを果たすべく、日清戦争によって「獲得」した台湾を最初の植民地として統治した実相を、現存する膨大な一次資料に基づいて描いた労作であると評価しています。 
 これまでの一般書には、割譲後の台湾を「島民の頑強な抵抗を武力で鎮圧した」(山川出版「詳説日本史」)などと記述されてきました。ところが今回、史実を「日台戦争」と位置付けて説明し、川下から圧倒的な武力で攻め上ってきた日本兵による現地住民制圧の歴史を、肉親から聞かされてきたとする老人の証言等、説得力ある取材情報に基づき展開しました。これまで必ずしも十分には伝えられてこなかった日清戦争後の台湾支配を契機とした植民地主義への道を理解する上で大変貴重な番組であったと思います。
 私たちNHKを監視・激励する視聴者コミュニティは、常に、公共放送としてのNHKの公正な放送と、ジャ-ナリストとしての鋭い視点からの番組提供を求めてきました。「JAPANデビュ-」が期待に応えるに相応しいものであったと高く評価します。
 ところで、この放送に対して、「やらせ取材、歪曲取材、印象操作編集による偏向報道」と断定した抗議行動が展開されています。ETV2001「戦時性暴力」番組に改編の圧力を加えた安倍晋三元首相が今回も策動し、「番組を作っている人自体が思惑を持って作っている。・・・圧力をかけるつもりはないが、偏向していなかったかどうか質していく。」などと、またぞろインタ-ネット放送などを通じてNHKへの攻撃をしています。2001年と同じ状況が生まれる懼れが生じています。(http://www.youtube.com/watch?v=twjpMjtoBRk&feature=channel参照)  
 議事録によれば、今回、貴局は経営委員会でこの事態に対して活発に議論を行い、貴職も適切に意見を開陳しています。また、NHKとしても公式に6月17日付で『説明』(「シリーズ・JAPANデビュ- 第1回『アジアの“一等国” 』に関しての説明」)を発表し反論しています。問題となっている「人間動物園」、「日台戦争」など5つの言葉について、発掘資料と専門家たちの研究成果に依存して用いた経緯の説明も説得的だと思われました。さる5月12日の経営委員会の冒頭で貴職が述べた「ジャ-ナリストというのは、自分の目で確かめ、自分の耳で確かめ、自分の手で確かめ、自分の足で確かめ、自分の体で体感するように。それがジャ-ナリストだ。私の言う現場主義だと話しました。あつものに懲りてなますを吹くようなことにならないように。しかし、ペンと政治との距離は画然としていくべき。一方で、編集権、番組編集の自由は、不偏不党の立場を守ることで担保されるものだ。」という言葉は「番組改編についてのBPO『意見』」とJAPANデビュ-問題双方に関しての発言だと思われますが、傾聴に値するものと思いました。また、貴職は自ら3度にわたって同番組を視聴した結果、「確かに見る人の見方によっては国辱だというところはあります。しかし、軸足を植民地政策に置いたら、こういったことはありうるだろうという感じがしました。」と同委員会において発言しておられますが、それは確固たる信念に基づいたものと受け取れました。そしてその言葉には、この番組を制作したスタッフへの厚い信頼を感じ取ることができます。
 報道によれば、当番組は「事実を捏造(ねつぞう)し、偏向した放送法違反の内容だ」として、小田村四郎・元拓殖大総長ら8389人が25日、NHKを相手に1人当たり1万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴したとのことです(『毎日』6月26日付)。この局面で、私たちは貴局が放送ガイドラインや先の『説明』に基づき、確信を持ってこのような攻撃に対処され、この後に続くシリーズ番組でも不当な攻撃に動じることなく、歴史の事実を直視した良質の番組を制作されるよう強く願うものです。
 最後に、今回の国会議員を擁し、権力を背景にした勢力が特定の番組に圧力を集中する構図は2001ETV番組と同じものです。多くの視聴者がNHKに対する信頼を取り戻す大きな一歩になるものと確信し、改めて、貴局、貴職が毅然として対処することを要望するものです。

(NHKを監視・激励する視聴者コミュニティブログ http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/nhkjapan-nhk-e4.html より)




