yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

昔私は「殺すな!!」と叫んでデモ行進したことがありますが、・・・の条

2013-06-19 11:09:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 どうして「殺せ!!」と大声で叫ぶ集団行動が許されるのでしょうか?

 これは殺人教唆、扇動ではないのでしょうか。これも言論の自由だとしたら、何を言ってもいいことになるのですが,本当にこんな事でいいのですか。

 知人から届いたアピールです。転載可能と言うことなので、できるだけ多くの人に広めて下さい。
 


6月15~16日、神戸で開催された「第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸」が採択した標記アピールをお届けします。



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ヘイトスピーチの廃絶を求めるアピール



私 たちは多民族・多文化の人びとが互いの違いを大切にし合い、多様性による豊かさが育まれる社会をめざして、「第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸」に集いました。しかし現在日本の各地で は、そうした理念に真っ向から反した、特定の民族・国籍の人びとに対する憎悪をあおり立てる、聞くに堪えない過激な言動が街頭で公然と行 われ、激しさを増しており、深い憂慮と憤りを感じます。

日 本では1980年代以降の移住者人口の増大と、1990年代に始まった「外国人犯罪」キャンペーンの影響などから、外国籍者や外国にルー ツをもつ人々に対するゼノフォビア(外国人嫌悪)が広がり始めました。また反中国を公言する石原前東京都知事のいわゆる「三国人発言」 が、国内外から違法性を指摘されていたにも関わらず、結果的に放置されたため、公然とヘイトスピーチ(憎悪・差別表現)を行う人々が一般 社会でも増え始めました。2000年代以降の近隣諸国との歴史認識問題をめぐる軋 轢の中で、歴史修正主義と嫌韓反中意識が広がり、外国人排斥を主目的とする極右団体も誕生しました。そして2010年代にはついに、在日コリアンが多く住み、店舗を出す地域で「大虐殺を実行する」 「朝鮮人を駆除せよ」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」といった敵意や憎悪に満ちた街宣活動が、白昼堂々繰り返されるようになり ました。

私 たちは日本を、人びとの心を深く傷つけ、生存の脅威を感じさせる暴言やジェノサイド(集団虐殺)、エスノサイド(民族抹殺)の公言を放置 するような社会にしたくはありません。特定の民族集団を「殺せ、殺せ」と叫ぶ街宣活動が拡大していく社会は、国際社会からも孤立し、危険 視されていきます。

私 たちは、敵意や憎悪が広がる事態を速やかになくすべく、思いを同じくする人たちと幅広く連携・協力し、以下の課題に取り組んでいくことを 表明します。



(1) 特定の民族、国籍、社会的身分 に属する人びとに対する敵意を煽り、殺害や排除を予告・助長するような暴言・脅迫・威嚇を行うヘイトスピーチは、許されない人権侵害であ るという決議を、国会で採択させること。

(2) 日本が批准している人種差別撤 廃条約の留保条項を撤回し、国会においてヘイトスピーチの廃絶と被害者救済を含む人種差別撤廃の法制度を早急につくらせ、実施させるこ と。

(3) 人種的優越や憎悪に基づく思想 の流布、人種差別の扇動を行うような政治家を議会に送り込まないこと。



2013年6月16日



       第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸2013参加者一同


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久しぶりの野球ぼやきの条

2013-06-13 23:23:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私の原辰徳嫌いはこの場で何度も書いているのでそれなりに知られているらしい。年賀状で河野美代子さんの便りに「面白い!」と書いて下さっていた。もちろん河野さんはバリバリのカープファンである。

 4月頃にはこのまま巨人が勝ち続ける、と到底今年の「原解任!」はないな、と内心イライラしていたのである。

 ところが、交流戦前からあの原以上に無能な和田に率いられている阪神にバカにされて、肉薄され、とうとう首位を陥落してしまったのである。

 「オッ、これはひょっとすると・・・さすがのナベ恒も、自分の寿命と天秤にかけて、「もう待てない!」と、本気で監督を捜すかもしれんな!」と思えてきたのである。

 どこがいけないか?て。もちろん全て悪いのだが、一番ダメなところは、相変わらず子飼いばかりを優遇し、全体像を見られない能力のなさである。さすがにどうしようもない太田は我慢に我慢をして、二軍へ落としたが、その代わりに上げてきたのが亀井だの、立岡だの、中井。もちろんプロの選手なんだから、時々活躍することは言うまでもない。しかし、そのどれを取ってもきちんとしたチーム作りの設計図に基づいた起用とは思えないのである。

