yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

昆虫が出た!嬉しい嬉しいニュースが盛りだくさんの条

2008-06-10 00:29:42 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
懐かしい人からのメール、嬉しいよねと思ったら、よろしくお願いします。

5月はろくでもない月だった!!

GWがDWだったことは既に書いたとおりだが、その後怒り心頭に発するような手紙やメールが来たり、理屈の通らない会議があったりで、ほとんど毎日胃薬を飲まなければ過ごせないほど人間不信に陥る毎日が続いた。久しぶりに偏頭痛が起こり、このまま何とかなってしまうのかと思ったほどである。

しかし、神様はやはり優しい!!ちゃんと見て下さっている!

教育者失格!!の強烈なメールに対して、全く逆の評価のお便りを次々といただいて、やっと心が平穏になりつつある。

その一つが、もう今から10数年前のことだ。まだ前の職場にいた頃、故佐原真さんとある大学の先生のご紹介で、東京にあるO茶大の考古学研究会の学生を3~4年間お世話したことがある。同大学には考古学の常勤の先生がいらっしゃらなかったので、あくまで考古学は研究会活動でしかなかった。最初の年は3週間に渡って現場から周辺部の遺跡から日常生活から家族ぐるみでお世話した。それが高じて、とうとう考古学の道に進んだ学生もい、そのご立派に山形のTGK大学の先生にまでなった人がいるくらいだ。考古学の道に行った頃は私が道を誤らせたのでは・・・、と心配だったが、今や押しも押されぬ研究者である。この時の学生(今や立派な職業人や主婦研究者)とは今も年賀状のやりとりが続く。

3年目の年だったろうか、確か、阪急西向日駅近くの八百屋さんの改築現場を一緒にやった学生さんの一人ともなぜか毎年年賀状をやりとりしていた。彼女は歴史でもなく、心理学の学生さんなんだが、とても熱心で、惜しいな、と思っていたからかも知れない。

その彼女から5月中旬に転居通知が来た。ナナナント、千葉県の某女子大学で4月から教えることになったというのである。とても嬉しかった!考古学とは全く違う分野だが、その後も研究を続け、その道のプロになったというのだから、僕の目に狂いはなかったと言うことだ(もちろんご本人の努力と能力であることは言うまでもない)。

早速大学に電話してみた。しかし、残念ながら留守だった。そこでメールを出してみることにした。しかし待てど暮らせど何の返事もない。

「ウーン、ちょっとメールまで出すのは失礼だったかな?如何にかつて現場で教えたとはいえ、今や違う道の先生、そんな人に・・・」後悔の気持ちが少し頭をもたげつつあった先週末。丁度親友の誕生日に贈ったお花の嬉しい顛末があった直後だった。

メールが来たのである。いいことは続くものだ。

もっとも差出人がローマ字で書いてあったもので、もう少しで迷惑メールで削除するところだった。大慌てで読んだ。あの頃の元気な姿が活き活きと甦る文面だった。とっても嬉しかった。しばらく学生を連れての合宿研修だったらしい。

調子に乗ってすぐに返事をした。すると今度はすぐに返事が来た。

今でも考古学のことが忘れられず、新任校でも考古学の先生と意気投合して、いつか校内の発掘があるときには一緒にやろうと言うことになったらしい。まるであの頃の彼女そのものだった。今でも遺跡や博物館巡りは欠かさないと言うから、少しは僕の現場「教育」?も効果があったのかも知れない。いつか千葉で会おうということにまでなった。

そんなメールが来た翌日、今度はこんなメールが届いた。

OEMです。先日はありがとうございました。

あれから、M先生にもタンロンの昆虫見て頂いたのですが、ミズギワゴミムシ属で大丈夫だそうです。あと、同層から出ていた種子も見て頂いたのですが、カンガレイだそうです。そしてその層と、南側の運河でとった黒色土層の珪藻をざっと見て頂いたところ、いくつか珪藻(乾燥地由来?)やプラント.オパール(イネ、キビのようなものもあるそうです)がみつかり、本格的な分析を行えば同定できそうだよ、ということです。ちなみに、不確定ですが運河の層からは、火山灰のようなものが見えるそうです。色々分析を組み合わせればおもしろそうだね~、とM先生と盛り上がりました。また何か分かれば報告させて頂きます。

1ヶ月間本当に苦労に苦労を重ね、奴隷のようにこき使われ、人権も無視されて自分の研究も十分にできない中で体調を崩しながら睡眠時間を惜しんでやった成果がやっと出てきたのだ。折角実体顕微鏡まで持ち込んだのに、ほとんど覗くことさえできなかったんだが、執念が実った!!

これでヴェトナム側にもこの研究の成果を示すことができるし、展望も開けてきた。

まだ見付かった昆虫は1個体に過ぎない。しかしこの1個体がきっと燎原を炎で埋め尽くすに違いない。そして最も嬉しかったのはそんな彼女が今の道を選んだのは三重大学での4年間があったからだという。

5月の私の心を暗く暗くさせた手紙やメールでは「教育者・研究者失格」とまで言われただけに、その教育を受けた学生がこんな便りをくれることほど嬉しいことはない。

去年の6月は最悪だったが、今年はいい月にしたいと思う。



(左:ミズギワゴミムシ属の遺体 右:カンガレイの種子)

ミズギワゴミムシ君のように小さくても存在感のある虫になれ!と思ったらよろしくね
(今週のバックは東龍山漢墓一帯に咲き誇っていた桃の花。季節外れだけれど、ちょっと明るい気分に変更!)

