yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

廣岡義隆先生ホントにホントの最終講義の条

2010-03-30 19:51:09 | yaasan随想
 3月29日はとうとう本当に廣岡義隆先生とお別れする日となった。
 とにかく静に消えていきたいという先生のご要望で派手なセレモニーは何もしなかったんだが、親しい者達が集まってせめてお別れのお茶会でもということになり、午後から二時間ばかりのお茶会となった。

 新任のKA先生のお手前でお茶をお出しし、みなさんが持ち寄った和菓子でまさにお茶会となった。

 そこへサプライズの訪問者が。私の採用人事の時に学部長をなさっておられた西村富美子先生が主催者の案内で遙か大坂から駆けつけて下さったのである。私とは入れ違いなのでそのお人柄など人伝に聞くだけで全く存じ上げないのだが、廣岡先生の御退官でわざわざ駆けつけてお出でになられたと言うだけで十分理解できる。私がこちらへ参って12年だから、廣岡先生とも12歳は離れていることになるのだが、言ってみればその後輩のためにお出でになるのだから、先生への思い入れはひとしおだったのだろうと推察した。であればあるほど先生の御退官は残念でならない。

 

 驚きの元学部長西村先生の参加



 そんな雰囲気をお察しだったのか、先生自ら切り出されてまさに「最終講義」を集まった10余人の教官のためにして下さった。題して

 「花といえば」

季節にちなんで桜と梅の万葉歌における位置をお話し下さった。

『萬葉集』で「花」と言えば「梅」をさすという山田孝雄氏の通説を痛烈に批判なさった上で、実例を挙げてその根拠をお示しになった。

 あをによし寧楽の都は咲く花の薫ふが如く今盛りなり

この著名な歌の「花」とは作者小野老の都を出た日から換算して桜だというのである。但し梅は外来種としてもてはやされ、『萬葉集』に117首も見え、桜の41首を遙かに上回っているという。にもかかわらず、「花」と言って梅をさすと思われるのが17例に対して、桜は38例におよび、伝統的に日本では「花」は桜(山桜)だったと言うことのようです。勉強させていただきました。



 廣岡義隆著『万葉のこみち』はなわ新書080 2005年 をみなさんに一冊ずつ頂いた。こちらから差し上げないといけないのに、今回も先生にご負担をお掛けした。



廣岡先生に花束

 本当にお疲れ様でした。これからはさらなるご研究の発展をお祈り申し上げます。そして多くの市民へご研究成果をお披露目いただきますようお願い申し上げます。

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大きな訪問の日に小さな集会での講演の条

2010-03-29 10:56:36 | yaasan随想
 27日は向日市上植野町の集会所でお話しをさせていただいた。題して「古の都・長岡京雑話」





 向日市役所の元同僚のUS さんからの依頼だった。身近な話題を上植野の地元の方ばかりの小さな会で気楽にお話しいただけませんかということだったので、喜んでお引き受けした。
 最新の鶏冠井、内裏脇殿跡発見の甲のことや、以前、寺戸の宝菩提院廃寺で見付かっていたお風呂の話しなどを題材にプレゼンテーションを交えてお話しさせていただくことにした。

 ところが会場に着いてびっくり!半分くらいが親しい元同僚や上司、市会議員の方だったのである。既に定年退職した方、早期退職で今は自由な身の方、間もなく定年を迎える方等々とても懐かしい顔ばかりだった。それもそのはず、この「サロン・ド・向日」という小さな集まりの主催者は、やはり元私の上司の大先輩で、「おもちゃの病院」といったユニークなボランテア活動をなさっていた方だったからである。その時のメンバーが地元はもちろんのこと、京都市内や大津との県境から駆けつけて下さったのである。



 懐かしい法華寺境内



 境内に咲く桜

 三回目というこの会はいろんな分野、立場の人々を招いて教養を広めようというものだという。そんな中で歴史の話しをする人間として選んでいただいたらしい。長岡京の話などもう聞き飽きたわい!という方ばかりかと思っていたが、結構みなさん喜んで聞いて下さった。

 なんと言っても元同僚や上司の方々には在職中、本当にお世話になった。ある時は対立する部局で、ある時は残業手当の支給で、ある時は広報での案内で様々な場面でご迷惑をかけた方ばかりである。

 そんな方々が、「アキラ」と名前で呼ばれていたその当時そのまんま出迎えて下さった。
 
 90分の「雑話」なのでそんなに緊張することもなく、話しはそれなりにスムーズだったと思う。珍しく予行演習やら、話しの原稿なども用意していたので、おそらく聞いていただいた方々も理解いただけたと思う。

 この後の宴会がしょっていて、地元の素人の方(だというのだが)のそば打ちで、打ち立てのそばを、それも三種類味合わせていただいた。とってもおいしかった!合間には参加されていた市民の方から次々と質問を浴びせられてとても和気藹々とした会だった。懐かしい友人と写真を撮ったりふざけあったり、あっと言う間にその宴の時間も過ぎお別れに。

 とても嬉しかったのはこのグループが他にもいろんなところをめぐる行事をなさってていて、

 「アキラ!お前もまた来いよな!さっきいうてたウオーキングもやってくれや」ということだった。以前から言っているように「長岡京語り部」をやろうと思っている。その第一歩がそろそろ踏み出せるかも知れない。



 27日は天皇・皇后が、ある学会の関係で京都に来ており、その合間を縫って、京都のあちこちの文化遺産を見学したという。その一つに長岡京大極殿や向日市文化資料館が選ばれ見学したという。これまで長岡京など見向きもされてこなかったが、遷都1200年の時に三笠宮夫妻を案内したことはあるが、とうとう天皇が見に来るようになったのだと、感慨もひとしおであった。中山先生が生きておられたらそれこそ飛び上がって喜ばれたことだろう。その大きな一歩の日に私の小さな一歩を踏み出すことができ、とても有意義な日となった。それにしても10年前に来てもらっていたら新東院を残すことができたのだが・・・。

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卒業式後の宴の条

2010-03-26 15:31:01 | 三重大学考古学研究室情報
 卒業式がうるさくて退屈だったことは先に記した。

 しかし卒業式の本来の目的は考古学研究室卒業生とのお別れ宴会であるから余り気にはならない。



 この頃の学生は酒が弱いので直ぐに寝てしまう奴が出る。そんなのも叩き起こしてみんなで記念撮影。

 二年生から四年生まで総勢15人の内13人が我が官舎に集まっての恒例大宴会だった。飛び入りで他の研究室の学生四人も集まったので最終的には17人が狭い我が官舎で5時から11時まで食べ、飲み、話した。