 この人、今の選手でどんなチームを作ろうとしているのだろうか。

 どう見ても場当たり的。
 典型的なのが一二番。坂本・脇谷だったと思えば、長野・寺内、最近は立岡・松本や中井・松本かと思うと、中井・亀井。もうさっぱり意図が見えないのである。そしてちょっと調子が悪いと直ぐ代える。

 交流戦に入ってDHが使えるから小笠原を上げたのかと思えば、たまに代打でしか使わず、代打のプロである石井をDHにするなど。ほとんど適当。せっかく小笠原がサヨナラホームランを打ったのにその明くる日も代打。次の日にタイムリーを打っても代打。要するに人気のある小笠原が原は嫌いなのである。だからといってあまり干すと批判が来るから、時々使う振りをするのである。彼は自分より実力が上の奴が嫌いなのである(もっともほとんどが上なのだが)。

 そういえばこの原と対照的なのが栗山。先日の小笠原がサヨナラホームランを打った時、なぜ栗山は敬遠しなかったのか。その翌日、ツーアウト二塁で坂本を敬遠し、なぜ阿部と勝負したのか。
 私の解釈はこうだ。

 小笠原との勝負は小笠原に「腐るなよ!!」という彼らからの贈り物だったのである。そしてなぜ翌日打たれると判っていて阿部と勝負したのか。「小笠原よ、昨日はお前を軽んじて勝負したのではないぞ。」と伝えたかったのである。
 小笠原に、「日本ハムはおまえのことを待っているゾ!!来年は、こんなくだらないチームで腐らずに戻って来いよ!」というサインだったのである。

 そもそも、小笠原が代打で出てきたのは同点の9回裏2・3塁。普通当然敬遠されるから、小笠原は捨て駒だったのである。こんな場面で勝負する奴はいるはずがないから、彼はヒーローにならない。だからまず彼を捨てて、次の石井にヒーローになってもらおう。こういう魂胆だったのである。そこを栗山が読んで勝負してやったのである。どうせ打たれるなら彼が一番ほしがっている小笠原に打たせてやろうという親心だったのである。
 そして、翌日、なぜ阿部と勝負したか。小笠原に、「おんまえは阿部と同じくらい大事な選手と思っているゾ」というサインだったのである。

 ま、そろそろ交流戦も終わる。このへ墓監督の采配で本戦を戦っていたなら、とっくの昔に阪神が首位だったはずなのだが、交流戦のお蔭で、やっと今頃になって巨人の首位陥落。

 来週から?始まる本戦で、ドンドン奈落の底に落ちていけば、夏の終わりには「原後任」が話題になるのでは、とそれなりに本気で期待する今日この頃である。

 老後の数少ない楽しみをイライラして迎えるよりも一刻も早くこのイライラを消してくれるよう新監督を祈るばかりである。

 それにしても今の新聞テレビは、政府のイヌと化していますね。株価がドンドン上がっている時は「素晴らしいアベノミクス!」とはやし立て、まるでバラ色の未来が急に開けてきたかのごとく書き立てる。しかし、株価が暴落しても「利益確保の調整段階だから」と擁護に走り、国民の貴重な預貯金を株に走らせて企業を大もうけさせる事にばかり腐心する。大体この間の事態をみていれば判るのだが、株や円相場なんて、ほとんど日本経済の実態を表していない。アメリカを初めとする巨大投資集団の都合やアメリカの経済事情でころころ変わるのである。もし日本経済に実態があれば日々刻々とこれだけ変化することなど無いのである。