タンロン通信-17 帰国-講演-アントニヌスウオールの条

2008-03-24 07:04:03 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
よく頑張ったねと思ったらよろしく

321早朝ハノイから無事帰国しました。一ヶ月はとても長く、一次隊の学生は様々な問題から疲労困憊、限界に達していました。とてもよく頑張ってくれました。その総括はいずれするとして、22日には津へ、約束のM市のWさんと会い、その後大急ぎでレジュメ造り、23日は午前I市のMさんと分布調査について協議、午後鈴鹿市で講演「鈴鹿関と伊勢国府」、夜卒業生たちとお別れの宴。いつもなら我が家に集まってやるのだが、24日早朝にロンドンに向かうので津駅前で宴。
嬉しかったのは講演会が一杯だったこと、卒業生が聞きに来てくれたことだった。
終わるまで気付かなかったのだが、その人離反こう講演でも話した中国の東龍山漢墓の調査メンバー。今はそれが縁でマスターした中国語を活かした仕事をしている。駅まで送ってくれた。
そんなわけでこれからスコットランドのアントニヌスウオールへ行ってきます。イギリスはホテルの環境がよくないのでまた暫く書き込めないかも…
また帰国後にレポートします。お楽しみに!
行ってきまーす。只今モノレールの中。

アントニヌスウオールも楽しみ!と思ったらよろしく

タンロン通信-16  関口報告「Heritage Historical Reality」の条

2008-03-17 01:24:03 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
「Virtual Heritage Historical Reality」成功するといいねと思ったらよろしくお願いします。  


(一昨日の調査で取り上げた板材。二箇所から釘が見付かった)
第2次調査隊のメンバーとして参加いただいている岐阜県立情報科学芸術大学院大学の関口先生による「Virtual Heritage Historical Reality」に関する報告がタンロン王城遺跡ホアンジウ18番通りの事務所で行われた。

現場責任者のブイミンチーさんを始め、タンロンで働く若い研究者の卵達15人余りが集まり、熱心に先生の昼飯大塚古墳での実例や千葉県での町並み復原、そして今回の現場であるD3区での写真による3D復原の一端が丁寧に判りやすく説明された。

出席者の中にはヴェトナム側で実際にコンピューターを専門的に扱っている若き調査員や写真を担当する技師なども出席し熱心な討論が行われた。
特にヴェトナム社会主義共和国側からは若き調査員の日本への研修のための派遣が求められ、協力が要請された。

今回のGISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究の3本柱の一つが関口先生のプロジェクトであるので、先生の了解さえ得られれば実現できるのではないかとへ返事しておいた。

当方の目的としては関口先生の開発されたGPSとGISを用いたタンロン遺跡の埋め戻し後の遺跡内のウオークスルーを目指しているだけに、是非とも実現させたい人間交流である。但し、ヴェトナム側は本遺跡の現地保存を頑固に求めており、その一部でも埋め戻してこうしたプロジェクトの成果が活かせられればと思う次第である。

また報告終了後に、関口先生よりフォトショップを用いた写真の合成についてご教示を受けた。何故こんなことをもっと早く知っておかなかったのか、後悔しきりであった。早速D2区での写真合成のための撮影を行った。


(文字磚の整理方法)

なお、D3区の調査は様々な解釈の違いもあり、なかなか進まない。多くの課題が夏に持ちこされそうなのだが、果たして夏に誰が参加してくれるのだろうか。日本の今の大学生や院生の問題意識ではとてもついて行けそうにない「厳しい」現実がヴェトナムにはたくさん横たわっている。

明日からはいよいよ文字磚の分析を今回のメンバーのお二人の先生方にお願いしている。D2区の現場からは釈読できていない「尺□作」という陰刻の文字磚も見付かっており、その解読が待たれる。ヴェトナム側の御配慮に厚く感謝しつつ、せめて文字磚の研究面で、いい成果を出せればと思っている。
もちろん私も既に分析を開始している「江西軍」や「永寧場」などの大量にある文字磚以外についてもさらに研究を加え、①押印の背景・機能、②複数スタンプの意味、③押印の変遷などについて詳細に分析してみたい。

泣いても笑っても後4日、19日には現場の封鎖が行われる。果たして夏までどれだけ持つのか、極めて心配な状況であるが、仕方あるまい。それよりも何とかトータルステーションでのデーターをせめてD3区については終了させ、関口先生のプロジェクトのモデル構築に寄与して帰りたいと思っている。

文字磚の分析大いに期待したいですね


タンロン通信-15  風邪でダウンの条

2008-03-16 09:57:56 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
風邪ひきさんとは・・・/

日本から帰る間際に風邪を引いたらしく、ハノイに着いてから寒気がし、大急ぎで薬を大量に飲んだのだが、改善せず、13/14/15日は最悪だった。

ところが、13日の夜には日本から第2次調査隊が到着する。その受け入れの準備もしなければならない。第2次メンバーの滞在中の行動も相談しなければならない。

そんなこんなで、またまたバタバタのスケジュールの中、鼻をぐしゅんぐしゅんいわせながら、寒気でぞくぞくしながら調査と案内をこなしてきた。

今朝になってようやく身体の方は何とかなりそうなのだが、現場ではいろいろな混乱があって、これから収束に向かわなければならないのだが、難題ばかりが残ってきそうな雰囲気である。とにかくこれからまた現場に行くのだが、何とか生きていることだけをお知らせして、この間の詳しい情報は今夜アップすることにする。