 滅多に人気のない我が官舎の部屋だからきっと上下のお部屋の人は驚かれたに違いない。ごめんなさいね。

 実は今年の四年生とは一年生の時からの付き合いだから卒業という時を迎えて私にはそれなりの感慨があった。我が人文学部には一年生対象にオリエンテーションセミナーという学部での学問追究に当たってどの様な方法論があるのか、具体的なテーマを与えられたり、関係する機関を訪れたりしてそのきっかけを作ろうということで、入門的な場を与えるのである。本来なら教官全員がそれぞれどんなことをやるのかを示して学生が選べばいいのだが、これまた相変わらずの「負担」という魔物が出てきて毎年八人の先生がそれぞれの分野を学生に選択させてやるに過ぎない。

 多様な学生をそのニーズに合わせてやるのだから全教官が自分達はどんなことをやっているのか、どんなことをやれば自分の研究に馴染めるのかを示して初めて意味があると思うのだが、これが、そんな、毎年やるのは仕事が増えてイヤだ!というのである。一週間に二コマしかしない教官もいる中(そんな教官に限ってゼミ生0というのもある)、これが半期一つ増えたからといってドンだけ負担やね!!と言いたくなる。それに対して私は負担になってもいいからやらしてと言うと、それは規則違反だからアカンと言う!!なんやねこいつらは?と思うのだが、所詮我々は少数派なのでこの意見が通らないのである。悲しい。



 資料の入った段ボールを机代わりの台にして俄テーブルでの宴会である。食材は昨日京都から持ってきたものを官舎で調理して出した。

たまたまこの四年生が一年生の時は私が担当だったので思いきり考古学のことをやった。するとどうだろう。18人ほど受けていた学生のほとんど15人くらいが歴史と考古に進んだのだ。だから考古も多いが歴史にも沢山の知り合いの学生がいたのだ。そんな学生の卒業だからしんみりするものがあった。

 前回にも記したとおり就職する学生が0という大変な状況ではあるが、ま、そこは慌てることもないかと言うことで、みんな和気藹々と楽しいひとときを過ごすことができた。

 たまたま2年前の卒業生が訪ねてきてくれて、彼女も一緒に宴会に加わることに。食事を作ってくれた我が嫁と共に、「みんないい子だね!感謝しないと!」ということに。

 

 在学生からの花束贈呈



 みんなが書いた寄せ書き贈呈。



 そして私にもみんなからの寄せ書き色紙。なかなか神妙なことが書いてあったが、これから本気になってね。

 途中食材や酒を買い足して結局23時頃に解散。いつもなら朝まで麻雀をしたり、トランプをしたりで何人かは泊まるのだが、今年は平日でもあったため、翌る日に発掘に行く連中もいてやむなくお開きに。結局二年生一人だけがお泊まり。

 とにかく楽しい夜だった。

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2009年度卒業式の条

2010-03-25 12:25:00 | 三重大学考古学研究室情報
 今日3月25日は恒例の卒業式の日である。

 今年の卒業予定者は本来なら10人いるはずなのだが、二人は単位が足らず、3人は就職が決まらないので卒業延期、結局卒業したのは5人となった。もちろんこれでも多いのだが、その中味が大問題。



 2人が久しぶりに我が三重大学の人文科学研究科へ進学してくれたのはいいのだが、残る三人は就職しないという。端から就職活動もしないし、公務員試験を受けるでもない。就職したくないという何とも優雅な方々である。

 ということは就職率0%という最悪の事態となったのである。これまで例のない事態である。いくら世の中不景気とはいえ、一人くらいどっかいってくれればいいのに、これが今時の若者の考え方なのだろうか。それとも私の指導が悪いのか?アー悲しい!!こんなことで将来どうするのか?これでは日本の将来が案じられて仕方がない。とてもまともな大学生活を送らなかった私ですら、そして決して私の時代にも就職状況がよかったわけではないのに、一応就職して正職員として働いた!働かざるを得なかった。父親がいないし、妹はまだ学生だし、そんな状況で働かなかったらなんと言われることやら。

 でも今時の親はそんなことも嘆けないのだろうか?

 そんな中での卒業式に久しぶりに出てみた。
 以前は結構真面目に毎年出ていたのだが、ある時からたまたまこの時期に外国で調査することが多くなり、足が遠のいていた。出てみてびっくり!!何とも騒がしいのである。うるさいのである。なんだかあの成人式の喧噪を想像させるような雰囲気が伝わってくるのである。

 最も驚いたのは各学部の総代が呼ばれたときに出るその学部の学生達の異様な反応であった。

 「エエッツ!!」トカ「ハアッツ』とか何とも言えないため息が漏れ、中には笑いまで出てくるのである。



 みなさんガウンを身につけられて仰々しかったが、中味がこれではね-。興ざめ!!

 各学部の総代がどの様にして選ばれるのかは知らない。かつて私が責任者をしていた頃には2学科で交代交代で総代を出す。その総代は文化学科では名簿の一番と決まっていたのだが、今年はどうもそうではなかったらしい。誰がどの様にして決めたのだろうか。ま、どうでもいいことではあるが、儀式というのはとかくいろんな反応を呼び起こすものだということか?

 一通りの儀式が終わって、学長の挨拶。歴史好きの学長らしく10000年前の氷河期(??)からはじまって、7世紀の日本国の成立等々えらく文化系的な式辞であった。

 これに対する答辞が何とも言えないありきたりのものでとても寂しかった。文化学科の学生らしいのだが、私は名前をよく知らない学生なのでどこかほかの地域で学んだ者なのだろうが、指導した人の影響が強すぎたのか、何か圧力でもあったのか、知らないが、せめてもう少し個性的な答辞が欲しかった!!特に文化学科なんだから(とは言っても最近の文化も平凡な学生が増えすぎだけれどね)。

 特に最後におまけが付いて応援団のパフォーマンスをやるという。もうええ加減にせいよ!!と言う感じでそれは見ずに帰ってきてしまった。だから卒業生との記念写真はこの後我が家での宴会ですることにする。

 これで12回目の卒業式だが、年々つまんなくなっていくのは歳のせいだろうか?せめて我が家での宴会は楽しくやりたいものだ。なんと言っても今朝京都の自宅から予め下ごしらえした食材何トン??何十キロもの重いのを私が運ばされてきたのだからみなさん心して召し上がってね。

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廣岡義隆先生最終講義の条

2010-03-21 15:00:00 | yaasan随想
 3月18日は上代文学、万葉集のご研究で著名な廣岡義隆先生の「最終講義」だった。



 「講義」と行っても大学の教室でのそれではない。現地でのものだった。なぜか?
 先生が退官記念パーテーも最終講義も全部拒否なさったからだ。曰く

 「私は消え入るように去っていきたいのです。そんな晴れがましいことはイヤです!!」



 「最終講義」の先生

こちらのお願いを全く聞いていただけないのである。仕方がないので密かに作戦を練り、先生と一緒にハイキングに行こう!ということにしたのである。
 とは言っても普通のハイキングでは面白くないので万葉ゆかりの地に行こう!ということになった。どこか探せと言われたので、近くて気軽に行ける交通の便のよい万葉と関係する所と言えばここしかない!ということで