この頃の大学事情 卒論とミートボーラーの条

2009-07-10 03:53:44 | yaasan随想
 今年も卒業論文が佳境に入ってきた。
 テーマが4月に決まり、5月に研究史の確認が行われる。6月にはそれぞれの資料に当たって、分析が開始され、7月にはそれなりの分析「研究」の成果が披露され、それを議論する。この後8月、9月が勝負で、徹底的に資料に当たり、資料を集積する。集積した資料を分類し、分類した資料を再構築する。その過程で研究史では指摘されてこなかった新たな成果を見出す、或いはこれまで指摘されてこなかった方法で既説を補強する。夏休みこそ休んではいられないとても重要な時期となり、報告書や原資料、に直接当たり確実な資料群を確保していかなければならない。研究対象によっては東奔西走しなければならない時期だ。でもそうした調査によって得られたデーターが課題解決に方向性を示しだしてくれるとワクワクしてくる。

 昨日は3名の報告があった。その内の一つは、宝塚古墳の円筒埴輪の要素を細かく分け、各要素が前方後円墳の何処に置かれた埴輪に特徴的に現れるのかを丹念にやった報告だった。既に「正報告書」が刊行されているのだが、どちらかというと、有名になった舟形埴輪を筆頭とする形象埴輪に記述が集中する傾向にある中、紹介されている円筒埴輪を、調整、口縁部成形方法、タガの形態等々、実に細かく分類した上で出土地区、出土古墳(1号墳と2号墳の資料が紹介されているが、2号墳は紹介資料量が限られている。)ごとに集計する。
 するとどうだ!あたかも2基の古墳或いは1号墳の主体部と造り出し部の築造過程が手に執るように再現されてくるのだ。

 一緒に卒論指導に加わって頂いている近世史や中世史の先生方も、このマニアックともいえる資料分析に釘付け、感心しきりとなった。提示された資料群はまだまだ不十分で、現在はあくまで図上の分類である。分類項目も少し手を入れないといけない点があるとはいえ、既に様々な論点に対する答が用意できそうな勢いである。これがわすか一年前まで
 「埴輪をやりたいんです」
 「埴輪の何をするんや?」
 「人物埴輪とか・・・、埴輪なら何でもいいんです」

と言っていた学生の成長した姿である。とても嬉しかった。こんな学生が現場に出てくれると嬉しいのだが、恐らく市役所に入ったとしてもなかなか希望する職場には出してもらえないだろう。寂しいことである。

 もう1人の学生は、この間現地報告をした山陽道の駅家の研究を目指している。出身地である備後国の駅家を核にして、安芸、備中、備前、播磨などの駅家の類型化に取り組んでいる。こちらはなかなかスケールの大きな研究であり、うまく行けば定説を大きく書き換える成果となるし、失敗すると惨憺たることになる。ちょうど今その瀬戸際にいると思われる。

 しかし、前回に比べてはるかに大きな展望がでてきた。30里ごとに機械的に置かれた駅家は、官道の交通だけを管理対象としていたのではないらしいと言うことが見えてきた。
 山陽道の駅家には他の6道とは異なる使命があった。施設の荘厳化である。そのお蔭で普通なら発見しにくい、史料に名前の出てくる駅家を、かなり確実に現地比定できるようになってきたのである。いずれも故高橋美久二さんの偉大な研究成果である。その驥尾に付して新しい見解が出せそうな予感のする報告であった。高橋さんのお墓参りの効果もあったかも知れない。

 とは言っても、考古学の学生のみならず、近世史、中世史の学生も含めて、今年は20人近い大所帯だけに、遅々として進まない者も沢山いる。というか2極分解しつつある。資料と格闘することなく、思いつきを積み重ねる者と、果敢に資料群にぶつかって苦闘する学生である。勿論後者の学生の研究は必ず成果が伴ってくる。しかし、だからといって前者の学生も何とかその思いつきを実証できるように導いてやらなければならない。切り捨てるのは簡単だが、何とか形になるように指導するのが私たちの役目だ。ただし、やる気のない者はどうしようもない。この頃は、先ずやる気をいかに起こさせるかでこちらが苦闘する。そして疲れ切ってしまう。