後少し、頑張れよ!と思ったらよろしくね

タンロン通信-14  充実したリスタートの条

2008-03-12 22:13:00 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
無事再開できてよかったねと思ったらよろしくお願いします。


(もうこれで何度目のハノイドイモイ空港だろうか。いつも残念に思うのは夜中で、上空からハノイ市内を見られないことだ)

昨夜遅くにハノイに着いた。
いつもより30分も早い到着で、その上迎えのタクシーがこれまた速く、ホテルに着いたら23時だった。

そこで意外な事実が。コメントを頂いていたnoriさんとナナナントホテルで出会ったのだ。偶然学生達が数日前にお会いし、雑談をしたとかで、昨夜遅くに私が到着することは判っていたらしい。

急な帰国で、本当なら10日頃にお会いしたいと仰っていたのが、連絡が付かなくなり、諦めていたのだが、実にグッドタイミングでお会いすることができた。もう夜も更けていたが1時間余り歓談し、南寧からの友誼関越えのこと、鉄の伝播のこと等々様々なことを教えてもらった。今日ヴェトナム側と交渉してもらい、明日午後現場を見てもらうことができた。ご迷惑をお掛けすることがなくほっとした。


(Nさん達のお陰でとても丁寧に地層分類がなされていた。後はこれに添って上層を剥ぐだけである。)

5日ぶりの現場だったが随分地層の掌握がきめ細かくなされ、いよいよ埋没土層を掘るのを待つばかりとなっていた。南に隣接する国会議事堂建設予定地での緊急発掘調査の方もスタートしたとかで、調査の嘱託職員も半減しており、大事なこれからの調査に少々不安の残る現実も突きつけられた。


(新たに落ち込みも何カ所か確認できる。)
しかし、やる予定のことはやらなければならない。朝から早速西壁の地層分類に応じて昆虫化石採取のための土砂採取を行った。また、懸案だった文字磚の分析にもようやく取り掛かることができた。但し、膨大な資料なので、とても今日半日では済まなかった。明日は一日中調査し、明後日の第二次部隊が来るまでにある程度の見通しを付けておかなければならない。

とりあえず今日は「永寧場」とある15世紀前半の製作と考えられる薄型長方形磚の同一文字群におけるスタンプの違いや成形技法の違いについて一定程度の認識を整理することができた。特に興味深かったのはスタンプの枠の形である。およそ幅2cm、長さ5~6cmを呈しているのだが、上端は左右をカットした隅丸方形になっており、下端はそのままで、まるでくびれのない題箋状木簡のような形をしていて興味深かった。

スタンプの原版には、陰刻と陽刻があるが、原版陰刻が圧倒的に多く、数種類に分けることができそうである。しかし、アッと言う真に時間が過ぎ、結局「永寧場」の分類だけで半日が終わった。


(文字磚は限られているが、同じ文字でもスタンプの違いが随所に認められ、製作工程を考える上でとても興味深い資料群である。)

明日もこの続きをやることになる。さらにこれまでできなかったA・B区での昆虫探しについても明日早朝から手を付けることができることになった。楽しみである。

文字磚面白そうだねと思ったらよろしく




タンロン通信-13  これからハノイへ戻りますの条

2008-03-11 12:14:52 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
無事葬儀を済ませ、今後の予定も決めてこれからハノイへ戻ります。
今回の件ではあちこちにご迷惑をお掛けいたしました。
ハノイに残された学生諸君は悪戦苦闘しているようです。本当に申し訳ありませんでした。

また山田博士をはじめ心温まるお言葉、お参りを頂き厚く御礼申し上げます。

年老いた母の死ですから、もっと淡々と済ませれば良かったのだと思います。しかし、母には本当に苦労をかけましたので、つい涙が出てしまい、絶句してしまいました。お恥ずかしい限りです。

少し気が抜けてしまいましたが、もう一度気力を振り絞って、残されたタンロンの発掘調査に全身全霊を傾けたく思います。また明日からの通信をお楽しみ下さい。

重ねて御礼申し上げます。

後一踏ん張りと思ったら応援下さい。

タンロン通信-12  突然京都に帰ってきましたの条

2008-03-08 14:21:41 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
9~10世紀楽しみだねと思ったらよろしくお願いします。


(単に廃棄の状況で土器がこの位置にかたまっているだけだと思うのですが、いろいろ意見もありますので、念のため土器溜まりとして取り上げることにしました。)
 3月6日(第14日目)からは上層からの落ち込み遺物の除去という局面に入りました。
どこまで上層からの廃棄遺物が入っているのか、どこからが下層の遺物なのか、下層の遺物と上層の遺物との間にある層がどの時期に属するのか、層の色、質がよく似ている部分があるので、注意深く作業員に掘らせないといけない。


(こんな掘り込み跡も検出し始めました。まだ時期も機能も構造も判りませんが・・・・)
 日本の調査で、長く同じ作業員を使っていると作業員の個性が判っているので、作業に応じて配置を考えるのだが、初めてのヴェトナムではなかなかそうもいかない。今朝も早速ある上層からの遺物の堆積を掘らせていると少し目を離している隙に、印の範囲を勝手に穴のように掘ってしまわれてびっくりした。同じようなタイプは日本の作業員さんにもいるので、予想はしておかなければならなかったっことであるが、事態が起こってみて改めてそんなことを確認した次第である。