 養老

に決まったのである。ただし誰が何をどうするのかと言うことについては事前に全く相談ができていなかったので、資料も役割分担も適当に現地に集まったのである。しかし、さすが、そこはもちろん何となく感じていただいた先生がちゃんと資料を作っておいて下さり、コースのあちこちで万葉ゆかりのお話を頂いたのである。

 「最終講義」

とてもすてきな授業だった。

集まったのは主に三重大学の上代文学をやっている、やっていた学生、元学生だったが、他に放送大学での生徒である市民の方も集まって下さり総勢20人ほどのグループでの授業だった。もう少しきてくれてもよかったのに・・・。

養老駅10時に集まり、そこから戸関遺跡に行こうと言うことになったのだが、私も現地がどこかよく知らない。やむなく教育委員会に電話するも担当者はおらず、仕方ないので諦めるか、という雰囲気だったのだが、そこはもう一つ粘って、再度教育委員会に電話してひつこく問いただしたところ何となく判ったので現地を目指す。

 浄誓寺と言うところがその一角だというからこれを目指す。でも実に正確に教えてくれたので、直ぐに見つけることができた。それにしても県道56号というのは実に交通量の多い道だと判った。大型トラックがひっきりなしに狭い道を通る上に、歩道がないのである。路肩を降りて畑の一角を歩きながらこわごわ目的地を目指した。

 養老山脈の裾野のやや小高い見晴らしのいい場所にそれはあった。地名「戸関」といい、採集土器の種類といい、そして何よりもこの県道56号という道の便利さからみて、当耆(多芸)頓宮跡この地で間違いない!という確信を抱いた。



 戸関遺跡はこの浄誓寺周辺に広がるらしい。



 浄誓寺近くの梅。とても綺麗だった。



 途中道ばたの古老に道を聞く先生

 そこから柏尾廃寺を目指せばいいのだが、ヒルの問題もあり、足下が悪いこともあってそのまま「滝」を目指した。



 いよいよ滝方向へ。



 元正天皇行幸地とされる場所。



 美泉の場所が神社に養老神社という。



 美泉の場所でまた講義

 まず元正天皇の碑のあるところへ、そして歌碑のある千歳楼のお庭へ。ここでは先生の養老の「滝」に関する解釈が披露された。ビデオをデジカメで撮ったのだが、そのアップの仕方が判らないので、これはまた後日。

 そして養老の美泉とされる菊水池、養老神社へ。ここでお昼にする。

 お昼の後養老の滝へ。天皇達がここへ来たかどうかでまた議論。先生はもちろん来なかった説。私はこれだけの滝なら来ていてもいいのではないかと思ったが、根拠がないので胸の中で。



 そして滝へ。



 なかなかの迫力である。これが間近にあるのに来ないことがあろうか?!判らん!



 後はこの流れに沿って駅へ。


 そうこうするうちに雨が降ってきて、下山することに。ところが直ぐに遅れる奴が出てくる。どうしたのかと聞くとどうも内緒で先生に渡す色紙を回して書いてもらっているらしい。そんなこんなで結局3時には駅に着いたのだが、電車が往ったばかりで、一時間待つことに、。そこで「最終講義」締めのご挨拶など儀式をやって終わりになった。もちろん苦労して書いた色紙贈呈の儀式も。



 色紙贈呈式。




 大感激の先生であった。

 3月で先生のお顔がみられないというのはとても寂しい。

 お元気でお過ごし下さい。

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ヒロシマで朗読劇『ガザ 希望へのメッセージ』上演の条

2010-03-20 02:24:19 | yaasan随想
 このブログを読んで下さっている皆様へ
 とりわけヒロシマの皆様へ

 私の最も敬愛する友人の一人あんどうえりこさんからこんな案内が来ました。あんどうさんは三日前まで何度目かの放射線治療を一段落させて社会に合流したばかりです。でも限られた命の中で、体力の続く限り人間として当たり前のことを伝え続けようと頑張っています。是非、

3月21日(日)14時からカフェ・パコ (広島市中区大手町3-8-3)

へお出かけいただき、朗読劇に、そして彼女の熱演する姿に触れてみて下さい。

 イスラエルによるガザ襲撃の実態を朗読劇で語るものです。 


 このブログでは、先日来「第2次レバノン報告」としてレバノンでの古代遺跡の現状を紹介しています。3月8日の第1回報告(http://blog.goo.ne.jp/yaasanarchaeologue/e/40989ea91f47bda375eda4d363fe53ef)では、レバノン南部におけるイスラエルによる度重なる非人間的な無差別空爆の姿を紹介しました。私達が調査していたTyreはイスラエルの無差別空爆によって子供や、女性、老人を多く含む何千人もの人々が殺戮されたところと目と鼻の先にあります。
 私が古代遺跡を紹介するのは、その素晴らしさもさることながら、これだけの文化を残し、平和な毎日を営んでいた人々の暮らしが、何故今戦車や機関銃によって守られなければならないのかを考えることにあります。



 この建物で空爆を避けていた子供達が殺されました。



 殺戮された人々の数を、その日を記す碑文です。
 60有余年前、私達の軍隊も同じ事を中国大陸で行いました。そのことをはぐらかそうとする人々が徒党を組んで、教科書を作り、一部のマスコミを使って活動を活発化させています。私はあらゆる戦争に反対です。あらゆる武器を棄てるべきだと思っています。武器を棄ててこそ地球の平和と緑は保つことができるのです。その小さな第一歩をあんどうさんと共に活動していきたく思います。

 
 パレスチナ、レバノンにおけるあまりに対照的な現実社会の矛盾!その全てがイスラエルによるパレスチナ占領にあります。不法にも占領した者どもが圧倒的な軍事力によって、全く弁護の余地のない殺戮を繰り返しているのです。今一度パレスチナに、フェニキアの故地に、平和で豊かな文化を甦らせるためにどうかご支援下さい。

 以下、あんどうさんからのメッセージです。彼女は今朝広島に向かいます。

*********************

 親愛なるみなみなさま

昨年、京滋の市民有志「つばめクラブ」が立ちあげた
へいわをめざす朗読集団「国境なき朗読者たち」。

2009年9月11日、朗読劇『ガザ 希望へのメッセージ』(脚本・演出=おか まり)を
京都の出町柳のカフェ「かぜのね」で上演。7人+照明さんで初舞台を踏みました。

ほとんどのメンバーが芝居経験ゼロという素人集団ではありますが、
包囲壁の頭上から絨毯爆撃されるガザの人びとの、声なき声を伝えたい!
その想いを、それぞれの肉声にかえて初の舞台を演じたのでありました。