 成長戦略の三本の矢だという絵に描いた餅を賛美し、10年後20年後の何の根拠もない「絵」を持ち上げる。さらにさらに、原発推進国フランスと結託し、危険きわまりない原発の輸出推進を図るという。選挙後には停止している原発を「安全だから」と言って再稼働させ、核兵器生産の材料確保と準備にかかる。政権与党内部では公然と「原発は核武装のために不可欠」と言ってはばからない連中がうようよしているのである。本当にこんな事でいいのだろうか。 

 挙げ句の果ては、憲法改正の補助機関として不可欠な「維新」を壊滅させないために(維新が減って、他の野党が増えると改憲スケジュールが狂うので)、橋下批判が広がらないよう援助する。さらにさらに己の差別発言の矛先をずらすために打ち出した「オスプレー八尾空港受け入れ」。どうしてどうしてこんな見え見えの権力者集団に国民の「支持」が集まるのか。本当に冷静に分析し、対策を取らないととんでもない国ができる。


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宇治十帖の世界を歩くの条

2013-06-09 23:26:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 土曜日は京都の私立大学の授業の一環で宇治川左岸一帯を歩いた。
 
 コースは菟道雅郎子墓→宇治橋→橋寺放生院→宇治(下)神社→宇治上神社→源氏物語ミュージアム→京阪宇治駅という短いコースであった。

 久しぶりに歩くこの辺り一帯は随分「きれい」になって、あまりに観光地化しすぎてかつての趣が無く、少々興ざめであった。なぜどこもかしこも同じようなカラーアスファルトのこざっぱりした道に変えてしまうのですかね。

 京阪宇治駅も見違えるように美しくなって、電車も中書島との間を10分おきに往復する便利さであった。

 駅構内にはとても親切な文化財マップがあり、人々の行きやすいように解説されていた。源氏物語ミュージアムは駅から北東に歩いて15分くらいの直ぐのところにある。



 そのくせ肝心の橋寺は石碑が施錠されて見ることができないし、そもそも十分な説明板もない。訪れる人もまばらであった。この奥の祠の中に碑があるのだが・・・。





 宇治川沿いに15分ほど歩くと川沿いに鳥居が立ち、その奥に拝殿が見える。宇治神社(下神社)である。





 宇治神社の直ぐ奥が宇治上神社である。世界遺産に入っているそうだ。



 国宝の本殿覆屋。檜皮葺きが見事である。


 本殿



 重要文化財の春日社



 本殿正面の拝殿は檜皮葺き屋根の修復中で見学できなかった。これは源氏物語ミュージアムに掲示されていた修理前の拝殿。



 この後、源氏物語ミュージアムへ向かった。入館料500円。さてその価値は?

 

 その内部の常設展示の一角。
 ほとんどがジオラマや復元品であった。復元には随分お金がかかっているな-と感じた。


 光源氏の六条院邸宅の復元模型。そのモデルは源融の河原院との説がある。その一部の調査もあるのだから平安京での位置など示した図が欲しいところだが・・・。



 牛車の原寸大復元。その根拠やどの様な場面で歴史的に使われたのかなど説明があってもいいように思うのだが・・・。


 7月7日までの予定で企画展も開催されていた。京都名所図会を用いて源氏物語縁の地の江戸時代の様子を示した展示である。なぜか古代の情報が示されていないのは、展示の学芸員が歴史の方ではないからだろうか。少し物足りない展示であった。

 さて、初めての源氏物語ミュージアムなのだが、少々期待はずれであった。これまで何度も訪れようとして果たせず、念願の訪問であっただけに残念な印象であった。映像やジオラマなど視覚に訴えるという点ではよくできているのかもしれないが、私のような歴史をやるものからすると何とも中途半端な印象を受けた。たとえ文学のミュージアムであるとしても、古典を主題にした博物館である。周辺には関連する遺跡や古社寺が点在している。それらを活かした展示ができなかったのか、考えさせられた訪問であった。

 
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吉田晶先生を偲ぶ会の条

2013-06-02 17:05:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は今年の1月15日にお亡くなりになった日本古代史の吉田晶先生を偲ぶ会であった。

 縁の深い難波宮の一角にある大阪歴史博物館のレストランで行われた。

 