 また、作業員さんは「綺麗」に掘ろうとする傾向がある。ラインを引くと真っ直ぐ落とす人、斜めに揃える人、いろいろだが、とにかく綺麗にしたがる。日本語ならこの土だけ掘れとか言えるのだが、なかなか細かな指示ができないところ外国の調査の難しいところだ。
 そこで、昨日から方君に先生になってもらってヴェトナム語基本発掘用語を習っているのだが、この老化した頭ではなかなか直ぐには単語が思い出せない。それでも方君に教えてもらった基本単語は結構通じて、作業が次第にスムーズに進み出した。


(これも入っている遺物は最上部の埋め立て地のものと同じなのですが、一応変な格好をしていますので、実測もしておきました。)
基本的には東側に確認できる赤みがかった粘土質の土が「地山」と考えられ、これを切って西側から南東側にかけて池状の湿地帯が広がっているようだ。この池状の広がりに入っている遺物がいつの時代かが問題だが、若干人によって言うことが異なる。そもそも入っている遺物の大半が瓦であるから、これで微妙な時期の判断は日本でも難しい。9世紀だと安南都護府の時代だし、10世紀だとその廃止後、李朝が成立し、ハノイのこの地・タンロンに都を定める前の可能性が高い。

さらにこの黒い腐食物を大量に含んだ層の上に磚で造った溝があり、黒を切った直径1.5m近い掘削の跡も認められる。また、調査前から確認できる北側のD2区から伸びてきている礎石建物の基礎地業の痕跡が7基確認できている。これらと黒の地層の上面にある遺構群との関係もこれからの大いなる問題である。

検出状況の図面を取り、写真を撮り、いよいよ10世紀代の遺構を検出するための作業開始という時点になって、突然私の携帯が鳴った。

「(日本時間)13:33に息を引き取った」という。

 昨年の暮れに体調を崩し、入院していた母の様態が急変し、亡くなったのだ。出発前には以前より少しは力が出てきて、場合によったら家に連れ帰って、看護しようかと言っていただけに、驚いた。

 ひょっとしたらその可能性もあるかと思いながら、しかし、正式な文書を交わした調査を延期することもできず、2月22日から始めた今回の調査であるが、残念な結果になってしまった。急遽飛行機の手配をお願いし、深夜の飛行機が直ぐに取れたので、慌ただしく今後の調査の打ち合わせをし、この日の作業を片付け、学生達に今後の作業の段取りを指示し、再入国の11日までの段取りをNさんご夫妻にお願いして3月6日23:30分発3月7日5:30関空着の飛行機で日本に帰ってきた。ヴェトナム側からは直ぐにお二人の責任者チンさんとチーさんがお悔やみに訪れて下さり、こちらこそご迷惑をお掛けすることになり申し訳ないと深くお詫び申して帰国させていただくことにした。

 母は食べ物の関係でヨーロッパには行ったことがないが、東アジア、特に中国やカンボジアには度々出かけて、私の知らない世界も見聞きしてきた。私とは違う明るく図々しい性格?から直ぐに見知らぬ人と友人になり、特に若者とはとても親しく旅行したようだ。
 そんな母に、出発前にも聞いているのか聞いていないのか判らないのだが、「ヴェトナムに行ってくるからな」、と言ってきた。大好きなアジアに息子が行くのだから、死に目に会えなくても
「現場、が大事だから!頑張れ!」と言ってくれたとおもう。

 そんなわけで、9日に葬儀を済ませて、11日に帰るまでタンロン通信はしばらくお休みにさせていただきます。ごめんなさい。

 残った学生達がNさんの指示で作業はしており、その日誌を適宜

 http://eastasiagis.cocolog-nifty.com/

に載せてくれていますので、しばらくはそちらで様子を感じてください。
母のエネルギーをもらって、また元気にハノイに戻りますので、しばらくご容赦下さい。


(ホテルの花も新しいものに変わっていました。ヴェトナムの人々はとても花が好きで、あちこちでお花を売っていますし、いろんなところに花がいつも生けられています。)

タンロン通信-11  遺構掘削開始の条

2008-03-06 09:03:24 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
期待に胸が膨らみますね、と思ったらよろしくお願いします。


(いつもはこんな所で昼飯なんですよ)
博士のご帰国を合わせるかのように遺構の掘削が始まった。

とは言っても上からの埋没土砂の残存物の除去が主な作業だが、ようやく15~16世紀といわれる当該地域の破壊の跡を除くことができ、その下に残存している遺構や遺物を調べることが可能になってきたのである。

既に10世紀の遺構面が明確になりつつあり、この時期、つまり遷都以前のハノイ中心部の利用の実態が判るかも知れないという小さな期待がでてきたところである。

そんな中、通訳もしてくれているN氏ご夫妻が忙しく、一々簡単なことで手を煩わせることもできないので、嘱託職員に片言の英語で、ヴェトナム語での作業員への指示に関する言葉を習った。

「ここをほってください」
「ここは削ってください」
「つづけて」
「OK」
「だめ」


(私のヴェトナム語の先生方君)

ま、こんな程度ですが、少し通じると嬉しいもので、作業員のおばちゃん達とも仲良くなりつつあります。

学生達の図面作成も順調で、とても助かります。ヴェトナム側の嘱託職員も基本的にとても器用なので、図面の作成なども何の問題もなさそうです。後は時間とお金です!(笑)

さーこれを理解していただくのも結構大変なことなんですよね。

今回はできるところまでやれればそれでいいとは思っています。少し見通しも着いてきました。

(とても素敵なデナーでした!こんなサラダでまずは前菜!!フッフッフ)

そこで、山田博士が帰ったので、たまにはいい夕食もしようと、Nご夫妻に紹介していただいて、近くの西洋レストラン?ワインバー?洋風居酒屋??に行ってパスタを堪能しました。とても雰囲気のあるお店で、博士が見たら羨ましがる、怒るに違いない!とみんなで言いながらとても楽しく2時間の食事を楽しみました。


(山田博士の無事のご帰国を祝ってワインで乾杯!!)