 あまりに小学生以降の義務教育が学問への意欲をそいできているように思えて仕方がない。能力は十分すぎるくらいあるのに、その能力をたとえ一時期でも何かにこだわってとことん追究する、その中から問題解決の悦びを見つけて行くという教育がなされてこなかったような気がする。或いは家庭環境もこれに大いに影響しているのではなかろうか。
 「勉強、勉強!!」といって育てられてきた子どもに限って、大学に入って「勉強」のつまらなさを思い知らされているから、サークルとかバイトとか友人世界に逃げてしまう。まさに詰め込み教育、断片的教育、知識の暗記ばかりに走ってきたここのところの文科省を中心とした日本の教育を主導してきた教育方針の歪みが明確に現れている。きちんと教えてこられなかったのである。

 しかし、大学教員も今やそうした学生が大半なのだから、彼らに対応した教育をきちんとしなければならない立場となった。「研究」に没頭できる時代はとっくの昔に終わったのだ。だからそうした学生をその気にさせなければならない。とても難しい問題である。厳し過ぎると逃げていくし、甘やかすと図に乗る。そのさじ加減が難しいのである。夏休みまで後三週間ほど、この時期こそ最も大事な指導時期でもある。頭が痛い!!

 ところで最近訳のわからない食べ物を食する人々が我が研究室周辺で流行っている。

「ミートボーラー」と呼ばれる学生達だ。

 「何じゃそれ?新しいボウリングゲームか?」
「ミート中心の野球ゲームか?」

私たちの世代は全く無縁なのだが、その子どもたちのお弁当やおかずは「ミートボール」が主流だったらしい。あの直径2センチ前後の、ミンチを丸めてあげて、やや甘いあんをかけた??(作り方なぞ私が知るわけがない)食べ物である。私はこれまでに恐らく数個しか食べたことがないに違いない。あの妙にカスカスした歯ごたえ、何となく甘ったるい味、1個食べるだけで胸が焼けてくる。大してうまいとも思ったことがない。

 ととところがである。最近大学の近く(といっても自転車で15分くらいかかるので私は滅多に行かない)にできた(もっと近くにあった回転寿司やさんが倒産した!!ここにはよく行っていたのだが・・・大体私がよく行く店は直ぐつぶれる!!)寿司郎という回転寿司屋に、そのミートボールを、軍艦にして3つも載せた「寿司」があるのだ(私はこれは絶対に寿司ではない!!と主張している。もし外人が来てこれを日本の寿司だと信じて帰ったら偽文化を伝えたことになり、外交問題に発展するおそれがある!)。



(これを寿司と呼んではいけない!!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


 そもそもが最近の回転寿司屋にはマヨネーズを多用した「寿司」が多すぎる。こんなもん寿司じゃねー!!と思うのだが、それが中心に流れてくる。生魚を載せたものを寿司と思っている人間は古いらしい。

 来るは来るは、肉だの天ぷらだの、なすだの、納豆だの・・・、下手物ばかりが流れてきて、大好きなお魚はマイクで頼まないと流れてこないのである。そそその上、ケーキだのジュースだのプリンだのやたらお菓子が流れてくるのである。ま、子どもならいいかと思いきや、それを学生が食うのである。アー情けない、恥ずかしい。

 というわけで先日久しぶりに娘と回転寿司屋に行った。すると携帯電話がなった
「???」

学生からである、何事や?と思いきや、

「先生、今寿司郎にいるやろ?!」
「???」

何と、斜め前方に我が学生軍団が陣取っている。そのキャツ等が喰っているのがこれ!日本の食文化が廃れる日も近い!!と確信した。

 ミートボールより大事なのは勿論!!
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「回転する ミートボールに 歳を知る」
「かき氷 ミートボールに 天むすび」
「夏休み 埴輪と駅家に 追われしか」
   企良


「七夕に 核なき世界を 祈る我 」の条

2009-07-08 04:11:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 先月末に歴博で広瀬和雄さん主宰の研究会があった。3年間共同研究する『新しい国家像のための基礎的研究』の第1回目だった。広瀬さんから基調報告があり、この間の主張である「前方後円墳国家」論が再確認された。次いで仁藤敦史氏から文献から見た「古墳時代」の外交史に関する研究史の紹介と氏の「多様な」解釈が示された。外交史の立場から仁藤氏とは異なる主張を展開した熊谷公男氏の鋭いコメントも出され、文献研究の最前線を知ることのできる貴重な研究会であることが示された。3年間がとても楽しみである。