この舞台を見てくださった方々から噂の種が風に乗って舞い上がりました。
その種はいま、全国各地に静かに広がろうとしています。
震災を経験した神戸では、プロの演出家の手によって劇団「どろ」さんによって演じられました。
被爆の地、ヒロシマまで運ばれた種もあり、
このほど、つばめクラブ、プロデュースの「国境なき朗読者たち」に
再演の依頼が届いたのです。

オファーをくださったのは、東京外国語大学。
文部科学省による委託事業<http://japan-middleeast.jp/>で
「世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業:中東とアジアをつなぐ新たな地域概念・共生関係の模索」という
ワッペンがついています。
つまり、「事業仕分け」でザクザク切られた貴重な国費予算から、
捻出した予算で、この「ガザ 希望のメッセージ」の再演をプロデュースしてくださるという。

日時は、3月21日(日)14:00-18:00
場所は、広島市内のフェアトレードカフェ・パコ  (詳細は末尾に)

この3月の連休、つばめ劇団(「国境なき朗読者たち」)は、いざ、ヒロシマへ遠征公演の旅に出ます。
再演に向けて、ベイルート帰りのオニ座長による猛練習も再開しました。

ニューヨークに居を移したメンバーらの穴を埋めるべく、
役者にも新たな顔ぶれが加わり、また大きな進化を遂げております。

どうぞ、この挑戦をともに見守り、再演の成功を応援くださいますよう、
つばめ劇団プロデューサーの一人として心よりお願い申し上げます。

あんどうえりこ拝


以下、主催者からいただいた詳細メールです。
=================
中東カフェ@広島
「ライブ! fromパレスチナ:ヒップホップと朗読で聞く「中東紛争」の現実(リアル)」


イラク戦争の開始から7年。
自衛隊がイラクを去り、オバマ政権になって、戦争の記憶は私たちの生活から薄れつつあります。しかし、中東では相変わらず、戦火がやむことはありません。一年前の2009年は、イスラエルによる激しいガザ攻撃で幕を明けました。イスラエルには強硬派のネタニヤフ政権が誕生し、ガザでは相変わらずイスラエルによる封鎖が続いています。
攻撃と封鎖で窒息させられそうな、ガザのパレスチナ人たち。
彼らは一体、どのような生活を送っているのでしょうか?
そのビビッドな姿を、音楽と朗読劇を通じて知り、感じるイベントを、今回「カフェ・パコ」にて企画しました。名づけて“ライブ! from
パレスチナ@広島”。多くの方々のご来場をお待ちしております。

日時:3月21日(日)14:00-18:00
会場:カフェ・パコ (広島市中区大手町3-8-3)
参加費:無料(ただし会場側に飲み物代をお支払い下さい)
お問い合わせ:フェアトレードカフェ・パコ(特定非営利活動法人ピースビルダーズ)

Tel 082-247-0645  e-mail:paco@peacebuilders.jp

【プログラム】
Part I  14:00-15:30
ラップで伝える「占領地」の抵抗:映「Slingshot Hip Hop」に見るパレスチナの若者像
講師:山本薫(東京外国語大学助教)
あの「Slingshot Hip Hop」が広島に来る!
ニューヨークをベースに活動するアラブ系アメリカ人アーティスト・映画監督、ジャッキー・リーム・サッロームさんが2008年に撮ったこの映画は、イスラエル領内やガザ地区のパレスチナ人ラップミュージシャンたちの生活に密着したドキュメンタリーです。昨年12月、サッロームさんを東京と京都に招いて上映したときには、会場の倍の観客が集まり、急遽上映回数を増やすほどの、超人気を博しました。登場するラッパーたちの音楽の力強さと共に、その背景として語られる抑圧されたパレスチナの歴史、不条理なまでに劣悪な社会環境、次世代に託す彼らの希望のメッセージが、観る者の胸を熱くすることは間違いありません。映画を題材に、アラブ文学の専門家、山本薫さんが解説します。[映画は英語字幕版の部分上映になります]

Coffee Break + Arab Sweets!

Part II 16:00-18:00朗読劇 「The Message from Gaza- ガザ 希望のメッセージ-」

出演 「国境なき朗読者たち」+解説 岡真理(京都大学教授)
(岡さんからのメッセージ):
「昨年、暮れから1月にかけて、ガザがイスラエルに攻撃されました。150万もの人々を出口のない空間に閉じ込めて袋のねずみ状態にして一方的に破壊し殺戮する。そんな信じられない攻撃にガザの人びとは3週間にわたり見舞われたのです。1400もの命が奪われ、大勢の人々が傷つきました。破壊と虐殺のなかで、みずからの命を賭して、今、そこで起きていることを世界に知らせようとした人たちがいました。そこには、この現実を知れば、人は決してこんなことを許しはしないという思いがこめられています。ガザから私たちに向けて発せられた希望のメッセージを聞きとどけたい、そんな思いでこの朗読劇を作りました。その思いを多くの方と分かち合えれば幸いです」

総合司会:酒井啓子(東京外国語大学教授)

主催:東京外国語大学「世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業:中東とアジアをつなぐ新たな地域概念・共生関係の模索」(文部科学省委託事業
http://japan-middleeast.jp/)
共催:特定非営利活動法人ピースビルダーズ
文部科学省科学研究費補助金基盤研究[A] 「現代中東・アジア地域における紛争・国家破綻と社会運動」(代表者 酒井啓子


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第2次レバノン報告-5 ANJARの魅力の条

2010-03-19 10:54:32 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 2月28日には、念願のバールベックへ行った。昨年は雪のために行けなかったので初めての訪問である。


 ベイルート-テイールが80キロ、テイール-アンジャルが80キロ、アンジャル-バールベックが40キロ、バールベック-ベイルートが50キロバールベック往復が約六時間の長旅だった。シリアの首都ダマスカスまでアンジャルからわずか40キロ足らずだという。

 途中1200mの高原を超えていくので、雪が心配だったが、悪い予感が大的中!道が最高峰に達した時には一面雪景色に変わっていた。まさかレバノンで雪景色が見られるとは思っていなかつたのでとても感動的だった。



 雪景色に変わった!



 パレスチナ人とレバノン人の混血という運転手は片言の英語しかわかりませんが、とても気さくないい人でした。



 途中この辺りで最も古いという教会に立ち寄りました。既に土砂降りでした。

 Anjar(アンジャル・アンジェル)は661年から750年まで栄えたイスラム王国最初の王朝ウマイヤ朝の頃設けられた保養地であり、交易地であり、宿泊所といった性格の町です。7世紀後半とも8世紀初めとも言われますがどちらが正しいのか手元の資料ではも一つ判りませんが、いずれにしろ日本で言えば天武天皇から文武天皇の頃奈良時代開始の頃にできた町のようです。
 町は南北にやや長い長方形で、周りを城壁で囲われ、その各辺の中央に門が設けられていました。



 北門を出るとバールベック方向、南門はパレスチナ、西門はベイルート、東門はダマスカスに通じていたといいます。

 南東のブロックが宮殿とモスク、北東が離宮の生活空間で風呂が附属していた。そして南西区が居住区で、商人達が住んでいたようだ。北西も基本は居住区のようだが、一角には葡萄酒工場が見付かっている。



 アンジャルには東西南北に直行する道路がありますが、これはその南北路です。



 南北路に沿って並ぶアーチです。アーケードのようなものでしょうか。





 それぞれの道路に沿って商店が軒を並べていたそうです。これは南北路に沿って並ぶ商店の入口です。



 商店の内部です。



 お風呂の焚き口とその前の部屋の床面です。奥に見えるアーチ状のものが竈のようです。ここからスチームが出てきます。



 もちろん雨でしたので大変でした!!とても寒くて!