たまにはレストランもいいよねと思ったらよろしくね


タンロン通信-10  危険な写真と敬天殿探訪の条

2008-03-05 08:19:08 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
ヤグラが欲しいねと思ったらよろしくお願いします。


(高さ2m、急ごしらえの脚立??にまたがって撮った全景写真。南からD3区全景。)


(北側の平面から撮ったD3区全景。)

ようやく現場のガリかけが終わり、平面写真が撮れる状態になった。夕方まで待つと全体に暗くなり過ぎるので、仕方なく南中時に写真を撮ることにした。

だがここで問題が!

写真撮影用の台がない!!

実は前回の調査前の写真も隣の敷地との塀に登って写したものだが、今回はもう少しアップの写真が欲しい。日本で言うところの[ヤグラ]がないのである。そこで、現場にあった梯子二つを組み合わせて逆「V」 字形に組み、頂点をロープで結んで脚立状にしてそこへ登れと言う。

だれが?

博士が!!

仕方なくそこへ登ってふらつく足で写真を撮ったのがこれ。


(益々よく判らなくなってきたこの遺構。皆さんは古いと言うんだけれどね・・・。)


(今回の研究で山田鉢と名付けられた?須恵質円筒形土器の廃棄状況(ちなみに博士の分類のⅢb式)。)


(現場にずっと前からある謎の木質群。)
何とか細部写真も撮って、終わったのが13時。最後の昼飯に出かける。いつもの大衆食堂。その後、念願の敬天殿に入り、一昨日見学した端門と合わせてようやくタンロン王城の中枢部を博士一行に見学いただくことができた。ところがこの建物の前にあるはずの測量用の原点がない?そこで大捜査網が敷かれたのだが、結局猫の子一匹でず。


(絨毯までめくって探したのだが・・・・)
最後の記念写真をホーチミン廟を背に撮影して山田博士の初めてのヴェトナム紀行が終わった。詳しくは博士のブログをお楽しみ下さい。ハノイはここのところとても暑く。初夏の陽気です。寒い日本へ帰って、風邪などお召しになりませんよう。ではまた夏に!!


(なぜか桃とコスモスが同時に咲く敬天殿でした)


(ホーチミン廟そのものへは誰も行ったことがない!この非国民目!)

敬天殿も整備できればいいのにねと思ったらよろしくね

タンロン通信-9  涙涙のお別れの条

2008-03-04 10:00:01 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
山田博士有り難うと思ったらよろしくお願いします。


(第1回研修会)
昨夜第11日目(3月3日)はお世話になった山田博士の送別会であった。

現場の若者達6人とブイミンチーさん、そして私達6人にNさん一家17人でサイゴンで大当たりし、ハノイでも大流行のヨーロッパ風のビヤホールに行った。

突然始まった宴は、若者の熱気とチーさんのながーい御高説、そして度重なる乾杯によって、延々11時半まで続いた。ヴェトナム側の私達に対する熱い思いを聞きながら身の引き締まる思いだった。

それにしても今日も、山田博士と現場で既検出の遺構群の年代の評価を巡っていろいろ議論をしながら思ったことだが、これだけの現場、どんな天才でも、とても一人の人間では分析しきれない!!ということだった。

どんどん資料を公開したくさんの研究者に資料を提供しいろいろな議論を巻き起こすことがいかに大切かを感じた。そうした意味では私達に現場を開放し発掘調査の機会を与えて下さったヴェトナム社会科学院には感謝の思いで一杯である。

その思いに答えるべく昨日は山田博士の研究成果を現場の嘱託職員の若者達に聞いてもらい質疑応答をした。とても熱心に聞いてもらい、鋭い質問も出るなど、第1回目としてはとてもいい結果を得ることができた。これも一重に短期間に須恵質円筒型土器の編年を組み立てた博士のお陰!何から何までお世話になりました。感謝!!多謝!

今日第12日目は現場の平面写真を撮って、1/100の図面作成が待っている。

昨夜は一体何杯ビールを飲んだのかよく覚えていない。帰って直ぐにパソコンを開いたところまでは覚えているのだが・・・。朝5時まで熟睡した。そんなボーッとした頭で出発だ!