(64年前この地は「死」で覆い尽くされた。その悲劇を繰り返せという「鬼」がうごめいている。人間として、許されない主張である。)

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 広瀬氏の報告に対し、精鋭の揃った文献研究者からは早くも「国家」の概念規定の問題など厳しい批判が飛び出したが、勿論、広瀬氏はひるむことなく、「では350年間、大和を中心に200mを超す前方後円墳が集中し、より規模の小さな前方後円墳が地方に展開する現実をどの様に説明するのか」との逆批判も出され、第1回目にして早くも論戦の火ぶたが切って落とされた。

 研究会は今後、巨大前方後円墳が「畿内」から消える7世紀初頭以降から、律令が制定される8世紀初頭の100年間をどの様に位置づけるのかを中心にさらに多角的に進められることが確認された。

 そんな中、10分ほどの短いコメントであったが、例の「箸墓築造年代」に関する、14C分析担当者である坂本稔氏の見解も紹介された。坂本氏は「協会」当日は海外での学会発表で日本にはおらず、どの様な報告、批判があったかは直接はよく知らないと断った上で、分析データー「解釈」の根拠を示した。
 これに対して広瀬氏からは「解釈」の問題点が短く指摘されたが、時間もなく詳しい質疑は行われなかった。

 短いコメントであったが、坂本氏の報告からは「捏造」という印象は全く受けなかった。むしろ得られたデーターをできるだけ正確に評価しようとする態度で貫かれていたように見えた。伝えられる「協会」報告がどうだったのかについては参加していない私には判らないが、坂本氏の報告では幅のあるデーターをどう解釈するのかが検討されたかに見えた。
 ただし、その解釈については大いに問題があるように感じた。「解釈」の正当性=このデーターが箸墓が「240年から260年に築造された」と結論づけられるのか否かについてはこれから大いに議論すべきであることが、確認出来た。それは次回以降の課題となるのだろう。



(たった1ッ発で数万人の命を奪うことのできる武器。その数倍の威力を持つ武器がそれでも3000発以上まだ地球上にあるという。そしてそれを持ちたがる政治家が沢山いるというこの矛盾。人間というのは悲しい存在だね)

 ところで、7日の新聞各紙はロシアで行われていた米ロ首脳会議の結果を報じている。

 核弾頭1500~1675、米露首脳が合意(読売新聞電子版)
 
 米国のオバマ大統領は6日、就任後初めてロシアを訪問し、メドベージェフ大統領とクレムリンで会談した。
 両首脳は、12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START1)に代わる新核軍縮条約の枠組みで合意し、核弾頭配備数を1500~1675個に削減することを明記した共同声明に署名した。 (中略) 今回の合意は、モスクワ条約(2002年調印)で定めた核弾頭数1700~2200個を下回る数値となった。大陸間弾道ミサイル(ICBM)など核運搬手段も500~1100基・機に減らすことで一致。新条約の年内締結に向け、今後、交渉を加速させる。会談では、北朝鮮・イランの核開発で揺らぐ核不拡散体制の再建も主要議題となった。(以下略)

 就任以来、核兵器廃絶のための政策実行を掲げたオバマ大統領は着実にその具体化を進めていると言える。先のIAEA事務局長の選出といい、被爆国日本が今こそ核兵器廃絶を主張しその先頭に立つ絶好の機会であるが、その総理大臣は、大した戦略もなく、行き詰まった内政の憂さを晴らすためにか、えらく上機嫌で専用機に消えた。情けないことだ。
 それ以上に、被爆地ヒロシマで、沢山の命を奪ったその日に、「核武装」を主張する元自衛隊制服組トップが「言論・集会の自由」を楯に講演会をぶつけてきている。人間としてとても恥ずかしい、情けない行為と言わざるを得ない。 





(この光景を脳裡に焼き付け、人間の愚かさを伝えようと思って、僕は広島大学を選んだ。しかしその大学も被爆建物(理学部校舎)を除いて今は彼の地にない。学生達にその悲劇を見せないためになされた愚行である。今一度大学をヒロシマに戻すべきだ。)