 これが東西路だったかな?



 葡萄を搾った石臼。



バールベックに近くなった所に展開する石切場、その場に切り出せずに残った強大な石材



 レバノン国内では石灰質の石には事欠かないようであちこちにこうした石切場が存在する。



 ここまで切ったのに!!という感じかな。

 さてこれからいよいよバールベック!続きは次回

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最後の伯母が亡くなっての条

2010-03-17 00:38:43 | yaasan随想
 ここのところ立て続けに私の両親の兄弟、つまり、伯父伯母が亡くなっているのだが、とうとうお一人残っていた伯母が3月15日早朝に亡くなった。九十歳だったと言うから大往生なのかも知れないが、ついこないだまで若々しい元気な声を聞いていたのでとても意外だった。

 連絡によると昨年末に癌が見付かり相当悪かったとか。何度か手術をしたがその甲斐もなかったとか。私の母の兄の連れ合いだから直接血はつながっていないが、伯父には私の父が早く亡くなったこともあって、父親代わりになっていただいたこともあって、伯母にも大変お世話になった。なんと言っても私達夫婦の仲人でもあった。

 とにかくこの伯父、伯母には語り尽くせない程の世話になったのだが、私にはとてもとても怖い存在だった。

 九州男児という言葉があるが、九州女児というのはない、しかしそれがぴったりのドシッと構えた人だった。言いたいことをはっきり言い、歯に衣着せない言い方は私の幼心にぐさっと来たものだ。だから父親が死ぬまではこの伯父の家には余り近寄りたくなかった。
 ただ、私の父とは結構気があったらしく、正月は必ずご挨拶に行き、大酒を飲んで大騒ぎをして帰って行ったという。伯父も伯母も親父には一目置いていた気配がある。特にこれももう亡くなった同い年の伯父とはとても気が合うらしく、東京住まいの彼が来るとよく呼ばれて飲みに行き意気投合したと聞く。とは言ってもそれは親父の話であって、私達兄妹にはとても苦手な伯父、伯母だった(ついでに言うとその従姉妹達とも余り懇意にはなれなかった)。

 それが父親が亡くなって、その代わりをしてくれるようになると必ず行かなければならなくなった。正月、盆暮れと言わず、何かある毎に長岡天神の直ぐ近くの高級住宅街にあった家に伺うことになったものだ。その頃になると私も怖い存在だった伯母とも普通に話せるようになって、伯母も何かあると「章ちゃんは今どうしてるん??」等と気軽に話しかけてくれるようになったもんだ。
 特にまだ私が学生時代には伯父の挑発に乗って、よく議論をふっかけ、時には大声で怒鳴り合うこともあった。そんな時の伯母はそそくさと酒のつまみを置いて自分の部屋に引き上げて、我関せずと言う感じで、それはそれであっさりしていて、気を遣うこともなく爽やかにさえ感じたものだ。

 そんな伯父の趣味は酒と麻雀。とにかく叶わなかった。
 それもそのはず、戦中は満州におり、そこで歯科医を開業していた。本場の中国で麻雀は欠かさず、大陸の荒武者どもと毎夜賭け麻雀に耽ったという。あるとき賭ける金がなくて伯母の金歯を外し賭けたと言うから豪傑だ。そんなことをさせる伯母も豪傑かも知れない。

 「負けたらどうするつもりだったんですか?」という私の問いに笑って答えた。

 「負けるわけがないじゃろう、そこまでしたら。」

勝負事というのはそういうもんらしい。だからひ弱な私が勝てるはずがなかった。もちろん酒は全く及ばなかった。でもなんだかんだ言いながらよくあちこち飲みに連れて行ってくれた。それはそれは私等生涯行けないような祇園の一見さんお断りのようなところへも時折付いていったことがある。そんな伯父の酒代は相当な額だったらしいが、伯母は愚痴も言わず平然と受け流していたからやはりこちらも豪傑だ。

 私の連れ合いもその長岡天神にあった歯科医院に勤めていた人だから益々頭が上がらない。そして仲人。さらに就職浪人中だった私に前職場を紹介してくれたのもこの伯父だった。学問上の恩人が高橋さんと今泉さんだとすると、人生の恩人はこの伯父夫妻をおいてないだろう。

 そんな豪傑の伯父を支えた女性だから腹が据わってなかったら生きてはいけなかったろう。90歳になっても電話口の声はとても若々しかった。それだけに突然の訃報はショックだった。

 本当に有り難うございました。お二人の支えがなければ私達親子兄妹の今はなかったと思います。ゆっくりお休み下さい。

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 改めて次は私達の代だな!と実感した夜だった。

江戸城を初めて見学するの条

2010-03-16 10:58:29 | 歴史・考古情報《日本》-3 東日本
 今泉さんの記念パーテイーに出席した翌る日、何となく行動する気力がなくなり、仙台市内を見学するわけでもなく、朝早い新幹線に乗って東京へ移動した。東京でも大した行動する気力もなく、以前から何となく気になっていた江戸城を見学することにした。東京駅の丸の内出口を出れば直ぐが江戸城なのだが、何故かこの間何十回とこの出口を利用しているにもかかわらず、江戸城には足が向かなかった。もちろん現在皇居であると言うことも心理的負担であったのは言うまでもない。



 大手門付近からみた江戸城の隅櫓?



 大手門の標識

 もちろん中学校の修学旅行で、二重橋辺りへ行って記念写真を撮らされた思いはあるのだが、中には入らなかった(入れなかった?)。



 大手門は意外と小さかった!!



 大天門を入ると中は広い公園になっていた。これまた驚きだった。


 今は天皇の住まいとなっている江戸城、第二次世界大戦の東京空襲ですっかり焼けてしまい、建物の大半は失われてしまっている。だから見るものなんか無いのだろうと思っていた。しかしよく考えてみると姫路城のように全く戦災に合わなかった城とは異なり、全国のほとんどの城が焼けてしまっているわけだから、同じ論理で行けばこれらも見る価値がないのかと言うことなのだが、それなりに感心してみている。だから石垣だけの江戸城もそれなりに意味はあるわけだ。



 大手門を入ると中には百人番所が。そして中之門へ。







 有る意味恐る恐る大手門から江戸城に入った。観覧券なるプラスチック製の券を渡されて中に入る。16時半まで開放しているらしく、金曜と月曜は開放しないという。意外だったのはあの行列の大好きな東京人が少なかったと言うことだ。もう見飽きたのかも知れないが、とにかく外人が多かった!!