(お疲れ様でした博士!)
学問はみんなでやるもんですよねと思ったらよろしくね

タンロン通信-8  pumpが来た!CoLoa城へ行った!の条

2008-03-03 08:46:55 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
CoLoa城すごいねと思ったらよろしくお願いします。


(こんな宮式のポンプに呆れかえっておられる山田博士)
調査地の現在の海抜はおよそ9m、黎朝期の大攪乱(池の設置?)によって発掘調査地の現在の遺構面が海抜6m前後である。だから、天候次第で現場の水位は直ぐに上下する。このために水中ポンプが欠かせないのである。調査区の北端には以前に開けられた巨大な水溜穴があり、そこには巨大なエンジン式の水中ポンプが備え付けてある。

ところがその位置が余り適切ではないので、調査地の南端の水がどうしてもはけないのである。そこでなけなしのお金をはたいて二万円(日本円)もする水中ポンプを買う羽目になった。これで益々皆さんの食事は粗食になるはずだ。ところがこの電動式の水中ポンプが旧式で、呼び水を入れてやらないと動かない!その呼び水を入れるポンプの位置が高いところにあるものだから一回一回呼び水が抜ける。そこで一々ホースの先をはずして呼び水を入れるのである。とても面倒な代物が来てしまった。


(CoLoa城に来たぞ!現地のお寺に設けられた説明板でヒエップさん達から説明を受ける。)
さて今日第10日目(3月2日)は待望のCoLoa城の見学であった。朝担当者の社会科学院のTrinh Hoang Hiepさんとイリノイ大学の調査研究者NamKimさんに迎えに来てもらって、現場に向かった。
私はこれで4度目なので、その後の進展を見ようと思ってやってきた。いつもの通り陳朝の建立になるという寺に入り、ここから見学をスタートさせる。つまりここが三重に囲われた城の一番内側の内城である。18世紀に造られたという城壁を利用したというロストル式の窯址や昨年の発掘調査によって、青銅製品の鋳造現場を見つけたという調査跡を見た後(隣では三日三晩飲み、踊り、歌い明かすという結婚式の音楽がにぎやかに流れていた)、お決まりの中城、外城と見て回っていよいよ発掘調査現場である。


(内城の城壁が見事に残る。これを利用してその後ロストル窯が造られたのである。)


(18世紀の瓦や磚を焼いたという窯址。今回が一番綺麗になっている。どうしてかと訝っていると大量の見学者が押し寄せた。そのうえ町の入口では門番がいてお金を取っている。つまり見学料を取る以上綺麗にしなければ、と掃除をしたみたいである。これで皆さんが喜んでくれるなら、遺跡の価値もあがるしいいことかな、と思う)


(結婚式のテント)

(外城の城壁)


(中城の城壁を断ち割って進むイリノイ大学の大規模な発掘調査。現場を主催するナムさんからはこれを現地保存し公開したいのだがどうだろうと聞かれ、「無理だ!日本でも失敗している!」と答えた。その代わり日本ではどこでもやっていることだが、剥ぎ取り転写をして博物館に展示すればいいのではないかと答えておいた)
現場では予めシートをめくってくれていた今回は両側の城壁を見ることができた。そこで新たに明確になったことは第2段階目の城壁築造工程で一度真っ白な粘土を貼り付けていることであった。これで高さ2m幅25mほどの城壁がまずできる。その後、余り細かくは土砂を入れず一気に盛り上げる作業が行われていた。かつて東龍山漢墓の墳丘築造工程でも見たようにこの城壁も築造のある段階で何か儀式でもやったのだろうかと思わせた。見学者一同その城壁の巨大さに圧倒されていた。当日のミーチングでは誰が何故この様な巨大な城壁を持つ城を紀元前2~3世紀に造ったのかが話題になったが、発掘調査が進まないとその疑問に答えは出ないだろう。


(いよいよ平面精査!)
CoLoa城を堪能し、近くのレストランで食事をして、現場に戻った。

午後からの現場は平面のガリかけである。ようやく現場作業がスムースに進み始めたと言うところであろうか。既に今日の作業によって、現場の破壊状況が克明に判るようになった。
特に李朝期の建物の基礎地形だと言われる遺構の破壊状況はその進行過程を克明に教えてくれる材料となりそうである。明日はこれらの写真を撮って、いよいよ15~16世紀の破壊面の掘削作業である。
また現場の嘱託職員の一部を使って東断面の実測作業も行った。彼らの技能に問題はないのであるが、何でもかんでも細かく取ろうとするところに現場の全体像を教えられていない問題がありそうである。
日本の学生部隊はいよいよトータルステーションで実測準備にかかるのだが、ここでもまたトラブルが!結局半日を費やしてようやくトラバースが組み終わり、夕刻になって基準点を移設することができた。

夜のミーチングでは、山田博士2週間の滞在成果をまとめたヴェトナムタンロン王城出土須恵質円筒形土器の最新の研究成果が発表され(博士のブログに詳細が掲載される)、学生達は最新の土器研究の成果を教えてもらう。それにしてもこんな成果をたった1週間でまとめるなんてさすがは山田博士!本当に今回第一次部隊に加わってもらってこれほど助かったことはない。


(嘱託職員の実測)
どこぞの先生は全てがご自分の研究成果だと言わんばかりであるが、私達はこうしてグループ(他に、昆虫研究、瓦研究、文字資料研究、3D復原研究など多彩なメンバーに加わってもらっている)で、いろいろな側面からタンロンだけではなくベトナム全体の考古学の研究にお役に立てればと思っている。早くも山田博士には博士の原点である須恵器研究の成果を活かした成果をまとめてもらえそうである。感謝!!

一人で研究はできませんものね!!資料は独占してはいけません!!どんどん公開しましょうね!!!