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「七夕に 核なき世界を 祈る我」
「86に 核を持てという 鬼共が」
「ヒロシマの 「傷」を背負いし 二世達」
「ピカドンを 持ちて地球を 消せという」
「86が しみ込む学舎 千田町」
 人類最悪の武器・原爆をこの世から無くすために 企良




「奢る蘇我 落日の夏 直ぐそこに」の条

2009-07-04 22:54:18 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は「蘇我氏邸宅跡」を見てきました。その前に一言。

 昨日、IAEA事務局長に天野之弥氏が選ばれたというニュースが飛び込んできました。核兵器持ち込みの密約を認めようとしない日本政府ですから、彼がどれほどバックアップされるのかは分かりませんが、少なくとも唯一の被爆国としての立場から、核兵器廃絶への第一歩を踏み出したことは喜ばしいことだと思います。
 これを機会に、ヒロシマ・ナガサキで連続してサミットを開催し、全世界の首脳に核兵器の惨状を、核兵器を持つことはこの様な惨劇を自らの手で行うことになるのだということを、見せるべきです。
全世界から核兵器を無くすことを望む人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへヒロシマの原爆資料館を見てなおかつ核武装を唱える人間がいるとしたら、それはもう「鬼」としかいいようがありません。悲しいことです。これから8・6、8・9まで毎日でも核廃絶を訴え続けます。



(調査地南から全体を見たところ。)

 さて、昨日は、突然舞い込んだあるメールに引き寄せられて、甘樫の丘に行ってきました。先々週行われた現地説明会には参加できなかったので、大変有り難い案内でした。MKさん有り難うございました。当日は私が午後に参ったものですからお会い出来ず残念でした。後で御案内のCTさんに聞くと高松市のYTさんもご参加だったとか、先日のお礼が申しあげられたのに残念でした。



(石垣の裾がやや灰色になっていますよね。これが泥の堆積跡だと思われます。)

 現場では今回もTJさんに現場を御案内頂きました。途中から少し雨が降ってきて、濡れながらのご説明申し訳ありませんでした。



この部分で「石垣」は折れている。裾に降りるような構造にも見える。)

 今回の目玉は何といっても以前発見されていた「石垣」の続きが見付かったことでしょうか。そして、この「石垣」が、面していた谷と共に一気に埋め立てられていたという事実です。大変な土量が投じられて埋め立てられている様は、異口同音に「大阪城」を思い起こさせるという評価に通ずるものがあります。



(排水溝のようにも見える石組み)

 ただし私には少し気になることがありました。「石垣」の裾から下にグライ化した土壌が堆積していたことです。本当にここは深い谷だったのでしょうか?少し先を塞げば濠のようにもなります。「石垣」を見ていますと大半は露出していたようですから、外から見えていたのは間違いなさそうです。しかし石の最下部が泥のようなもので覆われていたとするとあまり「防御性」などを考える必要性はなさそうです。特に「石垣」の石が、地山面に若干の土を当てて貼り付けてある点は、「垣」としての機能はほとんど期待できません。現場でも話題になりましたが、古墳の葺き石のように「見せる」ためのものだったとしか考えられません。
 
 

(西端の突出部分) 

 では何のために??

 ここではたと止まってしまいます。なぜなら、この地はあまり飛鳥の中心部からよく見えないところなのです。直ぐ近くに来て初めて何とか見ることができます。そもそもがここが蘇我氏の邸宅というのはちょっと飛躍しすぎなのです。ご説明によれば、丘から外部が最もよく見える地点は「エビス谷」という地名の残るもう少し北東側なのだそうです。あくまでこの地は「蘇我氏邸宅」の一部に過ぎないのです。その一部のあまり外からよく見えないところにも「石」を貼って綺麗に見せているところが蘇我氏の外国(朝鮮)好みなのかも知れませんね。



(廃棄土壙からの出土須恵器)

 雨も酷くなってきたので、お礼をいって現場を後にし、見学会の主要メンバー逢坂のK大学のSTさんに乗せてもらって、遺物のある藤原調査部のロビーに行きました。山田博士ならその後一杯となるのですが、STさんはこの後『続日本紀』研究会に出席とか、大まじめなので、お茶を飲んで別れました。真面目ーーー!