 吉田先生は1925年、兵庫県のお生まれだという。お亡くなりになったtきが87歳。会に集まられた皆さんのお話によると、その直前の年末に開かれた都城制研究会にお出になっておられ、とてもお元気だったという。ところが、1月13日に体調を崩されていたという奥様が亡くなられ、そのわずか二日後の死だったという。

 先生は陸軍士官学校を出られた職業軍人であった。ところが、1945年8月15日をもって大きく変わった体制の中で京都大学文学部に入られ、史学科で日本古代史を学ばれたという。



会場に張り出された在りし日の吉田先生。



 出席者のほとんどは私にとっては大先輩の先生方ばかりであった。会を準備下さったのが帝塚山学院大学名誉教授の中尾芳治先生、大阪大学名誉教授の都出比呂志先生、奈良大学元学長の水野正好先生等々、そうそうたるメンバーであった。

 会場には大阪歴史博物館の館長をなさっている脇田修先生もお出でになり、ご挨拶をなさったが、その合間に先生と親しくお話しさせていただくと、何でも吉田先生とは大学院の同級生だったという。戦後直ぐの京都大学はたくさんの復員兵で溢れており、故門脇禎二先生のそのお一人で、「門脇はなー、二等兵やったんや!苦労したらしいわ」等とその頃の大学の雰囲気を懐かしそうにお話し下さった。そういえば、長岡京研究の創始者中山修一先生も門脇先生と10歳違いの同級生だったとか。戦時中の暗黒の世界から解き放たれた当時の大学の自由な雰囲気が伝わってくる話でもあった。

 吉田先生は『日本古代社会構成史論』(塙書房1968年)や『日本古代国家成立史論』(東京大学出版会1973年)などで知られる日本の古代国家成立に関するきっての理論家であった。それと合わせて1975年には難波宮跡の保存運動の先頭に立たれるなど、様々な遺跡の保存運動の先頭に立ってこられた方でもあった。

 そんな吉田先生との接点など私にあろうはずがなかったのだが、25年ほど前に泉佐野市であった製塩に関するシンポジウムで、講演をなさった折、資料の読みに関するわすかな解釈の違いについて会場から質問をしたことがある。すると、どうであろうか、会が終わって直ぐに私のところまでお出でになって、「あなたの言う通りです。私が間違っていました」と仰る。田舎の埋文センターの若造の些細な史料の解釈である。無視することなど簡単なことなのである。私の方こそ恐縮してしまって言葉も出なかったのを覚えている。その後都城制研究会や木簡学会などでお顔を合わせる度に声をかけて下さって、とても優しく接して下さった。私が三重に行ってから、調査していた鈴鹿関の成果が上がり、案内を差し上げるとわざわざ現地にお出でになって丁寧にご覧になったことも印象的であった。

 吉田先生は常々、「研究と文化財の保存」は平行してやらなければならないと仰ってきた。学者が研究室に閉じこもっていてはダメなのだと言うことだ。私が大学に行くことになった時、まず肝に銘じたことがこのことだった。「大学教授」という肩書きであちこちの遺跡の委員をしても,結局行政の整えた資料を承認するだけの委員にだけはなるまいと思った。行政は自分たちの都合の悪い資料はまず出さないからだ。自分の足で歩き、自分で遺跡の評価をし、その遺跡の価値が判ればあらゆる手段を使ってその遺跡を護るための手段を講じる。吉田先生から学んだ基本姿勢である。

 その吉田先生が亡くなって、何とも言えない寂しい思いがする。会場となった大坂歴史博物館の北側には、大阪府庁がある。かつての主であった橋下徹は単に無教養であることをさらけだすだけでなく、人々を再び軍靴の響く国へ導こうと安倍晋三の先兵となって、戦争のできる国作りへ邁進しようとしている。戦争を経験したからこそ、二度とその道へ進まないために様々な経験を下に生きてこられた貴重な先人がまた亡くなってしまった。その遺志を継いで、私たちこそしっかりしなければならないのだと改めて思った一日でもあった。

 6月12日には4月にお亡くなりになった佐々木高明先生のお別れ会もある。次々と気骨のある先生方が亡くなり、国家にもの申すことのできる先生が無くなっていくことに危機感を感じる今日この頃である。

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