学問は公平に!資料はどんどん公開して、みんなで議論して進めるものだよね!と思ったらよろしく

タンロン通信-7 生中継の条

2008-03-01 15:40:24 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
便利だが怖い世界ですよねよろしくお願いします  。

ただ今日本とスカイプで繋がっています。
今報告しているのは中世史のK さんです。
僕がヴェトナムに行っている間にしか卒論発表会が開催できないことが判り、何とか卒論発表会に参加できない物かと知恵を絞って、スカイプを使うことになったからである。世の中とても便利になったものである。まさに世界中を結んだテレビ会議である。


(テレビ画面に映る日本卒論発表会。昨日予告したサプライズはこれでした。)
これが無料でできるのだから恐ろしい。

もっともそうだから四六時中仕事をさせられることになるのであるが・・・。

でもさっきは卒業生のSさんやKさん、Aさんが次々と画面に現れて挨拶をしてくれた。とても嬉しかった。ゴメンね皆さん!遠いところから来てくれたのに。私がいなくて。

でもSさんもかつては中国に3ヶ月いた部隊だし、今日も来ているY君も同じだ。みんなそれぞれ元気に仕事をしているのを聞くととても嬉しい。特に彼らの目標だった考古学や中国語を活かした仕事をしているのは素晴らしい!!

さてこれから考古学三番目のKさんの発表が始まる。古代出雲と大和王権の関係を青き遺跡の考察から迫ろうとするものだ。果たしてうまく発表できるかな??

そろそろお腹が空いてきた。お昼もなしで頑張っているこちらなのだ。向こうはもう昼が済んでいるが、こちらはまさに今が昼飯時間。早く届かないかなー

というわけで臨時ハノイー津テレビ卒論発表会の実況中継でした。

スカイプで卒論発表会とはすごいと思ったらよろしくね




タンロン通信-6 全員集合の条

2008-03-01 08:51:56 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
全員集合できて良かったねと思ったらよろしくお願いします。


(ここのところの世界中の温暖化現象はもちろんベトナムにも押し寄せているらしく、今頃の時期は乾期で、この様な雨期のような雨の降り方はしないというのです。とにかく寒いのやら暖かいのやらよく判らない今日この頃です。)
 昨夜来の豪雨が午前中残り、現場は水浸し!でもその中を作業員の方も嘱託職員の方も黙々と作業を進めてくれます。

 今日第8日目(2月29日!そうだ、今年は閏年なのだ)。朝、全員の元気な姿を確認することができてホッとしました。

 早速学生達には現場の現状図面として1/100平面図を取ってもらいました。途中、初めての学生もいるので余りに要領が悪いので、山田博士から厳しい指導が入りました。

 東壁の精査が終わったのが14時過ぎ、直ぐに写真を撮りたかったのですが、ナナナント、午後から急に晴れだしたのです。それも急に陽が差してきて壁には樹木の影がまだらにできてしまい、結局のところ写真は終了間際の17時頃になってしまいました。


(もしこの層が全域に広がっているのだとするとこれまで古いと言ってきた遺構全てが新しくなる危険性もあり、調査計画自体の変更も余儀なくされます。)
 今日のサプライズは、終わりだと思っていた地層のさらに下から大量の遺物が出土してきたことです。それも、どうも時期が新しい!まだ確認はできていないのですが、下手をするとその地層が全体に延びているかも知れないのです。大問題です!
 但し、現場全体の地山面までの層序確認が完全にできない状況なので、まだ結論は出せません。しかしその最悪のシナリオも予想しつつ調査を進めなくてはならなくなりました。
 それにしてもこれだけの大規模な掘削を何故15~16世紀にやったのかその解明も大きな問題となってきました。


(東壁は以前の調査の掘削によって何カ所もで崩落していてこの土砂の除去にとても時間がかかりました。それでも何とか綺麗に地層の対応関係を明らかにすることができました。ほぼ西壁と同じ状況のようです。)

 明日から早くも3月です。そろそろ山田博士にも周辺の遺跡を見てもらわなければなりません。先日は博士のブログにもある通り、一人で国立博物館等、市内の遺跡をみて回ってもらいました。
 驚くべきことに、博士は白タクからぼった喰ったのです。

 そのシーンを再現するとこうです。

 東門付近の見学を終えてタクシーに乗ろうとした博士は、何気なく手を挙げた。1台のタクシーが寄ってきてドアーを開けた。

 「・・・・・!ムニャムニャ」
 「○△◎□●・・・」

動き出したタクシーを何気なく見るとメーターがない!
驚いた博士は
 「ストップ!ストップ!」と大声で車を止め、メーターがないから降りると言って飛び降りた。慌てた運転手はよほど金に困っていたのか、20000ドン(約120円)紙幣を見せてこれで行くから乗れと言う。
 ほんまかいな?と思いつつ、そこは関西人!安い物には目がくらむ!!恐る恐る乗り直し、ホテルに向かう。

 ホテルに着くや、20000ドン紙幣を投げるように手渡してタクシーを降りる。普通なら市街地から65000ドンはするタクシー代をこの様にして逆ぼったくりをして利用してこられたのである。さすが、博士のくそ度胸には恐れ入り申した事件であった。

 そんな博士も間もなくご帰国である。3月2日にようやくCoLoa城に見学に行っていただけそうである。本当にお世話になりました。多謝!!帰ってから病気になられませんように、今から「お祈り申」しておきます(怪しい笑)。


(2月29日の昼ご飯。現場事務所でフランスパン1/3個!アー悲しい!!)
 サーこれから今日はどんなサプライズがあるか、皆さん明日の報告をお楽しみに・・・・フフフ!?

山田博士ってすごいね、と思ったら平安京閑話もよろしく






タンロン通信-5 一人「出」の子守歌の条

2008-02-29 09:11:23 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
団塊の世代は死ぬまでこき使われそうだねと思ったらよろしくお願いします。


(現場には山田博士の厳しい目が光る!!「ウーン、こりゃ何や!?ようわからん掘りかたやなー)
 とうとう一人になってしまった!