 各所の石垣が激しい火を受けたことを示すが、この中雀門は特にそれが激しかった。それにしても本丸への入口が「中雀門」とはしらなんだ。これって朱雀門から採ってるのかしら?何せ近世史には至って疎いもので・・・、お許しを!!



 空襲の火の強さを思い知らされる石垣の破損の様子。



 そして本丸へ!ここは建物が焼けた後何もなく、広場と化していた。かつては天守閣の手前で、大奥のあったところでもある。その広場には梅が咲き誇っていた。



 とても綺麗ですがすがしかった。たくさんの外人達がひなたぼっこに興じていた。

 そして、この本丸跡こそ平成天皇の大嘗宮とされた場所だったらしい。附属の休憩所には大嘗宮の復元模型が置いてあった。平成の大嘗宮というのは誰が監修したのだろうか。古代のそれとは随分異なっていた。

 以下復元模型をご堪能あれ。



 これが全体の解説部分なのだが、えらく手抜きで、もう少し説明が欲しかった。



 大嘗宮正面



 古代ならこの中心部分は二条の垣が設置され、悠紀院と主基院を分けた所であったが・・・。



 北西隅に置かれた斎院と呼ばれる悠紀国と主基国から贈られた品々を納める所とあった。



 大嘗宮を東からみた所。つまりこれが悠紀院である。



 廻立殿



手前が悠紀院、向こうが主基院である。



 天守閣の石垣。意外なことにこの天守閣17世紀中頃の江戸市中の大火災によって焼失し、以後再建されなかったらしい。


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今泉隆雄さんの最終講義と退任記念会の条

2010-03-14 06:31:56 | yaasan随想
 3月13日には東北大学の今泉隆雄さんの定年退官にあたり、最終講義と記念パーテイーが催され、仙台へ出かけてきた。


 150人ほどはいる教室はいっぱいで立ち見が出るほどだった。

 最終講義は「古代史学と考古学のあいだで」と題し、ご自身の古代史研究に取り組んでこられた歴史を1宮都研究、2東北古代史研究、3木簡研究の3本柱を中心に整理をなさった上で、その研究成果をお話しなさった。



 少し白髪が増えたようにもお見受けした。今泉さんの恩師の関先生は晩年真っ白でとてもかっこよかったが、今泉さんもそうなられるのかなと思った。

 わずか二時間で40年間近い研究を要約されるわけだからかたりつくせいないことはあらかじめわかっているわけだが、レジュメにそってとても判りやすく、的確に御まとめになられていて、会場にいた学生さん達には本当に最後の授業になったと思う。



 最終講義のレジュメは今泉さんの研究史でもあった。

 長岡京木簡の研究もその一コマに入っていてとても嬉しかった。



 最終講義の後会場をホテルに移して記念パーテイーが開かれた。200人近い参加者で二時間近く様々な方々からのスピーチが続いた。



 私も一言御礼を申し上げたのだが、連日の徹夜が祟ってか、どうも頭がボーッとしていて、なんだかとりとめのないことを申し上げて終わってしまった。済みません今泉さん。

 とにかく今泉さんとのお付き合いのお陰で私は今を生きることができている。感謝以外のなにものでもない。高橋美久二さんには考古学とは何かを、そして今泉さんには学問とは何かをお教えいただいた。
 と同時に出版をお勧めいただき、学位取得の道筋を付けていただいた。この二つのご助言がなければ今私が大学で教鞭を執ることはなかったと思う。私の人生のもう一人の恩人である。
 
 ところで、会場での学生さんや元教え子からのスピーチが何人もあった。ところが出てくる言葉が

「今泉先生は厳しかった!!」

だった。そんなのあたりまえジャンか。東北大学の先生が厳しく教えなかったら日本の古代史を教える人間はどこから生まれてくるのか!誰が研究者になるんか!と言いたかった。
 あれほど人間味に溢れ、優しい先生はいらっしゃらないのではないか。どうも最近の学生は優しさをはき違えているように思えてならない。



 この後会場を移して二次会。今泉さんの大学時代の同級生の3人お方がご出席になって大いに盛り上がった。

 二次会もあっと言う間に終わり、結局余り今泉さんとお話しすることもできず、なんだか寂しさだけが残って仙台の夜を終えた。

 これからしばらくお休みいただいて、また東北で様々な形で後輩のご指導をいただければと思う。

 お疲れ様でした、。そして本当に有り難うございました。

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第2次レバノン報告-4 シテイーサイトでの詳細検討の条

2010-03-10 17:00:44 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 第1日目〔25日〕の午後はTyre世界遺産の中心、シテイーサイトの調査である。
 シテイーサイトとはローマ時代からビザンチン時代にかけての港湾都市の跡を言う。この町の機能は大きく分けて4つあることが発見されている施設から判る。
 第1が港湾としての港と道路
 第2が公共機関としての議場
 第3が商業スペースとしての六角建物
 第4が風呂や闘技場の娯楽施設
その他同時存在なのかどうかがはっきりしないが、ガラス工房や墓地も展開しているらしいのでほぼ都市の要件を満たしているのである。それそれの施設の詳細な時期は明確ではないが,2世紀前後以降のものであろうか。もちろん下層にはフェニキア時代の遺構もあると思われるのだが、その実態は判っていない。
 


 ギリシャ語の碑文を研究する広島大学大学院後期の奥山君の説明を受けるみなさん。


 私たちが調査対象としているのがこの都市機能の中軸を担っていたと思える道路遺構である。これを正確に測り、主な施設の方向をチェックすることによって、遺構の方向性から同時期施設を抽出できるのではないかと考えるのである。そうすればある時期のシテイーサイトの都市計画が再現できるだろう。先に紹介した戦車競技場(ヒッポロドーム)についてもローマ時代からビザンチン時代まで使用され続けたらしいのだが、附属施設の路面の飾り方などはいろいろ考えさせられるものがある。こうした課題も測量によってそれなりの基礎資料を獲得し今後の研究に備えることができると思うのである。

 シテイーサイトそのものは半世紀近く前の発掘調査によって出現し、一定の整備が行われて現在に至っているのであるが、残念ながらその全容を示す図面などの資料は公表されておらず、詳細については知る術がない。