(小型の完形品ばかりを出した土壙の資料)










(以上奈良文化財研究所配布の現地説明会資料より)

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「目には目を 86こそが連鎖 断つ証」
「核持ちて 青き星消せと 蚊がブンブン」
「奢る蘇我 落日の夏 直ぐそこに」
「石垣に 恐れるふりで 雷火待つ」
 

備後国を訪ねて-番外編  大迫古墳から蛇円山、そして帝釈峡へ思いを馳せての条

2009-07-03 09:57:00 | 歴史・考古情報《日本》-2 西日本
 葦田駅家を訪ねた後、近くの佐賀田城跡に登った。絶景だった。備後を一望することができた。山頂には毛利が築いたという石垣が見事に残っていた。備後府中に入る最も狭くなった地点の山頂に佐賀田城はある。ただ、とても残念だったのは、広島テレビや中国放送、NHKの電波塔が林立しこの素敵な光景を邪魔していたことだ。高い山なら他にもあるのだから、こんな歴史遺産のど真ん中に建てないでもっと別なところに建てればいいのに!!と強い憤りを覚えながら城内を回った。一刻も早く電波塔を撤去すべし!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ





(本能寺の変が起こらなければこの地をめぐる大戦争があったかも知れないという)



(左手に府中の町並みが一望できる)



(一番奥、濃い緑の尾根が右手へ細く延びているこの先辺りが品治駅家跡だという。)

 品治駅家の探訪の後、この駅家がなぜこの位置にあるかを考えるために周辺の遺跡を少し回ることができた。
 品治駅家の直ぐ北にあるのが県下最大級の後期古墳・二子塚古墳である。今回は残念ながら訪れることができなかったが、伝えられる資料によると、二頭の龍がそれぞれ向かい合って玉を銜えるという特異なスタイルの双龍環頭太刀を出すという。近世にこの地域を潤した服部池の直ぐ南に位置し、大規模な横穴式石室をもつこの古墳が、六世紀末にこの地域を大和王権との深いつながりの中で治めた首長のものであることは疑いなかろう。福山市駅家町二子塚古墳の様子が、福山市のホームページ上で詳しく紹介されている。必見である。

 二子塚古墳の奥にあるのが大迫古墳である。奥壁に巨大な一枚岩を用いる六世紀後半の円墳と推定される古墳である。



(石室は民家の庭先に潜っていっている。)













(古墳の前の畠に咲いていた花)

 大迫古墳を見学した後、さらに奥へ入り、学生の実家を訪れた。大きな門構えを持つ旧家は『倭名抄』の服織(部)郷に当たる福山市駅家町雨木にあった。いろいろお話を伺ううちにこの地域が備後北部から出雲へ抜ける近道だと判った。我が母校の研究財産である帝釈峡も実はこの道から行くと直ぐだと判った。





「なるほど!!」

 思わず手を打った。

 駅家から北に延びるこのルートは遅くとも古墳時代後期には備後北部から出雲へ抜ける重要交通路として王権によって管理された地域だったのではなかろうか。今でこそあまり大きな道はないが、その道は古代にも生きており、ちょうど品治駅家の横を通っていた。だからあの位置に設けられたのだ。そう考えると実に合理的な位置に最明寺後南遺跡はあった。



(こんなものが身近に見られる自然の残る備後路だった。充実した一日を有り難うございました。)

 学生の実家で冷たいお茶と美味しいアイスクリームを頂いて家路を急いだ。実に収穫の多い一日だった。

 有り難うございました。

 間もなく8.6である。ヒロシマではこの日、「核武装」を唱えるとんでもない集会がぶつけられると言う。アメリカ大統領オバマは核兵器廃絶に向けた第一歩を踏み出した。にもかかわらず被爆国日本の自衛隊の元トップがこうした言動を振りまいて国民を再び戦争の道に導こうとしている。とてもとても悲しく、恥ずかしいことである!
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 「ピカドンを 二度と許さぬ 強い意思」
 「棚田誘う 水面の先に 出雲路が」
 「双龍が 銜えし玉に オオムラサキ」