 さすがに初めての海外が東南アジアなどという学生もいるのでそのせいかもしれないが、下痢やら風邪やらいろんな症状が出て病院との往復にてんやわんやの3日間であった。保険をかけていてホッとした。それにしてもNご夫妻のお陰でどの病院が藪でどの病院がいいのかが判りとてもよかった。適切な処置が直ぐにできたことが救いだった感謝!!

 第5日目(27日)は地層の分層結果を調査員同士で認識を一致させるための検討会をやり、基本的な認識を再確認した。その結果を図面に記載していく途中で終わってしまった。また南端に遺されている高まりを確認するため一部断ち割を広げて地層の再確認を行いながら掘削を進めた。その結果3層までの堆積を確認し、第2層に植物質が大量に堆積していることが判明した。残念ながら加工遺物は認められなさそうだ。


(真剣な眼差しで聞く嘱託職員の皆さん。地区割りの説明。)
 また、現場の嘱託職員を中心とした専門家の卵達に調査地の遺物の取り上げ方法などについて認識を一致させるための現場会議を開いた。

 タンロン座標と呼ばれる敬天殿を基準とした5度ほど傾いた独自座標系に基づくタンロン王城遺跡全体の地区割り方法を再確認し、現場の地区名を説明して遺物の取り上げ方法を説明した。何しろまだ座標による地区割りや実測が始まったばかりなのでその点が徹底できていないようなのだ。

 それでも皆さん全員とても素直で、物わかりがよく、判らないことは直ぐに聞いてくれるのでとても説明のしがいがある。日本の学生だと「
何か質問は?」と聞いてもたいていの場合
「シーン!」だ。子供の頃からの教育が違うのだろうか。

 この調査地D3区はタンロン座標系の「TNWABH~R、87~92」に当たることが判明したのでこれを基準にこれから確定していく遺構名称(略号)と合わせて全ての情報を標記することができることになった。


(東壁の精査)
 第6日(28日)は東断面の写真撮影と図面準備のための断面壁の精査を行った。いろいろな認識の違いがあって、結局完成できないまま、おまけに終わりかけに大雨が来てまた明日!ということになってしまった。

 その間現場では調査方法について調査担当者が激論を交わし、その上で認識を一致させて調査を進めることができた。議論をしておかないと後で困ることになるので少々激しいやりとりも必要だと改めて実感した。

 調査地の南西隅から見付かった磚積みの溝の所属時期を決めるために周辺の精査を行ったところ、これだけは古い時期の物である可能性が高くなった。その遺構の下に植物質の物を大量に含む黒色の層が認められ、これが安南都護府形成直前の地層ではないかと考えられた。

 第7日目(29日)は昨日のやり残した写真と図面作業である。これから食事をしていってきます。今日は全員元気になって参加できそうである。誰かさんのお祓いとお清めが効いたかも、有り難う!!

(写真はまた帰ってからアップしますね)

 ちょっと寒いハノイですが頑張れよと思ったらもよろしくね



タンロン通信-4 雨の現場の条

2008-02-27 07:48:07 | 歴史・考古情報《東アジア》-2 越南
雨でも現場は大変だねと思ったらよろしくお願いします。
 今日もまた一人ぶっ倒れてしまった。原因がわからないので困るのだが、とにかく早い目に休むと言うことを徹底して寝させたのだが、本当に私ともう一人の女子学生のみとなってしまった。もっとも先に倒れた?調子が悪かった山田博士は既に回復されていて毎日学生以上に元気に現場に立ってもらっている。有り難いことだ。

 今朝から霧の少し大粒のような体中にしみこむような雨が続いていた。そんな中での図面取り作業と東側断面の精査であった。西側の断面についてはようやく3人の見解を整理することができてこれで図面は一挙に進むだろう。

 ところで昼には珍事件があった。会計係のO君が少し調子を崩しかけていたのだが、そのせいか、N氏が
「電灯を買いに行ってくる」というのを聞き違えて、
「弁当を買いに行ってくる」と理解したのだ。

我々は
「本当にそんなこと言ったの?」と不審に思ったのだが、断言するものだから信じて寒い現場事務所で待っていた。彼は少し寒いというからいろいろなものを着せて寝かせていたのだが、待てど暮らせどN氏の現れる気配がない。

 どうも怪しい、と思って電話をかけると、
「エエエッツ?3000000ドン預かって電灯を買いに行くと言ったのであってそんな高い弁当を買うはずがないじゃありませんか!」と絶句された。

3000000ドンは2万円くらいだからもっともなことだ。飯は6人で大体1000円だからあり得ない。どこでどう聞き違えたのか?

でんとう と べんとう 最初の一字違いだった。

但し思い当たるのは今の学生にとって「でんとう」という言葉は余り日常的に聞き慣れない言葉になっているのではないだろうか。昼に買うといえば「べんとう」。

そんなこんなで昼は危うく食べ損ねるところであった。

 いろいろある現場である。夕方にはまたまた不愉快なことがあって、厄払いに思い切って山田博士、N氏3人で日本料理を食べに行って思いきり飲み食いして憂さを晴らした。

 これで明日からみんなが元気になればいいのだが・・・。ぼちぼちやることにしよう。現場の方は、図面が少し遅れているが、一応予定通り進んでいる。これが唯一の救いである。明日辺り気晴らしに博物館へでも行ってみよう。

 健康が第一!と思ったらよろしくね