 そこで、道路と側溝のような時期や規模が明確な施設を測り、その規則性の原点を明示しようと考えたのが今回の現地踏査(準備調査)である。もちろん前回紹介したアルバスサイトの道路遺構も同様にして計測し、Tyre全体の都市計画の有無を明らかにしようと考えているのである。さらに将来的にはこうした作業によって計測した世界座標の原点を使って未公表の発掘資料と結合させ、Tyre遺跡群の絶対的な位置表示と世界的な視野での都市モデル比較を行得ればその意義も小さくなかろうというものである。
 もう一つ、今回の泉先生の科研によるラマリ遺跡の発掘調査成果によっては、墓域と都市との空間的な関係を明示することも可能になりそうである。
 そのラマリで時間の都合でまだ完掘出来ていない状況での作業であったが、わたしたちの3DVR復元のための基礎作業を情報科学芸術大学院大学の鈴木さんとやることが出来た。現地調査官のナーデル氏には、その一部を紹介することが出来大いに関心を持って頂いた。調査後は埋め戻され、見ることができない地下墓を3D VR表現によって再現することの意義はこの地でも高く評価されたと言えよう。
 そんなシテイーサイトでの調査の一面を写真で紹介しておこう。



 この道跡がローマ時代のものであることは路面に敷かれている敷石の大きさや平面形、摩滅の状況、石材のあり方などから間違いなさそうである。この両側には側溝が附属しており、その高低差などを検討することによって排水計画を再現することが可能なことは日本の都城での私の研究でも明かである。第一級の対象遺構である。

 港に附属する都市部の道だというのだが・・・どうもこの列柱は怪しいのである。



 その証拠がこれ。列柱と道路に附属する側溝の方向が合わず、列柱の土台は一部溝に重なっているのである。復元時のミスか、あるいは発掘時からこうだったのか、謎である。Tyre を象徴する遺構群なのだが、ここにも復元の怖さがある。イタリアやフランスが復元整備に入っているらしいのだが、大丈夫なのかしらと不安になる。



 さらに今回の基礎調査でこの道路と交差する溝があることも確認できた、溝は路面を横切っており、その路面部分は暗渠になっており、石の置き方が他と異なるのである。ただし石の形などは他と変わらないので、最初からこの地に溝が横切ることを知って道路が造られていることも判った。きっとこの暗渠の中に遺物があるだろうからそれがこの道路の埋没時期を表すはずで、興味深いのだが・・・。ま、そんなことまでさせてはくれないだろうな。







 そしてもう一つがこのようなモザイクを路面に持つ港から直結する道である。ただしどうもよく判らないのはこの道がとても高いのである。その上、側溝がないのである。本当にこの道路は同時期に成立していたのだろうかという基本的な疑問がわいてくる。ほんの少し道路の端を掘らせてもらえばすぐわかることなのだが・・・。



 港からの道路面から南の議場と言われる施設を見ることができる。この列柱の方向と道路の方向などが建物と道路との時期を考えるヒントになるはずだ。そしてこの左手奥に大浴場が展開している。大浴場についてはこの間見学したイングランドやスコットランドに残されたローマ時代の風呂と合わせてまとめて紹介することにする。今回の基礎調査では他にAnjarやベイルートの風呂跡も見学できた。そのお蔭で随分風呂の情報が増えたのである。紹介はもう少し後になるがご期待願いたい。



 港からの道部分から都市部の道方向を見る。人が歩いているのは現代の遺跡への進入路で古代のものではない。



 港からの道に直行して多数のこうした貯水槽?が並置されている。この施設の方向も大事だろう。



 実はこの貯水槽へ水を導いてくるのがアルバスサイトの道路に並行して走るアクアライン(水道橋)であるという。そしてこの水道の水はこの遺跡で分岐されるのだというのだが、この「分岐遺跡」へは中に入れないので実態がよく判らないのである。



 草ぼうぼうで内部がよく見えない「分岐遺跡」



 貯水施設は競技場と言われる施設の内部にも認められ、この競技?場が水とも関係があるらしいのである。



 競技?場の観覧席


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第2次レバノン報告ー3 アルバスサイトのヒッポロドーム御案内の条

2010-03-09 08:54:23 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 とりあえず今回は写真集をお楽しみ下さい。
まずはローマからビザンチンの時代に遺跡の残るアルーバスサイトへ。遺跡の東半分にはビザンチン時代に形成された墓域が、西半分にはローマ時代の都市遺跡が残されている。
私達の目的は、このローマ時代の都市部分の道路遺構を中心とした都市の軸線を測量し、地中海沿岸の都市の設計図を再現することにある。
まずは東の墓域から見学を始める。




 初日は先ずアルバスサイトへ



 象徴的な門跡



 ほとんどの石棺が破壊されている。



 二段の埋葬室を持つお墓 



今回のメンバーです。もっともお一人は写真嫌いなのでここにはいません。(笑)



ヒッポロドームは南北500m東西200m程の大規模なものである。



 まずはヒッポロドーム(戦車競技場)へ



 今回は前回余り回れなかったドーム南端の観覧席を中心に見学



 観覧席の階段



 ドーム観覧席の下部



 観覧席の上で飲むコーラはとても美味しかった!もちろんゴミは持ち帰りましたよ。



 ドーム下部の通路?



 下部のアーチを利用してお店もあったらしい。甲子園球場の売店を思い起こした。



 ブルーチームの部屋であることを示す。



 ブルーチームの憩いの場?トイレ?もう少し何とかならないのかな-と思ってしまう世界遺産の現状。




 初夏の臭いのするヒッポロドームだったのだが・・・、この後雨が!


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第2次レバノン報告-2 今回もエミレーツ航空でドバイ経由ベイルートへの条

2010-03-08 17:50:01 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 今回もレバノンへはエミレーツ航空を利用した。
 トルコ航空を利用すれば乗り継ぎの関係でイスタンブールで一泊できるという話しもあったんだが、荷物の件やら手配の関係で断念した。



 エミレーツの座席画面

 そこでおなじみの超大型ハブ空港のドバイ空港でトランジット。日本で羽田がどうの成田がどうのと言っているのがホント笑い話のように聞こえるくらい超大規模空港。もちろん24時間空港。だって、世界中の飛行機が集まるのだもの24時間動いてなければ乗り継ぎできない。それに比べて関空は主発時間の23時にはもうお店が閉まってしまうと言う体たらく。これじゃ、飛行機はやって来ませんわな。橋下に言わせるまでもなく、伊丹も神戸もさっさと廃止して関空にもう5本くらい滑走路を造って24時間動かすか、住民の健康なんか無視してもいいというなら伊丹や神戸に滑走路を増設して24時間動かせばいい。そんなこと出来るはずもないのにごちゃごちゃ言うところが今の日本の限界かな。



 220番搭乗口で待つこと1時間半。でももちろん無線ランが無料で張られている。夜中の3時でも空港内は人でごった返している。



 なにせ前回は一人でこの空港に着いて端から端まで歩いたものだから冷や汗が出た。



 例のドバイの塔が遙か遠くに見えるはずなのだが・・・??

 2時間のトランジットも苦にならず、スタバのコーヒーを飲み、ネットでメールを確認しながら時間を過ごすとあっという間に乗り継ぎ時間となった。



 この時まではレバノンは晴れていたのである!!ところが・・・。

 そしてベイルートへ。これがまた小さな空港。これが首都の空港とは思えない。しかし警備は厳重を極める。ま、当然ではあるが。



 レバノン考古庁隣にある国立博物館

 今回はベイルートでも問題は0。皆さん少々お疲れの顔つきではあったがそのままレバノン文化省考古庁へ。今回の調査について長官などと話しをした後隣の博物館で全体像をつかんでもらう。私は前回見ているので、見落としたものの写真を撮ったり、本を買ったりで時間をつぶす。それにしても博物館の本は高い!!英語版が少ない(もちろん日本語なんてあるわけない)。



 前回は見落としていた建物の外、トイレの近くにあった石棺。これもTyreのものかな?

 そして今回は時間がないのでそのままシドン経由でTyreへ。

 失敗したのは、シドンで買うはずのオリーブ石鹸を英語の意味誤解で、後回しにしたため結局買えなかったこと。もう少し英語会話を練習しないとね!!今回の実感でした。

 さて明日から本格的に遺跡案内を開始しますよ。

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第2次レバノン報告-1 ブログ廃止の危機!!と思われたかも知れませんがの条

2010-03-08 02:56:12 | 歴史・考古情報《西欧》-2 その他
 2月22日以来の更新です。2週間ぶりの復活です。

 ハイ、ご想像の通り、2月24日~3月4日まで、レバノンでの調査に行って参りました。

 レバノン共和国Tyreの都市遺跡、アルバスサイト、シテイーサイト、そして墓域ラマリサイトの測量のための基礎調査に出かけておりました。今回は測量の専門家も交え6人の体制で出かけました。毎日がとても充実していたのと、現地のネット事情が今一つだったためにレポートを送ることが出来ませんでした。そこでこれからしばらく断続的にアップしていきます。

 残念だったのは新雨男!の出現によって、大事な行程の大半が雨に祟られてしまったために目的のかなりの部分が不十分に終わったことです。

 誰だ新雨男とは?

 済みません私です。



 土砂降りのバールベックで執念の写真撮影を続ける橋本さん!!さすがの彼も諦めた大雨。

 皆さんの指摘によると去年からだ!!といわれました。本人は全く自覚がないのですが、実は去年もある世界遺産の見学を予定したのに、大雪で道路が閉鎖され行けなかったというのである。そう言えば今回も訪ねたフェニキア時代以来の古跡Byblosは昨年も今年も大雨で十分に見ることができなかった。

 新ではなく、私はれっきとした

 真の雨男

だったのである。

 その真の雨男の10日間の軌跡をこれからしばらく紹介することにする。ただし、帰国早々溜まりに溜まった原稿の催促が何本も飛んできたのでこれまた途切れ途切れのレポートになることをお許し頂きたい。

 レポ-トン第1回は虐殺の村です。



 ラマリサイトの発掘現場。

 帰国前日の3月2日、私たちは午前中ラマリ遺跡での発掘調査に参加し、どんどん広がり全く新しい型式になっていくらしい2世紀前後の墓の全容解明にあたった。とはいっても私は単なる一輪車の土運びにあたっただけで、陣頭指揮を執ったのは私のたくましい後輩辻村純代さんであった。その詳細はいずれ担当者から公表されることだろうが、Tyreの歴史に新しい1ページが加わったことだけは間違いなかろう。公表が楽しみ!!



 ラマリサイトからシテイーサイト方向を見る。



 十字軍が築いた城塞

 久しぶりの土方にへろへろになった私はその午後予定通り、Tyre南方の丘の上にある十字軍(クルセダー)の築いた城塞(Tibnine城)を見学に行った。レバノン南部が全貌出来るその遺跡は、悲しいかなイズラエル国境に近く、常に攻撃の矢面に立たされてきたらしい。特に近年行われた空爆は全く卑劣なもので、レバノン人の歴史的証人であるこの城塞を徹底的に破壊したのである。



 橋本さんがこのトゲの犠牲に。3日経っても痛みが引かなかったと言うから恐ろしい。それにしてもレバノンにはサボテンがあるんだ!びっくり。ついでに言うとサソリもいるし、バナナも栽培されているから一般的には日本より少し温かいらしい。ただし私が行ったために雨で寒かった!!

 かつて明治政府は大名の象徴である城の破却を命じ、太平洋戦争に於いてアメリカ軍は日本人の志気を断つため、その象徴とも言える各地の名城を集中的に攻撃した。戦争が考古学や歴史学の敵である典型的事実である。イスラエルの目的が戦果とは無関係な爆撃を行うことで、レバノン人の志気を萎えさせようとしたのだろうことは想像に難くない。つい数年前、イスラム原理主義のタリバーンがバーミヤンの石像を破壊したのも同様の目的であろう。宗教戦争のより悲惨な側面である。



 イスラエル国境がこの山の頂だ。

 そんな遺跡を見た後訪れたのは国連軍が全面展開する国境に近い南部の町であった。1972年以来常にイスラエルの侵攻に晒されてきたこの地域には数え切れないくらいの虐殺の歴史が眠っていた。子供が、婦人が、老人が避難していた家屋は集中的に爆撃された。イスラエルに対する恐怖心を植え付けるための爆撃であろう。かつての日本軍がそうであったように、戦争は人間から良心のかけらも奪ってしまう。



 悲しい、悲しい、虐殺記念碑。この直ぐ横に既に「記念博物館」の建物は建っていた。

 そんな村には悲しい記念碑が建てられている。来年6月には「記念博物館」がオープンするという。攻撃したイスラエルの大半を構成するユダヤの人々はかつてヒットラーによるアウシュビッツの虐殺を経験した。しかし、その人々がパレスチナで、同じ虐殺を繰り返している。爆撃された家屋はそのまま残されていた。そしてそれを見学した私たちに老人が悲しい写真を手にして語りかけてきた。



 百余人の子供達や女性、老人が犠牲になった家屋跡。

 何人もの子どもたちの遺体、血まみれの婦人の姿。いつもいつも戦争の犠牲になるのはこういう人達である。私たち歴史学こそが人類の戦争の虚しさをもっともっと伝えていかなければならないことを実感した日であった。

 レバノンへ調査にいくことの意味は何か?

 戦争が豊かな国をいかに蝕んできたかを明示することだと改めて思った瞬間であった。これからしばらく、かつて決して豊かな国土ではないこの地にあって、交易という手段でもって、豊かで内容の濃い文化を維持してきたこの地の人々の残したものを少ずづつお伝えしていこうと思う。

 フェニキア、ローマ、ビザンチン、十字軍どの時代の遺跡も豊かな当地の歴史を伝えてくれる。一度訪れてみよう!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